All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 691 - Chapter 700

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第691話

「池上さん、おはようございます!」浩輔が文句を言い終えるより早く、卓巳はずかずかと家の中へ入り込んできた。「お邪魔しまーす!」当然のような顔で肩をすり抜けていく卓巳に、浩輔は盛大に白目を剥いた。由奈のボディーガードって聞こえはいいけど――知らない人が見たら、この家の主か何かだと思うだろ。由奈は卵の殻を剥きながら、苦笑交じりに顔を上げた。「おはよう。こんなに朝早く来るなんて、もしかしたら何か掴んだの?」「はい。さっき警察から連絡が来ました。滝沢真由美さんが、前田さんに会いに行ったらしいです」卓巳は椅子を引いて腰を下ろすと、さらに当然のようにお皿を引き寄せ、おかずをよそい始めた。「おい、ちょっと待て!」浩輔がすぐに戻ってきて、目を吊り上げる。「少しは遠慮しろよ!お前は客で、ここの家主は俺だぞ!」卓巳はまるで気にせず、片手をひらひら振った。「朝ごはんくらいいいでしょ?そんな細かいこと気にしないで。学生の頃なんか、よく親友の家でご飯を食べさせてもらってたんだぞ」「はぁ?」「はいはい、その話はもう終わり。今、お姉さんと大事な話をしてるんだ」言うなり卓巳は浩輔の肩を軽く押しやった。「あなたはご飯でも食べてて」「……っ!」浩輔は怒りで顔を真っ赤にした。本気で殴りかかりそうな勢いだった。由奈は堪えきれず小さく笑い、浩輔を宥めてから話を戻した。「真由美さんが前田さんに会うのは、想定内だわ。最近はネットの流れも変わってきてるしね。もし前田さんが刑務所に入りたくなければ……絶対に真由美さんの名前を出すはずよ」真由美が俊太を使って浩輔を陥れたとき、彼女はひとつ確信していた。――俊太が自分を売ることはない、と。なぜなら、「由奈が妊娠している」という切り札があると思っていたからだ。もし浩輔が刑務所に入り、強姦犯の汚名まで着せられたとすると、その後で由奈が真由美に辿り着いたとしても、彼女は妊娠の件を盾に由奈を脅かすことができる。お腹の子と弟。その二つを握っていれば、由奈がどんな立場にいても動けなくなる。中道家の娘だろうと関係ない――そう高を括っていたのだ。けれど、真由美は、自分に自信がありすぎたのだ。そして由奈は、その慢心ごと計算に入れていた。だからこそ、「自分は妊娠していない」と、彼女を騙し切ることができた
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第692話

数日後――真由美の弁護団は驚くほど早く動き、俊太の犯行に真由美は全く関与していないと主張した。しかも、その「証拠」まで用意していた。俊太は最後まで「真由美の指示を受けていた」と言い張り、さらには上司まで証人として警察署へ呼んだ。だが、彼の予想に反して、上司の供述には真由美の名前は一切出てこなかった。そのときになって初めて、俊太は冤罪を着せられる側の苦しみを思い知った。助けを求めても届かず、訴えても信じてもらえない。誰ひとり、彼の証言を裏付ける者はいなかった。翌朝早く、浩輔は会社へ戻った。社内では、彼の姿を見た同僚たちが小声でひそひそと話していた。「池上さんと前田さんって、結局どういうことだったんだ?」「前田さんが裏切ったってことだろ。まさか、彼のほうが裏表ある人間だったなんてな」「たぶん阿部さんが池上さんのことが好きだから、前田さんは面白くなかったんじゃない?じゃなきゃ、あんなえげつない手で池上さんを潰そうとしないでしょ」噂話をしていた数人の同僚は、呆れたように首を振った。世論の流れは真逆に変わった。俊太は「強姦犯」として見られ、人々の非難は一斉に彼へ向いていた。浩輔が席に着いて間もなく、みやびがやって来た。「池上さん、おはようございます」手にしていた菓子袋を彼の机に置き、ぱっと明るい顔で言う。「やっぱり、例の件は濡れ衣だったんですね!おかえりなさい、会社に戻れて本当によかったです!」浩輔は少し戸惑いながら顔を上げた。「あ……ありがとうございます。これ、いくらですか?払いますよ」そう言って財布を取り出す。みやびは数秒固まったあと、不満そうに唇を尖らせた。「プレゼントなんだから、お金なんていりませんよ!」――この人、ほんと鈍すぎる。わざわざお菓子を持ってきた意味、まだ分からないの?浩輔は気まずそうに笑った。「いや、その……すみませんね。でも、理由もなくもらうのは悪いですし。今度、俺から何かお返ししますよ」「……別にお返ししなくても大丈夫です!」みやびはぷいっと怒ったまま、その場を離れていった。隣にいた女性社員が、その様子を見て小声で言った。「池上さんって、ほんと典型的な鈍感男子ですよね。みやびちゃんの気持ち、まだ分かってないんですか?」浩輔は何も言わなかった。胸の内で、小さくため息をつく。――
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第693話

