徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る のすべてのチャプター: チャプター 711 - チャプター 720

720 チャプター

第711話

由奈は鼻を鳴らした。「やっぱり狸寝入りだったのね。さっきから気づいてたわよ」「そうか」祐一はゆっくり目を開け、気だるげな姿勢のまま彼女を見上げる。「だったら、どうして起こしてくれなかった?」「少しくらいなら付き合ってあげてもいいかなって思ったの」そう言ってドアを開けようとした瞬間――祐一の腕が彼女の脇をすり抜けた。次の瞬間、ドアに伸ばした由奈の手は大きな手に包み込まれる。車内は暖房が効いている。そこへ彼の広い胸が背中にぴたりと重なり、一気に熱がこもった。由奈は思わず身を固くする。このまま腰でも抱かれたらたまらない。反射的に、空いている方の彼の手首を掴んだ。「何するの?」祐一は顎を彼女の肩に預ける。吐息が耳の後ろの髪をかすかに揺らした。「今日の君、なんだか様子が変だな」「別にそんなことはないでしょ……」由奈が戸惑って振り返る。だが祐一は答えず、低く声を落とした。「今日……泊まっていってもいいか?」その一言に、一瞬だけ心が揺れた。けれど次の瞬間には我に返る。「だ、ダメ!」泊まられたら妊娠のことが知られてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。「どうして?」祐一が横から顔を覗き込む。由奈は視線を合わせられず、慌てて言い訳を探した。「だって……その……よくないでしょ!私たち、もう離婚したんだから。ただの他人の男女二人が、理由もなく同じ部屋に泊まるわけにはいかないでしょ?」最後まで言い切ると、祐一は吹き出した。「じゃあ、どうして今すぐ俺を突き飛ばさないんだ?」「こんなふうに抱きしめられたら、身動きが取れるわけないでしょ!」言った瞬間、由奈は自分で顔を覆いたくなった。――今のは失言だった。案の定、祐一は彼女の手を離し、少しだけ体を引く。その胸が微かに震えているのが伝わってくる。笑いを堪えているのだ。「俺、まだ抱きしめてもいなかったけど?」「……っ!」恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。由奈は勢いよくドアを開けると、そのまま家へ向かって逃げるように駆け出した。……その後の二日間、ネットは予想どおり大騒ぎになった。公式ニュースサイトが一時アクセス集中でダウンしたという話まで出るほどで、トレンドには滝沢家と影山家に関する話題が並んでいる。名家同士の確執に加え、刑事事件
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第712話

手術を受けた将吾は、数日間ICUの個室で過ごした。病室の外では麗子がボディーガードたちと話をしていた。そこへエレベーターの扉が開き、祐一が姿を現す。「社長、おはようございます」麗子が歩み寄る。「将吾さんの手術は無事成功しました。ただ、医師によると、まだ数日はICUで様子を見る必要があるそうです」祐一は病室の前で足を止め、面会用の窓越しに中を一瞥した。「目は覚ましたのか?」「一度は。でも、何も話していません」「そうか」祐一は淡々とうなずく。「引き続き見張りを続けろ。話す気になったら知らせてくれ」「承知しました」麗子はうなずくと、すぐ本題に入った。「影山慎吾夫妻ですが、明後日の海外行きの航空券を購入しています。三枚分です。影山彰さんの分も含まれています」祐一はスマホを持ち上げ、届いていたメッセージに目を通した。表情は変わらない。「敦さんは出国するつもりはないらしいな」「ええ。あの方は逃げられませんから」麗子にも、その理由は容易に想像できた。祐一も当然わかっている。「数日後、向こうから面会の打診が来てる」麗子は目を見開く。「面会というのは……影山敦さん本人ですか?」祐一はスマホをしまいながら肩をすくめた。「たぶんな」……由奈は鏡の前に立ち、わずかに膨らみ始めたお腹を見つめていた。冬でよかった。厚手の服が隠してくれる。もし夏だったら、とっくに誤魔化せなくなっていただろう。そのとき、スマホが鳴った。画面を見ると、智宏からの着信だった。「もしもし、お兄さん」由奈は笑顔で電話に出る。「ニュースは見たよ。最近は大丈夫か?」由奈は窓辺へ歩き、冬景色を眺めながら答えた。「もちろん。仕事もないし、毎日気楽に過ごしてますよ」智宏も笑う。「それならよかった。いつ戻ってくるつもりだ?」由奈は一瞬言葉に詰まった。すぐには返事が出ない。「もしかして……帰りたくなくなったか?」「違うって」由奈は視線を落とし、小さくお腹に手を添えた。「数ヶ月のうちには絶対帰りますよ」「わかった。お父さんもお母さんも、家で待ってるからね」通話が終わる。由奈は窓枠にもたれながら、お腹の子に話しかける。「ねえ、ママのこと、怒らないよね?恨むなら、離婚なんて言い出したあのバカなパパを恨みなさい」そして小さく鼻を鳴ら
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第713話

