All Chapters of 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない: Chapter 91 - Chapter 100

113 Chapters

90

 結菜は目を上げた。見上げる智輝の銀灰色の瞳は、真剣な輝きを帯びている。  樹と同じ色の瞳。同じ色の輝き。(嘘じゃない。この人は心から、そう思っている) 彼の瞳にいつかの日と同じ光を見つけて、結菜はそっと目を伏せた。(それなら、私も気持ちを返したい。そのためには……)「樹のDNA鑑定。受けます」「え?」 急な言葉に、智輝は目を見開く。「あの子のために、客観的な事実を明らかにしたい。桐生家のお母様は、引き下がるつもりはなさそうでした。これ以上、誤魔化すことはできません。鑑定結果という事実があれば、あなたも……智輝さんも、安心できるでしょう?」 5年ぶりに呼んだ、智輝の名前。  彼は言葉を失って、それから目に涙を浮かべる。くしゃりと泣き笑いをした。「ありがとう……結菜」 智輝もまた、彼女を名で呼んだ。「鑑定はあくまで手段だ。母や桐生家を納得させるための、ただの形式だよ。その結果があれば、より確実に君たちを守れる……」「はい。お願いします」 微笑んだ結菜の瞳からも、涙がこぼれ落ちる。  智輝は結菜に腕を伸ばしかけて、止めた。今はまだ、触れるのを許される時ではない。「今日はもう、帰るよ。樹くんによろしく伝えてくれ」「ええ。また来てください。あの子もあなたが好きですから」 玄関を出て、結菜は智輝を見送った。  彼の背中が廊下の角を曲がって消えるまで、消えてからも、長いことその先を見つめ続けていた。 ◇  DNA鑑定の準備が進む数日間、智輝は東京の本社には戻らず、この海辺の町に留まっていた。プロジェクトの指揮という名目はあったが、本当は結菜と樹のそばを離れたくなかった。 彼はこれまで以上に仕事に没頭した。それは以前のような、現実から逃避するための無機質な集中ではない。この町と、そこに住む親子との未来を、自らの手で築き上げるための熱のこもった仕事ぶりだった。 夕方、仕事の区切りがつくと、彼は決まって保
last updateLast Updated : 2025-11-14
Read more

91

「おじさん!」 弾むような声が自分を呼んだ。樹が滑り台の上で、元気に手を振っている。  結菜が「こら、危ないから下りてきなさい!」と言ったのを聞いて、樹は滑り台を滑り降りた。それから智輝の方へ駆け寄ってくる。「おじさん、なにしてるの? いっしょに、すべりだい、やろ!」 後から追いかけてきた結菜が、申し訳なさそうに頭を下げる。「すみません、智輝さん。この子は元気すぎて、いつもこんな感じなんです」「いや、いいんだ。……よし。滑り台をやろう!」 智輝は、樹の純粋な誘いを断ることができなかった。 智輝はスーツの上着を脱いでベンチに置くと、樹に手を引かれるまま滑り台へと向かった。  樹が階段を駆け上り、滑り降りてくるのを下で受け止める。「あははっ! おじさん、もういちどやろう!」「よし、いいぞ」 樹をまた階段の下まで連れて行く。その単純な繰り返しの時間が、智輝の心を不思議な温かさで満たしていった。  樹はとても楽しそうに笑っている。  結菜は少し離れた場所から、その光景を戸惑いながらも、優しい眼差しで見守っていた。(俺はあの笑顔を、ずっとそばで見ていられたはずだったんだ) 温かな幸せを感じる一方で、後悔が鈍い痛みとなって彼の胸を刺す。  智輝はもう、結菜の言葉を完全に信じていた。 しかし怜悧な母親や、桐生家の顧問弁護士たちを相手にするには、感傷や信頼だけでは通用しないことを彼は熟知していた。  彼らに反論の余地を与えない、絶対の証拠が必要だった。 ◇  その日の午後、智輝は滞在先のホテルのスイートルームで、一台のノートPCを開いていた。画面に映るのは、KIRYUホールディングス本社でもごく一部の人間しかアクセスできない、高度なセキュリティで保護されたビデオ会議システムだ。  画面の向こうに智輝が最も信頼を置く、社内の特別調査室の室長の顔が映し出される。「CEO。いかがなさいましたか」「極秘の調査を
last updateLast Updated : 2025-11-15
Read more

