All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 741 - Chapter 750

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第741話

椅子に腰を下ろした祐一は、まだ血色が戻っていない母の顔を見つめた。喉が何度も上下し、ようやくかすれた声を絞り出す。「母さん……ごめん」かつて母に対してわだかまりを抱いたこともあった。だが、母が昏睡状態に陥っていたこの長い日々の中で、その感情はもう消えていた。自分は母の期待を裏切ったし、傷つけもした。それでも、母の望む人生をそのまま生きることはできなかった。だからこそ、謝ることしかできない。そんな言葉を聞けば、母は少なからず感情を揺さぶられるのではないかと祐一は思ったが、違った。彼女はただ静かに首を横に振る。そして力を振り絞るように腕を持ち上げ、震える手を祐一へ伸ばした。続いて傍らに立つ将平へ視線を移し、親子二人の顔を何度も見比べる。やがて視線は再び祐一の顔に戻り、その目にゆっくりと涙が滲んでいった。祐一は身を乗り出し、点滴のせいで少し冷たくなった母の手を包み込む。「俺も父さんも、しばらく病院で母さんに付き添うから」千代はまぶたをぱちぱちと動かした。――違う、そうじゃない。だが祐一たちはどうやら自分の言いたいことを理解していないらしい。千代は諦めたように目を閉じた。もういい。今は無理に伝えようとする気力もなかった。……栄東市。青ヶ丘。由奈が玄関の扉を開けた瞬間――パンッ!クラッカーが弾け、色とりどりの紙テープが頭上から降り注いだ。思わぬ歓迎に、由奈はその場で固まる。まだ状況を飲み込めないでいると、澪と、クラッカーを鳴らした少年が満面の笑みで迎えていた。改めて室内を見回すと、両親と兄だけではない。秀雄一家に加え、澪まで顔を揃えている。そして由奈は、このとき初めて秀雄の息子――光俊と対面した。秀明は得意満面で秀雄たちを振り返る。「ほら見ろ。うちのお姫様はちゃんと帰ってくるって言っただろ?」秀雄は苦笑した。「分かった分かった。今回はお前の勝ちだ。今夜の酒、俺の奢りだ」「今日何かイベントでもあるんですか?ずいぶん盛大ですね」由奈は肩や髪についた紙テープを取りながら尋ねた。澪も近寄り、髪に絡んだテープを外してやる。「だって由奈お姉ちゃんが今日帰ってくるって秀明さんが言ってたから。盛大にお迎えしないと」その間に光俊は母親の茜のもとへ戻った。茜は由奈に柔らかな笑みを向ける
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第742話

「そんなことないですよ」由奈はとっさに視線を逸らし、慌てて説明を続けた。「ただ、お父さんとお母さん、それに秀雄さん夫婦を見てると、本当に絆が強いなって思って。それに比べて、お兄さんは……」「僕が何か?」智宏が聞き返す。由奈はくるりと目を動かし、いたずらっぽく笑った。「彼女すらいないんですから」一瞬きょとんとした智宏は、腕を組んで苦笑した。「へえ。兄をからかうなんて、随分やるようになったね」「智宏、由奈!そこで何してるんだ。早く来い、写真撮るぞ!」秀明が二人に向かって声を張り上げる。「はーい!」由奈は返事をすると、そのまま智宏の腕を引いて皆のもとへ駆けていった。そして、家族全員が笑顔を浮かべた一枚の記念写真が、カメラの中に収められた。……夕暮れ、コンベンションセンタービル最上階のテーマレストランでは、プロポーズの会場の準備はすべて整えられていた。しかし、肝心の主役だけが一向に姿を見せない。一時間以上待った受付責任者は、やむなく麗子へ電話をかけた。「もしもし、土屋様でしょうか。こちらテーマレストランでございます。滝沢様からご予約をいただいておりますが、お待ちしているものの、滝沢様も池上様もまだお見えになっておりません」麗子は驚いて聞き返した。「池上さんもいらしてないんですか?」「はい」「少々お待ちください。滝沢社長に確認してみます」電話を切った麗子は首をかしげた。――祐一は由奈に何も伝えていなかっただろうか。それとも、何か急な用事でもあったのか?考えた末、彼女は卓巳へ電話をかけた。数コールで電話がつながる。「どうしたんですか、土屋さん?」「まだ池上さんのお宅にいます?由奈さんには会えました?」「え?知らなかったんですか?」卓巳は不思議そうな声を上げた。「僕、もう池上家にはいませんよ。池上さんなら栄東市に帰りました」麗子は一瞬言葉を失い、それから安堵したように息をついた。「……そうですか。なら大丈夫です」電話を切ると、しばらく考え込み、祐一へ一通のメッセージを送った。……病院。祐一は病室のソファに腰掛け、母に付き添っていた。手には、小さなリングケースがある。上質なベルベット張りのケースは柔らかな光沢を帯びており、彼は何度も何度もそれを開いては閉じていた。中には十五カラッ
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第743話

