プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~ のすべてのチャプター: チャプター 201 - チャプター 210

428 チャプター

第201話

「うん、じゃあね」通話を切ると、明里は深く重い溜め息をついた。脳裏に焼き付いているのは、先ほど大輔が告げた言葉だ。潤はまだ、自分のことを想っていると。――ありえない。もし潤に少しでも自分への情が残っていたのなら、離婚なんて言葉が出てくるはずがない。みすみす自分を手放したりしなかったはずだ。二人がこんな結末を迎えたのは、度重なる裏切りと、積み重なった失望のせいなのだから。だからこそ、大輔にははっきりと言ったのだ。「かつて潤は、私のすべてだった」と。けれど、今は違う。もう、心には何も残っていない。だが、明里は知らない。彼女が立ち去った直後、潤と大輔が殴り合いを演じたことを。そして潤もまた、知らない。明里がしばらくの間、大輔とは会わないと心に決めたことを。啓太がハンドルを握り、助手席の潤を送り届ける道中でのことだ。呆れたようなため息交じりに、啓太が口を開く。「一体何やってんだよ。お前らみたいな立場の人間が、殴り合いなんて……しかも、先に手を出したのはお前だろ?遠藤みたいな奴が本気で潰しにかかってきたら、逃げ場がなくなるぞ」「立場?」潤は自嘲気味に鼻で笑った。「妻に逃げられそうな男に、立場もクソもあるかよ」「離婚したっていいだろ。お前なら、女なんて選び放題じゃないか」啓太はこともなげに言うと、ふと思い出したように続けた。「そういえば、ずっと聞きそびれてたけど……佐川怜衣(さがわ れい)が帰国するって知ってたか?」潤は素っ気ない相槌を打つだけだ。「やっぱりな!」啓太の声が急に弾む。「彼女とはガキの頃からの付き合いだもんな。帰ってきたら、盛大に歓迎会を開いてやれよ」潤は再び、生返事だけで済ませる。啓太がちらりと横目でその様子を窺った。「そういや陽菜って、怜衣の従妹だったよな。あいつが海外に行く時、お前に陽菜のことをよろしくって頼んでたっけ」それでも潤は、短い返事しか返さない。「おい……お前、口がきけなくなったのか?さっきから相槌しか打ってねえぞ」潤は窓の外へ視線を投げたまま、ぼそりと零す。「……何を言ってほしいんだ」「怜衣のこととか、陽菜のこととかあるだろ……」啓太はハンドルを切りながら続ける。「俺に言わせりゃ、あの二人のどっちを選んでも、明里さんよりはずっとお前にお似合いだ。和夫さんがなん
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第202話

よりにもよって潤は、祖父の厳命に従う形で明里を妻に選んだ。結婚した後も、彼はまるで操を立てているかのように女遊びをしない。浮気はおろか、その予兆さえ見せないのだ。啓太には、それがどうしても理解できなかった。とはいえ、女性に対するスタンス以外では、彼と潤は馬が合う。でなければ、これほど長く付き合ってこられなかっただろう。いずれにせよ、今の潤の振る舞いは、啓太にとって不可解極まりないものだった。潤を病院へ送り届けると、啓太はそのまま帰路についた。翌朝早く、明里のスマホが震えた。ディスプレイには【二宮潤】の文字。ここ最近、彼からの連絡は絶えていた。昨夜顔を合わせたばかりだということもあり、明里は多少の後ろめたさを覚えながら通話ボタンを押した。「何の用?」「入院した」潤の短い一言に、明里の心臓が大きく跳ねた。「遠藤に殴られたんだ」明里は動揺を隠せなかった。「遠藤さんに殴られたって……?」潤が短く肯定する。二人が喧嘩を?いつ?昨夜、大輔と話していた時、彼はそんな素振りなど微塵も見せなかった。それなのに、潤が入院するほどの怪我を負うなんて。一体どれほど激しい殴り合いをしたというのか。思考が追いつかない明里に、潤が低い声で告げた。「来てくれ」明里は千秋に一言断りを入れてから、車を飛ばして病院へと向かった。送られてきた位置情報は私立病院を示していた。名前だけは知っている高級病院だ。だが実際に足を踏み入れてみると、そこは病院というより、富裕層向けのサナトリウムと呼ぶ方が相応しかった。いや、サナトリウムより静謐で美しい空間が広がっている。潤の病室は、まるでホテルのスイートルームのようだった。彼はベッドに体を預けており、口元には痛々しい痣が滲んでいる。明里は息を呑んだ。「他にも怪我は?」顔の痣だけで入院するはずがない。「肋骨がいった」「骨折!?」明里が目を見開く。潤は静かに彼女を見つめ返した。「ああ、骨折だ」「どうして……」「どうして、じゃない」潤の瞳が暗く沈む。「俺とあいつの関係を、お前は知らないわけじゃないだろう。明里、まだ離婚も成立していないのに、そんなに急いであいつの元へ走るつもりか?」「私と彼はただの友達よ!」「前にも言ったはずだ。あいつがお前
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第203話