そのとき、由奈のスマホが震えた。手に取って画面を見ると、表示されていたのは見慣れない市内番号だった。一瞬だけためらったあと、通話ボタンを押す。相手もかなり迷っていたのか、しばらく沈黙が続いてから、ようやく小声で言った。「ま……丸上由夏です。池上由奈さんのお電話でしょうか……」由奈はふっと口元を緩めた。「はい、池上です。連絡してくれて嬉しいです。正直、あなたから電話が来ないかもしれないって思ってました」由夏は少し間を置いてから、控えめに言った。「今から、会ってお話しできますか?」「もちろん」由奈はすぐに答えた。「場所を送るから、そこに来てください」通話を切ると、隣にいた紬が興味深そうに身を乗り出した。「誰?」由奈は隠さず答える。「祐一と熱愛記事にされた、あの子ですよ」紬は一瞬、言葉を失った。表情がみるみる真剣になる。「え……ちょっと待って。あの子に会うの?」「どうして会っちゃいけないんですか?」「だって、何か企んでる可能性があるんでしょ?」紬は例のネット記事を見ていたが、大して気にしていなかった。そもそも、祐一が本気で別の女性と関係を持つとは思っていないし、どう見ても、あの女の方が仕掛けた「罠」にしか見えなかったからだ。由奈はゆっくりジュースを口に含み、小さく笑った。「彼女はそんな人間なら、奈々美にあそこまで振り回されたりしませんよ」奈々美が由夏を嫌っていた理由は単純だった。由夏の容姿が自分に似ていたから。もし由夏に本当に祐一へ取り入るだけの打算や野心があったなら、その「似ていること」すら武器にして、奈々美を抑え込むくらいの立ち回りはできたはずだ。それに――あの日、由奈と浩輔があのレストランへ向かったのは、完全にその場の思いつきだった。事前に仕組める話ではない。そんな場所に奈々美が現れ、さらに目の前で騒ぎが起きたのなら、もはや偶然と片づけるほうが無理がある。紬はしばらくして先に帰っていった。そして、彼女と入れ違うように由夏が店へやって来た。由奈は彼女を見ると、向かいの席を軽く示した。「どうぞ座ってください。何か飲みますか?」由夏は少し緊張している様子で首を横に振り、店員に水だけを頼んだ。由奈は彼女をまっすぐ見つめ、やわらかな声で切り出した。「もし何か困っているなら、話してくれていいですよ。私は
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第694話

