All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 751 - Chapter 760

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第751話

「もしご満足いただけるようでしたら、契約当日にでも部屋を空けます。いつでも入居していただいて構いません」そう言う大家の女性は笑みを浮かべていたが、その表情にはどこか切迫した色もにじんでいた。由奈にも、本気でこの家を貸したがっていることが伝わってくる。ただ――「一つ気になることがあるんです。借金があるとおっしゃっていましたよね。この家を私たちに貸したら、ご自身はどちらに住まわれるんですか?」資金繰りが苦しい状況なら、なおさら住む場所の確保を考えるはずだ。家を貸し出す以上、本人にも新しい住まいが必要になる。後々のトラブルを避けるためにも、そのあたりは最初にはっきりさせておきたかった。「あ、その点なら大丈夫です。私は学生寮に移る予定なんです。寮なら家賃はかかりませんし。それに、お二人も長期で住まれるわけではないですよね?その間に借金を返済できれば十分なので」女性は少し照れくさそうに笑い、それから真剣な表情で続けた。「安心してください。あとから理由をつけて敷金を差し引いたりなんて絶対にしません。同じ海外で暮らす者同士、言ってみれば同郷みたいなものですから」話しぶりは筋が通っていて、隠し立てもない。由奈の気持ちはかなり傾いていた。この広さなら、家賃としても決して高くはない。由奈は智宏を振り返った。「お兄さんはどう思います?」しかし智宏は返事をしない。不思議に思った由奈が、彼の視線をたどってさりげなく女性を見ると、女性もまた事情がわからない様子で二人を見比べていた。「……?」「私、この家に決めたいな」由奈は少し声を張ってそう言い、一歩下がって智宏の隣へ移ると、意味ありげな笑みを浮かべた。「お兄さんは反対しませんよね?」「いや、反対だ」智宏はゆっくりと口を開いた。女性を見つめていた視線を由奈へ戻し、落ち着いた口調で続ける。「短期契約とはいえ、この方には債務がある。差し押さえではないと言われても、この家に抵当権が設定されていない保証はない。少なくとも信用情報や所有状況を確認できる資料は見せてもらわないと」由奈は言葉を失った。――てっきり、別のことを気にしているのかと思ったのに。だが智宏の指摘はもっともだった。家が抵当に入っていて、あとから債権者が現れでもしたら、とんだ巻き添えになってしまう。女性も二人が
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第752話

契約を交わしたあと、二人は心愛の家を後にし、タクシーでホテルへ向かった。車の中で、由奈は隣の智宏を興味深そうに見つめる。「お兄さん、てっきり最後まで反対するのかと思ってました。なのに、あんなにあっさり考えを変えるなんて。もしかして、大家さんが美人だったから?」智宏は眉をひそめたが、本気で怒る様子はない。「バカなこと言わないで」「じゃあ、どうして気が変わったんですか?」腕を組んだまま、彼は淡々と答えた。「由奈が妊娠していると気づいて、塗装のことを素直に教えてくれた。ああいう気遣いができる人間なら、少なくとも悪質な大家じゃないだろう」確かにそうだった。普通の大家なら、妊婦かどうかまで気に留めたりはしない。たとえ気づいても、部屋の不都合を隠したまま契約を急ぐ人だっている。所詮は貸し借りの関係でしかなく、部屋が借り手にとって安全かどうかより、貸せるかどうかを優先するものだ。由奈は意味ありげに笑った。「これで私の人を見る目も信じてくれたでしょ?でも、あの古澤さんって、本当にきれいでしたよね。美人なだけじゃなくて優しいし、しかも芸術家。彼氏いるのかな」「それだけの容姿なら、彼氏に困ることはまずないだろう」そう言う智宏を、由奈はじっと見つめた。彼は怪訝そうに眉を上げる。「何だ?」「人のこと言えないじゃない。お兄さんだって十分かっこいいのに、彼女いないでしょ?」そう言って顔を背け、小さく鼻を鳴らした。智宏は襟元を少し緩める。「理想が高いからね。妥協するつもりはない」「まあ、それもそうですね」由奈はわざとらしく頷き、それから思いついたように続けた。「でも古澤さん、今まで会った美人の中でも飛び抜けてましたよね。本当に『絶世の美女』って言葉がぴったり。茜さんに紹介したら、芸能界に入れてもらえるんじゃないですか?」智宏は静かに首を振る。「芸能界は、そんなに甘い世界じゃないよ」「じゃあ、私がデビューするのは?」「……」智宏はこめかみを押さえ、すぐには答えなかった。由奈を見つめる眼差しには、呆れと、それ以上に隠しきれない反対の色が浮かんでいる。数秒の沈黙のあと、ようやく口を開いた。「どうして由奈までそんなことを考えるんだ?中道家のお嬢様として楽に暮らせばいいのに。わざわざ芸能界なんて厄介な世界に飛び込む必要
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第753話