「申し訳ないけど、私、忙しいの。ここで世話をしている暇はないわ」「俺に、遠藤を傷害で訴えさせたいのか?」明里は冷ややかに微笑んだ。「訴えたければ訴えればいいじゃない。私に何の関係があるの?遠藤さんが私に近づいたのは別の目的があるって言ったのはあなたでしょう?なら私が彼の心配をする義理はないわ」潤が自分で蒔いた種だ。勝手にすればいい。潤が悔しそうに唇を引き結ぶ。そして、低い声で言った。「お前は今もまだ、俺の妻だ。夫が病気になったなら、そばにいるのが筋だろう」明里が反論しようと口を開きかけた時、彼はさらに言葉を重ねた。「離婚する前に……最後に頼む、たった一つの願いだと思ってくれ」明里は足を止めた。「これが終わったら、あなたは離婚に同意してくれるの?その言葉を信じていいの?早く離婚協議書を見せるって約束したのに、まだ見せてもらってないんだけど」「お前が妊娠したからだ。あれは想定外だった」潤は言い訳めいた様子もなく、淡々と告げる。「俺が約束を破ったわけじゃない。俺の言葉は、今も信じてもらって構わない」「つまり、あなたが退院したら離婚する、と?」「子供のことは、どう考えている」明里は無表情で答えた。「私の考えは変わらないわ」潤は数秒間、探るように彼女を見つめ、それからふいと視線を逸らした。「退院してから話そう」その時、病室の外が騒がしくなり、次の瞬間、ドアが勢いよく開いた。すらりとした人影が風のように飛び込んでくる。明里が呆気にとられている隙に、陽菜がベッドサイドまで駆け寄り、潤の手を握りしめた。「潤さん、どうしたの!?昨日まであんなに元気だったのに、どうして急に入院なんて……っ、びっくりしたわ!」彼女の声は震え、目尻もほんのり赤く染まっている。いかにも健気で、憐れを誘う様子だ。「大丈夫だ」潤はすっと手を引き抜き、軽くあしらう。「心配するな」明里は冷めた目でその光景を一瞥し、口を開いた。「お二人でゆっくりどうぞ。私は帰るわ」「待て」潤が鋭く呼び止める。「帰って荷物をまとめてきてくれ。俺のと、お前の分とだ。医者が三日間は入院して様子を見たほうがいいと言っている」明里は振り返りもせずに出ていった。潤は今頃、もっと早く離婚しておけばよかったと後悔していることだろう。そうすれば、陽菜という愛しい人が堂
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第204話

