جميع فصول : الفصل -الفصل 800

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第791話

翌朝、心愛は部屋を出ると、リビングの様子をそっと覗き込んだ。智宏はダイニングテーブルの前でコーヒーを淹れている。ついでに朝食まで用意してくれているようだ。昨夜、あんなことを言ったのは智宏だったのに、なぜか一晩中眠れなかったのは彼女のほうだった。心愛は深く息を吸い、意を決してリビングへ出ていく。智宏は視線を上げ、椅子を引いて座る彼女をさりげなく見ると、焼きたての卵トーストとサラダを彼女の前へ置いた。「僕が作れるのはこれくらいです。よかったらどうぞ。明日には家政婦さんが来ます」「え、本当に家政婦さんを雇ったんですか?」それもそうだ。智宏たちの身分を考えれば、家政婦を一人雇うくらいのお金は持っているのだろう。「家政婦を雇うこと自体は二の次です。ただ、この家に他の誰かがいるだけで、あなたも楽に過ごせると思って」心愛は思わず固まった。彼は、自分が懸念していることに気づいたのだ。智宏が勘違いしないよう、慌てて説明する。「誤解しないでください。中道さんが紳士なのは分かっていますし、警戒しているわけでもないので……」説明すればするほど、なぜか妙な方向へ進んでいる気がした。これではまるで、彼と一つ屋根の下で暮らすことに抵抗がないと認めているようなものではないか。智宏はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら、指先でカップの縁に軽く触れた。そして顔を上げる。「僕は完璧な紳士というわけではありません」心愛の動きが止まった。智宏の喉仏がわずかに動く。彼は視線を逸らすと、ゆっくりとコーヒーカップを持ち上げた。「あなたも、あまり無防備になりすぎないほうがいいです。僕は一応、男ですから」心愛はぼんやりしたまま、卵トーストを手に取り、一口かじった。耳の先が、抑えきれず赤く染まる。彼を一人の男性として意識してしまったからこそ、一晩中あれこれ考えてしまったのだ。……昼頃、智宏が出かけたあと、心愛は由奈のもとを訪れた。由奈はジュースを心愛の前に置く。「昨日の夜は本当に心配したんですよ。何かあったのかと思いました」心愛はすぐには返事をしなかった。由奈は顔を上げると、彼女が明らかに寝不足で、どこか上の空になっていることに気づく。「元気がないですね、何かあったんですか?」「え?」心愛はそこでようやく我に返り、
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第792話

「ぷっ……!」心愛は口に含んだばかりのジュースを、思わず盛大に吹き出した。慌ててティッシュを取り出して拭き取り、体を強張らせながら由奈のほうを振り向く。「いきなり何を言うんですか?冗談はやめてくださいよ」「冗談じゃないですよ。本気です」「……お兄さんの気持ちは聞かなくていいんですか?」由奈は目を伏せ、唇を軽く噛んで微笑むと、姿勢を正して言った。「兄は、女の子に自分から近づくことなんてほとんどないんです。でも昨日、古澤さんがなかなか帰ってこなかったから、探しに出たんでしょ?それはつまり、古澤さんのことが気になるってことなんです」心愛はグラスを握る指にわずかに力を込めた。何か言おうとして口を開いたものの、結局言葉が出てこない。由奈は続けた。「今のはあくまで私からの提案です。古澤さんが兄を好きじゃなかったら、私がいくら勧めても意味がないですし。ただ、兄が古澤さんのことを大切に思ってるって伝えたかっただけ。たとえ古澤さんが兄とうまくいかなかったとしても、私たちはずっと友達ですから!」由奈がそんなことを言ったのは、心愛に余計なプレッシャーを感じてほしくなかったからだ。心愛は俯いたまま、胸の奥に小さな波紋が幾重にも広がっていくのを感じていた。……「え?もう古澤さんに告白したのか?」律は智宏を信じられないという顔で見つめた。智宏は普段、何があっても焦らない慎重な男だ。タイミングをじっくり見極めてから動くタイプなのに、まさか昨夜のうちに想いを伝えるとは思わなかった。智宏はゴルフクラブを振り、地面に置かれたボールを正確に打ち抜く。ボールはまっすぐ旗の立つホールへ吸い込まれていった。「僕たちの会話、彼女に聞かれたからな」「え?いつ?」律は目を丸くする。「昨日、古澤さんはいなかっただろ?」「一度、戻ってきていた」律はすぐに察した。手にしていたクラブを地面につきながら、納得したように頷く。「なるほど。だから気持ちを打ち明けたのか。彼女が誤解しないようにって」そう言ったあと、興味津々といった様子で身を乗り出す。「それで?彼女はなんて返事した?」智宏は手にしたゴルフクラブを淡々と拭きながら答えた。「返事を急かすつもりはない」律は期待していた分だけ、盛大に肩を落とす。「はいはい、急がないんだな。だったら、俺が
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第793話