祐一は朝の会議を終えたばかりだった。廊下を歩いていると、スマホの画面にビデオ通話の着信が表示される。相手は――言うまでもなく、由奈だった。祐一は足を止め、窓際まで歩いてから通話に出る。ただし、カメラは街並みへ向けたまま。何も言わない。画面の向こうで由奈が目を丸くした。「祐一……まさか飛び降りようとしてるんじゃないでしょうね?」祐一はカメラを自分へ切り替え、わざと神妙な顔を作る。「中道家のお嬢様ともあろうお方が、俺のことなんて気にしてくれるのか?俺がここから飛び降りても、君は悲しまないだろう」「あら、怒ってるの?」画面越しに、頬の筋肉がピンと張る彼の顔を見つめると、由奈は思わず目を細めて笑った。指先で画面を軽くつつく。「まあ、妊娠を黙ってたのは私が悪かった。でも、そっちだって話も聞かずに離婚を切り出して、『後悔はしない』なんて言ったじゃない」「それは君を――」「巻き込みたくなかったから、でしょ?でもトラブルがあって、祐一が追い詰められてたのに、何も話してくれなかったし、全部一人で抱え込んで、私を突き放した。傷ついたのはこっちなのに、逆に気持ちをわかってほしいっていうの?」言葉を重ねるうちに、だんだん腹が立ってきたのか、由奈は身を起こした。「祐一。あなたは私の気持ちなんてまったく考えてくれなかった。だったら、どうして私ばかりあなたの気持ちを考えなきゃいけないの?少しくらい私の辛さも味わえてみなさいよ!」祐一の表情がふっと和らぐ。「……悪い。俺の配慮が足りなかった。君には少しでも気楽でいてほしかった。何も心配せずに済むように、全部俺が背負えばいい――そう思ってた」「祐一。私は、あなたに対等な存在として見てほしいの。私は、あなたに守られて何も知らずにいる籠の鳥じゃない。周りが私のことをどう見ようと、そんなことはどうでもいい。ただ、あなたが私をどう見ているのか、それだけが大事なの」画面の向こうは、しばらく沈黙に包まれた。やがて祐一が喉を鳴らし、声をいつもより柔らかくする。「……分かった。ちゃんと直す。これからも俺に至らないところがあれば、遠慮なく言ってほしい」急に真剣になった祐一に、由奈は吹き出した。「さすが滝沢社長、飲み込みが早いね」ビデオ通話を切るとすぐ、由奈のスマホに葉子からメッセージが届いた。
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第754話

