All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

その誘いに、由奈は静かに頷いた。「ぜひ、お願いします」勉と別れたあと、三人は駐車場へ向かった。車の前で足を止めた由奈は、ふと思い出したように紬を振り返る。「そういえば……千代さんの容体、どうなったんですか?」紬は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を落とした。「……あまり変わってない。意識も戻らないままで、医者も……正直、難しいって」由奈は何も言わなかった。ただ静かに頷く。紬は慌てたように言葉を足す。「でも、由奈お義姉ちゃんは何も気にしなくていいからね。うちは、今回の事故を由奈お義姉ちゃんのせいにしてないし。それから、真由美さんの言うことも真に受けなくていいから。あの人、今は滝沢家がぐちゃぐちゃになるのを面白がってるだけだよ。あ……それと、奈々美にも気をつけて。あの子、何するか分からないから」――その言葉が現実になるまで、そう時間はかからなかった。数日後、勉との食事の席で、由奈は思いがけず奈々美と顔を合わせることになる。同じレストランの、別の個室だった。勉の席には、かつて脳神経外科で一緒だった同僚が二人。由奈が現在取り組んでいるアルツハイマー新薬の研究に興味を示し、話は自然と専門的な内容へと流れていった。途中、由奈は席を外して洗面所へ向かうその時、廊下の曲がり角で、奈々美と鉢合わせる。視線がぶつかった時、奈々美の表情がわずかに固まる。次の瞬間、その目にははっきりとした敵意が宿っていた。「……よく海都市に戻ってこれたわね。もう二度と顔見せないと思ってたけど」由奈は軽く目を伏せ、わずかに笑う。「別に、何か悪いことをした覚えはないし。戻ってきちゃいけない理由もないでしょ?」奈々美は一歩、距離を詰めた。その瞬間、ふわりと漂う濃いローズの香りに、由奈の胸がむかつく。思わず身体を引いた。その反応を、奈々美は別の意味に受け取ったらしい。口元に冷たい笑みが浮かぶ。「……やっぱり後ろめたいんでしょ?おばあちゃん、あなたのことどれだけ気にかけてたか分かってる?それなのに、彼女が入院中、あなたは一度も見舞いに来なかった。祐一さんはあなたのために命を懸けて、自分の家族すら顧みなかった。おばあちゃんのことさえ守れなかった。あなたって、本当に――疫病神以外の何者でもない」由奈の眉がわずかに寄る。挑発だと分かっていた。ここで感情的になれば
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第662話

奈々美は強引に彰の腕に自分の腕を絡め、にこやかに言った。「いいことを教えてあげる。私たち、もうすぐ婚約するのよ」その言葉に、由奈はさすがに驚きを隠せなかった。思わず彰へ視線を向ける。しかし彰は、その視線を受け止めようとしない。わずかに目をそらした。由奈が驚いたのは、彼が結婚することではない。相手がよりによって奈々美だったからだ。彰の母親は、将吾の異母妹である。つまり、彰と奈々美は、近い親族同士の婚姻になってしまう。そんなことを、将吾が知らないはずがない。たとえ和恵が黙っていたとしても――彰自身が、この事実を知らないはずがないのだ。奈々美の、得意げでありながらどこか警戒を含んだ視線を受け、由奈はふと可笑しくなった。「それは……おめでとうございます。じゃあ、私はこれで」これ以上関わるつもりはなかった。言い終えると、すぐにその場を離れる。去っていく由奈の背中を見送りながら、彰の口元にわずかな苦笑が浮かんだ。由奈が驚いたのは、彼が政略結婚をすることではない。相手が――あまりにも不釣り合いだということだ。――きっと今ごろ、家の都合に従う自分を軽蔑しているだろう。利益のためならどんな理不尽な要求も飲み込む一族の中で育った彼に、自分の未来など語れるはずもない。奈々美はその表情を見逃さなかった。由奈への未練か、それとも名残惜しさか――そう思い込んだ彼女は、彰の腕を離し、冷たく笑った。