由夏の顔に浮かぶ怯えは本物だろう。由奈にも、それくらいはわかる。彰が彼女に近づいたのは、利用価値があったからだ。実際、由夏は父親の借金の大半を返済できている。つまり二人の間には、最初から打算込みの関係が成立していた。本来なら、目的を果たした時点で彼女は自由になっていいはずだった。祐一に近づき、「親しい関係があるように見せる」役目はもう終わっているからだ。周囲もすっかり信じ込んでいる以上、彰にとって彼女は用済みのはずだ。それなのに、彼女は由奈に助けを求めてきた。――つまり、彰はまだ彼女を解放していない。逃げれば報復される。そう思うほど、追い詰められているのだろう。後ろ盾も力もない人間なら、怖くなるのは当然だ。「池上さんにこんなお願いをするなんて、図々しいってわかってます。でも……もう、どうしたらいいのかわからなくて……最近、影山さんはお酒を飲むと、必ず私の部屋に来るんです。引っ越したくても、マンションの下にはずっと彼の部下がいて、どこにもいけないんです。それに、影山さんは私のことを、あなたの代わりとして見てるんだって、もう彼らにもバレています。私はそんなふうになりたくなかったのに……今だって、影山さんの部下が外で私を見張ってます。逃げても、きっとすぐ連れ戻されてしまうでしょう……」あの夜以来、由夏は気づいてしまったのだ。彰が自分を解放する気など、最初からないことに。どれだけ世間知らずでも、男が女性をそばに置く理由くらいは理解できる。都合のいい代用品。あるいは愛人。そんな立場を、彼女は望んでいなかった。由奈は静かに目を伏せた。まさか彰が、ここまで執着をこじらせているとは思わなかった。しばらく黙り込んだあと、ゆっくり口を開く。「……あなたが本当のことを話してくれた以上、私も放ってはおけません。ただ、もうしばらく我慢してください。今はまだ動くタイミングじゃないんです」由奈は淡々と言った。「彰さんと奈々美の婚約の日。その時が、一番隙ができるはずだから」由夏は数秒呆然としたあと、ようやく安心したように微笑んだ。「……彼のもとから離れられるなら、なんでもします」……カフェを出ると、外で待機していた男がすぐ近づいてきた。無言のまま差し出されたスマホを見て、由夏の肩がこわばる。通話相手を察しながら、彼女は
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第695話

月末、奈々美と彰の婚約パーティーは年明けすぐ、1月初旬に決まった。ちょうど年越しの後だ。ここ数日、由奈は父や兄とこまめに連絡を取っていた。長い間、家族の団欒から離れてしまっていたうえに、今年の年越しも一緒に過ごせそうにない。その事実が、胸の奥に小さな棘のように残る。せめてこの騒ぎが落ち着いたら、必ず家族とちゃんと時間を過ごそう――そう心の中で静かに決めていた。階下へ降りると、浩輔がキッチンで真剣な顔のまま、動画を見ながら手打ち麺に挑戦していた。画面を見つめる目は驚くほど真剣で、由奈が近づいてきたことにも気づいていない。「綾香さん、これ……ちゃんと形になってます?ほら、こんな感じなんですけど」「もう少しこねた方がいいね。ちょっと太いかな」由奈は浩輔の背後からそっと顔をのぞかせ、スマホの画面を覗き込んだ。画面の中では綾香がパックを貼ったまま、丁寧に指導している。だが次の瞬間、画面に由奈の顔が映り込んだ途端、綾香は思わず声を上げた。「池上先生?」浩輔も同時にびくりと肩を跳ねさせ、スマホを落としそうになりながら振り返る。「姉さん!来たなら声くらいかけてよ!」由奈はスマホをひょいと取り上げると、呆れたように眉を上げた。「コソコソ動画通話なんてして。別に隠すことでもないでしょ?」画面の向こうで姿を引っ込めた綾香に向かって呼びかける。「もしもし、綾香さん?」すると画面の端から、綾香が気まずそうにひょっこり顔を出した。「すみません、浩輔くんが手打ち麺を作ってみたいって言うから、ちょっと教えてただけです。できたら池上先生に食べさせたいって、サプライズにしようとしてたんです」由奈は横で頭をかきながら焦っている浩輔をちらりと見て、苦笑した。「麺を打つだけなのに、ずいぶん挙動不審なのね?私に内緒で彼女でもできたのかなって思ったよ」「違うって!」浩輔は一気に顔を赤くして声を潜める。「そんなのいないってば」綾香もすかさず笑う。「そうですよ。浩輔くんに彼女できたら、ちゃんと池上先生に報告するでしょ。だから、池上先生の考えすぎです」由奈もふっと笑った。「それもそうか。でもまあ、大人になると秘密の一つや二つはできるしね。じゃあ続き、作り方を教えてあげて。うちの弟を早く一人前の料理人にしてくださいね」そう言って、スマホを浩輔に返す。
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第696話

