All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 761 - Chapter 770

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第761話

淳平が女子寮を訪ねたのは初めてではなかった。彼の姿が見えれば、誰もが「心愛に会いに来たのだ」とわかるほどだった。エミーは、そんな心愛に少なからず嫉妬していた。自分が必死に手を伸ばしても手に入らないものを、彼女は苦もなく手にしてしまう。そのくせ、誰にも媚びようとせず、いつも気高く、近寄りがたい。――だからこそ、癪に障る。周囲の迷惑も考え、心愛は仕方なく寮を出て、会いたくもない相手の前へ向かった。淳平は彼女の姿を見るなり、開口一番に問いただす。「ライブ配信を始めたって本当か?」心愛は表情ひとつ変えずに答えた。「そうだとしても、あなたには関係ないでしょ」「関係あるに決まってるだろ!」淳平の声が一段高くなる。「お前は俺が見込んだ女だ。金が必要なら俺に言えばいいだろ。なんでわざわざ配信なんかするんだ?配信者なんてネット乞食と同じだ。顔を売って金を稼ぐくらいなら、いっそ俺と付き合えばいいじゃないか」その場へエミーが割って入り、心愛の腕をそっと引き寄せながら、甘えた声で場を取りなした。「まあまあ、松本さん、そんなに怒らないでください。心愛にも心愛なりの考えがあるんですから」そう言ってから、わざとらしく心愛へ向き直る。「でも心愛、本当にお金に困ってるなら、家を貸し出す必要なんてなかったじゃない。松本さんに相談すれば済んだ話でしょう?」「……何?」淳平が鋭く心愛を見た。「家を人に貸したのか?」心愛は思わずエミーを見つめた。まさか彼女が、淳平に家のことを話すとは思ってもいなかった。彼女はエミーの腕を振りほどき、淳平を真っ直ぐ見据える。「松本さん。自分の手でお金を稼ぐことは、恥ずかしいことだなんて、私は思っていません。たとえネット乞食だと言われても、あなたと付き合うくらいなら、今の方がずっといいです」言い切ると、そのまま踵を返して寮へ戻っていった。人前で顔を潰された淳平の表情は、見るからに険しくなる。その様子を見たエミーは、すぐさま彼の隣へ寄り添い、甘えるような声で慰めた。心愛が去っていった方向をちらりと見やると、その目には一瞬だけ得意げな光が宿り、すぐに柔らかな声で淳平を慰め続けた。「松本さん、あまり気にしないでください。心愛は昔から意地っ張りなんです。まだあなたの気持ちに気づいていないだけです
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第762話

由奈はある人物の顔を思い出すと、すぐに友達申請を承認した。【こんにちは、キラキラキングさん】由奈はキーボードを打ちつつ、探りを入れる。【こんにちは。私のこと、知ってるんですか?】【いや。でも今日から知り合いなんでしょ?あなたのID、なかなかセンスありますよ】【それはどうも】やり取りを終えると、由奈はソファにもたれ、クッションを抱き寄せた。てっきり相手は、自分が誰なのか知ったうえで申請してきたのだと思っていた。でも、兄は自分のアカウントを知らないし、その友人も自分と親しくなるために追加してきたとも考えにくい。しかも相手のプロフィールを見れば、筋金入りのSNS好きだというのが一目でわかる。フォローしているのも女性配信者ばかりだ。兄はあんなに真面目で紳士的なのに、このところ毎日のように彼と出かけている。……変な影響を受けていなければいいけど。由奈はノートパソコンを閉じ、ようやく一息つこうとした。ところが今度は、メッセージアプリに友達申請の通知が届く。相手を見た瞬間、由奈は思わず固まった。申請してきたのは――祐一の母、千代だった。今日は友達申請デーか何か?少し迷った末、由奈は承認する。そういえば、滝沢家で何年も暮らしていたのに、千代とメッセージのやり取りをしたことは一度もなかった。用があれば電話か直接話せば済んでいたからだ。この間、千代が目を覚ましたことは祐一から聞いている。体調を気遣うメッセージでも送ろうかと考えているうちに、相手から先にメッセージが届いた。【由奈。祐一から聞いたわ。今は海外でお仕事をしているそうね。どう?仕事は順調?何か困っていることはない?】由奈は画面を見つめたまま、一分近く固まってしまった。相手は本当に千代?それとも、誰かが成り済ましているんじゃ……乾いた唇をそっと舐め、慎重に返信する。【はい、大丈夫です。元気にしています】【それなら安心したわ。海外ではくれぐれも体に気をつけてね。困ったことがあれば遠慮なく私に言ってちょうだい。もちろん祐一でもいいから】その優しい言葉は、由奈の知る、いつも厳しく近寄りがたい千代とはまるで別人だった。祐一から妊娠のことを聞いて、態度を変えたのだろうか。そう考えれば、あり得なくもない。由奈は【ありがとうございま
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第763話