「影山さん、余計な感情は捨てたほうがいいわよ。うちと影山家が協力するって話、忘れたわけじゃないよね?あなたの意思に関係なく、私はいずれあなたの妻になるんだから」彰は一瞥をくれ、何も言わずに踵を返す。背を向けた瞬間、胸中に浮かんだのはただ一言――なんて馬鹿馬鹿しい女だ。由奈が個室へ戻ってほどなく、食事会はお開きとなった。勉たちと店の前で別れ、ひとり駐車場へ向かう。その途中、ふいに雪が降り出した。街はたちまち淡く霞み、風に舞う細かな雪が襟元へと入り込んでくる。由奈はコートの襟をかき寄せ、タクシーを拾おうと歩道に出た。そのとき、背後に気配が近づき、頭上の光がふっと遮られる。振り返った先にいたのは、祐一だった。黒い傘を差し、わずかにこちらへ傾けている。そのせいで彼の肩は半分、雪に濡れていた。由奈が言葉を探すより先に、彼は由奈の手
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第663話

「二百万か……ずいぶん気前がいいな」祐一は淡々と呟いたが、関心はそこにはなかった。誰の仕業なのか、もう見当はついている。「それより、事故のほうは?何か進展は?」麗子は首を横に振る。「今のところは。あの車に触れていたのは、和恵様専属の運転手だけです。あとは……事故の前に、千代様が一度運転されていますが、その時点では異常は見つかっていません。その運転手も事故で亡くなっています。家族の口座もすべて調べましたが、事故後に支払われた弔慰金以外、不審な入金は一切ありません」事故で亡くなった運転手は、十年以上も和恵に仕えてきた人物であり、家族もいる、ごく普通の人間だ。自分の命を犠牲にするまで車に細工し、事故を起こしたのだとしたら、動機はなんだろう?やはり金か?だが、その痕跡すら残っていない。祐一は窓の外へ視線を向けたまま、わずかに眉を寄せた。「……それと、もうひとつ」麗子は言い出しにくそうに躊躇い、それでも口を開く。「影山敦さんが、彰さんと奈々美様の縁談を進めています。将吾様も了承されたようです」……その日の夜、由奈は浩輔と向かい合い、静かな食卓を囲んでいた。ふと、浩輔が口を開く。「姉さん、もうすぐ年末だろ。正月……栄東市で過ごすの?それともこっち?」由奈はスープをひと口飲み、顔を上げる。「浩輔はどうするの?嫌じゃなければ、一緒に栄東市に来る?お父さんもお兄さんも、きっと喜ぶよ」その言葉に、浩輔は一瞬言葉を失い、視線を落とした。由奈はすぐに気づき、そっと器を置く。「……私、育ててくれた両親のこと、忘れたわけじゃないよ。血はつながってなくても、ここは私の家だし」少しだけ柔らかく微笑む。「実の家族と再会したからって、あなたとの関係が変わるわけじゃない。お兄さんがもう一人増えただけ。あなたは、昔も今も、私の大事な弟よ」浩輔は箸をぎゅっと握りしめた。「……違うんだ。疎遠になるとか、そういうんじゃなくてさ」言葉を探すように間を置き、続ける。「俺、自分が情けなくて。昔からずっと、姉さんに迷惑かけてばっかだったし……正直、向こうに戻ったほうが、姉さんは楽に生きられるんじゃないかって思ってた」言い終えた瞬間、軽く頭を叩かれる。「ちょっと。私いま妊婦なんだけど?そういうしんみりした話、やめてくれる?」浩輔は頭を押さえな
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第664話

由奈は、とにかく今は彼を刺激しないことだけを考えていた。この場さえやり過ごせば、先のことはあとで考えればいい――そう自分に言い聞かせる。けれど彰には、それがはっきり伝わっていた。由奈の目に、自分への未練や情はない。ただ、距離を置こうとする気配と、わずかな警戒だけ。――彼女とは、普通の友達として接することさえできなくなったのか。胸の奥で、何かが静かに崩れる。女には、これまで困ったことはなかった。そもそも、自分が誰かに本気になること自体、想像したことすらなかった。ましてや――既婚者の彼女など、なおさらだ。