プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~ のすべてのチャプター: チャプター 321 - チャプター 330

424 チャプター

第321話

今、彼が立ち去ろうとしても、彼女が離そうとしない。潤の中の理性のタガが外れそうになる。彼女の前では、いつだって彼の自制心など、脆くも崩れ去ってしまう。「……それでもマッチが欲しいのか?」彼は掠れた声で尋ねた。明里は何度も頷いた。「欲しい!」潤は手近にあったものを掴み、彼女の手に握らせた。「ほら、マッチだ」それはベッドサイドに置いてあった、彼の腕時計だった。明里は途端に、パッと顔を輝かせた。「マッチを売りに行かなきゃ」彼女は満足そうに腕時計を抱きしめ、安らかな寝息を立て始めた。潤の口元が緩んだ。なぜか、こんなわけのわからない彼女が、どうしようもなく可愛くて、愛おしい。こんな無邪気な明里を見たことがなかった。さっきまで泣いていたせいで鼻先は赤らんでいるが、唇は赤くぷっくりとしていて、熱を帯びて、艶めいている。潤の喉仏が再び動いた。彼は苛立ちを隠すように顔を背け、小さく毒づいた。どれほどの時間が過ぎただろうか。明里はまだ目を開けていなかったが、頭が割れるような激痛に襲われていた。両のこめかみを押さえ、記憶を呼び覚まそうとする。最後の記憶は会員制クラブで、胡桃が楽しそうに笑いかけていた場面で唐突に途切れている。その後……その後、何があったっけ?完全に欠落している。おそらく酔っ払って、胡桃が家まで送ってくれたのだろう。一体どれくらい寝ていたのだろう。ゆうちっちはもう起きているだろうか?そう思い、明里は重いまぶたを持ち上げた。部屋の明かりに目が慣れ、天井の模様を見た瞬間――彼女は数秒間、凍りついたように動けなくなった。ここは、彼女の家じゃない!彼女は慌てて飛び起き、自分の服を確認した。昨日着ていた服ではなく、シンプルなルームウェアに着替えさせられている。この服、どこか見覚えが……明里の視線が部屋の中を彷徨い、ある一点で止まった瞬間、心臓が凍りついた。ここは……ここは……どうして、彼女と潤が暮らしていた「雲海レジデンス」の寝室にそっくりなの?何年も暮らした場所だ。棚の上の小さな置物一つに至るまで、すべて彼女が選んだものだ。でも、どうしてここにいるの?まだ夢を見ているの?夢だとしても、こんなリアルな悪夢があるはずがない!頭を振ってみたが、ガンガンと響く
続きを読む

第322話

それは三年前に自分が愛用していたものだ。家を出る時、何も持って行かなかった。これを、三年間も捨てずに持っていたとでもいうの?明里は戸惑いながらも、その服を拾い上げると、寝室を出た。潤はリビングで彼女を待っていた。もし、それが本当なら……明里は口を開いた。「ありがとう。私のスマホ、知らない?」誰が服を着替えさせたのかは、あえて聞かなかった。そればかりか、体は汗ひとつなく清潔だった。シャワーを浴びさせてくれたのか、体を拭いてくれたのか。想像したくもない。今はただ、一刻も早く家に帰りたかった。潤はスマホを差し出した。何も言わず、ただ静かに彼女を見つめている。明里は奪い取るように受け取り、素早くロックを解除し、通話履歴とメッセージを確認する。鈴木と大輔からの着信があり、大輔からは大量のメッセージが届いていたが、中身を見る余裕はなかった。胡桃からの連絡はない。スマホを閉じ、潤を見た。「ありがとう。帰るわ」「食事をしてから行け」「結構よ」明里の声は冷たかった。「息子が家で待ってるの」そう言って玄関へ向かう。背後から潤の足音が追ってくる。「送る」「いいえ……」明里の拒絶になど、聞く耳を持たないようだ。「本当に結構よ」明里は声をあげた。「自分でタクシーで帰るから」「……わかった」明里は安堵し、逃げるようにその場を去った。残された潤の口元に、微かな笑みが浮かんでいることも知らずに。明里は外に出るとすぐにタクシーを拾い、行き先を告げてから胡桃に電話をかけた。コール音だけが虚しく響き、誰も出ない。不安が募り、何度もかけ直す。留守番電話に切り替わる直前、ようやく繋がった。「胡桃!」明里がすぐ聞いた。「俺だ」明里は固まった。「……樹?」「そうだ」樹は繰り返した。「胡桃は今、俺の家で寝てる」昨夜……状況は少々「激しかった」ものでな。最初は殴り合いの喧嘩から始まり、いつしかベッドの上での取っ組み合いへともつれ込み……とにかく一晩中忙しかったため、彼女は泥のように眠っているのだ。樹自身も、明里からの電話で叩き起こされたところだった。「そう……よかった」明里は深く詮索せず、ただ告げた。「じゃあ、起きたら私に連絡するように伝えて」「わかった」通
続きを読む