「奥様に会いたいって……何を言ってるんですか?」麗子が冷ややかに言うと、卓巳は慌てて両手を振った。「ちょ、ちょっと待ってください!誤解しないでくださいよ。僕と奥様は兄妹みたいなものですから!」麗子は呆れたように彼を見たが、何か言う前に祐一が口を開いた。「土屋。月末のことは予定どおりで頼む」「承知しました」そう返事をしたあと、麗子はふと気づく。「……来月も、いらっしゃらないんですか?」祐一は窓の外へ視線を向け、スマホをしまう。「ああ。用事を全部片付けてから帰る」「かしこまりました」「じゃあ僕は?」卓巳が期待半分で身を乗り出す。祐一は静かに視線を戻した。「由奈に会いたいんだろう。君も一緒に連れて行く」「……」卓巳は思わず言葉を失った。……昼食後、由奈は少しだけ昼寝をしていた。だが突然、庭の外から大きな物音が響き、目を覚ます。まるで誰かがドアを壊そうとしているような激しい音だった。慌てて庭へ飛び出すと、見知らぬ男が3、4人、庭のドアを力任せに蹴り続けている。「何をしてるんですか!」由奈は現地の言葉で鋭く制止した。男たちは動きを止め、一斉にスポーツカーから降りてきた男へ視線を向ける。その男――淳平は片手を腰に当て、サングラスを外した。「あれ?お前、現地の人間じゃないんだ?」そう言われ、由奈は彼も自分と同郷であることを理解する。「不法侵入は犯罪ですよ」「犯罪?」淳平は隣の男たちと顔を見合わせて笑うと、由奈へ向き直った。「この国じゃ警察はそんなことでいちいち動かない。それに、この家はお前のものでもないだろ?不法侵入してるのはどっちだ?」由奈は思わず息をのんだ。どうして、この家が自分の持ち家ではないと知っているのだろうか?「無理にとは言わない。今日一日だけ猶予をやる。さっさと荷物をまとめて出て行け」「確かにここは私の家ではありません。でも、正式に賃貸契約を結んで、家賃も敷金も支払っています。これは大家さんと私の契約です。あなたに出て行けと言われる筋合いはありません」由奈は心愛が何か隠していたとは思っていない。だからこの騒ぎに、きっと何か裏がある。それに、賃貸契約をする前、心愛は、この家は自分のものだと言っていたし、不動産登記簿謄本も見せてくれた。差し押さえ物件で
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第764話