栄東市に帰ってからの数日間、由奈は親戚の訪問で大忙しだった。以前タイミングが合わず、ずっと会えなかった親戚たちにも挨拶ができ、そのたびに手土産をもらっていた。中道家はもちろん、母方の親戚たちにも暖かく迎えてもらい、楽しい時間を過ごしていた。由奈の妊娠は、本来なら両親と兄以外、誰も知らなかった。ところが、観察眼の鋭い美雪が、由奈の食べ物の好みが変わっていることや、少し膨らみ始めたお腹に気づき、「もしかして妊娠してるの?」と尋ねたのだ。妊娠は喜ばしい知らせだ。たとえ今は祐一と離婚していても、家族は皆、この子の誕生を心から楽しみにしている。もちろん、由奈自身も。……実家に戻ってから三日目の朝。由奈は朝食を食べようと階下へ降りた。お腹を隠す必要がなくなったため、肩の荷が下りたように気持ちが軽くなった。ダイニングには母と兄がいたが、父の姿は見当たらない。椅子を引いて腰掛けながら尋ねる。「お父さんは?」智宏はグラスを手に取り、水を一口飲んでから答えた。「朝早くから家具を見に行ったよ」「家具?」「赤ちゃんの部屋に置く家具だって」恭子は嬉しそうに微笑んだ。「もうすぐ家に赤ちゃんが来るんだもの。きっと賑やかになるわね」智宏も吹き出す。「そうだね。また一人、手のかかる子が増える」由奈はテーブルの下で軽く兄の足を蹴った。「私は子どもじゃありません」「何を言ってるの?」恭子は優しく娘を見つめた。「ゆうちゃんは、いつまでもお母さんの大切な子どもよ」その言葉に、智宏は思わず肩をすくめる。由奈も降参したように笑い、椅子を母の隣へ寄せると、その肩にもたれかかった。「はいはい。じゃあ私は、一生お母さんの子どもでいますね」……栄東市の冬は海都市ほど厳しくない。特に春先、昼間の気温が十度を下回ることはほとんどなかった。部屋へ戻った由奈は、引き出しからスマホを取り出す。画面を点けると、未読メッセージがいくつも届いていることに気づいた。浩輔から。紬から。そして、祐一から。由奈はベッドの上にあぐらをかき、数秒ためらった末に、祐一とのトーク画面を開く。【帰るなら一言くらい言ってくれてもいいだろ】【?】【返信もしてくれないのか?】由奈は思わず吹き出した。そして返信する代わりに、祐一へビデオ通話をかけ
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第744話