祐一は熱を帯びた眼差しで由奈を見つめたまま、なかなか目を離せなかった。焦っていると思われたくなかったのか、ゆっくりと身を起こして尋ねる。「どうしたんだ、急に?」由奈は顔を上げた。「家にいても暇だったから来ただけ。迷惑だった?」「まさか」彼は、由奈が何のために来たのかなど気にしていなかった。自分を訪ねてきてくれた――それだけで十分だった。「下に新しいカフェができたんだ。なかなか美味しい。土屋に買ってこさせるよ」そう言って内線電話に手を伸ばしかけたところで、由奈が慌ててその手を掴んだ。「コーヒーは飲めないの」祐一が不思議そうに見つめる。由奈はわざと気恥ずかしそうに視線を逸らし、宙ぶらりんになった足を軽く揺らした。「生理中だから」祐一は一瞬言葉に詰まり、軽く咳払いをした。「……そうか」低い声でそう返し、「このあと会議がある。腹が減ったら土屋に言ってくれ」と言った。「うん、分かった」由奈はにっこり笑うと、応接スペースのソファへ移動した。傍らに置かれていた経済誌を手に取り、ページをめくる。仕事の邪魔にならないよう、動作も自然と静かになる。祐一の視線はずっと彼女を追っていた。ソファの隅で小さく身体を丸め、本を読んでいる姿を見ていると、知らず知らずのうちに表情が柔らかくなる。その時、ノックの音が響いた。麗子が入室する。由奈の姿を見ても特に驚いた様子はなく、軽く会釈をしてから祐一へ向き直った。「社長、MI社の役員の皆様がお見えです」「分かった」祐一はジャケットを整えながら歩き出した。だが数歩進んだところで足を止め、再び引き返してくる。由奈の前まで来ると、高い身体を屈めてしゃがみ、彼女と視線を合わせた。「会議が終わるまで、ここにいてくれるか?」その瞳には、わずかな期待が滲んでいた。由奈は雑誌のページの端を指先で弄びながら、目を細めて微笑む。「うーん、どうしようかな」「……帰るつもりなんだな」祐一は苦笑した。立ち上がろうとした瞬間――由奈が突然、彼の腕を引いた。予想外の力に身体が前へ傾く。咄嗟に彼はソファへ腕をつき、どうにか体勢を支えた。二人の距離は一気に縮まる。由奈が少し顔を上げれば、そのまま彼の鼻先にキスできそうなほど近い。麗子は無言で視線を逸らした。祐一の視線を受けながら、由奈は艶やかに微笑む。そして小声で囁
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第714話

