All Chapters of 青い鳥は遠い雲の彼方へ: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話

橘美咲(たちばな みさき)が命を落としたのは、新堂翔太(しんどう しょうた)と最も愛し合っていた頃。対向車が突っ込んでくる。その瞬間、翔太は真っ先に美咲をかばう。でも、激しい衝撃で美咲の体はフロントガラスを突き破り、宙を舞う。瀕死の美咲が目にしたのは、脚を骨折した翔太が必死に這いつくばって自分に近づき、力いっぱい抱きしめてくれる姿だった。翔太は声にならないほど泣きじゃくり、涙と口から流れる血が美咲の頬にぽたぽた落ちてくる。「美咲、お願いだ、死なないで……お前がいなきゃ生きていけないんだ」全身が冷たくなり、声も出ない。悔しさと未練だけが胸に残ったまま、静かに目を閉じる。――次に目を開けると、美咲は三年後の世界にいる。戻って最初に向かったのは、新堂家の豪邸。翔太に会って、サプライズを仕掛けたかった。けれど、再会の瞬間、翔太は眉をひそめる。「……お前は誰だ?どうやって入ってきたんだ?」美咲は固まる。説明しようとしたそのとき、主寝室のバスルームからバスタオルを巻いた女性が現れる。その女は、美咲に瓜二つの顔。美咲は息を呑む。その夜、美咲は新堂家の地下室に縛り付けられ、徹底的に問い詰められる。どれだけ自分こそが本物だと説明しても、二人だけの思い出を語っても、体にある唯一のほくろまで見せても、翔太の目はずっと冷たく、彼女を整形した偽物だと決めつけている。「俺の美咲は、昔からずっと俺のそばにいる。どんなに似せてきても、どれだけ情報を集めても、俺が愛する美咲を間違うわけがない。美咲は死んでなんかいない。ただ事故で性格が変わっただけだ。どんな美咲だって、俺が愛するのは彼女だけなんだ。お前がどんなに似ていようと、俺は認めない。俺が真実を突き止めるまで、お前はここで大人しくしていろ」美咲は新堂家で最底辺の存在になる。誰からも冷たく扱われ、ときには下僕のように雑用を押し付けられる。やがて、美咲は執事から真相を聞く。翔太は事故後、美咲の死を受け入れられず「記憶喪失」になっていた。そこに付け込んだのが「偽物の美咲」。美咲のすべてを奪っていた。美咲は翔太の記憶を呼び覚まそうと、何度も彼に近づき、二人だけの過去を再現し続ける。そのたびに、「偽物の美咲」から残酷な仕打ちを受ける。腕をわざと火傷させられ、生理のたびに池に飛び込ん
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第2話

翔太が美咲を抱き上げ、燃えさかる部屋から外へ連れ出した。まだ何が起きたのか理解できないうちに、翔太はすぐ踵を返し、周囲の叫び声と制止を振り切って再び火の海へ飛び込んだ。炎はもう部屋全体を飲み込もうとしていた。翔太の手の甲は火傷を負いながらも、半分だけ焼け残った写真を必死に掴んでいる。次の瞬間、翔太は美咲の手首を強くつかみ、血走った目で怒鳴る。「誰が奥さまの部屋で火をつけていいと言った?中に何があるか分かってるのか!」その瞳の奥に、一瞬だけ浮かんだ恐怖を美咲は見逃さなかった。おかしくて、笑いそうになる。何かを言おうとしたとき、里奈が飛び込んできて、美咲の頬を思い切り平手打ちした。里奈は目を細めて満足そうに言う。「このクソ女、よくもわざと火をつけて、私と翔太の思い出を壊してくれたわね」「誰か、この女を庭に連れて行きなさい!」すぐに屈強な男たちが現れ、美咲は庭の石畳へと引きずり出される。誰かが膝を蹴り上げると、ゴンッという音がして、美咲はその場に膝をつき、顔が真っ青になるほどの激痛が走る。里奈は手に鞭を握ると、容赦なく美咲の体に叩きつけた。「クソ女。私と翔太の物に手を出していいと思ったの?」鞭が打ち下ろされるたび、血がにじみ、体中に真っ赤な跡が広がっていく。美咲は唇を強く噛み締めて、鉄の味が口に広がる。ふと視線を上げると、翔太は写真を握ったまま立ち尽くしている。