「祐一……」由奈は喉を詰まらせ、ぎこちない声で言った。「今日、どうしたの?急にそんなこと言い出すなんて……頭でも打ったの?」祐一はじっと彼女を見つめたまま、静かに告げる。「もう俺から逃げるな。でないと――」「でないと?」「今すぐ栄東市行きの飛行機に乗る」その口ぶりに冗談の色はなかった。由奈は思わず言葉を詰まらせる。「そ、それはだめ!」祐一は慌てる様子もなくゆっくりと身を起こし、スマホを脇へ置くと、着替えを始めた。「だったら、ちゃんと答えてくれ」その有無を言わせない物言いは、どこか以前の彼そのものだった。由奈は悔しそうに歯を食いしばり、大きく息を吸う。「祐一。今後の私たちのことは、私が決めるの。あなたが仲直りしたいって言ったら仲直りしてあげたり、別れたいって言ったらさよならするなんてことはもう二度とないから。言っとくけど、今の私はあなたに対抗できる切り札を持ってるんだから。脅したって無駄よ」祐一は一瞬だけ目を丸くし、スマホを持ち直した。「……切り札?」「そう、とっておきの秘密兵器よ」彼は画面越しに彼女を見つめ、目を細める。「何だ?」「さあね。自分で考えて。私は忙しいから、もう切るね」そう言ってビデオ通話を終了した。ちょうどそのとき、部屋のドアがコンコンと鳴る。由奈はスマホを置き、立ち上がって扉を開けた。そこには智宏が立っており、小包を差し出した。「言い忘れてた。これ、あなた宛て。先週届いてた荷物だ」「え?でも私、何も注文してないけど……」「送り主を見てみて」由奈は小包を受け取り、送り状へ目を落とす。そこに書かれた住所は江川市、白石家。送り主は恭介。恩師からだ。荷物を見つめたまま動かない彼女を見て、智宏はその胸中を察したように口を開く。「昔のことがまだ引っかかってるなら、無理に吹っ切ろうとしなくてもいいよ」由奈は我に返り、小さく首を振った。「そのことで悩んでるわけじゃないんです」そう言って微笑む。「あのとき、もし私が中道家と先生のどちらかを選ばなきゃいけなかったとしても、先生を選べたとは限らないし。それに、もう全部終わったことですから」少し間を置いて続ける。「ただ……先生が今でも私に荷物を送ってくださるなんて、少し意外だっただけ」「なら、中を見てみな」
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第745話

箪笥やベッドなどはどれも古く、壁紙も黄ばみ始めている。それなのに、不思議と古びた印象はなく、どこか懐かしさを感じさせる趣が部屋全体に漂っていた。沙耶子は相変わらず電動車椅子に腰掛け、窓の外に広がる雪化粧の渓谷を静かに眺めている。敦美はゆっくりとその背後まで歩み寄り、長い沈黙の末、小さく口を開いた。「……お母さん」「どうして来たの?」振り返ることもなく返された声は、どこまでも淡々としていた。その突き放すような冷たさに、敦美の胸がちくりと痛む。彼女は手にしていた贈り物をテーブルへ置き、静かに言った。「こちらにいらっしゃると聞いたので、お顔を見に来ました。影山家で起きたことは……詳しく聞くつもりはありません。でも、全部分かっています。お母さんはずっと、お父さんとのことを忘れられなかったんですよね――」「黙りなさい」沙耶子は表情を険しくし、鋭く言葉を遮った。「あなたの存在すら最後まで認めなかった男を、よくも『お父さん』なんて呼べるね」敦美は静かに息を吸い込み、母の後ろ姿を見つめ続けた。「ええ。あの人は最後まで私を娘だとは認めませんでした」一拍置いて、声を震わせながら続ける。「でも、お母さんもそうだったんでしょう?私を産んでおきながら、一度でも娘として認めてくれたことがありましたか?」沙耶子は視線を逸らし、再び窓の外へ向き直る。何も答えない。敦美は目を潤ませながら、一歩、また一歩と近づき、母の前へ回り込んでゆっくりと膝をついた。「私がお父さんの娘だから、お母さんは一度も私を見ようとはしなかった。成人してから阿部さんが亡くなると、私を海都市へ呼び戻して、政略結婚という名目で慎吾さんと結婚させた。今回の件が起きるまで知りませんでした。お母さんが何年も影山家と連絡を取り続けていたなんて……それなのに、一度だって私に幸せかどうかを聞いてくれなかった。影山家で辛い思いをしていないか、心配してくれたこともありませんでした」敦美は母を見上げる。目には涙が滲んでいた。「……お母さん。そんなに私のことが憎いんですか?」沙耶子はゆっくりと目を閉じる。娘を見ようとはしなかった。だが、かすかに震える頬が、胸の内を隠しきれてはいなかった。長い沈黙の末、ようやく唇が開く。しかし、その言葉はさらに冷たかった。「私たち親子の間に情なんて
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第746話

