プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~ のすべてのチャプター: チャプター 351 - チャプター 360

424 チャプター

第351話

たった一度、顔を合わせただけ。どれほど端正な容姿をしていようと、それだけで心を奪われるほど、明里は夢見がちな少女ではなかった。けれど、その後、不意に訪れた潤との再会が、彼女の運命を変えた。それは、あまりに危うい瞬間だった。ボールを追いかけて道路に飛び出した子供に、猛スピードの車が迫る。最悪の事態が頭をよぎったその刹那、潤がその小さな体を引き戻していた。明里もその場に居合わせていた。助けようと駆け出そうとしたが、あまりに距離があった。潤が人を救ったその瞬間を、彼女は目に焼き付けた。最初は親戚の子かと思った。だが、駆け寄ってきた母親は潤の前に膝をつき、嗚咽で言葉にならないほど泣きじゃくっていた。潤は何も言わず、ただ軽く手を振っただけで、その場を立ち去った。その迷いのない後ろ姿が、明里の心に深く刻まれた。恋は唐突に、そして抗いがたいほど鮮烈に訪れる。以来、彼女の心に他の男性が入り込む余地などなかった。この人が、彼女の青春のすべてを奪ったのだ。今、明里はまだ二十七歳。世間一般では十分に若いつもりだが、本人の実感としては、もうすっかり年老いてしまったような気がしていた。少なくとも、心にかつての瑞々しさは残っていない。だからこそ、潤の言葉を聞いても、一瞬だけ胸が騒いだだけで、すぐに凪のような平静を取り戻した。「変えられないこともあるよ。二宮社長、あなたとはもう関わりたくないわ。どうしてそこまで自分を追い詰めるの?」「過ぎたことだが、やっぱり話しておきたいことがある」潤は明里の瞳を直視できず、視線を傍らの観葉植物へと逃がした。自分が選んだ、あのプレゼントのことが頭をよぎる。これだけは、どうしても説明しておきたかった。「あの時のピアスだが……」口を開こうとしたが、言葉が喉に張り付いた。「ネックレスもピアスも、どちらもお前のために買ったんだ。けれど帰る途中で陽菜に会って、彼女がひどく気に入った様子だったから……てっきり、彼女がピアスを持っていったものだと思い込んでいた。まさか、ネックレスの方だったとは。お前がピアスを気に入らなかったから、後で別のものを買えばいい。どうせ好きじゃないなら、いっそ全部彼女にあげようかと、そう考えていたんだ。似たようなことが、他にもあったかもしれない。俺の配慮が足りなかった
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第352話

その自覚が、明里の全身に鋭い拒絶の棘を逆立てた。渾身の力で潤を突き放し、潤んだ目を真っ赤にして彼を睨みつける。「……これが、人を尊重する態度?嫌だと言っているのに、これじゃあセクハラよ!」再び車のドアに手をかける。潤にはもう、彼女を強引に引き止める勇気など残っていなかった。カチリ、とロックが解除される。明里は車を飛び降りると、振り返りもせず足早に歩き出した。背後でドアが閉まる音。そして、追いかけてくる足音が聞こえる。潤がその腕を掴もうとして――けれど、先ほどの彼女の拒絶を思い出したのか、空しく宙をかいた手を、力なく引っ込めた。「胡桃に訊かれたんだ。どうしてお前と結婚したのかって」不意に背中に投げかけられた言葉に、明里の足が止まった。「好きだったからだ」潤の声は、これまでにないほど率直で、震えていた。「俺がおじいさんに頼み込んで、強引に許しをもらったんだ。結婚したいと願った相手は、後にも先にもお前だけだった」制御不能な感情の奔流が、胸の内で渦を巻く。それは、一度溢れ出せば二度と収まりそうにないほど激しいものだった。彼女は再び足を上げ、前へと歩き出す。今度は、背後の足音が追いかけてくることはなかった。エレベーターに乗り込む直前、スマホの通知が鳴った。潤からのメッセージだ。【お前の気持ちを第一に考えながら、追いかける。今夜はゆっくり休んで。また明日】家に着くと、宥希はすでに鈴木と夕飯を済ませ、おもちゃで遊んでいた。明里の姿を見つけるなり駆け寄ってくると、首にしがみつき、頬にちゅっとキスをしてくれる。「ママぁ」甘えた声で呼ばれ、その無垢な笑顔を見て、明里はようやくすべての葛藤を心の奥底へと押し込めることができた。宥希を寝かしつけ、ようやく独りで考えに耽る時間ができた。ぼんやりと考え込んでいると、優香からメッセージが届いた。【明里さん、あのお金、ペイペイに送っておいたから確認してね!】明里が履歴を確認すると、そこに並んだ桁外れの数字に、思わず息を呑んだ。慌てて優香に送り返そうとしたが、ブロックされているというメッセージが出て送れなかった。すかさずラインに新しいメッセージが届いた。【絶対受け取らないと思ったから、一時的にブロックしちゃった。えへへ、私って賢いでしょ?】明里は困
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第353話