写真には、十八歳の美咲が制服姿で、屈託なく笑っている。翔太の手は小刻みに震えていた。指先が真っ白になるほど力が入っている。それでも、彼は最初から最後まで一言も発さない。写真の中の自分を見つめると、心が焼け焦げるような苦しさに襲われる。思い出す。十八歳のあの日、里奈が初めて翔太に好意を伝え、振られて逆上した。家に戻ると、八つ当たりで美咲の腕にカッターで何本も傷をつけた。その傷を見つけた翔太は、目を真っ赤にして里奈の前に立ちはだかり言った。「美咲だけが、俺のたった一人の好きな子だ。他の誰にも目なんか向けない。もしまた美咲を傷つけたら、その分全部返してやるからな」でも今、翔太はただ黙って、里奈が美咲を痛めつけるのを見ている。美咲は微かに笑い、涙で視界がにじむ。そのとき、翔太が里奈の手を握って止めた。「もういい、やめろ」里奈は苛立っ
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第3話

美咲は三日目を待たずして、両膝が青く腫れ上がり、膿み、高熱が下がらなくなった。目が覚めると、見慣れた狭い家政婦部屋のベッドに寝かされていた。枕元には解熱剤と冷たい水が置いてある。全身が冷たくて、息だけが熱を持つ。何度も体を起こそうとし、ようやく薬を口にした。そのまま長い夢を見た。夢の中で美咲は、幼い頃、佳子の愛情を受けていたことを思い出す。誠一は無口だけど、たまに微笑んでケーキを買ってくれた。けれど、妹の里奈が生まれてから、美咲は家の中で空気のような存在になった。親の気を引こうと騒いでも、返ってくるのは冷たい視線と叱責だけ。何もかも、里奈に譲るのが当たり前になった。その後、翔太の誕生日パーティーで、二人で木から子猫を助けたことをきっかけに、友達になった。里奈は美咲に嫉妬し、両親は里奈に美咲の服を着せて翔太に会わせたけれど、翔太は一瞬で「偽物」だと気づいた。その頃から、翔太は美咲の成長の中で唯一で、誰よりもまぶしい光になった。親に無視され叱られるときも、里奈にいじめられるときも、翔太だけは黙ってそばにいてくれた。校外の不良に絡まれたときも、翔太は必ず助けに来てくれた。中学生になってからは、翔太はストレートに美咲への気持ちを伝え、いつもそばで見守って、近づく男子は全部追い払った。地面にキャンドルを並べて告白したり、街全体を花火で彩ったり、ドローンで誕生日を祝ったり。考えうる限りのロマンチックで、ちょっとクサいサプライズを何度も何度もやってくれた。「美咲、俺はこの世界で一番お前を愛してる。親がちゃんと愛してくれなくても、妹に嫌われても、俺がいるから大丈夫だ。美咲には、世界一の愛をあげる。誰かをうらやましがる必要なんてないんだよ」熱い涙が美咲の頬を伝い、あっという間に枕を濡らす。夢から覚めると、美咲は布団を引き寄せて体を埋め、声を殺して泣いた。――翔太、どうして他の人を好きになったの?どうして、その相手がよりによって里奈なの?高熱はなかなか下がらず、二日間は朦朧としたまま過ごした。その間、家政婦たちがご飯を持ってくるときに、廊下でおしゃべりしているのが聞こえた。「旦那様、昨日うっかり奥さまのネックレスを壊しちゃったから、今日は朝からずっと謝り倒してるみたいよ」「聞いた?旦那様、ジュエリーオー
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第4話

二日後は、翔太と美咲の結婚記念日だった。毎年、盛大なパーティーが開かれ、街の有名人たちが招かれて、二人の愛を祝福する。今年は、里奈が美咲の代わりに主役として現れ、家政婦の中から美咲だけを指名した。「あんた、こっちに来て。入場のとき、私のドレスの裾を持ちなさい」美咲はメイド服のまま里奈の後ろに付き従い、腰をかがめてドレスの裾を持った。二人の瓜二つの顔が並んで、会場中がどよめきとざわめきに包まれる。「この家政婦、誰なの?美咲さんにそっくりじゃない?」「双子だなんて聞いたことないけど。この人、里奈さんよりも美咲さんに似てない?」