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青い鳥は遠い雲の彼方へ
青い鳥は遠い雲の彼方へ
Author: 奏

第1話

Author:
橘美咲(たちばな みさき)が命を落としたのは、新堂翔太(しんどう しょうた)と最も愛し合っていた頃。

対向車が突っ込んでくる。その瞬間、翔太は真っ先に美咲をかばう。でも、激しい衝撃で美咲の体はフロントガラスを突き破り、宙を舞う。

瀕死の美咲が目にしたのは、脚を骨折した翔太が必死に這いつくばって自分に近づき、力いっぱい抱きしめてくれる姿だった。

翔太は声にならないほど泣きじゃくり、涙と口から流れる血が美咲の頬にぽたぽた落ちてくる。「美咲、お願いだ、死なないで……お前がいなきゃ生きていけないんだ」

全身が冷たくなり、声も出ない。悔しさと未練だけが胸に残ったまま、静かに目を閉じる。

――次に目を開けると、美咲は三年後の世界にいる。

戻って最初に向かったのは、新堂家の豪邸。翔太に会って、サプライズを仕掛けたかった。

けれど、再会の瞬間、翔太は眉をひそめる。「……お前は誰だ?どうやって入ってきたんだ?」

美咲は固まる。説明しようとしたそのとき、主寝室のバスルームからバスタオルを巻いた女性が現れる。

その女は、美咲に瓜二つの顔。美咲は息を呑む。

その夜、美咲は新堂家の地下室に縛り付けられ、徹底的に問い詰められる。

どれだけ自分こそが本物だと説明しても、二人だけの思い出を語っても、体にある唯一のほくろまで見せても、翔太の目はずっと冷たく、彼女を整形した偽物だと決めつけている。

「俺の美咲は、昔からずっと俺のそばにいる。どんなに似せてきても、どれだけ情報を集めても、俺が愛する美咲を間違うわけがない。

美咲は死んでなんかいない。ただ事故で性格が変わっただけだ。どんな美咲だって、俺が愛するのは彼女だけなんだ。

お前がどんなに似ていようと、俺は認めない。俺が真実を突き止めるまで、お前はここで大人しくしていろ」

美咲は新堂家で最底辺の存在になる。誰からも冷たく扱われ、ときには下僕のように雑用を押し付けられる。

やがて、美咲は執事から真相を聞く。翔太は事故後、美咲の死を受け入れられず「記憶喪失」になっていた。

そこに付け込んだのが「偽物の美咲」。美咲のすべてを奪っていた。

美咲は翔太の記憶を呼び覚まそうと、何度も彼に近づき、二人だけの過去を再現し続ける。そのたびに、「偽物の美咲」から残酷な仕打ちを受ける。

腕をわざと火傷させられ、生理のたびに池に飛び込んでネックレスを探すよう強制される。ベッドの上には画鋲がばらまかれ、全身が血だらけになったこともある。

三ヶ月が過ぎるころ、美咲の体は傷だらけ。それでも翔太の目は冷たいまま。

ある日、美咲は執事に呼ばれて、翔太のいる会員制クラブへ衣装を届けに行く。ふと、個室のドア越しに会話が聞こえてくる。「翔太、あの家政婦が本物の美咲さんだって?三年間そばにいたのは、美咲さんの妹の橘里奈(たちばな りな)さんが整形した偽物だったって?」

翔太の声が聞こえる。「ああ、最初に見たときから怪しいと思ってた。今そばにいる美咲は昔と全く同じだけど、三年一緒にいた美咲は、どうも違和感があった」

翔太の仲間たちは首をかしげる。「じゃあ、偽物だって分かってるし、記憶も戻ったのに、なんで本物の美咲さんを受け入れないんだ?」

翔太はしばらく黙り込む。酒のせいで少し声がかすれている。「里奈は、ずっと俺のことを好きでいてくれた。俺のそばにいるために、本当の自分を捨てて、整形までして、一番苦しかったときも、そばにいてくれたのは里奈だったんだ。

里奈を好きになってしまった」

美咲は雷に打たれたように、その場に立ち尽くす。

「じゃあ、美咲さんは?本物の美咲さんはもうどうでもいいのか?最近、ひどい目に遭ってるって聞いたけど、なんで里奈さんを止めないの?