最初に彼女に近づいたのは、打算だった。けれど、あの時、彼女を助けたときの気持ちに嘘はなかった。由奈は、あの祐一でさえ許したというのに、どうして――自分だけを許してくれないのか。その思いが、ついに理性の戒めを引きちぎった。次の瞬間、彰は由奈の肩を強くつかみ、そのまま引き寄せる。気づいたときには、由奈の体は彼の腕の中に閉じ込められていた。「彰さん、落ち着いてください!」由奈は彼を慌てて押し返すが、びくともしない。彼はそのまま由奈を抱き締め、顔を彼女の肩口に埋める。「滝沢祐一にさえチャンスをあげるのに、どうして僕にはチャンスくれないんだ?君たちもうすぐ離婚するし、今のあいつに、君を守れる余裕なんてない。これから何が起きるのか、君は分かってるのか?」その言葉に、由奈の動きが一瞬止まる。それを感じ取ったのか、彼の声がわずかに和らぐ。「安心して僕についてきて。僕は奈々美と結婚するつもりはない。影山家だって彼女を受け入れるはずがない。彼女のことは、僕がきちんと躾けるし、君に手を出させたりはしないさ」由奈は、小さく息を吐いた。そして、静かに笑う。「……それって、私に愛人になれってこと?」彰は一瞬言葉を失い、手の力が緩む。由奈はその隙に距離を取り、まっすぐ彼を見た。「結婚しないって言うけど、周りから見れば、奈々美はあなたの妻になる人ですよ。なのに今日、急に私の前に現れて、おまけにこんな話もされて……私に愛人になってほしいだけでしょ?」「違う、そういう意味じゃ――」「彰さん。あなたに少しでも良心があるなら、今ここに来るべきじゃなかった。奈々美が今日のことを知ったら、何をすると思います?昔から私を恨んでいた彼女を、あなたは本当に
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第665話

祐一はコートのボタンを外すと、彰が起き上がる間も与えず、そのまま馬乗りになった。次の瞬間、拳が振り下ろされる。骨と骨がぶつかる鈍い音が、やけに生々しく響いた。打たれて横に弾かれた顔から、鼻血が滲む。彰は拭いもせず、血の混じった唾を吐き出すと、狂気じみた笑みを浮かべた。「やれるもんなら、殺してみろよ」祐一の目に宿る殺気は、今にも溢れ出しそうだった。握り締めた拳の関節が白く浮き上がる。しかし、再び振り上げた拳は、彰の顔ではなく、横の床に叩きつけられた。鈍い衝撃が空気を震わせる。怒りで目を赤く染めながらも、祐一はぎりぎりのところで踏みとどまっていた。それを見て、彰は鼻で笑う。「ほらな。今のお前じゃ、僕をどうにもできない」「思い上がるな。俺が自ら手を下す価値なんて、お前にないだけだ」氷のように冷たい声で言うと、祐一は立ち上がり、彰を見下ろす。その視線の先で、彰が床に手をつきながらゆっくり体を起こす。「お前の祖父だろうが、お前自身だろうが……俺は一度も気にしたことはないんだ」「ふん……調子に乗るなよ」彰は口元の血を乱暴に拭い、よろめきながら立ち上がる。その時、駆けつけた若い男が、二人の間の空気を見て足を止めた。彰はそのまま背を向け、無言で去っていく。残された祐一の手の甲には、血がにじんでいた。男は慌てて駆け寄る。「社長、その手……!」「大したことない」祐一は気にも留めず、振り返る。そのまま由奈の方へ歩み寄ると、素早くコートを脱ぎ、彼女の肩にかけた。由奈は、彼の手がわずかに震えていることに気づく。押し殺された怒りが、まだ消えていないようだ。「えっと……こちらが奥様、ですね?」若い男が頭をかきながら笑う。「だから社長はあんなに――」「もうすぐ離婚するので、『奥様』はやめていただければ」由奈はすぐに言い返した。男は気まずそうに口を閉じる。「失礼しました。僕は加藤卓巳と申します。滝沢社長の部下です。よろしくお願いします」加藤卓巳(かとう たくみ)と名乗った男に、祐一がちらりと視線を向ける。「加藤。この辺り、しばらく見張ってくれ」「え、僕ひとりでですか?」「そうだが。不満か?」「いえ!了解です!」卓巳は背筋を伸ばし、そのまま外へ出ていった。ドアが閉まると、祐一は再び由奈を見る。彼の手は、まだ