友達申請を無視しようとした瞬間、律がすかさず彼の手を押さえる。「いいから追加しろって!」「断る」「これはお前のためなんだぞ!」智宏は眉をひそめた。「どういう意味だ?」律はすぐに冗談めいた表情を引っ込め、真剣な顔になる。「古澤さんの気持ちを確かめるためなんだよ!もし彼女がお前を追いかけてる女の子の存在を知って、嫉妬したら?それってつまり、あの子もお前のことが好きってことだろ?」「必要ない」智宏は彼の手を振り払った。「他人を利用して古澤さんの気持ちを探るのは、彼女に対して失礼だ。それに、相手の女性にも失礼だろ」智宏は友達追加申請をそのまま無視し、律を見据えた。「これ以上くだらないことをしたら、ブロックするからな」そう言い残すと、ゴルフバッグを手にしてそのままコートを後にした。「おい!待てよ!何をムキになってるんだ?」律はさっさと去っていく智宏の背中を見つめ、腰に手を当てながら額を押さえた。呆れて言葉すら出ない。智宏の性格は昔から分かっているが――いくらなんでも真面目すぎる。こんな調子で、いつになったら彼女ができるんだ?2日後。由奈は休みを取り、久しぶりに心愛のライブ配信を応援しに行こうと思い立った。だが、配信ページを開いてみると、心愛はもう何日も配信していないことに気づく。祐一は片手で頭を支えながら、画面越しに麗子から会社の細々とした報告を聞いていた。コーヒーを一口飲み、何気なく隣で自分と過ごしている由奈へ視線を向ける。その瞬間になってもなお、少し実感が湧かなかった。こんな穏やかで温かな日常こそ、彼がずっと望んできたものだった。「分かった。対応に困っているなら、俺が帰国してから引き継ぐ。今は焦らなくていい」祐一は再び画面へ視線を戻す。麗子は一瞬きょとんとしたものの、すぐに返事をした。「承知しました」やはり、妻と仲直りしただけで、心持ちがいい方へ変わるのだろう。祐一はノートパソコンを閉じると、腕を伸ばして隣に座る由奈へ身を寄せた。「何を見ているんだ?」「別に何も。え、祐一は仕事中じゃなかったの?」顔を上げた由奈は、すでにビデオ通話が終わっていることに気づく。「会議、もう終わった?」「うん」祐一は少しだけ座る位置をずらし、彼女のそばへ寄る。そして指先で由奈の髪先を軽く弄びながら言
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第794話