昔は美咲さんが指をちょっと怪我しただけで大騒ぎしてたじゃないか」

長い沈黙のあと、翔太が言う。

「……美咲のことは愛してる。でも、里奈はもう長くないんだ。医者から癌だって言われて、残された時間もわずかしかない。

ずっと、俺が美咲を大事にしてきたことを里奈は妬んでた。今まで俺は里奈に何もしてやれなかった。だからせめて、残りの時間だけは、あいつの好きにさせてやりたい。

里奈の願いは、全部叶えてやるつもりだ。里奈がいなくなったら、そのときに記憶が戻ったってことにして、本物の美咲を認める。美咲なら、俺が記憶を失っていたってことを知れば、きっと許してくれるはずだから」

耳の奥で、ただ耳障りなノイズだけが響く。口を開けても、声はまったく出ない。

こんなに痛いって、知らなかった。

心臓が、何千本もの針で同時に刺されるみたいに痛む。一度跳ねるたびに、全身が細かく裂けていく気がする。

あの日、翔太が月の下で「一生お前だけを愛する」と誓ったことを思い出す。胸に手を置いて「ここは美咲だけのものだ」と囁いてくれた。死ぬ間際、「お前がいなきゃ生きていけない」と泣いてくれた――

でも今、翔太はもう自分を愛してはいない。

すべての記憶を思い出しても、目の前で必死に縋っても、翔太は、自分を助けるどころか、他の女のために見て見ぬふりをする。

頬に、涙が伝う。

美咲は新堂家の地下室の物置きに戻る。そこには、かつて自分のものだった品々が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

美咲は、ほかの家政婦たちの噂話を思い出す。

「奥さま、事故から目覚めてから、性格も好みも全部変わっちゃったみたいでさ。昔の物なんて全部いらないって言われて、ほんとは全部捨てる予定だったのよ。

でも旦那様がどうしてもって言うから、奥さまの目につかないように、一部屋まるごと荷物置きにしたんだ。

旦那様って本当に一途な人よね。奥さまに関する物なら、どんな小さなものでも絶対に捨てられないんだって」

この三ヶ月、ここだけが、美咲にとってたったひとつの逃げ場だった。

翔太に冷たくされたり、里奈にいじめられるたびに、ここで過去の思い出や、昔の翔太にすがりつくしかなかった。

ここには、翔太が中学生のとき美咲に送った九九九通のラブレターがある。一緒に着たペアの服でいっぱいのクローゼットもある。世界中を旅したときの、数えきれないくらいのツーショット写真も。

美咲は無意識に一枚の写真を手に取る。

極寒のオーロラの下、翔太の肩車で手を伸ばす自分。

そして、翔太が優しくカメラを見つめている姿。

もう一通、十八歳の翔太が書いたラブレター。

【美咲、今日家族に頼み込んで、これから二年間は国内に残れることになった。美咲と同じ大学に行く。そばにいるって決めたんだ。

美咲、毎日毎秒、どうしてもお前のことを考えずにはいられない。俺は、一生、美咲だけを愛してる】

ぽたりと涙が手紙に落ちて、文字が滲んでいく。

指先が止まらず震える。美咲は信じられないくらい思い出が詰まった部屋の真ん中で、膝を抱えて声を殺して泣いた。

しばらくして、ゆっくり涙をぬぐい、ポケットからライターを取り出して、便箋に火をつける。

手紙も、写真も、二人の青春も、そして――彼と美咲の初恋も、全部、炎の中で燃やした。

部屋中がたちまち煙と火に包まれていく。美咲は中央に立ち、全てが灰になるのを見つめ続ける。

「火事だ――!」

家政婦の叫びで、すぐに警報が鳴り響く。

扉が激しく叩き割られる音。

美咲は動かず、ただゆっくりすべての終わりを見ている。

「美咲――!」

ドアが激しく蹴り破られる音が響木、美咲の耳に翔太の怒鳴り声が飛び込んでくる。

振り返ると、そこには心配と怒りで目を真っ赤にした翔太がいる――
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