「ありえないでしょ、だってメイド服着てるし」里奈が手を叩くと、みんなが一斉に二人を囲んだ。翔太は美咲の前に立ち、あえて里奈の隣に並ぶ。「この女、三ヶ月前に新堂家の別荘に忍び込んで、自分こそが本物の美咲で、翔太の妻だと騒いでます。それに、私が偽物ですって」会場は騒然とし、招待客たちが美咲をじろじろ見て、まるで安物の商品でも見るかのような視線を向けてくる。「笑っちゃうよね、よくいる整形女でしょ。ちゃんと新堂社長と美咲さんの仲を調べもしないで」「こんなの空気を汚すだけだよ。美咲さんが優しいから許してるだけで、普通だったらとっくにいなくなってるよ」美咲は背筋を伸ばし、無表情のまま立っている。けれど、手のひらには爪が深く食い込んでいた。会場の隅で、橘家の両親が前に出てきた。佳子は里奈の手を取って言う。「美咲はずっと私たちのそばにいます。親が自分の娘を見間違えるわけないでしょう?私たちの大事な娘を、どこの誰とも知れない女が、真似できるはずないでしょ」「ハハハ!」という嘲笑が、美咲の耳にぼんやりと響く。ただ、美咲は誠一と佳子をじっと見つめ、目元がじわじわと赤く染まっていく。今まで何度も、両親に褒めてもらいたくて必死に尽くしてきたこと。翔太と結婚した後も、ずっと両親の言いなりになって、家族のために尽くしてきたこと。思い返せば全部、滑稽な冗談みたい。「翔太、あなたはどう思う?」里奈が笑顔で翔太を振り向く。翔太は拳を背中に隠し、美咲を無表情で見下ろす。「自分の妻を見間違えるはずがない。俺の心にいるのは、たった一人の妻だけ。どんなに似せてきても、他の女に興味を持つわけがな
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第5話

美咲は激しく抵抗していたが、やがて痛みと絶望に飲み込まれ、力が抜けた。そのまま引きずられていった。個室に閉じ込められ、ベッドに押し倒され、服を無理やり破られる。水野は目を血走らせ、興奮した様子で美咲の体を乱暴にまさぐる。美咲が抵抗しなくなると、ますます好き勝手に触り続けた。美咲は虚ろな目で天井の灯りを見つめながら、そっと手をベッドサイドに伸ばした。水野が油断した瞬間、ベッド脇のスタンドを手に取ると、全力で水野の頭めがけて振り下ろした。鈍い音と共に、額から真っ赤な血が流れ出す。美咲は急いで部屋のドアを開け、そのまま逃げ出した。パーティー会場を抜けて、道路沿いをひたすら走る。涙があふれて、風に吹き飛ばされていく。この瞬間、翔太と過ごした日々が走馬灯のように頭をよぎる。必死に自分を守ってくれた翔太の姿。命がけで水野と殴り合ったあの日のこと。悪夢にうなされた夜、やさしく抱きしめてくれたこと。でも、思い出の中の翔太はやがて里奈を抱きしめて踊り、冷たいまなざしで美咲を見下ろす今の姿に変わる。その視線は、鋭い刃物みたいに、何度も心を切り裂いていく。どれだけ走ったか分からない。ふと、高級車が目の前で止まり、美咲は立ち止まった。鼻の奥に血の匂いが広がる。運転席には無表情な翔太、その隣には憎しみに満ちた目で睨む里奈がいる。二人が車を降りて近づいてくる。里奈が声を荒げた。「私の許可なく、勝手にパーティー会場を抜け出すなんて、誰が許したの!礼儀も知らないくせに。今日、あんたがどれだけの人に迷惑をかけたかわかってる?みんな大事なお客様なのよ!その人たちの世話なんて本来なら光栄なことなのに、空気も読めずに、新堂家の名を汚して!」美咲の心臓がきゅっと縮まる。極限の怒りで目が真っ赤になる。それでも美咲は翔太をまっすぐ見つめて問いかけた。「……あなたもそう思ってるの?」里奈も翔太を見つめる。翔太は視線をそらしたまま言った。「妻の考えは、俺の考えだ」その瞬間、美咲の胸が音を立てて砕けていく。「わかった」拳を握りしめ、目に涙をためて、声を震わせる。「翔太、あなたが望むなら、全部やる」これで全部、翔太に守ってもらった恩も、命を救われた借りも、返したことにする。ここから先は、もう何も残らない。もう翔太に、何一