地下鉄に乗れば、心愛が通う大学まで行ける。そんなこともあって、何度か食事を重ねるうちに、由奈と心愛はすっかり意気投合していた。そして、彼女のことも少しずつ分かってきた。心愛は江川市の出身で、祖父と父は江川大学の教員。母は弁護士だったが、後に仕事を辞めて家庭に入った。経済的に余裕があるわけではないが、温かな家庭で育ち、両親からも深く愛されてきた。芸術を学びたいと言った彼女の夢を、両親は応援し、留学まで後押ししてくれた。その恩に報いるため、心愛も家に負担をかけまいと、留学中の生活費はアルバイトで賄っているという。そんな彼女の姿に、由奈はかつての自分を重ねていた。だからこそ話も尽きず、不思議なくらい気が合った。もっと早く出会えていたら――そんな思いさえ抱くほどだった。……智宏はリビングのソファでノートパソコンを開き、駿介とビデオ通話をしていた。会社の近況について話し終えた頃、ちょうど由奈が外から帰ってくる。智宏はパソコンを閉じ、彼女へ視線を向けた。「最近は毎日のように外で遊び歩いてるね」「遊び歩いてるって……古澤さんとご飯を食べてただけですよ」バッグを置いた由奈は、そのまま彼の隣へ腰を下ろした。智宏は腕を組み、眉をひそめる。「海外でも付き合ってくれる相手ができたらしいな。もう兄貴なんて必要ないってことか」「それとこれとは別でしょ」由奈は笑って肩を寄せた。「お兄さんはお兄さん。古澤さんは海外で初めてできた友達なんです」「知り合ったばかりなのに、もう友達か」由奈は頷く。「もっと早く出会ってたらよかったのにって思うくらいですよ」そう言って頷くと、急に真面目な顔になる。「古澤さんって江川市の人なんだって。お父さんは江川大学の先生でね。私も昔は江川市にいたのに、全然知らなかった。なんか残念」智宏は椅子の背にもたれたまま、表情を変えずに問い返す。「それで?」「それだけですよ。同じ街にいたのに、すれ違ってたって思っただけ」由奈は立ち上がるとキッチンへ向かい、冷蔵庫を漁りながら続けた。「それにしても古澤さん、本当に大変ですね。一人で留学して、アルバイトしながら学費を稼いでさ。今は作品もなかなか売れないみたいだし、きっと苦労してますよね」智宏は片手で額を押さえ、何も答えず窓の外へ目を向けていた。……
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第755話

エミーの言葉を、心愛は気にも留めない様子で受け流した。「大丈夫、お金のことは何とかするから。それ以外はまた考えるよ」エミーは肩をすくめる。「好きにすれば?本当わかんないよね。自分の家を貸してまで私たちと狭い寮暮らしなんてさ。もっと楽に生きればいいのに。知らない人が見たら、変にプライドが高いって思うよ」そう言い残すと、ヘッドホンをつけ直し、再びゲームに没頭した。心愛は筆を止め、描きかけのキャンバスをぼんやりと見つめる。理解されないことには、もう慣れている。それでも、ああいう言葉を向けられるたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。美人なら、顔だけで食べていける。世間はそう言う。けれど、ごく普通の家庭で育った彼女は、結局のところ「飾り物」としか見られない。飾り物なら、美しくあることだけを求められる。夢を語ることさえ許されないのだ。ふと我に返ると、筆先についたコバルトブルーの絵の具が紙の上でじわりと滲み、小さな青い染みを広げていた。その瞬間、心はすっかり乱れ、創作意欲もどこかへ消えてしまった。……由奈が研究所のチームに加わってから数日が経った。彼女はアルツハイマー病における神経原線維の研究へ、ひたすら没頭していた。昼間は実験室にこもり、過去十年分の症例報告と研究データを片っ端から読み込み、先行研究で解明されていない論理の空白をいくつも洗い出していく。「池上さん、お疲れ様です」ミシェルが追加の資料を抱えてやって来た。「これも役に立つと思いますよ」由奈はページをめくり、顔を上げて微笑む。「ありがとうございます」「どういたしまして。実は私も仲間も、あなたの研究にはすごく興味があるんです。神経の損傷は最も回復が難しいと言われているでしょう?だから研究所でも、このテーマに時間を割こうとする人はほとんどいないんです。あなたが挑もうとしていると知って、本当に驚きました。でも、だからこそ力になりたいって思いました」その言葉にお世辞はなかった。純粋な本心だと、由奈にも伝わってくる。実際、資料を読み進めるほど、アルツハイマー関連の研究がどれほど膨大な時間と労力を要するかを思い知らされる。専門の研究者を除けば、この分野へ取り組む者は研究所内でもごく少数だった。「ぜひ。一緒にやってくれるなら大歓迎ですよ」由奈一人では限界
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第756話