智宏は本を読みながら、淡々とした口調でそう言った。まるで「これを使う?」と日用品でも貸すかのような自然さだった。心愛は、驚いたように彼を見つめた。本当に好きな女性相手に、これほど冷静でいられるのだろうかと、考えずにはいられなかった。「すみません。少し先走ってしまいましたね」智宏は視線を落とし、本を閉じた。指先で表紙をなぞりながら、静かに続ける。「先に聞くべきでした。あなたの返事を」心愛は言葉に詰まった。落ち着かない視線が行き場を失い、膝の上をさまよう。「……今、返事を出さないといけないんですか?」「……僕は軽い気持ちで女性に近づくつもりはありません」智宏はまっすぐ彼女を見た。「あなたの返事次第で、肩を貸すことはできないかもしれません」心愛は目を見開いた。しばらく呆然と彼を見つめたあと、とうとう堪えきれずに吹き出し、慌てて顔を背ける。「池上さんが、あなたは今まで彼女がいなかったって言ってたけど……本当だったんですね」もし智宏が女性慣れした人間なら、こんなにも不器用なはずがない。智宏は薄い唇をわずかに引き結び、低く答えた。「……はい。彼女はいませんでした」心愛は髪を後ろへ払ってから、そっと彼の方へ顔を向けた。「じゃあ……昨日言ってたこと、本気なんですね?」探るような声音。指先は無意識に髪の先を弄んでいた。智宏は顔を上げる。静かな瞳が、美しい彼女の顔をまっすぐ捉えた。そこに迷いも、誤魔化しもない。「はい。恋愛に関して、冗談を言うつもりはありません」「そうですか……実は、私も――」その瞬間、飛行機が大きく揺れた。続けるはずだった言葉は途切れ、突然の浮遊感に心愛の顔から血の気が引く。恐怖に駆られた彼女は、反射的に智宏の手を掴んだ。智宏は彼女の震えに気づくと、ごく自然な動作でその手を握り返す。「大丈夫です、落ち着いてください」機内アナウンスが流れた。現在、強い気流に入り、このあともしばらく揺れが続くという。心愛は気づいていなかった。自分が今、智宏の手を強く握りしめていることに。ただ、一刻も早くこの揺れが収まってほしいと、それだけを願っていた。すると突然、智宏の手が彼女の後頭部へ回り、そっと引き寄せる。「……え?」心愛は驚いて固まった。「僕を見てください」彼の顔が近い。言葉を交わす
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第795話

フォートデールで過ごした数日間、4人はそれぞれ楽しい時間を満喫していた。ある時はプライベートビーチでダイビングや日光浴を楽しみ、またある時はオアシス公園でカヤックに乗り、手付かずの自然が残る景色を堪能した。その後も美術館を巡ったり、オーラス大通り沿いのギャラリーを訪れたり、個性的なテーマレストランを食べ歩いたりと、充実した日々を過ごした。何日も遊び続けたあと、ようやく心身ともにゆっくり休める時間が訪れた。朝、由奈と祐一が部屋を出ると、オーブンから漂ってくる香ばしい甘い香りに気づき、キッチンへ向かった。大理石のテーブルに調理器具や材料などが並べられていた。心愛は手袋をはめ、オーブンから焼きたての黄金色のエッグタルトを取り出しているところだった。「すごくいい匂いですね!」由奈は嬉しそうにテーブルへ駆け寄った。「古澤さんはエッグタルトまで作れるんですか?」「ええ、まあ。暇だったから、ネットで作り方を調べて、パイ生地のエッグタルトを作ってみたんです。でも……失敗してないかな?あまり上手くできてない気がして」心愛は少しうつむきながら、不安そうにため息をついた。すると由奈はすぐに彼女のそばへ行き、励ますように声をかけた。「そんなことないですよ!これだけできているんだから、十分すごいです。早速、味見してもいいですか?」「もちろんです!」心愛がそう返事すると、由奈は皿にエッグタルトを一つ取り分け、一口食べる。「美味しい!甘さもちょうどいいです!」由奈は満足そうに頷いた。その様子を少し離れたところで見ていた祐一は、腕を組みながら小さく笑った。「そういえば、兄は?」そこでようやく由奈は、智宏の姿がないことに気づいた。心愛の動きが止まる。「中道さんなら……たぶん、まだ寝てるんじゃないかな」「それもそうですね。ここ数日、私たちの面倒を見てくれてたし、かなり疲れてるんじゃないかな」「それなら、一番疲れているのは、俺じゃないか?」祐一はテーブルにもたれかかり、不満そうなふりをして言った。たとえ相手が義理の兄でも、そこは負けるつもりはないらしい。由奈は彼の隣へ歩み寄ると、苦笑しながら答えた。「はいはい、それもそうね。祐一が一番頑張ったんだから、ありがとう」「どういたしまして」心愛は思わず固まってしまった。――絶対に自
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第796話