第323話

「胡桃、大丈夫?」電話が繋がるなり、ずっと心配していた明里は矢継ぎ早に尋ねた。電話の向こうから聞こえてくる胡桃の声は低くかれていて、まるで重い風邪でも引いたかのようだった。「……大丈夫よ」「どうしたの?風邪引いた?」明里は心配そうに眉をひそめた。「昨日あんなにお酒飲んだんだから、頭痛薬とか、強い薬は飲みすぎないでね?」「風邪なんかじゃないわ」胡桃は隣の男を憎々しげに睨みつけながら、明里に問い返した。「そっちこそ、ちゃんと家に帰った?」「ええ、帰ったわ」聞きたいことは山ほどあったが、まずは胡桃の安否が最優先だ。「あなたは?今どこにいるの?」「私は……」胡桃は言葉を濁した。「あとで会いに行くわ」「わかった。待ってる」「あとで」と言ったものの、胡桃がようやく姿を見せたのは、明里が昼寝から目覚めた午後三時過ぎのことだった。明里は彼女の顔色を観察した。血色は良く、肌も艶やかで、風邪を引いているようには見えない。とりあえずは安心した。胡桃は完全なすっぴんだ。明里の家に上がり込むと、ハイヒールを脱ぎ捨て、しばらく宥希とじゃれ合っていたが、やがて電池が切れたように大きなベッドに這い上がり、動かなくなってしまった。鈴木が気を利かせて宥希を散歩に連れ出し、明里は胡桃に水を注ぎ、サイドテーブルに置いた。「お水、たくさん飲んで。喉、まだ少しかすれてるわよ」明里もベッドの縁に腰掛け、ようやく本題を切り出した。「昨日は……一体どういうことだったの?」胡桃は気まずそうに彼女を一瞥し、顔を枕にうずめた。「アキ……ごめん」そう謝られてしまっては、明里も強くは言えない。だが、潤がなぜあの場所にいたのか、それだけは解せなかった。胡桃の説明を聞き、明里はようやく事の顛末を理解した。要するに、すべての元凶は、樹だ。あろうことか、潤にチクリの電話を入れるなんて!樹に対してどれだけ言いたいことがあろうと、胡桃がここまで素直に謝っている以上、明里はそれ以上責めることはできなかった。だが胡桃自身は、昨夜の出来事を思い出し、はらわたが煮えくり返るほど、樹を恨んでいた。あれは間違いなく、樹の意趣返しだ。わざわざ潤を呼びつけたのは、胡桃に「手痛いお灸」を据えるためだ。「今後またこんなふしだらな真似をすれば、もっととんでもない目に遭
続きを読む