「いや。妹は彼女と親しいみたいだから、素性を確かめる必要があっただけだ」そう説明し、長髪の男、東山律(ひがしやま りつ)のからかいをあっさり否定した。とはいえ、その視線は人混みの中の彼女を追い続けている。「妹さんだってもう大人なんだろ?そこまで心配することか?」智宏は視線を戻し、淡々と問い返した。「心配して悪いのか?」律は肩をすくめて笑う。「やれやれ。筋金入りのシスコン相手じゃ話にならないな」そう言って撮影中の心愛へ目を向ける。「彼女の家庭のことまでは詳しくない。でも、あれだけ目立つ子だから、何かと噂は絶えないんだ。松本淳平って知ってるか?」「知らない」智宏は眉一つ動かさず答えた。「まあ、随分昔からこっちに移住してきたから無理もないか。でも松本勲なら知ってるだろ?高校の頃、お前にボコボコにされて、そのまま海外へ転校したやつ」――松本勲(まつもと いさお)。その名を聞いて、智宏はようやくぼんやりと思い出した。「松本淳平とはどんな関係だ?」「実の兄弟だよ」律は智宏の肩に腕を回し、にやりと笑う。「驚いただろ?世間って広いようで狭いんだよ。お前がここにいるって教えてくれなきゃ、俺もわざわざガリル州から飛んで来て、大学のツテを使って古澤さんのことを調べたりしなかったし、松本勲の弟がオーランにいるなんて知ることもなかった」智宏は返事をしない。勲のことなど、とっくに忘れていた。だから、その弟にも興味はなかった。律は構わず続ける。「兄貴があの性格だから、弟も似たようなもんさ。こっちの界隈じゃ評判最悪の典型的な御曹司だ。古澤さんを2年も口説いて、プレゼントも散々贈ったらしいけど、結局は振り向いてもらえなかったとか」言いながら、律は横目で智宏の表情をうかがう。「周りには『高嶺の花』、『気位が高い』なんて言われてる。要するに落とせない女ってことだ。淳平も面子が潰れたもんだから、『心愛に手を出すやつは俺を敵に回すことになる』なんて吹聴して、どうしても諦めないらしい」律は肩をすくめた。「まあ、あれだけ綺麗なら無理もない。俺も独身だったら、口説いてたかもしれ――」「その話、奥さんにそのまま伝えておく」「おい、お前――!」律が言い返そうとした、その瞬間だった。智宏は突然、人混みへ向かって駆け出した。次の瞬
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第757話

「……」律が腹を抱えて笑い転げるのを見て、心愛は恥ずかしさのあまり、その場に穴があったら飛び込みたい気分になった。兄妹なのに、苗字が違うなんて!由奈からは一言も聞いていなかったのに……!智宏は肩にしがみついて笑い続ける律の腕を払いのけ、呆れ顔で言った。「いい加減にしてくれ」「あ……コホン」律は必死に笑いをこらえながら口を開く。「ごめん、古澤さん。あなたを笑ったわけじゃないんだ。ちょっと面白いことを思い出しただけで。二人はゆっくり話してて。俺、ちょっと外の空気を吸ってくるから」そう言い残して、その場を離れていった。心愛は何を話せばいいのかわからなかった。友人の兄の苗字を間違えるなんて、これ以上ない失態だ。そのとき、さっきの事故で怪我人がでなかったことを確認し、スタッフが撮影再開の知らせを告げにやってきた。「古澤さん、準備をお願いします!」「はい、今行きます」返事をすると、心愛は智宏へ向き直った。「あの……中道さん。さっきは助けてくださって、本当にありがとうございました。それでは、撮影に戻ります」返事を聞く間もなく、彼女は足早に照明の下へ戻っていく。気持ちを切り替えると、再びモデルとしての表情を作り、撮影へと集中した。……由奈が夕食を食べ終えて間もなく、智宏が帰宅した。何気なく窓の外を見ると、ちょうど智宏が車から降りるところだった。運転席の窓が開き、長髪の男性が何か話しかける。二人はずいぶん親しげに言葉を交わしている。智宏が家に入ってくると、由奈は何事もなかったようにソファへ座り直し、タブレットを操作しながら声をかけた。「おかえりなさい。晩ご飯は冷蔵庫に取ってありますよ」智宏は小さく笑う。「ちゃんと残してくれてたのか、ありがとう。でも、もう食べてきた」「さっきの人と?」由奈はタブレットを置き、身を乗り出した。「お兄さん、海外にも友達がいたんですね。そんな話、一度も聞いたことがなかったけど」兄も自分と同じように、海外では知り合いがいない可哀想な人だと思っていたのに。「彼は東山律。同級生だ。今度紹介するよ」智宏はキッチンへ向かい、グラスに水を注ぐ。その視線が、ダイニングテーブルに飾られた彩色された陶器の人形花瓶で止まった。「こんな置物、前からあったか?」由奈は両手を後ろで
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第758話