由奈が息をのむ間もなかった。智宏は淳平の反撃をひらりとかわすと、その勢いのまま肘打ちを叩き込み、さらに返す手で平手打ちを見舞う。淳平の体は大きくよろめき、そのまま律の足元まで転がった。律は「いやあ」と感心したように声を漏らし、しゃがみ込んで淳平を見下ろす。「こんにちは、松本さん。こんなところで会うなんて、奇遇だね」淳平は律のことを知っていた。大勢の前で一方的に叩きのめされたうえ、その場に顔見知りまでいる。面目は丸つぶれだった。その顔色は、みるみるうちに険しくなる。「東山、どういうつもりだ!」智宏を指差し、怒鳴る。「こいつ、お前の仲間か?俺が誰だか知ってて手ぇ出したのか!」律は肩をすくめた。「もちろん知ってるよ。あなたのお兄さんとも親しいし」「……どういう意味だ?」「言葉どおりの意味だよ」律は淳平の横を通り過ぎて智宏の隣へ歩み寄ると、荒らし回っていた男たちへ視線を向け、それから再び淳平へ顔を向けた。「もし今日、そこのお嬢さんに何かあったら――謝罪するのはあなただけじゃ済まない。お兄さん本人も土下座をしに来ることになるよ」律は穏やかな口調のまま続けた。「今の、冗談じゃないからね。帰ったらお兄さんに聞いてみるといい。なぜ彼女に手を出しちゃいけなかったのかを」淳平は歯ぎしりしながら智宏と律を交互に指差す。だが、それ以上は何も言わず、腫れた頬を押さえながら部下を連れて立ち去った。全員の姿が見えなくなると、智宏はすぐ由奈のそばへ駆け寄る。「見せて」手を取って確認すると、掌も膝も皮膚が擦りむけ、血までにじんでいた。その瞬間、胸が締めつけられるような痛みと同時に、表情が一段と険しくなる。……さっきは手加減しすぎた。肋骨を数本は折っておくべきだった。「大丈夫。擦り傷だけだから」由奈は、智宏が本気で怒っていることを感じ取っていた。こんな表情を見たのは初めてだ。普段は穏やかで紳士的なのに、一度手を出せば容赦がない。「さっきはお兄さん、本当に肝を冷やしたんだぞ」律も苦笑しながら口を挟む。「ああいう連中に遭ったら、まず電話しなきゃ。もし俺たちが帰ってきてなかったら、大変なことになってたでしょ?」由奈は申し訳なさそうに目を伏せた。「まさか家を狙ってるなんて思わなくて……警戒してなかったんです
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第765話

ライブ配信を終えた心愛が寮へ戻ると、エミーは鏡の前で上機嫌にネックレスを身につけていた。鏡越しに心愛が入ってきたのを見て、エミーが口を開く。「まだ怒ってるの?あのとき松本さんに、あなたが家を貸してることを話したのは、あなたのためを思ってのことなんだよ。そもそも家なんて貸さなくてもよかったじゃない。無理してまでお金を稼ぐ必要ないでしょ?」心愛は何も答えず、自分のデスクへ向かい、バッグを置く。エミーは振り返り、さらに言った。「松本さん、本当にあなたのことを大事に思ってるみたいだよ。今日だって、あなたの家まで行ったんだから」心愛はぴたりと動きを止めた。「……何ですって?」「松本さん、あなたのために借り主さんへ直接話をつけて、家を返してもらおうとしたの。違約金とかも、全部彼が負担してくれるから、あなたは何も心配しなくていいんだって」まるで、自分が面倒ごとを片づけてあげたと言わんばかりの口ぶりだった。心愛はふっと笑う。だが、その美しい顔には冷たい怒りが浮かんでいた。「あれは私の家だよ。あなたたちに口を出す権利なんてない」バッグを掴むと、そのまま足早に部屋を飛び出した。エミーは呆然とする。いつも穏やかな心愛が、知り合ってまもない相手のために自分を怒鳴るなんて。正気とは思えない。……心愛は急いで家へ向かった。庭へ入ると、2、3人の業者が壊されたドアを修理している最中だった。その光景を見た瞬間、事態の深刻さを悟る。――やっぱり、淳平がまともに話し合うはずなんてなかった。そう思うと、悔しさと淳平への怒りが一気に込み上げてくる。そのとき、家の中から智宏が出てきて、修理業者へ何か指示を出した。何気なくドアのほうへ目を向けると、駆け寄ってくる心愛の姿が目に映る。心愛が口を開こうとしたそのとき、由奈も家の中から姿を現した。「あれ、古澤さん?」心愛は由奈がぎこちなく歩いているのを見るなり、慌てて駆け寄った。「池上さん、もしかして怪我を?あの人、あなたにまで手を上げたんですか?本当最低!」最後の一言には、怒りがはっきりと滲んでいた。由奈は思わず目を丸くする。――美人でも、怒ると悪態をつくんだ。「あ、私なら大丈夫ですよ。ほら、このとおり元気だから」由奈は笑顔を浮かべ、両手を広げて体をみせた。
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第766話