92

「承知いたしました」 智輝の命令に、室長はただ一言だけ答える。一礼して画面から姿を消した。 智輝は静かにPCを閉じる。これは結菜を疑うゆえの調査ではない。彼女と息子を、桐生家という巨大な権力から守るための、証拠という武器集めだった。 ◇  調査部門に命令を下した後も、智輝の心は晴れなかった。報告書に記されるであろう事実は、玲香の嘘を内外に証明するには十分だろう。だが彼が本当に知りたいのは、事実の羅列ではない。あの時、結菜がどんな顔で、どんな思いで、そこにいたのか。その真実の空気だった。(知りたい。知らなければならない) 智輝は結菜との何気ない会話の中で、彼女が『書斎喫茶 月読』という店を気に入っていると話していたのを思い出していた。全ての始まりとなった場所。彼と彼女が出会った場所。  そして、結菜を致命的に誤解する第一歩となった場所。  智輝は運転手を付けずに自ら車のハンドルを握り、東京にあるその店へと向かった。 記憶を頼りに近くまで運転し、車を停める。  裏通りに入った先に、その店はあった。蔦の絡まるレンガ造りのレトロな建物が、時間が止まったように佇んでいる。 古い木の扉を開けると、カラン、と澄んだベルの音が鳴った。店内は焙煎された珈琲の香ばしい匂いと、古い紙の匂いが満ちている。  客は少なく、それぞれが手元に本を開いて、互いに穏やかな距離を取っていた。  智輝は、カウンターの奥で静かに本を読んでいたマスターに声をかけた。「……コーヒーを」 マスターは、智輝の顔を見て少し驚いたようだったが、何も言わずに頷いた。  差し出されたコーヒーを一口飲んだ後、智輝は、意を決して口を開いた。「マスター。一つ、お尋ねしても?」「なんでしょう」「5年前のことです。俺の母と……早乙女結菜という女性が、この店で会っていたはずだ。覚えていますか?」 マスターは磨いていたグラスを置くと、智輝の顔をじっと見つめた。その瞳には全てを見透かすような、深い光が宿っている。智輝
last updateLast Updated : 2025-11-15
Read more

93

 マスターは続ける。「女性は――あなたのお母様は、分厚い封筒をテーブルに置いていました。悪いと思ったのですが、話が聞こえてしまいまして。手切れ金だと、お母様はおっしゃっていました。ですが、早乙女さんはその封筒を押し返すために触っただけで、受け取る様子はありませんでしたよ。その後は辛そうなお顔で、店を出ていってしまいました」「……」 智輝が無言でいると、マスターはふと思い出したように続けた。「そういえば、あなたもその時、店に来ましたね。何か誤解をしてしまったようでしたが……」 智輝が見たのは、結菜が封筒に手を伸ばしたところだった。それを彼は結菜が手切れ金を受け取ろうとしたのだと思い込んだ。  だが、違ったのだ。  玲香の卑怯な罠と、鏡子の冷たいやり口。  それでもあの時、結菜の話を聞きさえすれば解けた誤解が、彼の頑なさのせいで5年もの断絶を生んでしまった。5年の時を失ってしまった。  智輝は改めて、自分の態度の浅はかさを思う。鋭く重い痛みが胸を刺していた。「ええ。ひどい誤解をして、彼女を傷つけてしまった。悔やんでも悔やみきれません……」 マスターは何も言わない。ただ、空になった智輝のカップに新しいコーヒーを注いだ。  温かなコーヒーの湯気が、智輝の心を少しだけ解きほぐしてくれた。 ◇  その日の深夜、智輝は本社のCEO室で一人、送られてきた暗号化ファイルを開いていた。画面に表示されたのは、彼が命じた極秘調査の最終報告書だった。彼は、息を詰めてその一行一行を目で追っていく。 当然のことだが、内容は全て、玲香の嘘と結菜の潔白を示していた。  全ての嘘が言い逃れのできない証拠となって突きつけられる。智輝はデスクの前で崩れるように椅子に沈み込み、両手で顔を覆った。  CEOとしての仮面は完全に剥がれ落ちた。ただ一人の愛する女性を信じられなかった、愚かな男がそこにいる。(俺は何を見ていたんだ。いや、見ようともしなかった。彼女の涙も、苦しみも……全て、俺のせいだ……) 取り返しのつかない過ちの重さ
last updateLast Updated : 2025-11-16
Read more