第324話

そう言って横になり、何気なく髪を耳にかけた。胡桃がふいに、じっと彼女を見つめた。「ねえ、アキ」明里は首をかしげる。「どうしたの?」胡桃は彼女の頭を強引に押さえ、髪をかき上げた。そこには、くっきりとした赤い痕があった。耳の下、うなじに近い場所だ。鏡を見ても、よほど注意して探さなければ気づかない死角だ。胡桃は心配そうに聞いた。「あなた……昨夜、潤と……」「何もなかったってば。一晩中寝てて、起きたら朝だったのよ」「でも、耳の後ろにキスマークがあるわよ」胡桃は指摘した。「これ、キスマークよね?まさか蚊に刺されたなんて言わないわよね?」彼女に、キスマークと虫刺されの区別がつかないはずがない。明里の心臓が、ドクンと跳ねた。次の瞬間、ベッドから飛び降りて洗面所へ駆け込んだ。鏡の前で首を限界までひねり、その場所を確認する。……あった。鮮やかな赤い痕。どう見ても虫刺されではない。キスマークだ。この瞬間、いつも冷静沈着な明里の中で何かが弾けた。あの最低男……!!服を着替えさせ、体を拭いて、いかにも紳士ぶっていたくせに!それだけならまだしも、こっそりマーキングを残すなんて!明里はシャワーを浴びた際、全身を確認したつもりだった。どこにも違和感はなく、痕跡もなかったはずだ。だが、耳の後ろの死角まではチェックしていなかった。明里は怒りで叫びだしそうだった。だが、どうすればいい?この屈辱を飲み込むしかないのだ。まさか潤のところに怒鳴り込んで、「どうしてこんな所にキスしたのよ!」と問い詰めるわけにはいかない。本当にしょうもない男だ。明里はただ、怒りをぶつけることもできず、ただ、今後二度と顔を合わせずに済むよう祈るしかなかった。洗面所から戻ると、胡桃がベッドに座り込み、放心したように宙を見つめていた。「どうしたの?」さっきまで横たわっていたのに。さっき、樹の秘書からの電話があった。秘書に胡桃への荷物を託して、樹が出国したという。「出国した?」明里は絶句した。まさか、本当に行ってしまうなんて。「短期出張?それとも……」「違うと思う」胡桃は気だるげに髪をかき上げ、再びベッドに倒れ込んだ。「……最低な男……出発する直前まで私を利用するなんて!」明里は彼女を見下ろした。「胡
続きを読む

第325話

「わかったわかった!男なんてみんなサイテー!もういいわ!」明里はため息をつき、少し間を置いて言った。「昨日……大輔から電話があったみたいなの」「あなた、泥酔してたんじゃないの?」「だから私が取れるわけないでしょ……潤が出たんだと思う」その修羅場を想像し、胡桃は感心したように言った。「やるじゃない、潤!」明里が寝ている間に、ライバルの電話に出た。大輔は今頃、怒りで血管が切れそうになっているに違いない。どうせ明里は大輔に恋愛感情はないし、大輔は隙あらば父親の座を狙う、「親バカ」ならぬ「叔父バカ」だ。これを機に、二度と目の前に現れなければいいのだが。「大輔から、まだ連絡がないの」「いいことじゃない。何、また残念がってるの?」「別に」明里は肩をすくめた。「変な誤解をされたくないけど……でも考えようによっては、誤解されたままでもいいのかも」「三年よ、まる三年」胡桃は真顔で言った。「あいつ、絶対あなたのこと好きだって」明里は首を横に振った。「そんな素振り、一度も見せたことないわ。とにかく、私と彼はあり得ないし」「言っとくけどね、あの人をイラつかせる性格を除けば、優良物件よ」胡桃は分析を始めた。「家柄よし、顔よし、スタイルよし。スペック的には潤に引けを取らないわ」そう言って、顔を近づけてきた。「一番のポイントは、あいつの周りに女の影がないこと。ねえ、可能性として……あの大輔が、実はまだ『魔法使い』って可能性ある?」明里はきょとんとした。次の瞬間、胡桃が大爆笑し、つられて明里も吹き出した。そんなわけないでしょう。大輔は三十近い健康な成人男性だ。たとえ潔癖症だとしても、経験がないなんてあり得ない。ひとしきり笑った後、明里は尋ねた。「大輔にメッセージ、送った方がいいかな?一応、彼はあんなにゆうちっちのことを大事にしてくれてるし」「あっちから連絡してこないなら、放っておけばいいじゃない」胡桃はドライだ。「パパの座は、私の未来の夫に残しておいてちょうだい」「もしあなたが本当に結婚できたら、私、盛大に花火を上げてお祝いするわ」「言ったわね。絶対よ」胡桃が笑った。「ええ、早く見つけてね」二人はしばらく他愛ない話で盛り上がったが、やがて睡魔に襲われて眠ってしまった。昨夜は二人とも、それぞれの意
続きを読む