潤が本当にこれほどまで早く現れるとは、明里は思いも寄らなかった。けれど、今はまだ宥希に彼を会わせたくない。彼女は急いで玄関口へと向かった。「鈴木さん、ゆうちっちが起きたか見てきてもらえるかしら?」鈴木がその場を離れるのを確認してから、明里は玄関に立ち、彼を冷ややかな目で見据えた。潤は中に入るつもりはないらしく、手に持った袋を差し出してきた。「朝飯だ」しかし、明里は受け取ろうとしない。「鈴木さんが作ってくれるから、結構よ」「今日は作らなくていい。受け取らないなら、中まで入って直接食卓に置くことになるが」脅しに近い言葉に、明里は渋々それを受け取った。「じゃあ、下で待ってる」背を向けようとする彼に、明里は堪らず声を上げた。「二宮社長、そんなことをされると困ります」潤は少し足を止め、思案するように尋ねた。「……じゃあ、中に入って、一緒に食べるか?」答えの代わりに、明里は勢いよくドアを閉めた。バタン――乾いた音が廊下に響く。ちょうどそこへ、鈴木が宥希を抱いて戻ってきた。まだ眠そうに目をこすっていた宥希が、ドアの音にびくっと肩を揺らす。明里は慌てて袋をテーブルに放り出し、我が子を抱き上げた。しばらくあやして落ち着かせてから、鈴木に告げる。「今日は朝食、作らなくて大丈夫よ」潤が買ってきたものは、驚くほど豪華なものだった。宥希は中でも肉まんが気に入ったようで、一つ食べ終えると、自分でもう一つ取ろうと小さな手を伸ばす。「待って、ゆうちっち。まだ熱いから」出来立てのそれはまだ湯気を立てており、中の餡はとろりと熱々だ。明里は子供に直接触らせず、皮を少し割いて熱を逃がしてから、一口ずつ食べさせた。「ゆうちっちがこんなに気に入るなんて。今度、私たちも買いに行きましょうか」鈴木が袋の中を覗き込む。「どこのお店のかしら?」だが、それは店名の入っていない無地の紙袋だった。どこで手に入れたものか、さっぱりわからない。鈴木が明里をちらりと見て、何か言いかけて口を噤んだ。明里はその視線の意味を瞬時に理解した。潤に訊けばいい、と言いたいのだ。訊くわけがない。朝食を済ませ、明里は少し焦っていた。潤が外で待ち構えていて、宥希の姿を見られてしまうのが怖かったのだ。彼女は宥希を鈴木に預け、先に家を出た。
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第354話