浩輔は何も言わなかった。うつむいたまま、何かを考え込むように視線を落とす。由奈はそんな弟を見て、小さく笑った。「じゃあ私、父さんと母さんのお墓参りに行ってくるね。浩輔はそのまま手打ち麺の研究、頑張って」背を向けて歩き出した由奈に、浩輔が声をかける。「俺も一緒に行かなくていいの?」由奈は振り返らず、ひらりと手を振った。「大丈夫」バッグを手に、そのまま家を出ていった。……卓巳の運転する車は、池上夫妻の眠る墓地へ向かっていた。大雪が降ったばかりで路面の状態は悪い。車窓の外には、白く静まり返った冬景色が広がっている。街路樹の枝は葉を落とし、どこにも緑は見当たらなかった。由奈は隣の座席に置かれた白菊の花束を見つめる。供物も線香も、すべて事前に用意してきたものだ。胸の奥に込み上げる感情を、自分でもうまく言葉にできない。車は残雪を踏みしめながらゆっくりと山道を上り、やがて墓園の入口へ到着した。由奈は白菊と供物を手に車を降りる。園内を歩き、やがて池上夫妻が眠る合葬墓の前に立った。墓石に刻まれた白黒の遺影。その顔を見た瞬間、不意に過去の日々が押し寄せてくる。由奈はしゃがみ込み、墓前に積もった雪や枯れ葉を丁寧に払い落とした。白菊を供え、供物を並べる。そしてライターで線香に火を灯した。「父さん、母さん。会いに来たよ」白い煙が静かに立ち上る。「私、血の繋がった家族と再会したの。でも、今まで育ててくれたこと、本当に感謝してる。浩輔も元気にやってるよ、安心して。彼、すごく頑張ってるし、本当に立派になったよ。私も、あの子がちゃんと自分の家庭を持って幸せになるまで見届けるつもり。そしたら、少しでも恩を返せることになるかな」そう言って、由奈は墓前で深く頭を下げた。辺りは静寂に包まれている。立ちのぼる煙だけが冬の空気の中で揺れ、墓石の向こうから二人が静かに見守ってくれているような気がした。そのとき、背後から雪を踏む柔らかな足音が聞こえた。由奈が振り返る。そこには黒い長傘を手にした祐一が立っていた。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。「どうしてここが分かったの?」由奈が尋ねると、祐一は彼女の前で足を止め、墓石へ目を向けた。「加藤から、君が墓地へ向かったって聞いた。だったら、ここだろうと思った」
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第697話

由奈と祐一は役所で離婚の手続きを終えた。庁舎を出ても、二人はなかなか離れようとしない。離婚した途端に別々の道を歩き出す夫婦がほとんどだというのに、二人の間にはまだ名残惜しさがまとわりついていた。車内で待機していた卓巳は、頬杖をつきながらその様子を眺める。――あれは離婚届というより、婚姻届を提出しに来た夫婦のように見える。由奈は書類をバッグにしまい込み、隣に立つ祐一を見上げた。「まだ行かないの?忙しいでしょ?」祐一は彼女の顔を見つめたまま、一瞬だけ間を置いてから低く言う。「早速俺を追い払うつもりか?つれないな」「まさか。この海都市は滝沢社長の庭みたいなものじゃない。追い払うなんて恐れ入るわ」由奈がからかうように笑うと、祐一もつられて笑った。「確かに俺は忙しい。これから本家に戻って大事な準備をするんだ」彼の言う「大事な準備」とは、由奈へのプロポーズのことだ。今度こそ正式に、盛大に。きちんと形に残るものとして。「滝沢家の跡継ぎ」が「中道家の令嬢」と政略結婚するのではなく、滝沢祐一が池上由奈にプロポーズし、結ばれるのだ。だが由奈は、てっきり奈々美と彰の婚約パーティーの準備だと思い込んでいた。「そっか。それじゃ私は先に帰るね」そう言って車へ向かう。ところがドアに手をかけようとした瞬間、後ろから手首をつかまれた。振り返ると、祐一がこちらを見ている。「今年のお正月、どこで過ごすか決めたのか?」由奈は少し考えた。「まだかな。栄東市へ帰るかもしれないし……」そこでふっと目を上げ、彼の視線を受け止める。「海都市に残って、あなたと過ごすかもしれない」――あなたと。その一言だけで十分だった。祐一の口元がゆるむ。まるで簡単に機嫌を取られてしまう男みたいに。「そうか」短く返しながらも、その声音には隠しきれない喜びが滲んでいた。……二人が役所から出てくる姿は、その頃すでに誰かに撮影されていた。数枚の写真はほどなくして将吾の手元へ届く。将吾は写真を眺めると、満足げに封筒へ戻した。向かいには影山家の面々が座っている。今日の会合は、婚約パーティーについての最終打ち合わせだった。実際に話を進めているのは敦と将吾であり、慎吾夫妻は敦の判断に従っている。「婚約パーティーの日程は決まったが、まだ
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第698話