「それならよかったわ」明里は優香に好感を持っていたが、彼女の家族は彼女を箱入り娘として大切に守りすぎている節がある。自分が親しくすれば、相手も何か裏があるのではないかと疑うだろう。「じゃあ、お兄さんのところに戻ってあげなさい」優香が期待に満ちた眼差しで見上げてくる。「あの、この前、一緒にお食事するって言ってくれたじゃない?もし明里さんがお見舞いに来てるなら、病院の食堂でお茶でもしない?」そのキラキラしている瞳で見つめられ、明里は断る言葉を飲み込んだ。仕方なく頷く。「いいわ……じゃあ、後で連絡しましょう」「はい!」優香の顔がぱっと輝く。明里が病室に戻ると、陽菜の姿はもうなかった。潤だけがベッドに半身を起こし、タブレットで資料に目を通している。「戻ったか」潤が彼女の荷物を見て眉をひそめた。「そんなに荷物を持ってきてどうするつもりだ?」明里は鞄を置き、手際よく荷物を解き始める。「全部あなたが使うものよ」「明里、お前は今妊娠してるんだぞ……」潤が呆れたように溜息をつく。「呼んだのは、お前を働かせるためじゃない」「荷物をまとめてこいって言ったのはあなたでしょう?」「こんなに大量に持ってこいとは言っていない」潤がベッドの端を叩いて手招きする。「こっちに来て座れ」明里は無視して、荷物の整理を続けた。痺れを切らした潤が、掛け布団をめくってベッドから降りようとする。明里は慌てて駆け寄り、彼の肩を押さえた。「何してるの?動ける体じゃないでしょう!」「お前が言うことを聞かないからだ」明里は彼と視線を合わせず、強引に掛け布団を掛け直した。「そんなことしたらナースコールを押すわよ」「分かった、大人しくしてる」潤が素直に横になる。「お前も横になれ」彼の視線の先には、もう一台のベッドがあった。明らかに付き添い用の簡易ベッドだ。明里は何も答えず、黙々と荷物を片付け終えた。ふと顔を上げて潤を一瞥すると、彼は静かな瞳で、その薄い唇を引き結び、じっとこちらを見つめていた。明里はすぐに視線を逸らす。整理が終わると、持参した本を取り出してソファに腰を下ろした。潤はこれまで、彼女が読書に耽る姿を幾度となく見てきた。大抵の場合、明里は背筋をピンと伸ばし、真剣な眼差しで文字を追っている。だが時折、ソファに深
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第205話

樹は心底不思議そうに首を傾げた。「大輔が?人を殴った?ありえないだろ」大輔がもう何年も、自らの手を汚すような真似をしていないことを樹は知っている。彼ほどの地位にある人間なら、何かあっても部下に命じて処理させれば済む話だ。わざわざ自分で手を下すはずがない。「ありえないことないわよ。二宮潤を殴って、アバラを折ったの。潤は入院したわ」樹が息を呑む。「……二宮さんを殴った?」胡桃が昨夜の出来事を手短に説明する。すべてを聞き終えた樹は、数秒の沈黙の後、ぽつりと漏らした。「二宮さんも情けないな。浮気現場を押さえに行ったのに、逆に殴られるとは。殴られるなら大輔の方だろ」「浮気現場じゃないわよ!」胡桃が電話口で怒鳴る。「変なこと言わないで!アキはそんな軽い女じゃないわ!」「ああ、悪かったよ」樹は慌てて話題を変えた。「今どこにいるんだ?詫びも兼ねて、昼飯でもどうだ?」胡桃は何も答えず、一方的に電話を切った。樹は苦笑しつつ、今度は大輔に電話をかける。昨夜から時間が経ち、大輔の顔の痣はさらに酷くなっていた。とても人前に出られる状態ではなく、自宅で傷を癒すしかない。しかし彼にとって、これは屈辱以外の何物でもなかった。学生時代に潤と殴り合って以来、一度たりとも拳を向けられたことなどなかったのだ。それなのによりにもよって、二宮のやつ、顔ばかりを執拗に狙ってきやがった。絶対に自分の方がイケメンだから嫉妬したに違いない!あのクソ野郎!樹からの着信に応答する大輔の声は、当然ながら不機嫌そのものだ。「何だ?」樹が単刀直入に切り込む。「二宮さんを殴ったのか?」その言葉を聞いた瞬間、大輔の怒りが再燃した。「俺が殴った?ふざけんな、あいつだって俺を殴っただろうが!俺の顔、今すげぇ腫れてんだぞ!」「だとしても、そんなに強く殴ることはないだろ。骨折したって聞いたぞ」「は?誰が?何の話だ?」「二宮さんが骨折したんだよ。お前が殴ったせいでな」大輔が飛び上がりそうになる。「誰がそんなデマ流してやがる!?名誉毀損で訴えてやる!」「誰を訴えるんだよ。誰もデマなんか流しちゃいない。あいつが入院したのは紛れもない事実だ」「本当か?」「本当だ」「ありえない」大輔が呻くように言う。「二宮がどれだけタフか知らないのか?俺とあ
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第206話

