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第2話

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翔太が美咲を抱き上げ、燃えさかる部屋から外へ連れ出した。

まだ何が起きたのか理解できないうちに、翔太はすぐ踵を返し、周囲の叫び声と制止を振り切って再び火の海へ飛び込んだ。

炎はもう部屋全体を飲み込もうとしていた。翔太の手の甲は火傷を負いながらも、半分だけ焼け残った写真を必死に掴んでいる。

次の瞬間、翔太は美咲の手首を強くつかみ、血走った目で怒鳴る。「誰が奥さまの部屋で火をつけていいと言った?中に何があるか分かってるのか!」

その瞳の奥に、一瞬だけ浮かんだ恐怖を美咲は見逃さなかった。

おかしくて、笑いそうになる。

何かを言おうとしたとき、里奈が飛び込んできて、美咲の頬を思い切り平手打ちした。

里奈は目を細めて満足そうに言う。「このクソ女、よくもわざと火をつけて、私と翔太の思い出を壊してくれたわね」

「誰か、この女を庭に連れて行きなさい!」

すぐに屈強な男たちが現れ、美咲は庭の石畳へと引きずり出される。

誰かが膝を蹴り上げると、ゴンッという音がして、美咲はその場に膝をつき、顔が真っ青になるほどの激痛が走る。

里奈は手に鞭を握ると、容赦なく美咲の体に叩きつけた。「クソ女。私と翔太の物に手を出していいと思ったの?」

鞭が打ち下ろされるたび、血がにじみ、体中に真っ赤な跡が広がっていく。

美咲は唇を強く噛み締めて、鉄の味が口に広がる。

ふと視線を上げると、翔太は写真を握ったまま立ち尽くしている。写真には、十八歳の美咲が制服姿で、屈託なく笑っている。

翔太の手は小刻みに震えていた。指先が真っ白になるほど力が入っている。

それでも、彼は最初から最後まで一言も発さない。

写真の中の自分を見つめると、心が焼け焦げるような苦しさに襲われる。

思い出す。十八歳のあの日、里奈が初めて翔太に好意を伝え、振られて逆上した。家に戻ると、八つ当たりで美咲の腕にカッターで何本も傷をつけた。

その傷を見つけた翔太は、目を真っ赤にして里奈の前に立ちはだかり言った。「美咲だけが、俺のたった一人の好きな子だ。他の誰にも目なんか向けない。もしまた美咲を傷つけたら、その分全部返してやるからな」

でも今、翔太はただ黙って、里奈が美咲を痛めつけるのを見ている。

美咲は微かに笑い、涙で視界がにじむ。

そのとき、翔太が里奈の手を握って止めた。「もういい、やめろ」

里奈は苛立った声を上げる。「なによ、翔太。まさか庇うつもり?」

美咲が思わず顔を上げると、翔太は優しく里奈の手を包み、手首をさすった。「違うよ。お前の体が心配なだけだ。無理しないで」

美咲はその光景を呆然と見つめる。心臓を素手で抉り取られるみたいで、息が詰まるほど痛い。

どうして、あんなに自分を愛してくれた人が、こんなふうに変わってしまうんだろう。

二人で積み上げた年月が、どうして里奈の三年には敵わないんだろう。

苦しすぎて、呼吸すらできない。

里奈は鞭を地面に投げ捨てた。「今日のことはこれだけで済むと思わないで。絶対にきっちり罰を与えてもらうから!」

「いいよ」翔太は優しく微笑んで、空を見上げた。「じゃあ罰として、三日三晩、庭で膝をついててもらおう。ご飯はなしだ。

さあ、もう行こう」

二人は振り向いて、さっさと去っていく。

空が鳴って、大粒の雨が降り出した。

美咲は石畳の上で膝をつき、眼の前の大きな窓を見つめる。

翔太は里奈を優しく抱き上げ、ソファにそっと座られて、用意した果物を一口ずつ食べさせてあげている。

美咲は、里奈が翔太に甘える様子を見つめている。翔太が彼女を抱いて、階段をのぼる姿も、里奈がこちらを挑発するように見下ろしてくる視線も。

顔が濡れているのは、雨のせいか涙のせいか、もう分からない。心は痛みで、すっかり麻痺してしまった。

雨が止むころ、翔太は里奈を背負って庭を歩き、横にあるガラス張りの温室で花を眺めていた。

あの花の温室は、本当は美咲のためだけに作られた場所。今は、里奈の好きな花ばかりが植えられている。

夜になると、二人は庭のブランコで星を眺めたり、ダンスを踊ったりする。

かつて翔太が美咲に教えたダンスを、今は里奈に教えている。

翌日、橘家の両親が里奈に会いに来た。

庭で膝をついて憔悴しきった美咲を見ても、二人は気にも留めず、そのまま通り過ぎた。

「お父さん、お母さん」

美咲は二人を呼び止め、顔を上げてまっすぐに見つめる。「この三年間、翔太のそばにいたのは里奈なんでしょう?」

父の誠一(せいいち)と母の佳子(よしこ)の瞳がわずかに揺れ、無言で視線を交わす。

その瞬間、美咲はすべてを悟った。

思い返す。生まれ変わって両親を頼ったときも、家から追い出されたこと。小さいころから、何度も「里奈を優先しなさい」と言われ続けたこと。両親がいつも里奈だけを甘やかし、自分には理由も聞かずに罰を与えたこと。

目に涙がにじみ、息が乱れる。「お父さん、お母さん、私、本当にあなたたちの娘なの?里奈には、夫まで譲らなきゃいけないの?」

佳子は視線を逸らしながら、きっぱり言い放つ。「なにを馬鹿なこと言ってるの。この子、どこから来たのか分からないくせに。勝手に家族のふりしないで」

誠一は容赦なく美咲を蹴飛ばした。「俺たちの長女の美咲はずっと翔太さんのそばにいる。次女の里奈は海外に行ったんだ。お前なんか、何者でもない!」

二人は美咲に目もくれず、家の中へ入っていく。

窓越しに、三人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

美咲は地面に倒れこんだまま、動けなくなった。

やせ細った手で地面を掴み、真っ赤な目から涙がぽろぽろと落ちる。

もう、誰も美咲を選ばない。誰も美咲を必要としない。

――だったら、美咲も、もういらない。

何も、いらない。

美咲は携帯を取り出し、連絡先に登録してあった【実の両親】の番号に電話をかける。

「お父さん、お母さん、私、あなたたちのところに戻る。

十日後、迎えに来て」

十日後は、翔太の誕生日。

八歳のあの日、二人は誕生日パーティーで、捨て猫を助けたことで出会った。

二十八歳の誕生日で、美咲はきっぱりと翔太と決別する。もう二度と、振り返らない。
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