淳平は帰宅すると、その日の夕食の席で父親に盛大に泣きついた。殴られて腫れ上がった頬まで見せつけながら、ぜひとも仇を取ってくれと騒ぎ立てる。「この顔を見てくださいよ!俺、あいつにボコボコにされたんです!運が良かったから助かったようなもので、もう少しで殺されるところでした!父さん、今回は絶対俺の味方をしてくれますよね?」淳平の父、松本義孝(まつもと よしたか)はワイングラスを乱暴にテーブルへ置いた。「お前、また何かやらかしたのか?俺と勲がどれだけ心配してると思ってる?ここは国内じゃなくてM国だ。いつか頭を撃ち抜かれても知らんぞ」淳平の性格など、義孝はよく知っている。どうせまた何かやらかして痛い目を見ただけなのだ。父が自分の気持ちに寄り添うどころか叱りつけたことで、淳平は露骨に不機嫌な顔になる。ナイフとフォークを放り出し、食事をする気も失せた。「別に何もやらかしてませんよ?俺、ケガしてるのに、開口一番が説教ですか?相手は俺のことを知っていて手を出したんですよ。それって父さんの顔に泥を塗ったも同然でしょう!」「わかったから、もういい」義孝は口元をナプキンで拭いながら、落ち着いた口調で言った。「相手の素性は俺が調べておく。それまでは余計な騒ぎを起こすな」そう言い残して席を立つ。執事が近づき、食器を片づけ始めた。淳平はまだ腫れの引かない頬を押さえ、目の奥にどす黒い憎悪を宿した。……翌日。律は改めて智宏と由奈の家を訪れた。庭の扉はすでに新しいものへ交換されており、それを見るなり苦笑する。「外の扉、結構な値段したんじゃない?借り主がお金を出して家の扉を直すなんて、初めて見たよ」智宏はちらりと視線を上げただけで、手元のタブレットを操作し続け、相手にしなかった。そのとき由奈がキッチンからフルーツを乗せたお皿を運んできた。律は遠慮なく桃を一切れつまみ、「ありがとう」と口へ放り込む。由奈が反応するより早く、智宏が淡々と言った。「食べたいなら僕が用意してあげる。妊婦のおやつまで横取りするな」律は思わず言葉を失う。改めて由奈を見ると、ゆったりしたスウェット姿で、お腹はほとんど目立たなかった。何か言おうとしたが、その前に由奈がソファへ腰を下ろし、笑って言う。「大丈夫ですよ。東山さんはお客様ですし」「や
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第767話

由奈は言葉に詰まり、慌てて智宏の腕をつかんだ。「違います!別に不満があるわけじゃなくて……」「じゃあ、なんだ?」「顔見知りで腕も立つ人に守ってもらえるのなら、そのほうが安心できるってこと。東山さんも言ってたでしょ?あの警備会社には、お金さえ積めば何でもするような危ない人もいるって。もし松本家が私たちより高い報酬を出したら、お金につられて寝返らないとも限らないし……」智宏は一瞬考え込んだが、何も言わない。由奈はさらに続けた。「知らない人を雇う以上、不安はどうしても残ります。私たちは身の安全を確保したいだけですし、相手の命まで狙ってるわけではありません。だから、そんな人たちに頼る必要はないと思うんです」智宏はしばらく彼女を見つめると、やがて諦めたように立ち上がった。「分かった。由奈の言うことに一理あるし、その通りにしよう」由奈は去っていく智宏の背中を見送り、嬉しそうに笑う。「ありがとう、お兄さん!お兄さんは世界一優しいです!」そう言ってソファ脇のタブレットを手に取り、今日は心愛が配信しているかどうか確認しようと画面を開く。しかしロックを解除すると、表示されたのは配信終了後のライブ画面だった。よく見ると、それは心愛の配信ルームだった。ログイン中のアカウントを確認しようとしたその瞬間、ひょい、とタブレットが手元から取り上げられた。智宏はどこか落ち着かない表情で言う。「悪い、株価のチェックはまだ途中だったんだ」そう言い終えるや否や、足早に二階へ上がっていった。その後ろ姿を見送りながら、由奈はくすっと笑う。――絶対心愛の配信を見てたのに、わざわざ隠すなんて。自分がこっそり心愛をフォローしていると知られるのが、少し照れくさいのだろう。……二日後。心愛はいつものように、自分の作品が展示されている美術展を訪れた。展示室の奥へ進むと、ガラスケースの中に飾られた自作――『光る森』が目に入る。「ママ、この絵ってどうして『光る森』っていうの?森って光るの?」幼い子どもに尋ねられた母親は、絵を見つめながら、その意味を考え込んでいた。心愛は微笑み、説明しようと口を開きかける。だが、その前に背後から穏やかな声が響いた。「森を照らす光は、蛍なんです。一匹の蛍が放つ光では森全体を照らすことはできませ
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第768話