バーベルを握る祐一の手は、最後の一回を終えるまで緩むことはなかった。持ち上げるたび、腕の筋肉が鋭く美しい線を描く。ようやくバーベルをラックへ戻すと、タオルを肩から引き寄せ、卓巳を見上げた。「キャンピングカー暮らしも、ずいぶん快適そうだが?」卓巳は慌てて両手を振る。「いえいえ、そんなことないです!あんな硬いベッドより、普通のベッドのほうが何倍も快適ですよ!ただ、その……池上さんが出発したとき、僕に一言もなくて。荷物もきれいさっぱり片付けてあったんです。あれじゃ誰が見ても、もう戻ってこないつもりにしか――」「余計なことは言わなくていいです」麗子が声を潜めて言った。卓巳は慌てて口をつぐんだ。祐一は首筋の汗を拭きながら、しばらく考え込む。由奈が実家へ帰ったこと自体は理解できる。だが――タオルを置き、静かに尋ねた。「由奈は出発する前、ほかに何か言っていなかったか?」「いや、特には……」卓巳は頭をかいたあと、ふと思い出したように顔を上げた。「あ、そうだ。この間、池上さんがブランコから落ちたことがあって、その時お腹を庇っていたから、聞いてみたら、『お腹の調子が悪い』って言ってました」麗子の表情がぴたりと止まる。祐一は眉をひそめた。「具合が悪かったなら、どうして報告しなかった?」「本人が浩輔さんに『大丈夫』って言ってましたし、本当に平気そうだったから……でも、そのあと僕、幼なじみに頼んで紹介してもらった先生を呼んだんです。そしたら、その前に池上さんが帰っちゃって……」麗子は乾いた笑みを浮かべた。「あなた、本当に肝が据わってますね」そう言って祐一の前まで歩み寄る。「社長。一つ、お話ししたいことがあります。ただ、確証はありません。ですから……一度、病院で確認されたほうがいいかもしれません」以前、紬が危うく口を滑らせたことがあった。その頃から、麗子はずっと引っかかっていた。さらに調べてみると、真由美も一時期、由奈の妊娠を疑っていた。もっとも、由奈本人は否定していたが。祐一は麗子をじっと見つめる。無意識に拳に力が入り、喉仏がゆっくりと上下した。胸の奥で膨れ上がる感情を押し殺しながら、どこか張り詰めた声で問い返す。「……何を確認するんだ?」卓巳はさっぱり要領を得ない様子で首をかしげた。「そうですよ。病院で何を調べるんですか?
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第747話

「M国へ?」秀明は目を丸くすると、手にしていた新聞をきちんと畳み、真剣な表情で由奈を見つめた。「急に海外へ行くなんて、何かあったのか?」由奈はM国医学研究所から届いた招待のことを、父に一から説明した。父が心配するだろうと思い、最後に付け加える。「向こうにいるのは三か月だけですよ」「いや、期間の問題じゃない」秀明は諭すような口調で言った。「君は妊娠しているんだ。異国で一人暮らしなんて、私が安心できるわけないだろう?」由奈が何か言おうとすると、秀明は軽く手を上げて制した。「分かってる。この研究はお母さんのためでもあるし、君にとっても滅多にないチャンスなんだろう。だから私は反対しない。ただし、M国へ行くなら智宏も一緒だ」由奈は思わず目を瞬かせた。「でも、お兄さんは会社が……」「私がいるだろ?」秀明は胸を張る。「まだ引退したわけでも、死んだわけでもない。会社くらい、一人で管理できる」「もう、お父さんったら」由奈は笑いながら隣へ腰を移し、腕を絡めた。「縁起でもないこと言わないで。お父さんには百歳まで元気でいてもらわなきゃ」「百歳までは欲張りすぎだ」秀明は苦笑して手を振る。「天寿をまっとうできれば、それで十分さ」そう言って娘を見つめる。「どうだ?智宏と一緒なら君も安心だろう」由奈はくすりと笑った。「そこまで言われたら、もちろんお父さんの言うとおりにしますよ」……ほどなくして、智宏のもとへ秀明から電話が入った。父の提案を聞いた智宏は二つ返事で了承し、その場で三か月の長期休暇を手配してしまう。その話を聞いた駿介は、手にしていた書類を机へ落とした。「坊ちゃん、三か月も休むなんて、本気ですか?会社の仕事、私一人じゃ絶対回りませんよ……」智宏は椅子に掛けてあったジャケットを手に取り、ゆったりと袖を通す。「会社には父がいる。そんなに慌てるな。判断に迷う案件があれば、父に決裁をもらえばいい。たった三か月だ、すぐ帰ってくる」駿介は書類を拾い上げながら、不満そうに口を尖らせる。「昔の坊ちゃんは、こんなこと絶対言わなかったのに」「昔の僕?」「仕事しか見えてなかったじゃないですか」ぼやいたあと、慌てて付け加える。「嘘じゃないですよ!会社には皆勤記録だって残ってるんですから!」智宏は彼の前まで歩み寄ると、肩をぽんと叩いた。「仕事も
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第748話