敦美は嗚咽を堪えながら、救急処置室の方を指さした。「まだ……中にいるの……」言葉も途切れ途切れだ。そこまで言うと、彼女は涙を拭った。「慎吾……彰、大丈夫よね?もしあの子に何かあったら……」その言葉に慎吾の胸も締めつけられる。慌てて妻の肩を支えた。「縁起でもないことを言うな」彰は子どもの頃から手のかかる息子だった。成人してからも遊び歩いてばかりで、親を心配させることなど一度や二度ではない。だが、まさか今回は体まで壊し、病院に搬送されることになるとは思わなかった。怒りと焦りが入り混じり、胸が激しく上下する。しばらくしてようやく、「まったく、あの馬鹿息子が……!」と吐き捨てた。やがて救急処置室の扉が開き、医師が出てくる。「先生、息子はどうなんですか?」敦美は周囲の制止も振り切り、ふらつきながら駆け寄った。医師は落ち着いた口調で説明する。「胃洗浄を行い、薬剤も投与しました。現在は命に別状ありません」その言葉に二人はほっと息をついた。だが慎吾はすぐに尋ねる。「先生、一体何があったんですか?息子は普段から酒を飲んでいますが、こんなことになったのは初めてです」医師はカルテを確認しながら答えた。「急性アルコール中毒です。飲酒量が普段の許容量を大幅に超えていた可能性もありますし、複数種類のお酒を大量に混ぜて飲んだことが原因かもしれません。ただ、不幸中の幸いでした。患者さんはうつ伏せの状態だったため、嘔吐物が気道を塞がずに済みました。窒息を起こし、一晩放置されていたら、助からなかった可能性が高いです」そう言って小さくため息をつく。「まだお若いですし、できることなら早めに禁酒を考えた方がいいでしょう」敦美の顔から血の気が引いた。ホテルで見た大量の酒瓶が脳裏によみがえる。数十本はあったはずだ。今になって思えば、背筋が寒くなる。――もし発見がもう少し遅れていたら。そう考えるだけで恐ろしかった。彰はそのまま一般病棟へ移された。慎吾と敦美は付き添い、ずっとベッド脇で見守り続ける。そして数時間後――ようやく彰が目を覚ました。二人は同時に安堵の息を漏らした。「彰、大丈夫?具合はどう?」敦美が優しく問いかける。彰はかすれた声で呟いた。「……喉、渇いた」「今お水を持ってくるわ」敦美は急いで立ち上がった。その横で慎吾は
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第715話

「そんなことはないのよ」敦美の目にあるのは、ただ息子を案じる気持ちだけだった。母親にとって、我が子が生気を失い、後悔と諦めだけを抱えている姿ほどつらいものはない。「誰かと比べなくていいの。彰は彰なんだから。それに、どんな辛いことだって、いつか終わるのよ」彰は、その言葉を聞いていたのかどうかも分からない。枕を整えると、そのまま横になった。「少し休む」「ほら見てみろ、こいつ――」「もうやめて」敦美は夫の言葉を遮った。目にはうっすら涙が浮かんでいる。「彰を休ませてあげましょう。話なら外で聞くわ」……川の向こう岸にはネオンが帯のように連なり、水面に揺れる光が夜景を彩っていた。由奈と祐一は窓際の席で夕食をとっている。テーブルの上では、グラスに入った冷たいドリンクの中で細かな泡が弾け、デザート皿のタルトにはまだほんのりと温もりが残っていた。祐一はブルーベリータルトを一切れ取り、由奈の皿に載せる。「明日は近くの美術館に行くか、それとも商店街を散歩して市場でも覗いてみるか?」由奈は頬杖をついた。「両方じゃダメ?」「残念だが、午前中しか時間がないんだ」祐一が苦笑する。「そっか。滝沢社長はお忙しいもんね」由奈もため息まじりに笑った。「じゃあ商店街に行こうかな。海都市の古い商店街、久しぶりに行ってみたいし」すると祐一がふいに彼女を見つめた。その視線は鋭く、何かを見透かそうとしているようだった。「いつ栄東市に戻るんだ?」由奈は一瞬だけ固まった。だがすぐにグラスを手に取り、平然を装う。「まだ決めてないの」ひと口飲み、いたずらっぽく笑う。「なに?滝沢社長は私と離れるのが寂しいの?」「別に」由奈の笑みがぴたりと消える。だが祐一は肩をすくめて続けた。「会えなくなるわけじゃないしね」由奈は何も答えなかった。――子どもが生まれるまでは、たぶん会えないだろう。夕食を終え、祐一が会計を済ませる。彼は由奈のコートとバッグを持ち、二人は個室を後にした。由奈はわざと歩く速度を落とす。ただ、彼の背中を見ていたかったからだ。昔から何度も見てきた背中だった。むしろ正面より、背中を見ている時間のほうが長かったかもしれない。けれど今こうして眺めると、その背筋の伸びた端正な立ち姿が妙に新鮮だった。祐一はいつもの癖で手を伸ばした。だが
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第716話