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第6話

バキッという音が響き、美咲は自分の足の骨が折れる感覚をはっきりと感じた。激しい痛みが全身を貫いて、思わず悲鳴が出た。世界がぐらりと揺れる。「やめろ!すぐ止めろ!」翔太が乗馬場に駆け込んできて叫んだ。他の馬たちはすぐ止まったが、里奈の馬だけは暴走したまま。「翔太、助けて!馬が言うこと聞かない!翔太、助けて――!」意識が遠のく中、美咲は翔太が馬を追いかけて必死に走る姿を見た。彼は美咲を縛っていたロープを掴んだ。その瞬間、馬がぐいっと引っ張られ、ひづめを高く振り上げる。里奈は手を放して馬から落ちる。「翔太――!」土壇場で、翔太は美咲を一度だけ振り返ると、迷いなく里奈のほうへと走った。翔太はしっかりと里奈を受け止める。馬が再び甲高い鳴き声をあげて走り去る。最後に美咲が見たのは、翔太が里奈を抱きかかえて背を向ける姿だった。次に目を覚ますと、そこは病院だった。腰から下が包帯でぐるぐる巻きにされていて、あまりの激痛に意識がぼんやりする。看護師が点滴を打ちながら、もう一人の看護師とひそひそ話している。「本当にかわいそうね、若いのに馬に踏まれて足がダメになるなんて」「しかも隣の部屋も同じ名字だけど、あっちは驚いただけでケガもないのに、旦那さんがずっとつきっきりで看病してるらしいわよ。こっちは誰も見舞いに来ないのに」美咲は二人が話す声を静かに聞いていた。翔太がどれだけ里奈を大切にしているかを知って、もう心すら痛まなくなっていた。薬が効いてきて、体の痛みが少し和らぐと、美咲は再び眠りに落ちた。どれくらい時間が経ったのか分からない。うとうとする中で、誰かが美咲の手を握り、優しく髪を撫でてくれる感触があった。大きな手が美咲の脚にそっと触れる。耳元で、翔太の震える声が聞こえた。「ごめん、ごめん、美咲。俺、そんなつもりじゃなかった。まさかこんなことになるなんて思ってなくて……美咲、もう少しだけ我慢してくれ。お前を認められる日がきたら、絶対に償う。必ず足も治してやるから」美咲のまつげが震える。でも目を開けたときには、誰もいなかった。残ったのは空気に残る翔太の香水の匂いと、ゆっくり揺れるドアだけ。美咲はそっと目線を落とした。翔太、あなたの謝罪も、償いも、もういらない。美咲は三日だけ病院にいさせても
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第7話

美咲の頬はひりひりと焼けるように痛む。目の前の翔太を見上げるが、口を開きかけて、結局何も言えなかった。この瞬間、もうすべてがどうでもよくなる。事故の真相も、自分の正体も、翔太の愛も、裏切りも、もう関係ない。美咲の目にかすかに残っていた光が、完全に消える。翔太は手を背中で強く握りしめ、後悔の波が胸に押し寄せる。やりすぎたと心の中で思う。口を開きかけるが、泣きじゃくる里奈を抱きしめると、結局何も言わず、そのまま彼女を連れて去っていく。その夜、美咲はボディーガードたちに縛り上げられた。何が起きているのか分からないうちに、男の大きな手で思い切り頬を打たれる。一発、また一発。全部で九十九発も殴られ、顔は真っ赤に腫れ上がり、耳の奥がずっと鳴っている。口の中も血だらけになった。最後の一発が終わると、ボディーガードは冷たく言い放つ。「旦那様からの伝言だ。お前はただの使用人で、もしまた奥さまに手を出したら、今度はこんなもんじゃ済まないって」そう言い捨てて、美咲の体を引き上げ、主寝室の前に投げ捨てた。閉ざされたドアの向こうからは、途切れ途切れの甘い吐息がはっきり聞こえてくる。「翔太、今の私と、昔の私、どっちの方が好き?」「もちろん今のお前だ。お前だけを愛してる……」美咲は手足を縛られ、口も塞がれたまま、強制的にその声を聞かされ続けた。ふいに思い出す。翔太との初めての夜。あのとき翔太は、痛みでにじむ涙を宝物みたいにそっと拭ってくれて、「美咲、俺はお前だけを愛す。生涯、お前しかいらない」そう何度も何度もささやいてくれた。