「もういい、この件は水に流そう。それにこうして謝罪をしに来てくれたんだ、その誠意は認める。責め立てるつもりもない」そう言って、秀明はため息をついた。その時、使用人がお茶を運んできた。秀明は湯呑みを手に取ると、話を続ける。「だが、君は一歩遅かった。由奈はついさっきM国へ向かったよ」その言葉に、祐一の身体がわずかに強張る。静かに湯飲みを手に取りながら言った。「実は今日、もう一つ伺いたいことがあります」「何だ?」祐一は言葉を選び、やがて真っ直ぐ秀明を見据えた。「由奈は……妊娠しているんですか?」秀明は口に含んだ茶を危うく吹き出しかけ、何度か咳き込んだ。すぐに祐一がティッシュを差し出す。――ずいぶん気が利くじゃないか。そう思いながら秀明は湯飲みを置き、こぼれた茶を拭きながら、姿勢を正して座る祐一を見た。その目には隠しきれない期待が宿っている。さすがに、これ以上ごまかす気にはなれなかった。「君も案外鋭いな」その一言で、祐一の胸の内を激流が駆け抜ける。――由奈は本当に、妊娠していたんだ。湯飲みを握る手に自然と力がこもる。「……いつ分かったんですか?」「君を捜して海都市へ行った時だ。あの時、偶然妊娠が分かった」秀明は鼻を鳴らした。「由奈が妊娠のことを隠していなかったら、赤ちゃんを無事に守れたかどうかも分からなかったぞ」祐一は何も言えなかった。気づいてやれなかった自分が情けない。もっと早く察していれば――そんな後悔が胸を締めつける。それでも同時に、安堵も込み上げていた。自分のせいで、由奈も子どもも巻き込まずに済んだのだ。……運転手が車の前で待機していた。屋敷から出てきた祐一を見ると、すぐに後部座席のドアを開ける。「奥様はご一緒ではなかったのですか?」祐一は車に乗り込み、小さく息を吐いた。「……俺たちが一歩遅かった」「では、この後は?」祐一は窓の外へ目を向けたまま答える。「アリオンホテルへ向かってくれ」……由奈と智宏がM国のタラハシー空港へ到着したのは、現地時間の午後一時だった。空港を出るとタクシーに乗り、市内で予約していたホテルへ向かう。部屋へ入った瞬間、由奈はそのままベッドへ倒れ込み、大きく伸びをした。「あーっ、やっとゆっくり横になれる!」その時、ドアがノックされた。
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第749話