翌日、滝沢グループ。麗子はコーヒーを片手に、資料を持って社長室へ入った。室内で書類に目を通している祐一の姿を見た瞬間、思わず足を止める。反射的にコーヒーを背中へ隠した。――おかしい。まだ朝の八時だ。祐一が普段出社するのは、だいたい十時頃。こんな時間に会社にいるなど珍しいにもほどがある。麗子の反応に気づかず、祐一は書類にサインを入れ、ファイルを閉じた。「九時から少し外出する。午前中の案件は君に任せた」麗子は一瞬きょとんとした。「ですが……影山敦さんとの約束は午後なのでは?」「相手は敦さんじゃない」祐一はペンのキャップを閉めながら答える。その表情には、かすかに隠しきれない機嫌の良さが滲んでいた。「由奈に誘われた」「……そうですか」麗子は納得するしかなかった。どうりで早起きなわけだ。仕事ではなく、デートだった。それにしても、離婚した由奈の方から誘うとは。麗子の知る由奈は、自分から積極的に動くタイプではなかった。とはいえ、ここは余計なことは言わない方がいい。そう思った。……九時きっかり、祐一は池上家へ向かった。車が静かに停まると、ほどなくして窓の外に一人の女性の姿が見えた。今日の由奈は、いつにも増して華やかだった。濃紺のロングコートはウエストベルトで美しいシルエットを描き、その下には淡い色のハイネックニット。足元には上質なレザーブーツ。艶やかな黒髪のウェーブが肩に流れ、控えめなメイクが彼女の整った顔立ちをいっそう引き立てていた。今さらだが、彼女が本当に美しいと、祐一は思った。車を降りると、由奈が駆け寄ってくる。だが雪で路面が滑りやすくなっていた。足を取られかけた彼女を、祐一は反射的に抱き留める。その拍子に、せっかく整えた髪が風に乱されてしまった。由奈は慌てて手で整えながら不満そうに言う。「せっかくセットしたのに、また崩れちゃった」「崩れてない」祐一はそう言って、彼女の髪を耳にかけてやった。「すごく綺麗だ」祐一の指先が由奈の耳先をかすめる。少し冷えた温度が伝わり、由奈は思わず肩を震わせた。それ以上に耐えられなかったのは、祐一の視線だった。真っ直ぐで、熱を帯びていて。まともに見つめられると落ち着かない。「ほら、早く行こう!」由奈は誤魔化すように急かした。祐一は低く
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第717話

祐一は我に返り、視線を隣の由奈へ向けた。由奈は真剣な表情で絵馬に願い事を書き込んでいる。「お兄さんも一枚どう?神様に自分の願いを伝えるいいチャンスですよ」社務所のおばさんが並んだ絵馬を指しながら、満面の笑みで話しかけてくる。「じゃあ一枚をお願いします。支払いは彼女の分も一緒に」そう言って祐一は財布を出した。絵馬を受け取ると、祐一はマーカーでさらさらと数文字を書き込み、そのまま絵馬掛所に奉納した。ほんの数分の出来事だったので、由奈はまったく気づいていない。やがて隣まで来る彼に気がづくと、由奈は慌てて絵馬を胸元へ隠した。「見ちゃダメ!」「どうして?」「見られたら願いが叶わないんだって」祐一は数秒黙り込む。そして至極真面目な顔で言った。「でも、絵馬掛所に掛かってる絵馬はみんなに見られてるよな?それなら全部効力なくなってるんじゃないか?」「……」由奈は言葉に詰まった。確かに理屈としては間違っていない。反論できないのが悔しい。眉を寄せて本気で考え込む彼女を見て、祐一は思わず笑った。「分かった。見ないよ」そう言って背を向ける。由奈は書き終えた絵馬を絵馬掛所に奉納した。風が吹き抜け、絵馬同士が触れ合って澄んだ音を鳴らす。それから祐一のもとへ戻り、顔を覗き込んだ。「祐一は書かないの?」「もう書いた」「えっ、いつ?」不思議そうに首を傾げる由奈。祐一は顎で絵馬掛所の方を示した。由奈が振り返ろうとした瞬間――彼は後ろから片手で彼女の目を覆った。「君が言ったんだろ。見たら叶わなくなるって」「え?でも気になる。何書いたの?」由奈は諦めずに追及する。「君が書いた内容を教えてくれれば、教えてやってもいい」由奈は少し考えるふりをしてから、数歩前へ出た。そしてくるりと振り返り、にっこり笑う。「私はね――将来あなたが寂しくならないように、可愛らしいお友達ができますように、って書いたの」言い終えるなり、くすくす笑いながら駆け出した。祐一は呆れ半分、可笑しさ半分で息を吐き、大股でその後を追う。二人は雪化粧した並木の下を遠くまで走っていった。風が吹き、無数の絵馬が澄んだ音を立てる。そこには、数え切れないほどの願い事が書かれていた。その中の一枚、祐一が掛けた絵馬には、整った美しい字で、たった数文字だ
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第718話