明里はスマホを手に取り、大輔からのメッセージを確認すると、少し間を置いてから返信した。【知ってる】その返事を見た瞬間、大輔は返事を打つ時間さえ惜しいとばかりに、電話をかけてきた。明里は思わず潤を一瞥し、立ち上がって病室の外へ向かおうとする。潤がそれを呼び止めた。「どこへ行く?」「電話に出るわ」「誰からだ?わざわざ外に出る必要がある?」潤が不審げに眉をひそめる。「さっきは普通に出ただろ」「私にもプライバシーはあるわ。それに、あなただって私に隠れて隠れて電話してたこと、しょっちゅうだったでしょう?」そう言い捨てて、明里は病室を出た。これだけ時間が経っても、大輔はコールを切らずに待っていた。意外と我慢強いらしい。通話ボタンを押すと、向こうから即座に声が飛んできた。「なんでこんなに時間かかったんだ?何してた?」「病院にいるの」「病院?どうした?」大輔はすぐに察したようだ。「……二宮と一緒にいるのか?」「ええ」明里は短く答える。「骨折したから」「分かった」大輔の声が低くなる。「あいつ、どうやって骨折したか言ったか?」明里は本当のことを言うべきか迷った。というより、この二人の男のいざこざに巻き込まれたくないというのが本音だ。「知りたいなら、本人に聞いて。私に聞かないでよ。詳しいことはよく分からないから」「俺とあいつがあの関係で、電話なんかするわけないだろ?」大輔が鼻で笑う。「あいつが死んだ時、しぶしぶ葬式に参列してやるのが関の山だ」「他に用事がないなら、切るわね」「待て!」大輔が不可解そうに尋ねる。「病院で何してるんだ?まさか看病か?」明里は押し黙った。大輔は、自分が適当に口にした一番ありえない答えが、まさか事実だとは思わなかったのだろう。受話器の向こうで彼が激昂した。「はぁ!?あいつへの気持ちはもうないって言ったくせに、怪我だと聞いた途端に駆けつけるなんて……どれだけ自分を安売りすれば気が済むんだ!」明里が弁解しようと口を開きかけるより早く、大輔が畳み掛ける。「こんな自分を大切にしない友達、願い下げだ!」……ん?これを機会に、大輔と縁を切れる?明里は慎重に言葉を選んだ。「何と言われても、彼は私の子供の父親よ。見て見ぬふりはできないわ」「離婚するんだろ、そんなに気を使
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第207話

「なら、なぜわざわざ外に出て電話に出る?」明里は一瞬、言葉を失った。我に返って問い返す。「あなたが受けてたのは全部仕事の電話だって、誰が証明できるの?人に言えないことは何もない?そうね、二宮社長は何でも好き勝手にやって、怖いものなしだものね」「何を皮肉っているんだ」潤の瞳がますます深く昏い色を帯びる。「俺が言っているのは事実だ!」「潤、今さらこんな話をしても意味がないわ」明里は投げやりに言った。「私が誰の電話に出ようと、どこで電話を受けようと、あなたには関係ないことよ」「遠藤か?」潤の我慢が限界に達したのか、単刀直入に問いただしてきた。「さっき電話してきたのは、あいつか?」「そうよ」明里は真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。「それで?何か問題でも?」「あいつがお前に近づくのは、必ずろくな目的じゃないと言ったはずだ。なぜまだ連絡を取り合う?」明里は急にどっと疲れを感じた。もう離婚しようとしているのに、なぜこんな不毛な議論を繰り返さなければならないのか。「連絡しないわ。もう今後一切関わらない」潤が驚いたように目を見開く。明らかに、明里の態度が急変するとは思っていなかったようだ。さっきまでは理屈を並べて言い争っていたのに。「本当か?」「潤、今はまだ離婚していなくても、いずれは他人になるわ。私が誰と接触しようと、誰と友達になろうと、あなたには関係ないことよ」「他人?」潤が探るように彼女を見つめる。「たとえ離婚しても、俺たちが他人になることはありえない」明里はソファに深く座り直し、彼の視線を避けて口を閉ざした。「明里」「もう休んで」これ以上話したくないという拒絶の意思表示だ。潤が掛け布団を跳ね除けてベッドから降りる。今度は、明里は止めなかった。彼が明里の前に立ち、見下ろす。「一体何がしたいの?」明里は虚ろな目で宙の一点を見つめたまま呟く。「潤、もうこんなことやめて。疲れたの、本当に……お願いだから、私を自由にして」「俺たちの結婚が、そんなに苦しいのか?」潤の声が地を這うように低くなる。「子供ができたのに、まだそんなに急いで逃げたいのか」「こうなったのが、私のせいだとでも言うの?」明里の目が、急に赤く潤んだ。「あなたと結婚して三年……潤、本当にもう我慢の限界なのよ!」「我慢の
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第208話