レストランのスタッフが料理を運んできても、由奈はまだ賃貸サイトで大家と内見の日程を調整していた。ほどなくして返事が届く。明日の午前中に内見して、気に入ればその場で契約可能。家賃は円に換算すると、月30万ほど。由奈はスマホを智宏へ差し出した。智宏は画面の内容に目を通すと、わずかに眉をひそめた。「こんなにあっさり契約を勧めてくるなんて、何か問題のある物件じゃないだろうね?」由奈は一瞬きょとんとしたが、スマホをしまい、フォークでパスタを絡めながら答えた。「そんなことはないと思いますけど……」「別のところを探したほうがいいんじゃないか?」「でも、この間取り、本当に気に入ってるんです」少し考え込んでから、由奈は顔を上げた。「とりあえず明日見に行きましょう。本当に何か問題がありそうなら、そのとき別の物件を探せばいいし」「わかった、そうしよう」……その頃、祐一は悠也とともにサーキットでレースを観戦していた。だがレースが始まってから終わるまで、祐一はどこか上の空で、観戦というより悠也に付き合っているだけだった。「昨日からずっとそんな調子だな」アイスコーヒーを片手に、ストローをくわえながら、悠也が苦笑する。「奥さんに会いたいなら、さっさと飛行機に乗ってM国まで追いかければいいじゃないか」祐一と由奈のことは、もう今さら口を挟む気もない。由奈が妊娠を隠したまま海外へ行ったことに祐一が傷ついているのは理解できる。だが、以前の祐一なら、とっくにM国へ飛んでいただろう。こんなふうに、一人で悩み続ける男ではなかった。「行きたくないわけじゃない」「じゃあ、何が引っかかってるんだ?」祐一は手の中のチケットを指先でいじる。「母の体調がまだ回復してない。滝沢家の事情は、君も知ってるだろ」悠也は「そうだね」と息をつく。「今の滝沢家は、お前が支えなきゃ回らない。お父さんは職務を離れてるし、経営に関してはお母さんほどじゃない。お前が家を空けるわけにはいかないよな。影山家とお前の叔父さんが手を組んで、滝沢家をあと一歩のところまで追い詰めたんだから」以前なら、和恵が健在で、千代も滝沢グループの経営を熟知していた。だから祐一が姿を消していた半年間、真由美が会社の経営に手を出していただろうと、余裕を持って対応できていた。「そういえ
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第750話

「と……とにかく、由奈を、連れ戻してちょうだい!」千代はまだ言葉こそたどたどしかったが、以前に比べればはるかに話せるようになっていた。祐一はふと目を上げ、母を見つめる。その瞳に宿る焦りは、演技ではない。あまりの変化に、彼自身も驚きを隠せなかった。「前は由奈のことをあまり快く思っていなかったのに。今はそんなに会いたいんですか?」冗談めかして尋ねると、千代は言葉に詰まり、やがて静かに目を伏せた。「あんたには……分からないわ。意識がない間、夢を見たの。その夢の中で、小さな子が『僕のお母さんは池上由奈』って言ったのよ。あれはきっと、私の孫だったの」その言葉に、祐一は息をのむ。「千代、それは夢だよ」将平が優しく諭すように言った。千代の表情には、拭いきれない寂しさが浮かぶ。まるで、あの夢を現実として受け入れてしまっているかのようだった。「でも……あの子が……」千代の目に涙が滲む。夢の中の子どもの顔はもう思い出せない。それでも、その存在だけは確かに心に刻まれていた。――あの子がいなければ、自分は目を覚ませなかった。そんな気さえしていた。将平はそっと妻の肩を抱き寄せる。夢と現実の隔たりに胸を痛める千代を見つめながら、祐一は意を決して口を開いた。「……由奈は、本当に妊娠しています」その一言に、夫婦はそろって目を見開いた。「ほ、本当なの……?」千代は涙ぐみながら問い返す。祐一は小さくうなずいた。千代は口元を押さえ、声を上げて泣き出さないよう必死にこらえる。胸の奥から込み上げる喜びは、自分でも言葉にできないほど大きかった。「祐一、本当なのか?由奈が妊娠しているって?」将平も信じられない様子で尋ねる。「俺も知ったのはつい最近です。それで確認するために栄東市まで行ってきました。秀明さんなら、嘘をつく理由もないので」将平は納得したようにうなずいた。「それもそうだな。でも、由奈は今、海外にいるんだろう?」「はい、研究のためです」祐一は落ち着いた口調で続ける。「彼女の恩師、白石恭介さんがアンデル教授からの招待状を彼女に譲ってくれました。智宏さんも一緒に行っていますから、心配はいりません」夫婦はそれ以上、何も聞かなかった。……翌朝。由奈と智宏は約束の時間どおり、ニュータウンに位置する一
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