敦は、沙耶子の言葉の裏にある意味を察していたが、あえて何も答えなかった。「ラウラ、前から海都市を回ってみたいって言ってたでしょう?せっかく来たんだから、少しゆっくりしていきなさい」沙耶子は隣に座る赤毛の女性へ目を向け、柔らかな笑みを浮かべた。ラウラはハーフらしい整った顔立ちをしている。しかし、言葉はまるでこの国でずっと暮らしてきたかのように流暢だった。「わかりました。お母さんがいらっしゃる間は、私も一緒にいます」「その方は……娘さんですか?」敦は意外そうに目を見開いた。沙耶子はラウラの手の甲をそっと撫で、慈しむように微笑む。「ラウラは私の実の娘じゃないよ。でも、小さい頃からずっと見てきた子なの。この子が私を母と呼ぶなら、私にとっても娘と同じだよ」……一方その頃――由奈と祐一は骨董品店を出たところだった。そのとき、祐一のスマホが短く震える。画面に表示された麗子からのメッセージを見た彼は、そろそろ午後の用事へ向かわなければならないことを悟る。「どうしたの?もう仕事に行く時間?」由奈が振り返って尋ねる。祐一はスマホをしまいながら頷いた。「ああ。今日の件はどうしても外せなくてな」「そうか。私とのデートよりも大事?」何気ない冗談のつもりだった。だが祐一が一瞬言葉を失ったのを見て、由奈は慌てて手を振る。「あ、今のは冗談。私だってわがままを言うつもりはないよ。大事な仕事なら、そっちを優先して当然。気にしないで」祐一は少し掠れた声で言った。「悪いな。加藤を迎えによこすよ」「うん、わかった」二人は商店街の出口で別れた。由奈は祐一を乗せた車が見えなくなるまで見送り、その後スマホのアルバムを開く。並んでいるのは十数枚の写真。そのどれにも祐一が映っている。胸がもやもやして、頭の中では二つの気持ちがせめぎ合っていた。――妊娠のこと、もう話してしまえばいいのに。――でも、あの人は何も説明しないまま離婚を切り出した。こっちの気持ちなんて考えてくれなかったのに、どうして私だけ気遣わなきゃいけないの?――だけど、彼が離婚を切り出したのは私を守るためであって……それに、妊娠のことはサプライズで伝えるつもりだったんでしょう?答えの出ない自問自答を続けていると、突然スマホが鳴った。見慣れない番号を見て、由奈は数
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第719話