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第666話

由奈は顔を上げた。すぐ目の前にある祐一の端正な顔を見つめ、ふっと小さく笑う。「うん、そう思ってるよ……そっちは?」祐一は唇をきゅっと引き結んだまま、しばらく何も言わなかった。由奈はその沈黙を追わず、手元に集中する。手当てを終えると、さりげなく手を離した。「スープを作ったから、部下の方も誘って一緒に飲みましょ。今日は寒いし、タダ働きさせるなんて気が引けるわ」祐一は彼女を見つめ、何か考えるように目を細めた。やがて――卓巳は祐一の隣に腰を下ろし、落ち着かない様子で部屋を見回していた。どこか浮き足立ちながらも、期待を隠しきれていない。「池上さんの手料理をいただけるなんてラッキーですね。社長、絶対うまいですよね?」祐一はちらりと横目で見る。「お前、案外おしゃべりだな。土屋からそんな報告は受けてないが」卓巳は苦笑いを浮かべた。「いやあ、小さい頃からよく喋るっておじいちゃん言われてて……頑張って直します」そのやり取りの間に、由奈がスープを運んでくる。卓巳はすぐにでも手を伸ばしそうになるが、器の中身を見た瞬間、動きが止まった。白く浮かぶそれ。魚のようで、どこか違う。しかも、匂いに覚えがある。笑顔が、すっと引いた。「……えっと」――フィッシュボーンブロスは、小さい頃から苦手だ。由奈は向かいに座り、首をかしげる。「もしかして……苦手だったりしますか?」祐一はスプーンでスープを軽くかき混ぜた。見慣れない料理に眉が寄る。「これは?」卓巳が、ここぞとばかりに口を挟む。「社長、これは栄養たっぷりのスープですよ!」「そうなのか?」半信半疑のまま、祐一は一口すくって口に運ぶ。次の瞬間、ほんのわずかに顔色が変わった。飲み込むには躊躇いがある。それでも吐き出すわけにもいかず、無理やり喉を通す。卓巳は唇を引き結び、必死に視線を逸らした。「……美味しくないの?」由奈は真面目に首をかしげる。「手順、間違えたかな」卓巳は引きつった笑みで言う。「その……下処理とか、してます?」「一応してますけど、初めて作るからね……」祐一はようやく飲み込んだあと、二人を見た。「……で、これは何だ」由奈は楽しそうに笑う。「魚のアラを使ったボーンブロスよ」その言葉を聞いた瞬間、祐一の顔色が変わった。魚の形が残る料理は、小さい頃から苦手だ。由
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第667話

昼間の一件を聞いた浩輔は、顔をしかめて吐き捨てた。「影山さん、前はまともな人だと思ってたのに……姉さんをいじめるなんて、ひどすぎる!」由奈は気にした様子もなく、温めたミルクをグラスに注ぐ。「いいの。私は無事なんだから、そんなつまらないことで腹を立てても仕方ないでしょ」「それはそうだけど……また来られたらどうするの?」由奈は軽く顎を上げ、窓の外を指した。「あそこに停まってる車、見える?」そう言われ、浩輔は視線を向ける。「……あれ?あんな車、前からあったっけ」「祐一の人よ」グラスの縁を指でなぞりながら、由奈はひと口ミルクを飲む。浩輔は視線を落とし、小さく呟いた。「……もうすぐ離婚するんじゃなかったのかよ」「それでも、利用できるものはとことん利用するつもりよ」さらりと言い切る声音に、妙な余裕がにじむ。「タダでボディーガードが付くなら、遠慮なく使わせてもらうわ。問題は、そのおまけがちゃんと役に立つかどうかだけど」浩輔は言葉を失った。――なんか、姉の性格は少し悪くなってないか……?その頃、車の中で毛布にくるまりカップ麺をすすっていた卓巳は、不意にくしゃみをひとつ。「……誰か僕の悪口言ってない?」と、首をかしげた。……二日後。敦と彰、そして将吾の三人は、料亭の個室で顔を合わせていた。将吾はふと視線を上げ、彰の頬に残る痣に気づく。「彰さん、その顔……どうしたんですか?」敦もちらりと孫を見やる。何も聞かなくても、察しはついているらしい。