第326話

明里が初めて大輔に会った時、その美貌に息を呑んだことを今でも覚えている。もし、あの男らしい凛々しい眉や、彫刻のように通った鼻筋、そしてすべてを見下すような、不遜な瞳がなければ、彼は間違いなく中性的な美少年として、もてはやされていただろう。彼と知り合って数年になるが、神様はよほど彼を贔屓しているらしい。歳月は顔に一切の衰えを許さず、それどころかさらに磨きをかけている。老若男女問わず、誰もが恥じ入るほどの「顔面偏差値」だ。明里はまともに直視できず、視線を彼の肩あたりに逃がして口を開いた。「どうして来たの?ゆうちっちは散歩に出てて、いないわよ」大輔がここを訪れる理由は、十中八九「ゆうちっちに会うため」だ。だが今回、大輔の目的は違った。「お前に会いに来たんだ」明里の胸に、嫌な予感がよぎる。彼女はドアノブを掴んだまま、警戒心を露わにして尋ねた。「……何か用?」「中にも入れてくれないのか?」大輔の声には、隠しきれない棘があった。明里は言った。「今、胡桃が来てるの……」「彼女がいたらどうなんだ?俺はお前たちに会う資格もないのか?」明里は言葉に詰まった。口喧嘩において、大輔に勝てる人間などこの世に存在しない。仕方なく体をずらし、彼を招き入れた。大輔は彼女を一瞥し、「わかってるな?」と言わんばかりの視線を送ると、自分専用のスリッパに履き替えた。彼は我が物顔でソファの中央に陣取り、顎をしゃくった。「座れ」明里は対面のシングルソファに腰を下ろした。完全に立場が逆転している。まるで彼がこの家の主のようだ。「話せ」明里は彼の意図を察しつつも、あえて尋ねた。「何を?」大輔の、あの吸い込まれそうな美しい瞳が彼女を射抜いた。「昨夜どこで何をしていたのか。そして、どうして二宮と一緒にいたのか……全部話せ」彼は電話ですでに聞いているし、明里も答えたはずだ。その答えが、彼を傷つけるものだったとしても。大輔はさらに畳み掛ける。「なんの権利があって問い詰める、と言いたげだな?そうだな、ゆうちっちの『父親代わり』としての権利だ。お前がゆうちっちに新しい父親を探すつもりなら、俺の厳正なる審査をパスしてもらわないとな」明里は思わず反論した。「新しい父親って……」「ああ、そうだな。『新しい』じゃない」大輔の声が絶対零
続きを読む

第327話

その一言で、樹は全てが露見したことを悟った。彼は開き直った。「俺が何か悪いことでもしたか?明里がどうなろうと、お前に何の関係があるんだ?」実際、樹が潤に連絡したのは、頭に血が上った勢いだったことは否めない。だが彼なりに、賭けに出た側面もあったのだ。この三年間、大輔が明里にどんな想いを寄せているか、馬鹿でも気づく。痛いほどわかっている。だが本音を言えば、この二人が結ばれる未来は見えなかった。遠藤家の厳格さを、彼はよく知っている。両家は懇意にしているからなおさらだ。遠藤家が、バツイチ子持ちの女性を嫁として受け入れるはずがない。離婚歴や子供がいることが悪いわけではない。ただ、大輔の家柄や条件が良すぎるのだ。彼が強引に押し通そうとすれば、親族一同が卒倒しかねない。だから樹は、彼に諦めてほしかったのだ。そうでなければ昨夜、大輔に電話をかけることだってできたはずだ。酔った勢いで、もしかしたら大輔と明里の関係が一気に進展したかもしれない。だが彼はあえてそれをしなかった。どうせ今はもうこうなったのだし、自分は高飛びの最中だ。まさか大輔が海を越えて殴り込みに来るとは思えない。案の定、大輔はひとしきり罵詈雑言を浴びせた後、一方的に電話を切った。樹もまた、心身ともに限界だった。彼は自分が、胡桃に弄ばれて死ぬ運命なのだと思った。あの女は天敵だ。神が遣わした災厄のようだった。それなのに、自分の魂はどうしようもなく彼女に惹きつけられている。まるで前世からの因縁のように。明里もそう言っていた。大輔を見送った後、二人は再び話し込み、明里は樹のことを蒸し返した。「確かに樹が先に過ちを犯したけれど……こんなに長い年月が経ったんだもの。どんな恨みも、もう時効にしてあげてもいいんじゃない?」「うん、時効よ」胡桃は淡々と言った。「だから私たちは、もう終わりにするべきなの」「あなたって本当に……」明里は言葉を失った。「彼は前世であなたに、よっぽどの借りがあるのね」胡桃は数秒沈黙した。それから、静かに口を開いた。「アキ、私たち大学で専攻が違ったから、詳しくは話さなかったけど……私があの時期、どれほど惨めで、どれほど自分を憎んだか、あなたは知らなかったでしょう」自己否定、自己嫌悪、押しつぶされそうな劣等感。
続きを読む