彰は由奈の視線から逃げるように目を伏せ、自嘲気味に笑った。「僕のこと、ひどいと思ったでしょ。でも僕はただ、あいつにしかるべき罰を与えただけだ」そう言って再び顔を上げた。「奈々美も、あいつの両親も同じだ。利益になるものに群がって、力のある者に媚びる。あの一家がどんな人間か、君だって見てきただろ」「奈々美たちに問題があることは認めます」由奈の表情は終始静かなままだった。怒りも憎しみも浮かんでいない。「彼女たちがどんな人間だったのか……そして、影山家がどんな一族なのかも、見てきたつもりです」彰は黙り込んだ。影山家がしてきたことについても、言い逃れするつもりはないようだ。「彰さん。あなたは確かに昔、私を助けてくれました。その善意が本物だったのか、それとも何か思惑があったのかはわかりません。でも少なくとも、私は助けられました」由奈は一度まぶたを伏せた。「だから、あの頃は本当に感謝していました」そして再び彼を見据える。「でも、この間の日を境に、私たちの関係が終わったんです」「あの日は、僕が衝動的になっただけで……由奈ちゃん、僕は本当にそんなつもりじゃ――」由奈は手を上げ、彼の言葉を遮った。「理由が何であれ、私はあなたを許すことはできません。なぜなら、私は妊娠してるんです。もしあの時、あなたのせいで私がお腹の子を失ってしまったら――私はあなたを一生恨むでしょう」彰は言葉を失った。妊娠。由奈のお腹に、赤ちゃんを……?「今日、お母さんは私に情で訴えてきました。昔あなたと仲が良かったから、一度は見舞いに来て欲しいって。でも、それが通じるのは今回だけです。私がここへ来たのは、あなたに一つだけ確認したいことがあったからです」「……何だ」彰はようやく声を絞り出した。もう期待はしていない。自分が何を失ったのか、嫌というほど理解したのだ。由奈は彼を見据えたまま尋ねる。「祐一の祖母と母親の事故に、あなたは関わっていましたか?」その一言に、彰の心臓が大きく跳ねた。しばらく黙り込み、視線を落とす。そして悲しげに笑った。「関わっていないと言ったら……信じるか?」「信じます」彰は再び目を見開く。由奈は静かに立ち上がった。「関わっていないなら、それで十分です。少なくとも、私が友人だと思っていた人が、救いようのない殺人者じ
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第720話

祐一の顔から、すっと表情が消えた。瞳の奥には、隠そうともしない冷たい怒りが宿る。「祖父があなたを裏切ったことについては、私も弁解するつもりはありません。ですが――だからといって、無関係な人間まで巻き込んでいい理由にはならない」「無関係?」沙耶子は鼻で笑った。「本当に和恵が無関係だと思っているのかい?」祐一は腕時計の文字盤を指でなぞった。「どういう意味ですか?」「私の兄がどうして死んだと思う?」沙耶子はティーカップを勢いよくテーブルへ置いた。鈍い音が響き、熱い茶がこぼれて木目の上を筋のように流れていく。力の入った指先は白くなっていた。何十年も胸の奥に沈殿していた憎しみが、一気にあふれ出す。「芳樹に裏切られたことは、もう受け入れていた。忘れようともしたさ。でも兄は、私が泣き寝入りするのを見ていられなかった。だから私の代わりに筋を通そうとした。なのに和恵の実家に侮辱され、踏みにじられた!」彼女の声は震えていた。「それなのに芳樹はどうだった?親友のために一言だって口を利かなかった。兄はその一件から塞ぎ込み、病に倒れ、食事も喉を通らなくなった。それでも兄は生きていたんだよ。なのに和恵が病室に来て、『芳樹と仲直りしてほしい』、『もう水に流してほしい』なんて言った。兄に屈辱を飲み込めと迫ったんだ。兄は最後まで納得できなかった。あの悔しさを抱えたまま死んだんだよ」長年押し込めてきた感情を吐き出し終えると、沙耶子は荒く息をつきながら笑った。「和恵を今まで生かしてやっただけでも、私は十分情けをかけたと思ってる。そうでなければ、とっくの昔に芳樹のところへ送ってやってたさ」祐一は拳を握り締めた。祖父が沙耶子を裏切ったことは知っている。だが、祖母と彼女の間にどんな因縁があったのかまでは知らない。だから今の話がどこまで真実なのか、判断はできなかった。それでも一つだけ確かなことがある。――沙耶子は、祖母の事故と無関係ではない。祐一は静かに口を開いた。「長々と昔話をされたところで、結局は滝沢家への恨みを晴らしたいだけでしょう」指先でテーブルを軽く叩く。その声は氷のように冷たかった。「残念ですが、私は祖父たちみたいにあなたへ義理を感じていません。だから、私たちは分かり合えないかと」鋭い視線が沙耶子を射抜く。「例の事故に関
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