陽菜は律から聞いた情報をもとに、智宏の予定を調べ、フォートデールまで追いかけてきた。それだけではない。ホテルを予約する前から、智宏が泊まりそうな場所について、情報を探っていた。もちろん、ホテル側が宿泊客の情報を簡単に明かすはずはない。だが、陽菜は律から、智宏が裕福な家庭の出身だと聞いたことがある。彼のような人間なら、きっと高級ホテルか別荘に泊まると思い、色々調べた結果、祐一が予約した別荘エリアにたどり着いた。智宏なら、きっとそこを選ぶに違いない。そう確信して、陽菜は予約を入れた。彼女は実に運がよかった。それから2日後、彼女は「散策」と称して周辺の別荘を一軒ずつ見て回り、ついに智宏を見つけ出してしまった。玄関のチャイムが鳴り、由奈は不思議そうに外へ出た。そこに立っていたのは、見知らぬ若い女性だった。何か用事があるのだろうと思い、由奈はそのまま扉を開ける。陽菜は由奈の姿を見ると、一瞬だけ驚いた顔をした。だが、すぐに律から聞いた話を思い出す。――智宏は妹と一緒に旅行している。そう思うと、彼女はほっとしたように笑顔を浮かべた。「あなたが中道さんの妹さんですよね?初めまして。私、大橋陽菜といいます。東山律先輩の後輩です!」「東山律」という名前を聞き、由奈は少しだけ警戒を解いた。「そうですか……今日は何かご用ですか?」「私、中道さんに会いに来たんです」そう言いながら、陽菜はすでに庭へ足を踏み入れていた。由奈の戸惑いには気づいているのかいないのか、そのまま話を続ける。「東山先輩から、中道さんがフォートデールで休暇中って聞いていたんですけど、本当にいらっしゃったんですね!私もちょうど旅行中なので、すごい偶然だと思って……もしよかったら、皆さんと一緒に観光してもいいですか?」由奈の口元がわずかに引きつる。そして、状況を理解した。――この女性は、兄を狙っているのだと。その時。「あ、中道さん!」家の中から智宏が出てくると、陽菜は嬉しそうな笑顔で彼のもとへ歩み寄った。そして何かに気づいたように、すぐに表情を整える。さっきまでの積極的な態度を隠し、控えめに声をかけた。「お久しぶりです。東山先輩から、こちらでバカンスを楽しんでいると聞いていたんです。まさか本当にお会いできるなんて、すごい偶然ですね」少し間を置い
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第797話

「俺は、智宏さんの代わりに、古澤さんの気持ちを確かめようとしているんだ」祐一はそう言いながら、由奈の両手をそっと握った。「確かめる?」由奈は不満そうに彼を睨む。「それって、古澤さんに対して失礼なんじゃないの?もし本当に、兄があの女性に気があるって誤解したら――」「智宏さんと古澤さんは、まだ正式に付き合っているわけじゃない。でも、お互いに好意があるのは明らかだ」祐一は落ち着いた口調で続けた。「もし、たった1人の女性が現れただけで古澤さんが諦めてしまうなら――2人が本当に夫婦になった後、同じようなことが起きた時、彼女はどうする?智宏さんはいずれ中道家を背負う立場になる。その時、彼の周囲に女性が寄ってくることは避けられない。そのたびに不安になって、相手に譲るようでは……将来、智宏さんの妻として家を支えることはできない。それに、智宏さんの妻になれば、周囲からの注目や、根も葉もない噂にさらされることもある。その時、由奈がずっと彼女を守ってあげることはできないだろ?」由奈は言葉を失った。祐一の言うことは、確かに一理ある。ただ――由奈は目を細め、彼をじっと見つめた。「じゃあ、あなたほどの立場なら……長門先生以外の女性が寄ってきてもおかしくないよね?」「寄ってこないさ。だって、俺が最低な男だから」「……」由奈は呆然とした。「海都市で、俺が結婚して離婚したことを知らない人間はいない。昔は浮気騒動や隠し子騒ぎまであった。そのうえ今は、元妻のことをまだ引きずっているって噂まである」祐一は腕を組みながら、まるで他人事のように話す。「これだけ悪い噂があれば、誰も近づいてこないさ。それに、俺は智宏さんとは違う。彼は恋愛経験ゼロで、未婚の独身男だ。俺よりよっぽど狙われやすいだろ」由奈は返す言葉がなかった。ここは、怒るべきなのか。それとも、突っ込むべきなのか。反応に困る。やがて、由奈は小さく咳払いをして、一歩後ろへ下がった。「そ、そんな話をされても、あなたのことが可哀想なんて思ってないからね!」そう言い残すと、由奈は慌てて家の中へ戻っていった。その場に残された祐一は、苦笑するしかなかった。……屋内では。陽菜はずっと智宏に話題を振り続けていた。「東山先輩がね」、「楓さんがね」と律や楓の話を交えながら、
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第798話