もう、翔太のことで泣くことなんてないと思っていた。すべてに絶望し、どうでもいいと自分に言い聞かせていたのに――気づけば涙が溢れて、床にポタポタと落ちていく。夜が明けるころ、美咲はやっと使用人部屋に放り込まれ、手足の縄を解かれた。休む間もなく、美咲は途中まで編んでいた猫のぬいぐるみを手に取り、続きを編み始める。ふと、八歳の夏の日の記憶が蘇る。大きな木の下、木漏れ日が翔太と美咲の顔に降り注ぐ午後。翔太の肩車で二人で子猫を助けた。それからずっと、その猫を二人で大切に育てた。まるで一緒に子どもを育てているみたいだった。その猫はずっと翔太のそばにいたけれど、美咲が十五歳のときに橘家の別荘へ
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第8話

里奈は勝ち誇ったような顔で美咲を見下ろした。「あんた、昨日の夜聞いてた?翔太は私だけを愛してる。今の私が好きなの。全部知ってて、あんたが本物の美咲だって気づいてても、私があんたをいじめるのを止めようともしなかった。翔太はもう、あんたのことなんて少しも愛してない!後悔してる?三年前に死んでいればよかったのに、なんでまた現れたの?」里奈は憎しみをあらわにして言い捨てる。「さっさと消えなさい。二度と現れないで!」美咲は皮肉な笑みを浮かべる。「里奈、本当に翔太が一途にあんたを愛してるなら、何でわざわざ警告しに来るの?どんな手を使って翔太のそばにいられるようになったのか、あんた自身が一番分かってるでしょ。翔太があんたを手元に置いてるのは――」「黙りなさい!」里奈は顔を歪めて叫ぶ。「翔太は私だけを愛してるの!このクソ女、あんたなんか、ここに現れる資格もない!」里奈は、いきなり美咲を突き飛ばした。美咲は冷たい表情のまま、里奈の手をがっちり掴み返す。そのまま、二人は一緒に海へと落ちていった。「きゃあ――!」里奈が甲高い声で叫ぶ。「奥さまが落ちた!」誰かが叫ぶ声が、デッキに響き渡った。翔太がすぐに飛び出してきて、コートを脱ぎ捨て、そのまま海に飛び込んだ。二人のほうへ向かって必死に泳いでいく。「サメがいる!」デッキの上で誰かが叫ぶ声が響く。美咲が振り返ると、遠くにサメの背びれが見える。翔太は必死に泳いで二人のもとにたどり着く。右には里奈、左には美咲。「翔太、助けて!」里奈が泣きながら叫ぶ。美咲は静かに翔太を見つめて、何も言わなかった。サメがどんどん近づいてくる。翔太の心が真っ二つに引き裂かれる。やがて、翔太は歯を食いしばりながら美咲に視線を向け、名前を呼ぶ。「美咲、もう少しだけ耐えててくれ。彼女を船に戻してから、すぐお前を助ける!」そう叫ぶと、翔太はすぐさま里奈を抱えて船へと向かった。美咲は二人の背中を見つめて、もう涙も出てこない。心はとうに死んで、痛みすら感じない。ただ、必死に前へ泳ぎ続けるしかなかった。それでも、サメとの距離はどんどん縮まる。「美咲、しっかりしろ――!」翔太の絶叫と、海に飛び込む音が聞こえる。サメはもう目の前まで迫っている。美咲は力尽き、絶望に沈みながら、遠く
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第9話

ヘリコプターが降下し、プロペラが海面に大きな風と波を巻き起こす。翔太は波に押し戻されながらも、歯を食いしばって必死に近づいた。ヘリから吊り下げられたロープのはしごが下ろされ、ボディーガードたちに支えられながら、美咲はゆっくり登っていく。「美咲!」翔太が怒鳴る。心臓がギュッと締め付けられ、手足が震えて力が入らない。頭の中はただひとつ。「美咲を絶対に行かせたくない。絶対に止めなきゃいけない!」翔太はボディーガードを次々に振りほどき、ロープのはしごをよじ登って美咲に近づく。ついに、美咲の足首を掴んだ――見上げた先にいたのは、美咲が冷たく見下ろすまなざし。それはかつての明るさも、三ヶ月間の苦しみも、何も残っていない。氷のように冷たい瞳だった。その視線は、何本もの氷の矢が一気に翔太の心臓を貫いたようで、呼吸すら止まりそうになる。