婚約パーティーの段取りをすべて決め終え、影山家の人々が帰った後。執事が静かに部屋へ入ってきた。「旦那様、お嬢様ですが……昨夜はお戻りになりませんでした。こちらで居場所を確認したところ、ホテルにおりまして……」将吾の表情が一気に険しくなる。「どこだって?」「ホテルです。それも……」執事はその先を口にできなかった。だが将吾には十分だった。娘の周囲にどんな男たちがいるのか、彼も把握している。別に古臭い考えの人間ではない。大人なのだから、男であれ女であれ、多少遊ぶ程度なら目をつぶる。世間に知られなければ、それでいい。しかし今は違う。婚約パーティーを目前に控えたこの時期に――将吾は怒りを押し殺しながら命じた。「すぐに連れ戻せ。いいか、記者には絶対に見つかるな」「かしこまりました」執事は深々と頭を下げた。……滝沢家の車がホテルへ到着した頃。奈々美はちょうどエレベーターを降り、ホテルのロビーへ出てきたところだった。そのまま外へ向かおうとした矢先、迎えに来た執事と鉢合わせる。そして半ば強引に連れ戻される形で屋敷へ帰った。玄関をくぐった瞬間、待ち構えていた将吾と目が合う。将吾の顔色は重く沈んでいたが、奈々美はどこ吹く風だ。「ちゃんと帰ってくるんだから、そんな大騒ぎして探さなくてもいいでしょ?」「自分が何を言ってるか、わかってるのか?」将吾の怒声が響く。今は大事な時期だ。絶対に失敗は許されない。奈々美は鼻で笑った。「まだ結婚もしてないじゃない。影山さんは外で女を囲ってるのに、私は男と寝ちゃいけないわけ?」「黙れ!」将吾は激昂した。手元のカップを勢いよく床へ叩きつける。砕け散った陶器の破片が飛び散り、熱い茶が床を濡らした。「名家の令嬢がそんな言葉を口にするとは、恥ずかしくないのか?彰さんが外で女を囲っているなら、それは影山家の教育の問題だ。だが私の娘が同じ真似をするとなれば話は別だ!そんな恥を私は背負えん!それに、たかが愛人一人で何が変わるっていうんだ?」将吾は立ち上がった。「そんなことより、明日は彰さんと一緒に衣装合わせだ、忘れるなよ」そして冷たく言い放つ。「影山家へ嫁ぐことは、お前にとって決して悪い話じゃない。いずれ当主の妻になるんだ。そうなったら、誰だろうとお前の立場を脅かす
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第699話