心愛は陽菜をお手洗いまで案内すると、そのまま戻ろうとした。その時、陽菜が彼女を呼び止めた。心愛は足を止め、振り返る。どうやら、呼び止められることは予想していたらしい。表情に驚きはなかった。「古澤さんって、中道さんのこと、好きなんですよね?」陽菜は単刀直入に尋ねた。心愛が答えるより先に、彼女は続ける。「私は中道さんに一目惚れしました。東山先輩から、彼には彼女がいないって聞いたんです。だから、この機会を掴みたいと思いました。あなたたちはまだ付き合っていないんですよね?だったら、私にもチャンスはあるでしょう?」心愛は静かに目を伏せ、そして小さく頷いた。「もちろん、あなたが挑戦するのは自由だと思います」そこで一度言葉を止める。「でも私……」心愛は陽菜の目をまっすぐ見た。「譲るつもりはまったくないから」陽菜の笑顔がわずかに固まった。「頑張って」心愛はそう言って、励ますように小さく拳を握る仕草を見せると、静かに離れていった。残された陽菜は、しばらくその場から動けなかった。曲がり角まで来たところで、心愛は足を止めた。先ほど自分が口にした、あまりにも大胆な言葉を思い返し、急に恥ずかしくなる。……あれは、相手を傷つける言い方じゃなかったよね?そう思った瞬間、突然、目の前に人影が近づいた。智宏だ。心愛が反応する間もなく、その身体は智宏の胸の中へ引き寄せられる。彼はそのまま彼女の腰に腕を回した。心愛の心臓が大きく跳ねる。慌てて離れようとしたが、抱きしめる腕はむしろ強くなった。「誤解しないでください。僕は、あの女性と親しいわけではありません」頭上から、智宏の低い声が響く。心愛が顔を上げると、彼と目が合った。その真剣な眼差しを受け、頬が熱くなる。「ご、誤解してませんよ」「本当に?」智宏の目がわずかに見開かれる。顔にどこか嬉しそうな笑みが浮かんでいた。それでも、腕は離さない。心愛は乾いた唇をそっと舐め、視線を落とした。「だって……中道さんは、口が上手くて、誰にでも気軽に声をかけるような人には見えないから」「そうですか……あなたにとって、僕は一途な人なんですね」智宏は少し身を屈め、声をさらに低くする。「だから、彼女には譲らないって言ったんですか」その言葉を聞いて、心愛の耳まで一気に赤く染まった。「き……聞こえ
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第799話