心愛と智宏は展示室をひと回りして外へ出た。そのとき、智宏のスマホに一通のメッセージが届く。「お友達は?」心愛が辺りを見回しながら尋ねる。「用事ができて先に帰りました」智宏はスマホをしまい、彼女へ視線を向けた。「このあとはどちらへ?」「寮に戻ります」「送りましょう」心愛は思わず目を瞬かせた。断ろうと口を開くより早く、智宏は車へ歩み寄り、助手席のドアを開けた。「……じゃあ、お言葉に甘えます」心愛は微笑みながら頷き、助手席へ乗り込んだ。智宏が運転席に座ると、心愛は驚いたように尋ねる。「国際免許を持ってるんですか?」智宏と由奈は海外へ来たばかりだと聞いていた。免許は、そんな短期間で取れるものだろうか。智宏は穏やかに答えた。「以前、海外で暮らしていたことがあるので」「そうだったんですね」心愛は納得したように笑う。「私はてっきり、今回が初めての海外生活なのかと思っていました。池上さんから、お二人は栄東市の出身だって聞きましたけど、栄東市って楽しい街なんですか?」「悪くはありません」智宏は短く答える。もっとも、彼が思い浮かべていたのは街の経済発展ぶりだった。心愛は目を伏せ、流れる景色へ視線を移した。「私の実家は江川市なんです。両親も今もそこで暮らしています。池上さんが以前、江川市にしばらく住んでいたって聞いて驚きました。私はもう何年も帰っていないので、街がどう変わったのかも分からなくて」「帰りたいと思ったことは?」心愛は窓の外から視線を戻し、静かに頷く。「あります。でも、まだ夢を叶えられていません。両親は私に好きな芸術を学ばせるため、持てるものをすべて注ぎ込んで海外へ送り出してくれました。それなのに私は、望んでいたものを何一つ手にできていない。そんな状態で帰ったら、期待を裏切ってしまう気がして……」智宏は前方から目を離さず、最後まで黙って話を聞いていた。そして、穏やかに口を開く。「今やっている配信も、一つの道じゃありませんか」心愛は目を丸くする。「……見てくださったんですか?」「はい」思いがけない返事に、心愛は何と言えばいいのか分からず、照れ笑いを浮かべた。「でも、ライブ配信なんて……世間から見れば、ちゃんとした仕事とは思われていないでしょう」「あなた自身も、そう思っているんで
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第769話