明里はようやく顔を上げ、彼を一瞥した。「二宮社長は端正な顔立ちをされていますから。年頃の女の子たちが目を奪われるのも、無理はないでしょうね」潤がデスクの前に立ち、両手をついて身を乗り出した。「嫉妬したか?」明里は反射的に椅子を引いて、彼から距離を取る。「二宮社長、午前中の見学はどちらへ行かれますか?」潤はゆっくりと体を起こし、彼女を見下ろした。「どこにも行かない。お前の仕事ぶりをここで見守らせてもらう」キャンパスを案内するのも気が進まなかったが、この狭いオフィスで二人きりで過ごすのはそれ以上に苦痛だった。「お忙しくないのですか?」明里が怪訝そうに尋ねる。「会社へ行かなくていいんですか?」「昨夜は深夜二時まで残業していたからな」潤はさも当然かのように言った。それから六時過ぎには朝食を届けに来たのだ。睡眠時間は三時間にも満たないはずだ。明里は一瞬、絶句した。「そんなことをして、何になるの?」「追いかけると言っただろう」「でも、こんなことまでする必要は……」「じゃあ、他にどうやってお前に近づけばいい?」潤はソファに深く腰を下ろした。「村田先生、何かいい助言でもくれるか?」明里は視線を逸らした。「こんなやり方、迷惑なだけよ」「仕方ないんだ。これ以外の方法を思いつかない」明里は黙り込んだ。潤もそれ以上は何も言わず、スマホを取り出して書類に目を通し始めた。勳から送られてきた資料や、未読のメールを淡々と捌いていく。その間、明里は他の教職員に呼ばれて何度か席を外した。戻ってくるたび、潤はまだそこに座っており、時折、疲れを感じるのか首の後ろを揉んでいた。ソファの座面が低いせいか、彼の長い脚はかなり窮屈そうに折り畳まれている。その様子を見かねて、明里は教案を抱えたまま口を開いた。「私の席に座って」潤は不意に声をかけられ、画面から視線を上げた。「どうした?」流石に「座り心地が悪そうで気の毒だ」とは口にできず、明里は教案を胸に抱え直す。「私は隣のオフィスへ行くから」「なら、俺も行こう」「ちょっと!」まさかの言葉に、明里は語気を強めた。「同僚と授業の打ち合わせがあるの。そこまでついてくるなんて、どういうつもり?」潤は彼女が自分を避けようとしているのではなく、本当に用事があることを悟り、一歩引い
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第355話

ふとした瞬間、あの幼い命の存在が潤の脳裏をよぎる。離婚した後、彼女がどのような道を歩んできたのか、彼は何も知らない。けれど、彼女はあの男と別れたのだ。その相手は、高橋拓海という男でもなかった。ならば、離婚した後に知り合った誰かと考えるのが自然だろう。出会って数ヶ月で深い仲になり、その身に宿した。そして子供が生まれた後、また別れを選んだ……想像するだけで潤の胸は焼かれるように疼き、変えようのない現実は受け入れるほかなかった。明里が戻ってきたのは、午前十一時半を回った頃だった。彼女がオフィスに入ると、潤はデスクに向かって俯き、熱心にペンを走らせていた。仕事の書類だろうか。明里は近づきすぎないよう入り口に立ち、事務的に声をかけた。「二宮社長、お昼にされますか?」潤がペンを止め、顔を上げる。「村田先生が、食事に誘ってくれるのか?」明里は思った。今の潤は、以前の彼とは明らかに違う。本当に同一人物なのだろうかと、何度も疑いたくなるほどだ。潤が自分を愛し、追いかけ、やり直したいと願う――そんな言葉、到底信じられるはずがない。きっと、ただ暇を持て余しているか、あるいは自分が去ったことでプライドを傷つけられ、強引に連れ戻そうとしているだけなのだ、と。明里は頑なに心を閉ざしていた。潤が「人を愛する」という感情を理解しているとは、どうしても思えなかった。彼はあの頃の自分の絶望を、何一つ分かっていなかったのだから。けれど、それはもう過ぎ去ったことだ。今さら掘り返すのも大人げない。だが、口に出さなければ、あの頃の苦みも痛みも、癒えない傷として心の底に澱のように残り続けるだろう。たとえもう潤を愛していなくとも、若き日に刻まれた傷痕は、一生、消えはしないのだ。そんなこと、潤には永遠に理解できないに違いない。結局、昼食は共に摂ることになった。午後は講義がある。潤は当然会社へ戻るものと思っていたが、何を思ったのか、彼は教室までついてくると、最後列に陣取って真剣な面持ちで聴講を始めた。明里の講義は学内でも評判だった。専攻の学生のみならず、他学部からも聴講生が集まるほどだ。数百人を収容する大教室。ずらりと並んだ若者たちの頭越しに見ても、潤の存在感は圧倒的だった。その長身、端正な容姿、そして全身から漂う品格。二
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第356話

