All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 771 - Chapter 779

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第771話

淳平は反省の色など微塵も見せない。そんな息子を見つめながら、義孝はふと智宏の言葉を思い返した。この数年、淳平は海外で数え切れないほどの敵を作ってきた。騒ぎを起こすたびに恨みを買い、自ら首を絞めているようなものだった。もし智宏の素性を知らなければ、義孝も今回の一件を、よくある揉め事程度にしか考えなかっただろう。だが、万が一のことがあったら……「この前、お前が仲間を連れて押しかけた家の住人だが……今日、その本人に会ってきた」その言葉を聞いた途端、淳平は勢いよく立ち上がる。「本当ですか?あいつ、今どこにいるんです?まさか、そのまま帰したんじゃないでしょうね。あいつ――」「黙れ!」義孝の怒声が部屋に響き渡った。「相手はあの栄東市の名家、中道家の御曹司だ。お前が好き勝手できるような人間じゃない」「栄東市……中道家?」淳平は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに鼻で笑った。「それがどうしたんです?ここは栄東市じゃないんですよ。俺がそんな肩書でビビるとでも?」「……もういい」義孝は深く息をつき、こめかみを押さえながら目を閉じる。「お前は、自分がどれほど危うい立場にいるのか、まるで分かっていない。いいか、しばらくは家から一歩も出るな。これ以上問題を起こしたら、そのまま国へ送り返す」しかし、義孝の嫌な予感は的中してしまった。淳平が路上で女性を殴打し、病院送りにした事件は、瞬く間に広まった。もともと淳平と確執のあった者たちはここぞとばかりに騒ぎ立て、その話題はネット上へ拡散され、瞬く間にトレンド入りする。すると何者かがこの事件をきっかけに世論を煽り始め、淳平がこれまで起こしてきた数々の不祥事まで次々と掘り返された。その余波は義孝にも及んだ。ようやく取り付けた現地企業との大型提携も、世論の悪化を理由に保留となる。義孝は自ら相手企業のCEOとの面会を申し込んだが、返ってきた答えは冷淡だった。「いじめや暴力を容認する相手とは、お付き合いできません」炎上が広がるにつれ、これまで淳平の周囲に群がっていた取り巻きたちも、蜘蛛の子を散らすように離れていった。そんなある日。淳平が一人で車を走らせていると、不意に後方から追突される。「何するんだ!」怒鳴りながら車を降りると、相手の車から降りてきたのは、全身に刺
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第772話

「そうですよ。もともとここはあなたの家ですし。それに、空いてる部屋が一つあるでしょ?」由奈は救急箱を持って心愛の隣へ腰を下ろし、傷の手当てを始めた。包帯を外そうとしたところで、心愛が慌てて口を挟む。「でも……一緒に住むのは、さすがにご迷惑なんじゃ……」「迷惑なんかじゃないですよ」由奈はそっと彼女の手をどかし、頭に巻かれた包帯を丁寧にほどきながら続ける。「兄は2階、私たちは1階。兄は食事か外出のときくらいしか降りてこないし、普段はほとんど2階にいるから」心愛は伏し目がちに尋ねた。「でも……お兄さんは賛成してくれますか?」「もちろん!」あまりに自信満々な返事に、心愛は首をかしげる。「どうして、そこまで言い切れるんですか?」「えっと……」由奈は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに笑ってごまかした。「私に話し相手がいたほうが、兄も安心するから!」その答えに、心愛は思わず吹き出す。「借りてる側から『大家と一緒に住みたい』なんて言い出す人、初めて見ました。本当に変わった借り主ですね」「だって、こんな優しくて美人な大家さんだもの。もし私が男だったら、絶対古澤さんをお嫁さんにして、一生大事にするのに」「もう、急に男の人みたいな口説き文句を言わないで」くすくす笑う心愛に、由奈は肩をすくめた。「ある人の受け売りだから」「ある人?」その瞬間、由奈の手がぴたりと止まる。笑いをこらえきれないような表情で、小さく答えた。「……お腹の子のお父さん」「そうなんですね」心愛は興味深そうに由奈を見つめる。「離婚したって聞いてたけど、やっぱり今でも、その人のことが好きなんですね」由奈は新しいガーゼを当て、手際よく包帯を巻き直した。「私たちの間に、本当にいろんなことがあったんです。事情も複雑すぎて、とても一言では話せない。でも、一緒に住んでくれるなら、少しずつ聞かせてあげてもいいですよ」心愛は少し考えたあと、小さく笑った。「それなら……その話を聞きたいし、お言葉に甘えようかな」本当は、由奈に誘われなくても寮を出るつもりだった。安い宿を探して、しばらく身を寄せようと考えていたのだ。それなら家賃も少しは節約できる。そんな現実的な事情もあって、今回の申し出は心愛にとって渡りに船だった。……松本家は世論の逆風にさらさ
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第773話