会議を終えた祐一は、そのまま執務室へ戻った。ちょうどその頃、由奈から返信が届く。【えっ、うそ……じゃあ私が送ったメッセージ、みんなに見られちゃったの?】祐一は画面を見て、つい意地悪したくなった。【まあ、そんなところ】【……】由奈はベッドに大の字になって倒れ込み、会議室の光景を想像した。――お願いだから、兄の耳にだけは入らないで……!……窓の外には夜の帳が下り、辺りはひっそりと静まり返っている。ときおり鳥の鳴き声だけが夜気を揺らした。由奈は窓を開け放つ。冷たい夜風が部屋へ流れ込み、火照った頬を優しく撫でた。満天の星を見上げていると、不意に思う。――今、祐一がそばにいてくれたら。その瞬間、スマホが震えた。画面には、祐一からのビデオ通話。……タイミングが良すぎる。由奈は気持ちを整えてから通話に出た。画面の向こうでは、祐一が執務室にいた。片手でスマホを持ち、空いた手では書類に次々とサインをしている。「忙しいなら、ビデオ通話しなくてもいいよ」「いや、忙しくない。ちょうど一区切りついたところだ」最後の書類にサインを終えると、それを麗子へ渡し、椅子をくるりと回して真正面から由奈を見つめた。「そっちはもう遅い時間だろ。まだ寝てなかったのか?」「眠れなくて」祐一の眉がぴくりと寄る。「どうした?具合でも悪いのか?」今の彼にとって、一番気になるのは彼女の健康だった。「うん」その一言で、祐一の表情が一気に険しくなる。「病院には行ったのか?智宏さんは?」由奈は小さく首を振った。「体の具合じゃないの」――少し、あなたに会いたかっただけ。そこまで出かかった言葉を、そっと飲み込む。指先が無意識にスマホの縁をなぞり、耳までじんわり熱くなっていく。そんな彼女を見て、祐一の張り詰めていた表情が少しずつ和らいだ。目元には優しい笑みが浮かび、声も自然と低く柔らかくなる。「体じゃないなら、どこがつらいんだ?」「教えない」由奈は照れ隠しに顔を背けた。祐一はくすりと笑う。「じゃあ、赤ちゃんだけでも見せてもらえる?」由奈は一瞬きょとんとしたあと、スマホを下へ向け、少しだけ膨らみ始めたお腹を映した。優しく撫でながら言う。「男の子か女の子かも、まだ分からないけど」祐一は
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第759話