94

 智輝は結菜の前に立つと、これまで見せたことのないほど弱々しい姿で、深く頭を下げた。「すまなかった……」 絞り出すような声だった。「5年前……俺は、君を信じるべきだった。君が金のために俺に近づいたと、玲香の言葉を鵜呑みにした。君が涙を流して真実を訴えようとしていたのに、俺は耳を貸そうともしなかった。一番苦しい時に、君を一人にした……。言い訳のしようもない。俺が、全て間違っていた」 智輝の肩がわずかに震えている。「君の純潔を奪った挙げ句、子供を作って。それなのに俺は責任を取るどころか、全てを見て見ぬふりをした。気づく機会はあったはずなんだ。だが俺は真実を知るのが怖くて、目を逸らし続けていた」 顔を上げた彼の瞳からは、こらえきれない涙がこぼれ落ちていた。「本当に、すまなかった……。君を信じられなかった俺を、どうか許してくれ」 プライドが高く、決して人前で弱さを見せなかった男が、子供のように声を殺して泣いている。涙の一滴一滴が、5年間ずっと結菜の心を凍らせていた氷を、ゆっくりと溶かしていくようだった。「俺は……君に……君たちに、何という仕打ちをしてしまったんだ。いくら謝ったところで、許されるものではない」 途切れ途切れに発せられる彼の言葉は、後悔と自己嫌悪に満ちている。結菜は彼に近づくと、震えるその肩に、ためらいながらも手を置いた。「……もう、いいんです」 結菜がそう言うと、智輝は弾かれたように顔を上げた。涙に濡れた銀灰色の瞳が、驚いたように結菜を見つめている。「もう、いいですから……。あなたの気持ちは、分かりましたから」 許す、許さない、という言葉は必要なかった。  結菜の5年間の苦しみが、彼の涙と心からの謝罪によって、ようやく報われた。結菜も静かに涙をこぼしながら、頷いてみせた。「ありがとう、結菜……」 肩に置かれた結菜の手を、智輝が握る。5年ぶりに触れた温かさに、結菜の心は満たされる。  おずおずと腕を彼の背中に回せば、力強く抱きしめられた。  ぴたりと重なった体から、互いの心臓
last updateLast Updated : 2025-11-16
Read more

95:宣戦布告

 結菜と和解した翌日。智輝は夜が明けるのを待って、桐生本邸の書斎にいる母親へビデオ通話をかけた。 もう迷いはなかった。結菜と樹を守る。その決意が、彼の心を鋼のように固めていた。 画面に映る智輝の表情はいつになく硬く、一切の感情を読み取らせない。それは彼が重要なビジネス交渉の場で見せる、CEOとしての顔だった。 画面の向こうで、鏡子がいつもと変わらぬ無表情で彼を見ている。 隣には智輝の父である雅臣(まさおみ)が同席しているが、鏡子は黙殺していた。智輝も父に話しかけようとはしない。「何の用件かしら、智輝」「結菜さんが、樹くんのDNA鑑定に同意した」 智輝は母親が何か言うよりも早く、交渉の余地のない口調で続けた。「だが、条件がある。第1に、鑑定は桐生家と無関係な、完全に中立な第三者機関で行う。機関の選定、手配はすべて俺がやる。あなたは結果を待つだけでいい」「……なんですって?」 鏡子は眉をひそめるが、智輝は構わず続けた。「第2に、結果が出るまでの間、あなたは早乙女さんと樹くんに一切接触しないこと。電話も、メールも、代理人を介した接触も、すべて禁ずる。もしこの約束を破れば、俺はこの話そのものを白紙に戻す。二度と鑑定には応じない」 息子からの完全な反逆である。 鑑定機関の選定も連絡の禁止も、全てが智輝の主導で行われるという、一方的な通告。それは、これまで鏡子が築き上げてきた親子間の支配関係が、根底から覆されたことを意味していた。(この私が智輝に、条件を突きつけられている……?) 何よりも彼女の心を抉ったのは、「母さん」から「あなた」へと変わった、突き放すような呼び方だった。 その一言は、親子の間にあったはずの親愛の情を断ち切って、2人が今は敵対関係にあるのだと、宣告するものだった。鏡子は表情こそ崩さないが、内心で激しい衝撃を受けていた。 彼女の脳裏に、5年前の光景が蘇る。結菜と別れさせて、智輝から一切の光が消えてしまった日々。息子は抜け殻のようになって、ただがむしゃら
last updateLast Updated : 2025-11-17
Read more