そう言うと、智宏は立ち上がって釣り糸を巻き始めた。針に掛かっていたのは、手のひらにも満たない小魚だった。器用に針を外すと、そのまま湖へ放してやる。「だから、今度は真面目に答えろって。俺はお前の義弟がどんなやつなのか知りたいだけなんだ」律は智宏をじっと見つめる。好奇心はすっかり刺激されてしまい、今日は答えを聞くまで引き下がる気はないらしい。智宏は水面に揺れる浮きを眺めながら、竿先を指先で軽く弾いた。答えようと口を開きかけた、そのとき。スマホが鳴り響く。智宏は電話を手に立ち上がり、少し離れた場所へ歩いていった。その背中を見送りながら、律はつまらなそうに舌打ちする。「まったく……タイミング悪いな」……それから数日後。由奈は心愛と一緒に寮へ戻り、荷物をまとめていた。ほとんど片付けが終わった頃、エミーが部屋へ戻ってくる。心愛の机はほぼ空になり、床には大きな荷物がいくつもきれいに並べられている。その光景を見て、彼女は驚いたように目を見開いた。「えっ……引っ越すの?」「うん」心愛は迷いなく頷く。由奈は振り返ってエミーを見た。どこか見覚えがある気がして、思わず視線を留める。二人のやり取りを聞いているうちに、ようやく思い出した。――あのレストランだ。あの日、陰で誰かの噂をしていた女性の一人。その話題になっていた相手が、おそらく心愛だったのだ。そのため、エミーが「こんにちは」と声を掛けても、由奈は軽く会釈を返すだけだった。……タクシーが寮の前へ着くと、二人は荷物を運び込む。「あの子がルームメイトですか?」由奈が尋ねると、心愛は頷いた。「そうですけど、どうかしましたか?」由奈は少し迷ったが、レストランで耳にした悪口を話す気にはなれなかった。知らないほうが、心愛のためでもある。「ううん。ただ……あまり深く付き合わない方がいいって思っただけ」心愛は意外そうな顔をした。だが、考えてみればエミーとはルームメイトという以上の関係ではない。今さら惜しむような仲でもなかった。二人は車へ乗り込み、そのまま寮をあとにした。「ずいぶん思い切りましたね。荷物も全部持ってきたし、もう寮へ戻る気はないんでしょ?」心愛はミネラルウォーターを一口飲み、微笑む。「うん、もともと引っ越すつも
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第774話

野次と笑い声が飛び交う人混みの中、先頭に立っていた茶髪の男が、二人の前へゆっくりと歩み寄ってきた。品定めするように上から下まで視線を走らせると、後ろを振り返り、呆れたように肩をすくめる。「依頼したやつ、頭でもおかしいのか?2人の女相手に、俺が手を出す必要がある?」言い終わるや否や、男は由奈へ手を伸ばした。その瞬間、心愛が一歩前へ出て、由奈をかばうように立ちはだかる。「あなたたちを動かしているのが誰なのか、見当はついてます。この人は妊婦です、あなたたちの依頼主とは何の関係もありません」心愛が事情を察しているように、由奈ももちろん気づいていた。二人まとめてここへ連れて来られた以上、黒幕は十中八九、松本家の人間だ。「そんなに警戒しないでくれ。俺はただ挨拶しようとしただけさ」茶髪の男は両手を広げて笑う。「妊婦には興味ないよ。でも――」そこで一拍置き、心愛を指差した。「お前は大学じゃ有名人だからな。前から知ってる。写真で見るより、実物のほうがずっと綺麗だ」「どうも。それなら、先に彼女だけ帰してくれませんか?その代わり、私があなたたちの遊びに付き合うから」由奈は思わず目を見開いた。「俺たちの遊び?」男は吹き出し、わざと首を傾げる。「どんな遊びのことを言ってるんだ?」「ここはいろんな遊びがあるんでしょう?」心愛は少し離れた場所で若者が乗っている赤いスポーツバイクへ顎をしゃくった。「あのバイク、結構気に入ってます。ただ……あなたの腕前がどれくらいかは知らないけど」「おいおい、あいつ、ボスの腕を疑ってるぞ!」「マジかよ!ボスと勝負する気なのか?」周囲はたちまち囃し立て、歓声が上がる。物怖じしない心愛の態度に、茶髪の男はますます興味を示した。「俺と勝負したいって?」「ええ、もちろん応じてくれますよね?」男は若者へ顎で合図し、バイクを譲るよう命じた。「いいだろう。お前が勝てば、その妊婦は帰してやる」「ボス、それは――」仲間の一人が口を挟もうとしたが、男は手を上げて制する。「妊婦がいるなんて依頼主は一言も言わなかった。先にルールを破ったのは向こうだ。もっとも、金は受け取った以上、仕事は最後までやるがな」そして心愛へ向き直る。「もしお前が勝てば、二人とも解放する。だが負けたら、お前も彼女も
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第775話