実のところ、ここ二日ほどの明里の心境は、心なしか、晴れやかになっていた。潤は相変わらず大学に居座っているが、以前のように四六時中オフィスに張り付くような真似はしなくなったからだ。彼なりに、彼女に「一息つくための余白」を与え始めたのだろう。講義中、最後列で聴講している姿は相変わらずだったが、いつ視線を向けても彼は真剣そのものだった。おそらく、教室で最も集中しているのは彼に違いなかった。けれど、オフィスで二人きりになることはもうない。明里が忙しくしていれば、彼は彼で適当な場所を見つけ、自社の仕事を処理しているようだった。「俺は村田先生を口説いている」かつて彼が学食で放ったその不敵な言葉は、瞬く間に学内へと広まった。明里は自らを「既婚者」と称していた。それなのに、若き実業家と「ただならぬ仲」にある――学内では、そんな憶測混じりの噂が飛び交っていた。潤がその事実を知ったのは、少し後のことだ。偶然、明里の同僚たちが陰で自分たちのことを囁き合っているのを耳にした。潤は遅まきながら気づいた。自分の独りよがりな振る舞いが、明里の評判に影を落としていることに。彼は彼女と一定の距離を保つことに決めたが、同時に手を回し、明里がすでに「離婚済み」であることを学内に周知させた。それは彼女を守るための、致し方ない選択だった。独身の女性に言い寄る男が現れるのは、至極当然のこと。不道徳な不倫関係だと誤解されるわけにはいかない。こうして、明里がバツイチで子持ちであるという事実は、瞬く間に広まることとなった。明里自身は、それを特に気に留めてはいなかった。最初に「既婚」と告げたときも、離婚していると言うべきか迷ったのは事実だ。ただ、独身だと言うと余計な面倒が起きそうだったから、便宜上そう言ったに過ぎない。今、図らずも潤が真相を明かしてくれたのなら、否定するつもりもなかった。ただ、一つだけ計算違いがあった。真実が知れ渡ったことで、同僚たちの視線が変わり、中にはメッセージで告白してくる者まで現れたのだ。海外にいた頃も、明里は何度も熱烈なアプローチを受けてきた。その美貌に加え、東洋人らしい神秘的な佇まいは、周囲を惹きつけて止まなかった。だからこそ「既婚」という盾を使い、そうした面倒を遠ざけてきた。ま
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第357話

明里がふと前方に目を向けると、そこには運転手のほかに秘書の勳が控えていた。部下の前で言い争うのも憚られ、彼女は唇を噛んで黙り込むほかなかった。潤もまた沈黙を守っていたが、おもむろに一つの小箱を差し出してきた。明里はその箱を一瞥しただけで、受け取ろうとはしなかった。「持って帰ってくれ。家で見て、もし気に入らなければ捨てて構わない」潤の言葉にも、彼女は微動だにしない。他人の目がある手前、潤も深い話は避けたかった。けれど、溢れ出す想いを抑えきれず、彼はついに口を開いた。「安心してくれ。もう、お前に辛い思いはさせない」唐突に投げかけられた言葉に、明里は思わず彼を睨みつけた。けれど潤は言葉を続けた。「以前のことは、すべて俺が悪かった。自分を変えるチャンスを、一度だけでいい、くれないか」助手席の勳と運転手は、もはや「無」の境地だった。呼吸すら潜めて、後部座席の緊迫感から必死に意識を逸らそうとしている。二人きりなら、彼が何を言おうと無視できた。けれど、部下がいる前でなぜこんな羞恥心を掻き立てるような真似をするのか。この男には、プライドというものがないのだろうか。まあ、一度口を開けたからには、一言だろうが十言だろうが、恥は同じことだ。それに今日の明里には反応があった。潤はもう、開き直っていた。「こんなに長い間、お前を想い続けているというのに、俺はいまだに『人を大切にする方法』が分からない。……もし間違ったことをしたら、遠慮なく言ってほしい。七年前からお前を愛する気持ちは、一度だって揺らいだことはないんだ」助手席で、勳の表情が目まぐるしく変わった。潤がこれほどまでに明里に執着していたとは、想像を遥かに超えていたのだ。勳は潤の右腕として、誰よりも彼を理解している自負があった。だが、その鋭い観察眼を持ってしても、潤の心の内にある「明里への愛」など微塵も見えなかった。潤が希代の策士なのか、それとも極度の不器用なのか……そもそも、この上司は「人を愛する方法」そのものが欠落していたのではないか。勳はそんな疑念を抱かずにはいられなかった。「……黙ってくださいっ!」怒りと羞恥で、明里の顔が真っ赤に染まる。この車に、なぜ後部座席を仕切るパーティションがないのかと、彼女は心底恨めしく思った。潤が、ふ
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第358話