なんて滑稽なのだろう。浮気をした張本人が、被害者である彼女を問い詰めているなんて。明里は皮肉を込めて微笑んだ。「そうね。あの時、あなたと結婚するんじゃなかったわ」「俺と結婚しないなら、誰と結婚したかったんだ?」潤が急に距離を詰め、彼女の細い肩を鷲掴みにする。「高橋か?」明里は信じられないものを見る目で彼を見返した。「……何を言ってるの?」「図星か?」潤の瞳が、嫉妬の炎でゆらりと揺らめく。「明里、お前は今、俺の妻だ。俺の……ものだ!」そう言い放つなり、潤は明里の反論を封じるように、その唇を乱暴に塞いだ。明里は思考が一瞬停止した。なぜ潤の口から、先輩の名前が?そもそも、どうして潤が彼の存在を知っているのか。結婚してから、先輩とは個人的な連絡など一切絶っていた。博士課程に進むと決めてから、恩師の研究室で再会し、ようやく連絡を取り合うようになっただけだ。それでも先輩との関係は、礼節を弁えたやましいところのない友人でしかない。確かに、告白されるまでは、この優しい先輩を実の兄のように慕っていた時期もあった。けれど、告白されてすぐにはっきりと断った。結婚生活の中で、良心や道徳に背くような真似は一度たりともしていない。たとえ未婚であったとしても、好きでもない相手に無駄な期待を持たせるような不誠実なことはしない主義だ。それなのに、潤の言葉はどういう意味だというのか?窒息しそうなほどの圧力で、明里はようやく我に返り、手足をバタつかせて抵抗した。だが、男の大柄な体は岩のように動かない。ソファに押し付けられ、完全に自由を奪われる。彼のキスは、焼けるように激しく、そして所有欲に満ちた支配的なものだった。息苦しいだけでなく、痛い。舌が、唇が、強く固定された顎が痛む。明里は必死に抵抗し、侵入してくる舌を噛み切ろうとした。しかし潤は顎をがっちりと掴んで離さず、無理やり口を開かせたまま、さらに深く蹂躙してくる。口角から唾液が溢れ出し、それを舐め取っては、さらに激しく貪る。頭皮が痺れるような感覚と、強烈な屈辱感。力では、女の自分がこの男に敵うはずもない。やがて明里は抵抗する気力さえ削がれ、ぐったりと動かなくなった。妊娠しているのだ。いくら潤が獣でも、これ以上の乱暴はしないだろう。そう、野
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第209話