そう言って心愛は由奈の手をそっと離し、茶髪の男を真っすぐ見据えた。「スピード勝負じゃなくて、もっとスリルのあるゲームはどうですか?」茶髪の男は眉を上げる。「というと?」「お互い目隠しをして、正面へ向かって走るんです。先に避けたほうが負け」その言葉が落ちた瞬間、それまで囃し立てていた連中が一斉に息をのんだ。「怖くて挑めないのですか?」相手が黙った隙を逃さず、心愛は畳みかける。「あなたたちのバイクチームの噂は聞いたことがあります。腕がいいってことも。まあ、度胸まで本物かどうかは知りませんけど」茶髪の男は口の端を吊り上げた。「森川、お前のバイクを貸せ」舌で頬の内側を軽く押し、喉の奥で低く笑う。「こんな無茶な勝負を挑んできた女は初めてだ。気に入ったよ」誰かがプロテクターを持ってくると、男は一式を受け取り、心愛へ放り投げた。「死ぬなよ」心愛は手際よくプロテクターを装着し、バイクへまたがる。サイドスタンドを軽く払うと、アクセルをひねり、エンジンが低く唸りを上げた。一台はトンネルの入口。もう一台は500メートル先の出口。互いに目隠しをしたまま、一直線にアクセル全開で突っ込む。ほんのわずかな障害物でも、命取りになる距離と速度だった。見物人たちは興奮気味に騒いでいる。だが、由奈だけは違った。胸が締めつけられ、恐怖で息が苦しい。心愛に何かあったら――そんな思いばかりが頭を巡る。やがて二人に黒い布が渡される。心愛はそれを目元へ巻きつけ、きつく結び目を作ると、その上からヘルメットを被った。向こう側でも準備が整う。審判役の青年が旗を高く掲げた。辺りが水を打ったように静まり返る。誰もが固唾を呑んで見守る中――甲高いホイッスルが鳴り響いた。次の瞬間。二人は同時にアクセルを全開にした。由奈の心臓は今にも喉から飛び出しそうだった。2台のバイクが、猛スピードで一直線に互いへ向かっていく。あと数秒で激突する。誰もが惨劇を覚悟した、その瞬間――茶髪の男がハンドルを切った。2台は紙一重のところですれ違い、激突を免れる。本当に、あと数十センチ。あの速度でぶつかっていれば、プロテクターを着けていても無事では済まなかっただろう。見守っていた者たちは、誰もが言葉を失って
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第776話