96

 失った時の絶望と、取り戻そうとする戦いの決意。それだけ智輝にとって、彼らが大切な存在なのだろう。 結菜と無理に別れさせたのは、本当に正しかったのだろうか。 一度は封じ込めたはずの自問が、無視できないほどの大きさで、再び彼女の胸をよぎった。 それでも鏡子は内心の動揺を押し殺した。 彼女は桐生家の実質上の当主であり、智輝は次期当主。 息子の経歴に、一点の曇りもあってはならない。 鏡子の持つ桐生家の地位と権力と財産を、智輝に正しく引き継がせる。それが母としての務めだと、鏡子は固く信じていた。 そのための問題は、全て排除しなければならない。「……好きになさい」 彼女はそれだけを告げると、一方的に通話を終了させた。◇ その夜、桐生本邸の広大なダイニングルームは、重苦しい沈黙に支配されていた。 磨き上げられた長いテーブルの両端に、鏡子と夫の雅臣がぽつんと座っている。一流シェフが腕を振るったであろう美しい料理の数々が並んでいるが、どちらもほとんど手をつけていない。 カトラリーが皿に触れる音だけが、時折、気まずく響き渡っていた。 鏡子はぴんと背筋を伸ばしたまま、目の前のコンソメスープをスプーンでかき混ぜているだけ。その顔からは表情が抜け落ちていたが、瞳の奥には静かな怒りが宿っているのが見て取れた。 夫の雅臣は、そんな妻の様子を恐れるように、ただ俯いて味のしない料理を機械のように口に運んでいた。「智輝は、どうかしています。たかが女一人のために、この私に、桐生家の意志に逆らうとは」 鏡子が吐き捨てるように言う。その声に含まれた強い怒りに、雅臣はびくりと肩を震わせた。 婿養子である彼は、この家で――妻の前で、長年息を潜めるようにして生きてきた。経営の才覚がない自分に代わり、桐生家と会社を一人で背負ってきた妻の重圧を知っているからだ。彼女にだけは、逆らってはいけない。(だが……) 雅臣の脳裏に、息子である智輝の姿が浮かぶ。5年前
last updateLast Updated : 2025-11-17
Read more

97

 雅臣が智輝に絵本を読んでやったのは、もう20年以上前のこと。それでも、あの姿は今でもはっきりと覚えている。大事な親子の思い出だった。(智輝の息子は、4歳の男の子だったか) 今、智輝には息子がいるという。4歳といえば、雅臣が絵本を読んでやった年頃と同じだ。 5年もの断絶を経て親子は再会し、和解した。 小さな息子との触れ合いが、一度は凍えていた智輝の心を溶かした。 あの冷静な智輝は、どんな顔で息子と接したのだろう。小さい頃、恐竜の本が好きだったのは覚えているだろうか。もし覚えていたら、息子にも読んであげただろうか。 微笑ましい光景を想像すると、少しだけ笑ってしまいそうになる。(あの子はきっと、父親としての務めを必死で果たそうとしている。愛した女性への罪の意識も深いだろうに、前に進もうとしている) そう思えば、同じ父親として智輝の苦境を見て見ぬふりはできなかった。 雅臣は緊張する心を押さえながら、カラトリーを置いた。 それから結婚して初めて、妻である鏡子の冷たい瞳を正面から見つめ返す。「鏡子さん」 鏡子の名を呼んだのは、いったいいつ以来だろう。頭の片隅でそう考えながら、雅臣は続けた。「少し、やり方が強引すぎるんじゃないか。私は経営のことは分からんが、父親としては分かる。あの子が、あんなに必死になるのは初めて見たよ」「何をおっしゃりたいの?」 鏡子が冷えた目で夫を見る。雅臣は震える膝を叱咤するように、続けた。「5年前、君があの女性と別れさせた後、智輝の目から光が消えたのを、君は覚えているか。あの子は、まるで抜け殻だった。だが、昨日のあの子の目は違った。苦しんで傷ついて、それでも失った宝物を今度こそ守り抜こうとしている……そんな目をしていた。違うかい?」 夫からの、これまで聞いたこともない的確な指摘。それは経営論でも、家柄の話でもない。ただ息子を想う、父親としての純粋な言葉だった。 その言葉が鏡子の心の最も硬い部分に、無視できないほどの衝撃を与えた。 彼女は何も言い返せ
last updateLast Updated : 2025-11-18
Read more