「また誰かと揉めたんだろう。相変わらずだな、少しは大人しくしてくれればいいものを」将吾はサーモンを一切れ皿に移しながら、苦笑する。「彰さんは若いんです、多少の無茶はしますよ。男同士、ぶつかることもあるでしょう」少し間を置いて、冗談めかして続けた。「うちは娘ひとりだけですからね。もし息子がいたら、彰さんとも兄弟みたいにやれたかもしれないのに」敦はグラスを持ち上げ、意味ありげに笑う。「それはもう叶っているようなものだろう。これからは、彰はあなたにとって半分息子みたいな存在になるから、面倒を見てもらえると助かる」その言葉に、将吾は満足げに頷いた。「もちろん」酒を交わしながら場が和らぐ中、彰が静かにグラスを置いた。「将吾さん、以前お話しされていましたよね。滝沢社長のそばに女を
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第668話

由夏は思わず視線を伏せた。彰の目は鋭く、逃げ場を与えない。「あ……彰さん」恐る恐る呼んだその名前に、彰は一瞬だけ目を細めた。けれど次の瞬間、自嘲するように小さく笑う。――自分は何を期待しているんだろう。似ているのは顔だけだ。目の前の女は由奈じゃない。怯えた目も、遠慮がちな声も、全部が別人だった。「……もういい」彰は感情を切り替えるように息を吐いた。「今日話したこと、忘れないでくれ。うまくやれば、君の母親の借金は全部片づく」そう言って、一枚のカードキーを差し出す。「しばらくはここに住んでくれ。必要なものは、明日こちらで揃えさせる」由夏が両手で受け取ろうとした瞬間、彰は苛立ったようにカードを彼女の手へ放り込んだ。そしてそのまま振り返り、ひとりで歩き去っていく。残された由夏は、手の中のカードキーを見つめた。高級マンションの名前とロゴが刻まれている。普通なら手に入らない暮らし。けれど今の彼女には、それがまるで、自分の良心と引き換えに差し出された報酬のように思えた。……数日後。由奈は浩輔と一緒にショッピングモールへ来ていた。四階から二階まで歩き回っているうち、気づけば二人ともベビー用品売り場ばかり見ている。途中、ベビー服の並ぶ店の前で、浩輔が足を止めた。「なあ姉さん。お腹の赤ちゃんって、男の子だと思う?女の子だと思う?」由奈は思わず笑う。「浩輔ったら、もう叔父さん気分?」「そりゃそうだろ。俺、頼もしい叔父さんになるんだぞ?」浩輔は腕を組み、本気で考え込み始める。「うーん……でも、最初のプレゼントって大事だよね。服にするか、おもちゃにするか……」「気が早いって」呆れながらも、由奈の口元は柔らかかった。そんな二人の姿を、少し離れたエスカレーターの前から見つめる人物がいた。真由美だった。ブランドショップで大量の買い物を終えたばかりらしく、後ろには紙袋を抱えた販売員が付き従っている。真由美はふと目を止め、眉をひそめた。――あれ、由奈じゃない?しかも、若い男と一緒に、子供向けのおもちゃの店から出ているところだ。見間違いかと思ったが、近づくほど確信に変わった。「荷物、先に車へ運んでおいて。運転手がいるから」真由美が後ろへ言うと、販売員は慌てて頭を下げた。「かしこまりました、奥様」販売員
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第669話

真由美は帰りの車の中でも、ずっと手鏡を手放さなかった。角度を変えながら何度も自分の顔を確認し、目尻にうっすら刻まれた皺を見つけた瞬間、表情が険しくなる。すぐにスマホを取り出し、美容クリニックへ電話をかけた。「リフトアップとシワ取り、最短で予約入れてちょうだい」予約を終え、通話を切った直後だった。ふと、さっきショッピングモールで見かけた由奈の姿が頭をよぎる。大人二人がおもちゃの店を回っていた。真由美の目つきが変わった。――まさか。彼女は前の席に向かって声をかけた。「今日のショッピングモールの防犯カメラ、全部確認させなさい。由奈がどこを回ってたのか調べてちょうだい」「かしこまりました」運転手が即座に返事をする。