淳平の姿を見た通行人たちから悲鳴が上がる。その声に心愛が振り返った。すると次の瞬間、視界に飛び込んできたのは、ゴルフクラブを手に持ち、自分へ向かって振り下ろす淳平だった。避ける間もなかった。ゴルフクラブが頭部を直撃し、激しい痛みが一気に広がる。目の前がぐらりと揺れ、心愛はそのまま地面へ崩れ落ちた。耳に届くのは、人々の悲鳴と騒然としたざわめき。薄れゆく意識の中、最後に見えたのは、逃げ去っていく淳平の背中だけだった。……義孝の秘書に案内され、智宏はレストランの個室へ足を踏み入れた。落ち着いた足取りで義孝の向かいに腰を下ろすと、背もたれに身を預け、静かに口を開く。「ここまで早く僕のことを調べ上げるとは……さすが松本さんですね」義孝は秘書へ退室を促すように視線を送り、人当たりのいい笑みを浮かべた。「中道さんのお噂は以前から伺っていました。こちらへ来られていると分かっていれば、もっと早くご挨拶に伺ったのですが」そう言って一拍置き、穏やかな口調のまま続ける。「先日は、うちの次男が大変失礼をいたしました。あの子は甘やかされて育ったものですから、少々向こう見ずなところがありまして……決して中道さんに敵意があったわけではありません。親である私から、お詫び申し上げます」義孝は軽く頭を下げた。「どうか、この件は私の顔に免じて、水に流していただけませんか」智宏は口元だけで笑う。「つまり、穏便に済ませたい、と」義孝も笑みを崩さない。「ええ。できれば、そのように」「僕も争いたいわけではありません」智宏は穏やかに応じた。「ただ……ご子息にも、その気はあるのでしょうか」義孝はコーヒーを一口飲み、静かにカップを置く。「息子には私からきちんと言い聞かせます。同じことは二度とさせません」智宏は小さく肩をすくめた。「もしあなたの言葉で止まる相手なら、今回の騒ぎは最初から起きていなかったのでは?」その一言で、義孝の笑みがわずかに薄れた。指先でカップの縁をなぞりながら、ゆっくりと口を開く。「中道さん。我々のような家は、互いに支え合ってこそ成り立つものです。どんなことにも、少しくらいは引く余地を残しておいた方が、後々のためになる」穏やかな声音のまま、その視線だけが鋭くなる。「あなたもお若い。ここで松本家と事を構えても、得るものは少ないの
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第770話

「え?松本さんが……?」由奈は目を見開いた。心愛は力なく笑い、自嘲するように口元を歪める。「私がついていなかっただけです。まさか、あの人が本当に手を出してくるなんて思いませんでした」「そんな……警察に通報しないと!」由奈が思わず声を上げる。だが心愛は静かに首を振った。「通報したところで、せいぜい数日拘束されるだけですし、すぐ家族が保釈するでしょう。あの人、こういうことは初めてじゃないんです。今までだって、彼に逆らった人は何人も怪我をさせられてきたけど、最後は少し慰謝料をもらって終わり。それで全部なかったことになるんです」由奈は言葉を失った。かつて自分も似たような理不尽を味わったからこそ、心愛の置かれた状況が痛いほど理解できる。――だからこそ、助けたい。「いいえ、このまま終わらせるわけにはいきません」由奈は心愛をまっすぐ見つめ、静かに言った。「今日は殴られただけで済みました。でも、次は命を狙われるかもしれない。あんな危険な人を放っておいたら、また誰かが被害に遭います」そう言ってから、何かを思いついたように首をかしげる。「松本さんって、こっちでもかなり恨みを買ってるんですよね?」心愛はうなずいた。「ええ。敵はたくさんいます。でも、それがどうかしましたか?」「だったら、私たちには好都合です」由奈の瞳に、いたずらっぽい光が宿る。「お金持ちだからって好き勝手できるのは、国内にいた頃の話でしょう?ここは海外です。本気で現地の人たちまで敵に回したら、その立場だって簡単には守れません」そう言って、智宏へ視線を向けた。「お兄さんはどう思います?」智宏が答える前に、心愛は小さく首を横に振る。「でも……あの人も、現地の人には手を出しません。横暴なのは留学生相手だけです。現地の人とは、むやみに揉めようとはしないみたいで……」「だったら、その暴行事件を、彼を一番恨んでいる人たちに知らせればいいんです」由奈は身を乗り出した。「要は、火に油を注ぐんですよ。できれば海外のSNSでも話題になるくらいに。2、3人じゃ太刀打ちできなくても、20人、30人と集まれば話は別です。誰かが最初の声を上げれば、流れは一気に変わります」智宏は腕を組み、口元に薄く笑みを浮かべた。「世論を味方につけて、彼を社会全体の標的にする……悪くないね」「
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