98

 智輝は分厚い封筒を手に、緊張した面持ちで立っていた。部屋の奥では、樹がお絵描きをしている。「結菜……開けるぞ」「はい」 2人はソファに座ると、智輝がゆっくりと封を切った。中から出てきたのは、何枚にもわたる検査結果の書類だった。智輝は結論が書かれているであろう最終ページを、緊張する指でめくった。『父子確率:99.99%』 疑いようのない事実が、そこに記されていた。2人はその文字を、ただ静かに見つめていた。「そのかみ、なあに?」 いつの間にかそばに来ていた樹が、テーブルの上の書類を不思議そうに覗き込んでいる。結菜は、愛おしい息子の頭をそっと撫でた。「あなたと……智輝さんの、大事な事が書いてあるのよ」「えー? なにそれ? おしえて!」 樹は興味津々といった様子で結菜の顔を見上げる。結菜は優しく微笑み返した。「あなたが、もう少し大きくなったらね」「???」 樹はきょとんとしている。鑑定結果があってもなくても、この子が結菜と智輝の大事な子であることに代わりはない。 2人は視線を合わせて、微笑んだ。 やがて智輝は顔を上げると、結菜の目を見つめたまま、ポケットからスマートフォンを取り出した。「結果を母に伝える。君も聞いていてくれ」「ええ。樹、少しだけお部屋に行っていてね」 結菜が樹を子供部屋に行かせた後、智輝は鏡子の番号を呼び出す。通話をスピーカーモードに切り替えた。もう隠し事はしたくない。結菜が全てを聞けるように。 数回のコールの後、スピーカーから鏡子の声が流れる。「……何の御用かしら」「鑑定結果が出た」 智輝の声は一切の感情を排した、事務的なものだった。「俺が依頼した、中立機関のだ。99.99%、俺の子だ。間違いない」 電話の向こうで、数秒の沈黙があった。結菜は息を詰めてスピーカーを見つめる。やがて聞こえてきたの
last updateLast Updated : 2025-11-18
Read more

99:桐生家の重圧

 智輝からの電話が切れた後も、鏡子はしばらく受話器を置いたまま、動かなかった。『99.99%、俺の子だ。間違いない』 息子の感情を排した声が耳に残っている。(やはり、そうでしたか) 鏡子の心に、喜びや驚きといった感情は一切ない。あったのは、ただ冷静な計算だけだ。 彼女にとって樹の存在は「桐生家の血」という、何物にも代えがたい「資産」だった。玲香との婚約が破綻した今、この資産を確保することは、桐生家の未来にとって最優先事項となる。 しかしその価値ある資産には、早乙女結菜という、家柄も釣り合わない不適切な女が「負債」として付属している。(やるべきことは、一つだけ) 鏡子の思考は明快だった。 ――資産(樹)を確保し、負債(結菜)を切り捨てる。 資産を確保した後は、徹底的な教育が必要になるだろう。あの女の元で、庶民として伸び伸びと育ったであろう子供の個性は、桐生家にとっては矯正すべき欠点である。 今の保育園も、友人関係も、全てリセットさせる。代わりに最高の家庭教師をつけて、幼少期から各種の勉学と帝王学を叩き込む。智輝がそうであったように、いや、それ以上に厳しく。あの女の痕跡など、一片たりとも残してはならない。(たとえ汚らわしい生まれの子であっても、私の手で桐生家の跡継ぎにふさわしい、完璧な人間に作り上げてみせます) それこそが桐生家の実質当主である鏡子の責務だと、彼女は信じて疑わない。 鏡子はずっと、KIRYUホールディングスを支え続けていた。彼女の父が現役時代から重役として、引退してからは実質のトップとして。 まだ若い息子が一人前になるまで、会社と家とをしっかり繁栄させる。それが鏡子の役目だった。 特に十数年前に父が引退した時は、智輝はまだ学生だった。 夫は経営に関しての能力が乏しく、頼りにならない。夫と鏡子の縁談を取りまとめたのは父だったが、どうしてこんな人を選んだのか鏡子はずっと不審に思っていた。 全ての重責が鏡子の肩にかかり、さしもの彼女もプレッシャーを感じたものだ。 会社と桐生家のために綾小路家
last updateLast Updated : 2025-11-19
Read more
PREV
1
...
789101112
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status