淳平は鼻を鳴らすと、ボディーガードたちに顎をしゃくった。「あの二人を捕まえろ」由奈と心愛は立ち尽くした。目の前の男たちは拳銃を手にしている。先ほどすぐそばで人が撃ち殺された光景もあり、二人は完全に追い詰められていた。逃げ場はない。それでも由奈は、混乱の最中にどうにか電話を発信していた。通話は切らず、そのままつないである。ボディーガードが迫ってくると同時に、彼女はスマホを袖口の中へ隠し、固く握りしめた。淳平は心愛の前まで歩み寄ると、乱暴に髪をつかみ上げる。「お前……結局は俺の手の中じゃねぇか。今日こそ逃がさないぞ!」「松本さん!」由奈は思わず叫んだ。「私たちを攫ったのは、告白を断られた腹いせですか?」淳平はようやく由奈へ目を向ける。「ああ、お前もいたな」心愛から手を離し、そのまま由奈へ向かおうとする。「松本さん!」心愛が慌てて声を張り上げた。「恨みがあるのは私だけでしょ?彼女を傷つけないで!」「落ち着けって」淳平は冷たく笑う。「今日は二人とも帰さない」そして、その笑みをさらに歪めた。「最近ネットで騒ぎになってた件……あれ、お前らの仕業だろ?ずいぶん楽しかったようだな。そんなに注目されるのが好きなら、俺がもっとデカいニュースを作ってやる」視線が二人の身体を舐め回す。「お前らを裸にひん剥いてネットに流したら……どれだけ盛り上がるだろうな?」由奈の背中を冷たい汗が伝う。スマホを握る指先は、力が入りすぎて白くなっていた。それでも必死に平静を装う。「松本さん……あなたのお父様は、今あなたが何をしているかご存じなんですか?こんなことをすれば、松本家は取り返しのつかないことになりますよ!」「取り返しがつかないだと?」淳平は吐き捨てるように笑った。「笑わせるな」由奈を指差し、嘲る。「中道家の人間だからって、俺がビビるとでも思ったか?だいたい、中道家だろうが何だろうが、ここはやつらの庭じゃない。やつらが駆けつける頃には、お前はとっくに冷たくなってるよ」淳平はボディーガードへ顎をしゃくった。「まずはこいつを可愛がってやれ。中道家のお嬢様が裸にされてネットへ晒されたら、さぞ話題になるだろうな」ボディーガードたちが一斉に由奈を押さえつける。由奈は必死に抵抗したが、その拍子にスマホが袖から滑り落ち、地面
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第777話

由奈はぼんやりと顔を上げた。逆光の中からこちらへ駆けてくる人影が、人混みの中で少しずつ輪郭を帯びていく。その姿を認めた瞬間、胸が小さく震えた。反応する間もなく、力強い腕に引き寄せられる。温かく、確かな体温に包まれ、由奈はその胸に抱き締められた。「祐一……?」彼の腕の中で、由奈はしばらく呆然としていた。信じられなかった。これは、幻覚なのではないかと疑った。何も言えず固まる由奈を見て、祐一は抱き締める腕にさらに力を込め、呆れたように小さく笑う。「海外まで来ても、やっぱり君は手がかかるな。こんなことになるってわかってたら、もっと早く迎えにくるべきだった」本当に、祐一だった。耳元で響く声も、抱き締める腕の温もりも、すべて現実だった。張り詰め続けていた緊張の糸が、一気に切れる。鼻の奥がつんと痛み、熱い涙が堰を切ったように溢れ出した。恐怖も、不安も、そして募り続けていた恋しさも――すべて涙となって、祐一の胸元を濡らしていく。祐一は一瞬目を見開いたが、何も言わず、そっと由奈の背中を撫でた。その様子を見ていた心愛は、すべてを察したように静かにその場を離れた。一方、人垣の外では律と智宏が現場を見守っていたが、警察に連行される淳平の姿を見つけた途端、智宏は怒りに任せて駆け出そうとする。「おい、待て!」律が慌てて彼の腕を掴む。「今はやめろ!」智宏の胸は激しく上下し、握り締めた拳は血の気を失うほど白くなっていた。連行される淳平を睨みつける目には、抑え切れない怒りが宿っている。律が止めていなければ、本当に殴りかかっていただろう。「とりあえず落ち着けって。今回の一件で、あいつもしばらくは大人しくしていてくれるだろう。それより、まず妹さんと古澤さんを――」そこでふと、律は由奈を抱き締めている祐一へ目を向けた。「あれ……あの男は?」智宏は何も答えなかった。祐一がM国へ来ていることは、すでに知っていたからだ。その頃、心愛は女性警察官の事情聴取に応じていた。調書を取り終えたところで、智宏が近づいてくる。「古澤さん、怪我はないですか?」心愛は少し驚いたように目を瞬かせ、それから首を横に振った。「……大丈夫です」すると律が横から覗き込み、苦笑する。「どこが大丈夫なんですか?その手、腫れてるじゃないで
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第778話