明里は足を止め、振り返って彼を冷ややかに一瞥した。「二宮社長、お送りいただくのは、ここまでで結構です。さようなら」その言葉には、二人の関係をこれ以上踏み込ませないという拒絶と、彼が車を降りるのを阻止する牽制の意味が込められていた。潤がその意図を理解したかは定かではない。たとえ分かっていても、彼はあえて「分からないふり」を選んだ。目の前で大輔が子供を抱き、挑発的な視線を投げかけてきている。ここで何もせずに立ち去るなど、男としての矜持が許さなかった。もし明里がそんな彼の子供じみた対抗心を知れば、間違いなく呆れ果てていただろう。実のところ、今回の大輔はまったくの言いがかりだった。彼に潤を挑発する意図など毛頭ない。子供を迎えに来るのは、彼にとっての平穏な日課に過ぎなかった。車を降りた明里は、すぐに自分の言葉が無意味であったことを悟った。潤もまた、躊躇なく車を降りてきたのだ。だが、明里は潤に宥希を会わせたくはなかった。彼女は足早に歩み寄り、大輔が反応するより早く、その腕からその小さな体を奪い取るようにして我が子を抱き上げた。大輔は即座に異変を察知して構えたが、相手が明里だと分かると、戸惑いながらも子供を渡した。明里は宥希を抱きかかえたまま、一言の挨拶も残さずマンションの中へと消えていった。大輔はまだ、背後にいる男が誰であるかに気づいていなかった。慌てて彼女の後を追おうとしたその時、背後から、低く鋭い声が投げかけられた。「遠藤社長」大輔の足が止まり、ゆっくりと振り返る。「お前、なぜここにいる」「アキを送ってきただけだ」潤の口調には、隠しきれない独占欲が滲んでいた。「そっちこそ、こんな時間に何の用だ?」大輔はその声を聞き、二人の関係がどこまで進展しているのかを推し量ろうとした。送り届けてもらうほどの仲にまで戻ったのか。その事実に、大輔の胸に激しい怒りが沸き起こる。彼が明里に対して憤っていたのは、潤のような「一生を預けるには値しない男」の正体を早く見抜いてほしかったからだ。それなのに、彼女は懲りるどころか、潤との距離を再び縮めているように見えた。だが、大輔と明里の間にどのような確執があろうと、それを潤に悟らせるわけにはいかなかった。大輔は挑発的に唇を歪めた。「何をしに来たか、だと?俺はこの子の父
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第359話