このまま美咲を、本当に失ってしまう――そんな恐怖が、三年前の死別より何倍も翔太を追い詰めた。美咲の目に、もはや自分への愛情がひとかけらも見えなかったから。翔太は必死にその足を握りしめ、冷たい肌に赤い跡が残るほどに。「美咲!行かないでくれ!」翔太の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。何人ものボディーガードが翔太を引き離し、拳が容赦なく顔や体に叩きつけられる。美咲は一切振り返ることなく、翔太が痛みで力を抜いた隙に足を振り払う。そして、表情ひとつ変えず、翔太を思いきり蹴り飛ばす。翔太の体はその勢いで海へと投げ出された。美咲はそのままヘリに乗り込み、一度も翔太を振り返ることはなかった。翔太は、水しぶき越しに美咲の決然とした背中が消えていくのを見ていた。必死にもがきながら、何とか追いかけようとする。けれど、翔太は何度もボディーガードたちに引き戻される。全員がはしごを登りきると、はしごが引き上げられ、ヘリコプターは一瞬もとどまらず、そのまま飛び去っていった。「翔太!」里奈が救命ボートの上で叫ぶ。船員たちが力を合わせて、翔太を救命ボートに引き上げた。里奈と船員たちに囲まれ、何度も耳元で名前を呼ばれるが、翔太の意識はもう美咲のほうしか向いていなかった。彼の目には、三年前の事故で息をしていなかった美咲の姿、そして今の氷のような瞳と背中だけが、何度も何度もよみがえる。
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第10話

美咲は、もう本当に翔太の元を離れた。二人は死別も経験し、ようやく再会のチャンスをもらったのに、翔太は間違った選択をして、美咲の心をずたずたに傷つけてしまった。いや、違う。翔太は焦りながら部屋の中を行ったり来たりする。美咲のことなら分かる。あんなに自分を愛してくれた美咲が、まだ翔太の記憶が戻らないうちに、そんな簡単に彼の前からいなくなるはずがない。まさか……翔太の背中に冷たいものが走り、不吉な予感が胸に広がる。あの日の地下室の火事、美咲が見せたあの絶望の目。そして、あの日自分が会員制クラブの個室で友人たちと話したこと――「山田(やまだ)!山田はどこだ!?」翔太は怒鳴って執事の山田を呼び、あの日の美咲の動きを問いただす。さらにクラブの責任者にも連絡して、あの日の廊下の防犯カメラ映像を取り寄せた。すぐに映像が届く。そこには、個室の前で立ち尽くし、顔面蒼白で今にも倒れそうな美咲の姿があった。美咲はすべて聞いていた……自分が記憶を取り戻したことも、里奈を愛していると言ったことも、里奈が美咲を傷つけるのを翔太が止めなかったことも、全部。だから、美咲はわざと誕生日当日に翔太を捨てて、冷たく出ていったんだ。翔太の頭の中は真っ白になり、耳には自分の激しい心臓の音しか聞こえない。息をするのも苦しくなって、翔太は胸を押さえ、何度も大きく深呼吸を繰り返した。そのとき、突然スマホが鳴り響く。翔太がすぐに電話に出ると、医者の困惑した声が聞こえてきた。「新堂さん、奥さまの体はとても健康です。癌なんてどこにもありません……何かの間違いじゃありませんか?」翔太の頭に稲妻が落ちたような衝撃が走る。携帯を強く握りしめ、声がかすれる。「本当か?」「はい、間違いありません。何度も検査しましたが、奥さまはとても健康です」ドンッ――!翔太は激しい怒りにまかせて、部屋の木製のテーブルを蹴り倒した。夜の闇の中、スポーツカーが猛スピードで走り抜ける。運転席の翔太の額には青筋が浮かび、瞳には怒りの炎が燃えている。翔太は、美咲の身元を突き止めたあの夜のことを思い出していた。調査報告書を手に里奈を問い詰め、怒りをぶつける翔太を前に、里奈は顔面蒼白になり、そのまま倒れ込んだ。倒れた拍子にベッドサイドの書類が床一面にばらまかれる。そ
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