由奈は口元を紙ナプキンで拭くと、バッグを手に店を出た。心愛は近くで彼女を待っていた。何の変哲もない建物の隣に立っているだけなのに、不思議と人目を引く。たくさん通り過ぎる人々の中でも、ひときわ目を奪われる存在だった。由奈は横断歩道を渡りながら、大きく手を振る。心愛もスマホをしまい、彼女のもとへ歩み寄った。「この前はせっかく誘ってくれたのに、撮影の仕事で行けなくて、ごめんなさい」「気にしないで。仕事が一番大事ですから」並んで歩きながら、由奈が尋ねる。「今日はアトリエの面接に行くんでしょ?」心愛は小さくうなずいた。今日で、もう6社目だ。今までの面接は全部落ちている。どこか気落ちしている様子を見て、由奈は励ますように言う。「大丈夫。社会に出たばかりなんだから、みんなこんなものです。独立するとしても、最初から何もかも順調なんてことはありません」「……そうですよね。たぶん私、焦りすぎてるかもしれません」そうやって、自分に言い聞かせるしかなかった。由奈は心愛に付き添い、2社の面接を回った。だが結果は振るわない。実務経験が必要だと言われるか、あるいは高額で作品を販売、契約した実績のあるアーティストを優先すると断られるか、そのどちらかだった。面接を終えた心愛は、広場の花壇の縁に腰を下ろした。しばらくして、由奈がソフトクリームを2つ買って戻ってくる。「はい」差し出された一本を受け取り、心愛は微笑んだ。「ありがとうございます」それから申し訳なさそうに付け加える。「池上さんは妊婦さんなのに、付き合わせちゃって……疲れさせちゃいましたよね」「平気ですよ。今くらいならまだ楽だから」由奈はソフトクリームをひと口なめ、冗談めかして笑う。「あと2、3ヶ月もして、お腹がもっと大きくなったら、本当に歩けなくなりそうですけどね」心愛は視線を落とした。面接に落ち続け、自信はすっかり失われていた。「……私、いっそ違う仕事にした方がいいのかな」由奈は彼女を見つめる。「古澤さん自身は、そうしたいんですか?」その問いに、心愛は言葉を失った。すると、由奈は何かを思いついたように目を輝かせ、じっと彼女の顔を見つめた。心愛は首を傾げる。「どうしたんですか?」「ライブ配信って考えたことありますか?」「ライ
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第760話

「この『キラキラキング』ってアカウント、お前の妹さんだろ?IDのセンス、悪くないな」律はコメント欄を流し見しながら、由奈のアカウントを開いた。智宏は眉をひそめる。「こっちの正体、由奈にバレないようにするんだな」「向こうは俺のことなんて知らないって」「でもそのアカウント、僕のだけど」どこか呆れたような口調だった。律は横目で彼を見て肩をすくめる。「登録したての捨てアカだろ?何もないアカウントだから、正体なんてバレないよ」一方、心愛は画面を見つめ、小さく息をついた。すでに投げ銭は受け取っている。ここで断れば、ギフトはプラットフォーム側の手数料が差し引かれ、場合によっては自分で負担することになる。……仕方ない。「わかりました。どの作品を模写すればいいですか?」律は隣の智宏へ視線を向け、眉を上げた。「さて、何にする?」智宏は椅子の背にもたれ、しばらく考え込む。そして静かに口を開いた。「あの有名な抽象絵画、『蓮』で」律はそのままコメント欄へ打ち込む。送信すると、不意に尋ねた。「本当に大丈夫か?世界的な名画だぞ。美大でもトップクラスの学生じゃないと、形だけ真似るのが精一杯だろ」智宏は雑誌をめくりながら、淡々と言った。「形だけでも十分だ。挑戦する勇気があるだけでも高く評価されるべき。似ているかどうかは問題じゃない。描き切れれば、それだけで話題になる」「なるほどな」律は苦笑する。「だから俺にこんな役をやらせたのか。宣伝係ってわけだ」言い終えた瞬間、何かに気づいたように意味ありげな笑みを浮かべた。「やっぱりそうだ。お前、あの子のこと気になってるだろ」智宏は否定も肯定もせず、ゆっくり立ち上がる。「コーヒー代、払っとけ」その背中を見送りながら、律は一人で納得したように頷いた。――これは図星だ。……配信開始早々、心愛は世界的な名画の模写という大胆な企画に挑戦した。その効果は絶大だった。一桁しかいなかったフォロワーは、数十人、数百人と増え、やがて数千人へ。そして作品が完成へ近づく頃には、フォロワーはついに1万人を突破した。約束どおり、依頼主は再び高額ギフトを贈った。しかもフォローした配信者は、心愛ただ一人だった。その夜、由奈はその出来事を智宏に話した。智宏
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