第328話

一体何のつもりだろう?こんな時間に、わざわざ家まで押しかけてくるなんて。明里はため息をつき、パソコンを閉じて玄関へ向かった。ドアを開けると、案の定、潤が立っていた。黒いシャツに黒のスラックス。夜の闇を纏ったような姿だ。長身で端正なその佇まいは、まるで映画のワンシーンのように絵になる。だが明里に、それに見惚れている余裕などなかった。子供と鈴木を起こしたくなくて、背手にドアを閉め、尋ねた。「二宮社長、こんな時間に何か御用ですか?」そのあまりに他人行儀で、潤の胸の奥がざらついた。昨夜、二人は同じベッドにいたのだ。一線こそ越えていないが、かつてないほど濃密な時間を過ごしたはずだ。それなのに、彼女はどうしてこうも淡々としていられるのか?「……嘘をついていたな。お前は独身だ」潤は突きつけた。明里は凍りついた。彼は断言した。しかも、ここまで押しかけてきた事実が、何よりの証拠だった。「……私を、調べたの?」疑問形だったが、答えを待つまでもなかった。目の前の事実がすべてを物語っている。この瞬間、明里は心底安堵した。海外で宥希を出産した際、大輔に頼み込んで彼の出生記録を伏せておいて、本当によかった。でなければ、潤の手にかかれば、宥希の父親が誰かなど、容易に暴かれていたはずだ。明里は彼を睨みつけた。「一体、何がしたいの?」「アキ……」彼が、懇願するような声で名を呼ぶ。明里は眉をひそめた。潤はその拒絶を無視し、言葉を続けた。「場所を変えて話さないか?」「話があるならここで言って」明里は一歩も動く気はなかった。そもそも、彼と話すことなど何一つない。「村田明里」彼は改まってフルネームを呼んだ。明里は彼を見つめ返した。表情は柔らかいが、その瞳は冷たい光を宿している。「俺たち……もう一度、やり直そう」明里は、わが耳を疑った。無意識に耳を彼の方へ傾け、聞き返した。「……何て言ったの?」彼女の顔には驚きも感動もなく、ただ困惑の色だけが浮かんでいた。本当に、聞き間違いだと思ったのだ。一方潤は、これまでの人生でこれほど緊張したことはなかった。外見上は、相変わらず自信に満ちた、傲慢な男に見えるかもしれない。だが内心では、心臓が早鐘を打ち、指先が微かに震えていた。
続きを読む