紬は気まずそうに視線を逸らした。「え、えっと……つまり、由奈お義姉ちゃんはまだ祐一兄ちゃんのことが好きなのに、どうして離婚なんて受け入れたのかなって」祐一はしばらく彼女を見つめ、ようやく何かに気づいたように目を細めた。書類を机に置き、椅子の背にもたれかかる。「わかった。君が本当に気にしてるのは、俺たちのことより……自分のことだろ?」「じ、自分のこと?そんなことないよ」紬は慌てて否定したが、その目は露骨に泳いでいた。祐一は口元を緩める。「俺と由奈が離婚したら、白石先生に由奈を口説くチャンスができる。だが君はあの人のことがかなり気に入っている。違うか?」紬は一瞬言葉を失う。そもそも話していたのはそんなことではない。――というより、自分が倫也を好きだなんて、どうして祐一に知られているのだろう。紬は無意識に爪をいじりながら、しどろもどろになった。「な、何言ってるの?私が白石先生のことなんて――」そこまで言いかけて、祐一の「全部お見通しだ」と言わんばかりの視線にぶつかる。続きの言葉は喉の奥に引っ込んだ。「……もう知らない!好きにすれば!」半ばやけになって話を打ち切ると、紬はそれ以上追及される前に足早に部屋を出ていった。その背中を見送った麗子は、先ほど紬が言いかけて飲み込んだ言葉を思い返していた。――「しかもお義姉ちゃん、あなたの――」すると、ある可能性が頭に浮かんだ。……自分の考えすぎだろうか。「奈々美と影山の婚約パーティー、準備はもう整ったみたいだな」祐一の声に、麗子は我に返った。「はい。会場もすでに決定しています」軽くうなずいたあと、彼女は以前から抱いていた疑問を口にする。「ただ、一つ分からないことがあります。影山敦さんは両家の血縁関係をご存じですし、彰さんもあなたがその秘密を握っていることを知っています。それなのに、なぜ婚約を強行するのでしょう。先にあなたが暴露する可能性は考えなかったのでしょうか」もし将吾が敦美と彰の素性を知っていたなら、こんな常軌を逸した縁談を進めるはずがない。祐一は机を指先で軽く叩いた。その表情はどこまでも穏やかだった。「これは元をたどれば、祖父の不祥事だ。どうしても表に出さなきゃならなくなったとき、損をするのは滝沢家と影山家、どっちだと思う?」「……滝沢家です」麗
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第700話

その頃、由夏は数日後の逃避行の計画をほぼ立て終えていた。持っていくのはパスポートと銀行カードだけ。荷物は何一つ持たず、スマホさえ置いていくつもりだ。海都市から離れる日が来るのを、心から待ち望んでいた。――ピンポーン。そんな時、突然のインターホンの音に、由夏は現実へ引き戻される。慌ててノートを隠し、寝室を出た。彰は奈々美とドレスの試着に行っているはずだ。いったい誰が……ドアを開けた瞬間、由夏は凍りついた。二、三人の男たちがいきなり押し入り、有無を言わせず彼女を取り押さえたのだ。「な、何をするんですか――!」恐怖に震えながら必死に抵抗する。だが返事が返る前に、廊下の奥からゆっくりと一人の女が姿を現した。奈々美だった。「滝沢さん……?」由夏は目を見開く。奈々美は室内へ入り、広々とした居心地の良いマンションを見回して鼻で笑った。「影山さんもずいぶん甘いね。愛人を囲うなら、もっと人目につかない場所を選べばいいのに。こんなところじゃ密会もしづらいでしょ」「滝沢さん、誤解です」由夏は必死に説明した。「私は影山さんとどうこうなるつもりなんてありません。お二人の婚約の日にはここを出る予定です。もう二度とご迷惑は――」「そんな話、信じると思う?」奈々美は冷たく言い放った。「本当なんです――」言い終わる前に、奈々美の指が由夏の頬を乱暴につかむ。その目には陰湿な憎悪が宿っていた。「仮に本当だとしても、あなたの顔を見るだけで腹が立つの。あなた、運が悪かったね。よりによってあの女に似てるなんて」由夏の背筋が強張る。だが今の彼女には、奈々美と由奈の間にどんな因縁があるのか考える余裕などなかった。奈々美は手を離すと、ふいに笑みを浮かべた。「私はあの女には手を出せない。でも、あなたなら別」そう言って男たちへ視線を向ける。「好きにしていいよ。終わったら写真を全部影山さんに送りなさい。愛人の艶姿、たっぷり楽しんでもらいましょう」許可を得た男たちの顔に、狂気じみた笑みが広がった。由夏の血の気が引く。必死に暴れ、爪で男の腕を引っかいた。赤い筋が走り、男は顔をしかめる。「このっ――!」乱暴に突き飛ばされた由夏は壁へ叩きつけられ、後頭部に激痛が走った。耳鳴りが響く。男は苛立たしげに手を振る。「連れて行け」由夏
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