二人は近くのカフェの個室へと入り、対峙した。数年前の二人に、冷静に席を並べてコーヒーを飲むなど、誰が想像できただろうか。沈黙を破ったのは、大輔の方だった。「彼女が海外にいた三年間……俺が何度、海を越えて会いに行ったと思う?」潤の喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。自慢げな大輔の問いに答えるつもりはない。「胡桃は毎週のように通っていたぞ」大輔は淡々と続けた。「俺はそこまではできなかったが、行くたびに長く滞在して、彼女と子供に寄り添った」潤の胸に、巨大な岩がのしかかってくる。持ち上げたコーヒーカップを、一口も飲めないままテーブルに戻した。明里との離婚は、あまりに惨めな決別だった。彼女が中絶を強く望んだこと、その深い絶望に沈んでいたこと……潤はそれから逃げるように仕事に没頭し、彼女を考える時間を塗り潰そうとした。忙しさという名の麻酔は、確かに彼女との繋がりを断つための、格好の隠れ蓑だった。だが、心の底に澱のように溜まった感情までは消せなかった。三年の月日が、すべてを風化させてくれると思っていた。けれど、明里の姿を再び目にした瞬間、その淡い期待は脆くも崩れ去った。この人生において、自分はこの人を二度と手放せない。そう確信したのだ。三年の歳月を無駄にした。これ以上、一秒たりとも時間を浪費するわけにはいかない。だからこそ、不器用なりに彼女を追いかけ始めた。でも正直、どう向き合えばいいのか分からない。こんなことをしたことがない。啓太が追いかけるのは見たことがあるが、あの手口は以前から鼻で笑っていた。大輔の言葉が、自分のあの三年間を思い出させる。決して良い日々ではなかった。「女手一つで小さな子供を抱えて生きるのは、並大抵のことじゃない」大輔の言葉が、潤の思考を引き戻す。「もう三年も経ったんだ。今さらまた彼女の平穏を乱して、一体何になる?」潤は沈黙を守った。答えはある。けれど、それを大輔に聞かせる必要はない。「二宮、お前が彼女を忘れられないのが、単なる独占欲や見苦しい未練だと言うなら、忠告しておく。もう二度と彼女に関わるな。お前は、彼女に対してすでに十分すぎるほどの『借り』があるはずだ」潤が冷たい声を絞り出した。「俺が彼女に、何を借りたというんだ」離婚前、彼女は産むことを頑なに拒
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第360話

ただ一つ、残酷なまでの真実が突きつけられた。――明里は、かつて自分を愛していたのだ。愛していたからこそ、結婚を承諾した。けれど、その真実を知った今、潤はむしろ絶望した。いっそ、彼女に最初から感情などなかった方が救いがあった。他に愛する男がいて、自分との結婚はただの妥協だった。そう思い込んでいた方が、どれほど楽だったか。目の前の現実は、あまりに無慈悲だ。明里は、心から自分を求めてくれていた。それなのに、自分はその心を何度も、容赦なく踏みにじり続けたのだ。そんな男が、今さら「好きだ」などとのたまう、無遠慮に彼女を追い回している。自分は彼女に借りなどない、と傲慢に振る舞っていた。明里が三年の結婚生活で味わったであろう屈辱と悲しみを思うと、潤の心は、錆びついたナイフで抉られるように痛んだ。大輔がその後何を話したのか、もう耳には入らなかった。潤はよろけるように立ち上がり、逃げるようにカフェを後にした。会社に戻っても、並べられた書類はただの紙屑にしか見えない。記憶が、強制的に三年前へと引き戻される。あの日、明里が男性の同僚と親しげに食事をしているのを目撃し、激しい嫉妬に駆られたこと。その夜、帰宅するなり彼女を激しく問い詰め、彼女を独占し屈服させることでしか、自身の不安を払拭することしかできなかった。陽菜の婚約のことすら知らず、後に隼人からの連絡でそれを知ることになるというのに。その後、嫉妬に狂った彼は、彼女の研究所の同僚を強引に異動させた。それから、あの犬のこと。祖父が可愛がっていた犬を陽菜が引き取り、彼もまた祖父への面影を重ね、そのポメを可愛がっていた。ある事件で、明里がその犬に危害を加えたと信じ込み、怒りのままに彼女を責め立てた。後になって、彼女がそんなことをするはずがないと冷静になったが、男のプライドが邪魔をして、謝る勇気が持てなかった。結果として、彼女に癒えない傷を負わせた。自分はずっと、彼女が拓海を愛しているのだと思い込んでいた。だからこそ、夫婦の営みのたびに明里が気乗りしない様子を見せると、彼の心は痛み、その反動で行為は荒々しくなっていった。陽菜に促されるまま本邸へ戻ったのも、マンションでは明里が別室で寝ようとするからだった。本邸なら、嫌でも同じ部屋で眠るしかないと考えたのだ
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