第329話

どうして……?明里には、潤の行動の意味が本当に理解できなかった。潤の事業は、順調そのものだと聞く。研究職の自分には、ビジネスの世界など縁遠いが、それでも外で食事をすれば、彼の噂を耳にすることはある。彼の築き上げたビジネス帝国は、恐ろしいほど巨大で盤石だと。彼ほどの地位と財力があれば、今さら政略結婚で地盤を固める必要などないはずだ。ならば、自分の好きな女性と結婚すればいいではないか。例えば、あの陽菜のような。ただ、明里は以前陽菜に遭遇した際、その老け込んで憔悴した様子に驚いた覚えがある。もしかしたら、この三年の間に二人は破局したのかもしれない。だが、それが自分と何の関係があるというのか。まさか潤が、三年経ってから元妻である自分の良さに目覚めたとでも?あり得ない。では一体、何を考えているのか。明里はどう考えても答えが出ず、だからこそ、その理由を問いたださずにはいられなかった。「どうしてって?」潤は明里の言葉を反芻し、ふいと視線を逸らした。その問いは、彼にとって口にするのが照れくさかったからだ。明里は、彼が答えることはないだろうと高を括っていた。しかし、彼は重い口を開いた。「それは……お前のことが、好きだからだ」明里は弾かれたように顔を上げ、彼を凝視した。潤もまた視線を戻し、二人の目が絡み合う。彼は明里の瞳に浮かぶ、驚愕と当惑の色をはっきりと見て取った。潤の顔に、微かな気まずさが浮かぶ。青春を謳歌する若者でもないし、恋愛感情に突き動かされて衝動的になる年齢はとっくに過ぎている。三十路を目前にした男が、真正面から「好きだ」などと口にするのは、ただただ、気恥ずかしさで死にそうだった。だが、再び明里を追いかけると決めた以上、どうしても伝えなければならない言葉だった。明里は驚愕した後、乾いた笑いが込み上げてきた。潤は、よほど暇なのだろうか?元妻をからかって、暇つぶしをするなんて。彼女はこう告げた。「申し訳ありませんが、二宮社長。あなたの戯れ言に付き合っている暇はありません」潤は数秒考え、ようやく理解した。彼女は自分の言葉を、告白を、これっぽっちも信じていないのだ。無理もない。離婚して三年、音信不通だった男に突然「好きだ」と言われて、はいそうですかと信じる女はいない。
続きを読む

第330話

「潤。私はもう、過去のことはすべて忘れたわ。どうしてまた私の前に現れて……」彼女は彼の瞳を射抜くように見つめ、一言ずつ、区切るように告げた。「私を、不快にさせるの?」その言葉を最後に、彼女は背を向け、ドアを開けて中へと消えた。彼女の口から放たれた「不快」という言葉が、潤の心臓を打ち砕いた。彼はその場に立ち尽くしたまま、氷点下の洞窟に突き落とされたような寒気を感じていた。心臓がこれほど痛むものだとは、今の今まで知らなかった。啓太が潤を見つけた時、彼はすでに深酒を煽っていた。潤が離婚した当初、経緯はどうあれ、親友が独身に戻り、一緒に遊び歩けるようになったと、啓太は思った。彼は、潤がすぐに立ち直り、過去を忘れるだろうと高を括っていた。なんといっても、相手の明里はあんなにも冷酷で、あろうことか潤の子供を堕ろそうとした女だ。未練など残るはずがない。だが啓太の予想は外れた。離婚後の潤は、結婚前の彼と何ら変わらなかった。相変わらず女性を寄せ付けず、まるで出家した僧侶のような生活を送っていたのだ。もっとも、それは啓太が相変わらず両手に花とばかりに、服を着替えるようにパートナーを変えることの妨げにはならなかったし、毎日潤をからかうネタにも困らなかった。時折、啓太の思考回路は胡桃とシンクロすることがある。別れたら次!もっといい女なんて星の数ほどいる。離婚して何年も経つのに、元妻のことを想い続けるなんて、どこのロマンチストだよ?だが、目の前にそんな救いようのない馬鹿がいた。啓太の論理で言えば、相手が好きなら追えばいいし、手に入ればそれでいい。だが潤は、過去の呪縛から逃れられずにいる。明里の冷酷さと裏切りが許せない。けれど、手放すこともできない。あまりに矛盾している。明里が帰国したと知った時、啓太は悟った。ああ、潤はもう手遅れだと。案の定、こんなに長い付き合いの中で、潤がここまで自暴自棄に酒を飲んでいる姿を見たことがない。前回、彼がここまで泥酔したのは、明里と離婚した直後だった。正直なところ、親友として、啓太は潤を哀れに思っていた。この三年間、潤が腹の底から笑っている姿を見たことがない。笑ったとしても、それは張り付いたような作り笑いで、瞳の奥は、決して笑っていなかった。啓太には理解で
続きを読む
前へ
1
...
3132333435
...
43
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status