……一方その頃。倫也が海都市に来ていると聞きつけた彰は、久々の再会も兼ねて射撃場へ呼び出していた。名目は、軽い勝負。だが彰の調子は明らかに悪かった。二発続けて撃っても、弾は中心を外れる。耳当てを外し、隣のレーンを見る。倫也の弾は、どれも正確に的の中央を撃ち抜いていた。彰は苦笑しながらミネラルウォーターを差し出す。「相変わらずだね。腕、さらに上がってるよ」倫也はボトルを受け取り、静かに蓋を開けた。「……彰、何かあったのか?」「え?」「いつものあなたなら、その程度のミスはしない」図星だった。彰は視線を逸らし、水を一口飲む。「ちょっと面倒事が続いてるだけだよ」倫也は無言で彼を見つめたあと、淡々と言った。「面倒事、か。近いうち婚約するんじゃなかったのか?」彰の手が止まる。だがすぐに笑みを作った。「そこまで話、広まってるんだな。その通り、僕は婚約するよ……ただ、結婚したい相手じゃないけどな」その言葉に、今度は倫也が黙り込む。十年以上の付き合いになる友人。けれど今この瞬間、倫也には彰がどこか知らない人間のように思えた。「ねぇ、倫也」彰がふいに口を開く。「例えばの話だけど。ずっと欲しかったものがあって、どれだけ手を伸ばしても手に入らなかったら……君ならどうする?」倫也はペットボトルを軽く揺らした。「物によるな。お金で買えるなら、手段を選ばず取りに行く。でも――そうじゃないなら、無理に奪おうとは思わない。縁がなかったってだけだ」彰は目を伏せる。その瞳の奥に、一瞬だけ暗い感情が滲んだ
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第670話

倫也が家に入ると、由奈はすぐに氷嚢とガーゼを持って戻ってきた。氷嚢をガーゼで包み、彼へ差し出す。「はい。ちゃんと冷やしてください」「どうも」倫也は受け取ると鼻に当て、ソファへ腰を下ろした。「……でも意外ですね。滝沢社長が離婚を切り出したのに、部下を配置するなんて」その言葉に、由奈は一瞬だけ口をつぐむ。その反応を見て、倫也の表情が変わった。「何かあったんですか?」由奈は少し迷ったあと、小さく息を吐いた。「……彰さんが来てたんです」彰と倫也は親友だと知っているため、できればこの話をしたくなかった。だが倫也はもう察しがついているようで、眉をひそめる。「……やっぱりですか」由奈は目を瞬かせる。「やっぱり?」「さっきまで、彰と一緒にいたんです」倫也は氷嚢を持ち替えながら続ける。「一年ぶりに会いましたが……彼、かなり危ういところまで来ています」その声には、友人としての複雑な感情が滲んでいた。由奈は静かに問いかける。「……彰さんと奈々美の婚約の話は、もうご存知ですか?」「はい」「では、その二人に血の繋がりがあることも?」倫也は黙り込んだ。数秒後、観念したように頷く。「はい、知っています」そして少し苦い顔をした。「この件を知っている人間は本当に少ない。うちの両親ですら知らないはずです」由奈は混乱したように眉を寄せる。「でも祐一は知っていました。まさか……滝沢家でも、おばあさまと祐一くらいしか知らないということでしょうか」倫也は氷嚢の端を指先でなぞる。「滝沢家の先代が生きていた頃、この件は徹底的に隠されていたらしい。彰の母親の立場が立場だったし、他の人間が知らなくても不思議ではありません」そこで一度言葉を切り、由奈を見た。「ただ、影山家側は当然知っています」由奈の瞳がわずかに揺れる。影山家は事情を知った上で、なお奈々美との婚約を進めている。つまり最初から、本気で将吾夫妻と手を組む気などないということだ。もし将来、彰と奈々美が「従兄妹同士」だと公になれば――不利な立場に立たされるのは将吾たちの方なのだから。そこまで考えた時、由奈はふっと息を抜いた。祐一がこの状況を止めなかったのは、きっと、最初から何か考えがあるからだ。そう思うと、張り詰めていた胸が少しだけ軽くなった。だが次の瞬間、倫也の口から出た言葉に
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