「潤!」明里は怒りを堪えて声を震わせた。「今は患者でしょう、少しは大人しくできないの?」「じゃあ、怪我が治ったら、キスさせてくれるのか?」思いがけず、潤が子供のような駄々をこねる。だが明里は即座に拒絶した。「ありえないわ!もうすぐ離婚するのよ!」「だから言っているだろう、離婚はしない」潤の薄い唇が、再び彼女の首筋に触れる。まるで執着と依存の塊のようだ。けれど、そんなはずがない。潤はきっと、彼女をただの都合のいい「所有物」としか見ていないのだ。キスしたい時にキスをして、抱きたい時に抱く。しかも金もかからない。ふん、笑わせる。明里は再び彼を強く押しのけた。「これ以上痛い目に遭いたくなかったら、私に触らないで!」潤が胸を押さえ、苦しげに俯いて彼女を見る。その隙に明里は立ち上がり、ドアへと向かった。「どこへ行く?」「あなた、とても元気そうじゃない。世話なんて必要ないわ!」明里は自分の荷物を引っ掴んだ。「離婚の手続き、早く進めてください」「明里!」明里は足を止めない。「慎吾がまた俺に金を無心してきた。知ってるか?」その一言が、明里の足を縫い止めた。信じられないという表情で振り返る。「……何ですって?」「お前の出来のいい弟が、また金をせびりに来たことを教えなかったのかと聞いているんだ」明里の怒りが沸点に達する。「いつの話?なぜ私に言わなかったの?もう彼にお金を渡さないでって言ったはずよ!」「確かにそう言われた。だが俺は一応彼の『義兄』だからな」潤がゆっくりと歩み寄り、彼女の手から鞄を取り上げた。「見殺しにはできない」「見殺しって……?」「人に借金をしているらしい」潤が淡々と言う。「返せなければ、指を一本詰めると脅されたそうだ」明里は絶句した。「そ……そんなバカな……」「ないはずがない」潤が鞄をソファに放り投げ、袖口を整える。彼は安っぽい検査着を着ているはずなのに、一般の患者より、なぜか一流ブランドの服を纏っているかのような気品を漂わせている。視線を落としたその姿には、余裕と傲慢さ、そしてすべてを掌握する絶対的な自信が満ちていた。対照的に、明里のまっすぐな背筋は、誇りをへし折られたかのように力を失っていく。「一体どういうことなの?」明里が声を絞り出す
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第210話

貧しさは罪でも恥でもない。本当に軽蔑されるべきなのは、怠惰で、卑劣で、向上心を持たない人間だ。そう、慎吾のように。自分で汗水流して稼ぐことを考えず、安易に潤を頼るような人間こそが恥なのだ。それにしても、潤と彼はどういうつもりなのか?「義兄」だからと言って、本当に潤の弟になったつもりなのか?そして潤が慎吾に金を渡したのは、情けなんかじゃない。完全に自分を辱めるためだろう?潤が、自分のようなささやかな稼ぎを評価するはずがない。彼は契約書にサインするだけで、数億円、時には数十億という金を動かす人間だ。だが、それが人を見下す理由になるのか?いや、見下しているという自覚すらないのかもしれない。ただ、生まれつき染みついた傲慢さと、選民意識が言動の端々に滲み出ているだけなのだ。やはり、住む世界が違いすぎる。二人は決して交わらない平行線を歩む人間なのだ。明里は彼を真っ直ぐに見据えた。「これから先、大金持ちにはなれないかもしれない。でも、子供に安定した穏やかな生活を与えることはできるわ」「安定した穏やかさ?」潤が口の端を吊り上げる。「それは経済的余裕があって初めて成り立つものじゃないのか?」「潤、世の中のすべてのものが、お金で買えるわけじゃないわ」「この借金をどう返すか説明してから、そういう綺麗事を言ったらどうだ」明里が唇を噛み締める。「……きっと返すわ」「いつまでに?」明里が彼を睨む。「あんまり馬鹿にしないで!」「返すと言ったのはお前だ」潤が淡々と言う。「返せないなら……俺が入院している間、村田さん、しっかりこき使わせてもらおうか」明里が顔を背けた。「電話してくるわ」「ここでかければいい」「潤、私はただお金を借りているだけで、奴隷になったわけじゃないのよ!」そう言い捨てて、明里は病室を飛び出した。潤の視線が彼女の背中を追い、その色は暗く深い。廊下に出た明里は、震える手で玲奈に電話をかけた。玲奈はすぐに出た。「アキ?どうしたの、こんな時間に」「慎吾は?」「慎吾ならいるわよ」玲奈の声が弾んでいる。「あの子ったら、私とお父さんにカシミアのマフラーを買ってくれたのよ。高かったでしょうに!」明里は込み上げる怒りを必死に抑えて尋ねた。「彼、稼ぎもないのに、どこからそんなお金が出た
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