相手の声を聞いた瞬間、義孝は顔色を変えた。「ヴィニーさん、お待ちください、どうか説明だけでも――」しかし相手は言い訳を聞く気などなく、一方的に通話を切った。ツーツーという無機質な音だけが響くスマホを握り締める義孝の指先には、知らず知らずのうちに力がこもる。その直後、彼の身体がぐらりと傾いた。「社長!」秘書が慌てて支える。「だ、大丈夫ですか……?」「どうして……こんなことに……」ヴィニーは、M国で進める事業における最大の出資者だ。彼なくして今の義孝の地位はなく、業界で築き上げた名声も存在しなかったと言っていい。そのヴィニーが、松本家を切った。立て続けのアクシデントに義孝の心身は限界を迎え、激しい頭痛とめまいに襲われる。秘書に肩を支えられながら、ようやく車へ乗り込んだ。一方、無事家へ戻った由奈たちの間に重苦しい沈黙が流れていた。なかでも由奈と祐一は、それぞれ少し離れて腰を下ろしたまま、一言も言わない。張り詰めた空気に耐えかねた心愛は、ぎこちなく笑って切り出した。「えっと……私、買い物に行ってきます。今夜は私が晩ご飯を作るので、何か食べたいものありますか?」「何でも大丈夫です」「何でも」二人はぴたりと声を揃え、思わず目を合わせると、気まずそうに顔をそらした。心愛は引きつった笑みを浮かべる。その時、智宏が立ち上がった。「僕も一緒に行きます」「え?」一瞬きょとんとした心愛だったが、この場にいる方がよほど心地悪い。「……はい」小さく頷き、智宏の後を追って部屋を出て行った。二人の姿が見えなくなると、由奈は頬をぷくっと膨らませ、横目で祐一を盗み見る。……やっぱり怒っている。心配をかけたのは事実だし、それは仕方ない。でも、ここまで黙り込むことないじゃない。――よし、少し機嫌を取ってみよう。そう思って彼の服の裾をちょこんとつまむ。すると祐一はその手をそっと外し、拗ねたように低く言った。「別に怒ってない、機嫌なんか取らなくていい」由奈は呆れたように目を丸くした。「何それ、本気で拗ねてるの?」「由奈」祐一は正面から彼女を見つめる。その表情はこれまでになく真剣だった。「ここは国内ではない。もし今回、俺がたまたまM国へ来ていなかったら。もし、智宏さんがあと少し遅れていたら……君は殺されて
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第779話

智宏と心愛は、夕食の食材を買うため近くのスーパーへ来ていた。智宏がショッピングカートを押し、その後ろを心愛が歩く。野菜売り場で足を止めた彼女は、ブロッコリーにニンジン、キュウリをカートへ入れた。「中道さんは苦手な野菜とかありますか?」「玉ねぎ以外なら」智宏がそう答えると、心愛は意外そうに目を丸くした。「えっ、玉ねぎが苦手なんですか?」そう言って玉ねぎを一つ手に取り、いたずらっぽく彼の目の前へ差し出す。「玉ねぎって、炒めるとすごくいい匂いがするんですよ」智宏は避けることもせず、ただ静かに彼女を見つめ返した。その視線に気づき、心愛は気まずそうに手を引っ込める。「……すみません、戻します」智宏はゆっくり口を開いた。「食べるのが苦手なだけで、匂いまで嫌いというわけではありません」「そ、そうなんですね」心愛は鼻先を軽くかいた。ふと気が緩んだその瞬間、ショッピングカートの車輪につまずく。前へ倒れそうになった体を、隣にいた智宏が慌てることなく受け止めた。勢いのまま、彼女は彼の胸へ飛び込むような格好になる。心愛は思わず顔を上げ、そのまま固まった。これほど近くで智宏の顔を見たのは初めてだ。整った顔立ちだということは以前から分かっていた。だが、美しい容姿の人間など世の中にはいくらでもいる。彼女は見た目だけで人を判断するタイプではない。それでも、何度か接するうちに分かった。容姿だけでなく、人柄まで含めて――彼は初めて「一緒にいても嫌だと思わなかった男性」だ。しばらくすると、智宏を見つめたままになっていたことに気づき、心愛ははっと我に返った。無遠慮に見すぎてしまった――そう思うと、慌てて視線を逸らす。そのとき、視界の端で智宏の喉仏が小さく上下するのが見えた。彼はすぐには手を離さず、心愛がしっかり体勢を立て直したのを確認すると、ようやく手を下ろす。その際、指先がふわりと彼女の髪をかすめた。「気をつけてください」「ありがとうございます……」小さく礼を言うと、心愛は一歩身を引いた。頬がじんわりと熱を帯びる。もう智宏の顔を見ることができず、ごまかすように小松菜をひと束つかみ、そそくさとカートへ入れた。――なんだろう、この感覚。胸の奥が落ち着かない。さっき、ほんの一瞬だけ、鼓動が速くなった
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