「大丈夫ですよ。説明しなくても」由奈は心愛の言葉を遮るように、柔らかな笑みを浮かべた。「兄の気持ちなら、私は最初から分かっていましたから」「……え?」心愛が目を瞬かせる。由奈は楽しそうに続けた。「だから、もう私が間に入って何かする必要はなさそうですね。2人の気持ちがちゃんと通じ合って、本当によかったです」心愛は少し困ったように首を傾げた。「なんだか……私、あなたたち兄妹の思惑に、まんまと乗せられた気がするんですけど……」「そう思っても、もう遅いですよ」由奈は笑いながら心愛の隣へ歩み寄る。「それに、父ももう古澤さんのことを認めてくれていますから」その言葉に、心愛は思わず目を見開いた。「……え?」智宏も驚いたように由奈を見る。「父さんにも、このことを話したのか?」「うん。だって、お父さんがどう思っているのか知りたかったから」由奈は悪びれる様子もなく答える。「それに、前から約束していたんですよ。いつか、お義姉さんを連れて帰るって」「お、お義姉さんって……」心愛の頬が赤くなる。「そ、それは……少し早すぎないかな……?」付き合い始めたばかりなのに――もう恋人の家族に会う話まで進んでいるなんて、心愛には少し心の準備が追いつかなかった。その様子に気づいた由奈は、すぐに言葉を添える。「あ、違いますよ。急かしているわけじゃありませんから。兄と古澤さんは、まだ始まったばかりです。これから少しずつ、お互いのことを知っていけばいいと思っています」智宏も、どこか不安そうな表情を浮かべる心愛へ視線を向けた。「大丈夫ですよ。家族に会うタイミングは、古澤さんが決めればいい。僕は、何よりあなたの気持ちを大切にしたいから」その言葉を聞いて、心愛の胸にあった緊張が少しずつほどけていく。智宏が、自分の気持ちを何より優先してくれている。そのことが、何より嬉しかった。心愛は小さく息を吐き、静かに頷いた。……休暇を終えた一行は、再びタラハシーへ戻った。由奈はこの期間に撮った写真をすべてSNSに投稿した。そこには彼女と祐一だけでなく、智宏と心愛の姿も写っていた。国内ではすでに深夜になっている時間帯だったが、最初に「いいね」を押したのは、なんと紬だった。いつもの紬なら、由奈の投稿に必ずコメントを残していた。けれど今回は、ただ「いいね
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第800話

紬は身体を強張らせ、しばらくの間動かなかった。その言葉のおかげで、少しだけ冷静になれた。本当は酔っていたわけではない。ただ、倫也に会いに行くための口実が欲しくて、わざと無茶をしていただけだった。けれど、誰も彼女の気持ちを分かってくれない。「……谷川くんには分からないよ」紬はゆっくりと口を開くと、そのまま涼太の隣まで歩いていき、彼の手からバッグとスマホを受け取った。「ここ数日、付き合ってくれてありがとう」「紬さん……」「私、酔ってないから。一人で帰れる」そう言ってバッグからウェットティッシュを取り出し、落ちた口紅と顔に残ったメイクを拭き取る。そして一人で道路脇まで歩き、タクシーを止めた。涼太は、彼女が車に乗り込んで去っていく姿を黙って見送った。力なく垂れていた手は、いつの間にか強く握りしめられている。その表情には、隠しきれない心配の色が浮かんでいた。……家に戻ったのは何時なのか、紬には分からなかった。ただ、洗面所で一度吐いたことだけは覚えている。鏡に映った、崩れた化粧と夜更かしで疲れ切った顔。それを見た瞬間、倫也に言われた言葉が次々と蘇ってきた。「今のあなたにとって、恋愛以外に向き合いたいことはないんですか?」「もっと自分自身を大切にしてほしい」「何度聞かれても、私の答えは変わりません。ごめんなさい」自分が江川市へ来てから、もう長い時間が経った。倫也には何度も拒絶されてきた。毎晩のように酒を飲み、酔ったふりをして、わざと騒いでみせても――彼は一度も心配してくれなかった。まさに涼太が言った通りだった。彼は、自分のことなど気にしていないのだ。「……っ」紬の心は限界だった。声を上げて泣きたいほど苦しくなりながら、最後にもう一度だけ、頑張ってみようと思った。これが本当に最後。これで駄目なら……胸元を押さえながら、涙が止まらなくなる。その時だった。突然、胸が締め付けられるように苦しくなり、息がうまく吸えなくなる。頭もぼんやりとし始めた。紬は反射的に洗面台へ手をついた。胸の圧迫感はどんどん強くなり、まるで呼吸ができなくなるようだった。「……え、嘘……私、まさか……」過労で倒れるとか、そういうやつ?そんな不安が一瞬で頭をよぎる。「嫌……死にたくない……!」
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