「でも、君は『気持ちが傾いた』と言ったじゃないか」「だから言葉の綾で違うって言ってるでしょ!」朱美は思わず彼を軽く叩いた。「本気で傾いたんじゃなくて、悪くないと思っただけよ!」それでも、裕之の不機嫌の虫は収まらなかった。「傾いた」というその言葉が、頭の中にこびりついて離れないのだ。朱美がそんな甘美な言葉を自分に向けてくれたことは、ただの一度もなかった。なぜその美しい言葉を、他の男に平然と使うのか。「それでもダメだ」「もう、あなたって人は本当に……」朱美は呆れて力が抜けた。「わかったわ。あなたがどうしても行きたくないって言うなら、私ひとりで会ってくるから」「君も行っちゃダメだ!」「もう会うと言ってしまったのよ」「本当は、君自身が彼に会いたいんだろう。あの頃気持ちが揺れた相手が、今どんな顔をして帰ってきたか、気になるんだろう」朱美は静かに裕之を見つめた。「それは、ただの言いがかりよ」裕之は黙り込み、むっとしたままだ。朱美はため息をつき、両手で彼の顔を掴んでこちらを向かせた。「おかしな嫉妬はもうやめてちょうだい。ふたりで一緒に行けばいいじゃない。先方は奥さんとお子さんも一緒に連れてくるんだから、単なる家族ぐるみの食事会よ」「何年も会っていないなら、それぞれ自分の生活を続けていればいいだろう。わざわざ会う意味がどこにある」「一度だけ会って、それでおしまいにするから」朱美は宥めるように言った。「ラインの交換はしたのか?」「してないわ。電話だけ」「連絡がきても返さないでくれ」「わかったわ、しないから」朱美は笑いながら彼を見つめた。「……まだ怒ってる?」「食事は一度きりだ」裕之は強い口調で断言した。「連絡は一切なしだ」「はいはい」朱美はもともとそのつもりだった。これだけ長く音信不通だったのだから、昔の縁などとっくに薄れている。ましてその縁は、友情以上のものになったことはないのだ。「傾いた」というあの言葉は、本当にただの言葉の綾であり、言い間違いだった。口からとっさに出てしまっただけなのだ。だが、その一言に裕之がどれほど深く嫉妬していたかに気づいたのは、夜半を過ぎてからのことだった。求める勢いは、いつもと変わらず激しかった。思わず朱美は息も絶え絶えに口に出した。「明日、朝から……
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