ホーム / 恋愛 / 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない / チャプター 71 - チャプター 80

氷のCEOは、愛の在処をもう知らない のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

113 チャプター

70

 メールの履歴は続いている。---From: Yuna.STo: Reika.A件名: Re: Re: 先日の件についてでは、お言葉に甘えさせていただきます。慰謝料及び養育費の前払いとして、3000万円を下記口座までお振込みください。綾小路さんなら安い金額でしょう? 早く支払ってくださいね。これが確認でき次第、二度と智輝様の前に姿を現さないことをお約束いたします。---◇ 結菜は、その画面を見て言葉を失った。あまりにも卑劣な嘘である。しかし彼女の頭をよぎったのは、別の考えだった。(DNA鑑定の話は、やはり智輝さん自身の意志だったのでは? 彼は私が金目当ての女だと今も疑ったまま、樹だけを取り上げる気でいる) つい先ほどの、智輝と樹の優しい光景が目に浮かぶ。 結菜は思うのだ。智輝は息子の樹さえいれば満足で、母親である結菜はいらないと感じているのではないか、と。(それならこの嘘に、乗ってしまえばいい) ――私が、5年前に金銭を要求した卑しい女だと思わせれば。そうすれば、彼は私という母親に完全に幻滅するだろう。その母親の子である樹を桐生家に引き取る考えを、諦めてくれるかもしれない。 結菜は息子を守るための最後の賭けとして、あえて「沈黙」を選んだ。その顔は青ざめて、唇を固く結んでいる。 それは、玲香の目には恐怖に怯える敗者の顔に見える。そして智輝の目には、真実を突きつけられて動揺する罪人の顔に映った。◇ 智輝はデータに目を通した。だがその文章から感じられる下品で浅ましい金の要求が、今目の前にいる結菜の不器用だが実直な姿とどうしても結びつかなかった。(この文章……。彼女の言葉ではない。俺が知っている早乙女結菜は、こんな言葉を使う女じゃない。……偽物だ) 智輝は玲香の期待するような動揺を見せず、タブレットから顔を上げると、感情を排した声で一言だけ告げた。
last update最終更新日 : 2025-11-04
続きを読む

71

 母親の口座まで指示したのは、母・鏡子であれば、智輝の名義の口座を動かせるかもしれない。そう考えてのことだった。「かしこまりました」 調査結果は、翌日の夕方には智輝の元に届いた。自社の調査部門が出した報告書は、玲香の嘘を木っ端微塵に粉砕する、完全な証拠の数々だった。【調査報告書(抜粋)】1.金銭授受に関する調査結果:5年前の指定期間内において、桐生智輝様、桐生鏡子様、綾小路玲香様、及び早乙女結菜様の個人・関連口座間で、報告された3000万円に該当する、あるいはそれに類する不審な資金の移動は一切確認されませんでした。2.提出されたメールデータに関する調査結果:当該メールデータのヘッダー情報を解析した結果、送信元とされる早乙女様のメールサーバーを経由した形跡はなく、第三者のサーバーを利用して偽装されたものであることが判明。添付されていたファイル形式にも、通常ではありえない改竄(かいざん)の痕跡を複数確認。データは100%捏造されたものと断定します。3.捏造依頼主に関する調査結果:データの偽装に使用されたサーバーの契約者は、都内のA興信所であることが特定されました。また当該興信所に対し、調査期間内に綾小路玲香様の個人秘書名義の口座から、多額の調査依頼料が支払われている事実を確認済みです。(玲香……! やってくれたな) 報告書を読んだ智輝の表情から、一切の感情が消える。婚約者である玲香への怒りは、もはや失望を通り越して静かな殺意に似たものに変わっていた。(玲香は、あの女は……俺の人生を、5年間も弄んでいたというのか) しかしそれ以上に彼の心を苛んだのは、結菜の沈黙だった。「なぜだ……」 智輝は呟いた。「なぜ、君は何も言ってくれないんだ」 玲香の嘘は暴いた。証拠もある。だが、結菜は自らの口で無実を訴えようとしない。それどころか卑劣な嘘を突きつけられても、まるでそれを受け入れるように黙り込んでいた。
last update最終更新日 : 2025-11-05
続きを読む

72:隣の専門家

 玲香の嫌がらせによって左遷された地下書庫で、結菜が発見したあの古書。市長からの表彰という輝かしい結果とは裏腹に、その分析作業は、完全に暗礁に乗り上げていた。 智輝がプロジェクトのために東京から高額な報酬で招聘した、著名な歴史学者とその助手も、古書の画像を映し出す高解像度モニターの前で腕を組んでいる。地方史に特化した内容と、独特の崩し字の前では首を捻るばかりだった。「ううむ……この崩し字は、江戸期の御家流とも少し違う、実に独特な癖のある書体だ。老人の手によるものか……」 年配の学者が唸る。助手の若い研究員が、苛立たしげにキーボードを叩いていた。「先生、日誌に出てくる『狐の煤』という植物ですが、どのデータベースにも該当がありません。そもそも、この地域だけで使われていた俗称の可能性が高く、我々外部の人間には……」 彼らの会話は、智輝の苛立ちを募らせるだけ。この古書を解読できるのは、この土地の歴史と資料を深く理解している、たった一人の司書だけだ。智輝は、その事実を認めざるを得なかった。「これほどの一次資料を前に、何も進められないとは……」 プロジェクトルームで、智輝は苛立ちを隠さずに呟いた。この資料を唯一、淀みなく読み解ける人物は、たった一人しかいない。 彼は席を立つと、その足で館長室のドアをノックした。返事を待たずにドアを開けると、驚く館長を前にビジネスのトップとして強い口調で告げた。「館長。プロジェクト責任者として、正式に要請します」 智輝は、書類仕事をしていた館長のデスクを指で叩く。「早乙女結菜さんを、本日付で古書分析の特別アドバイザーとして、我々のチームに招聘する。これは、市のプロジェクトを成功させるために不可欠な、業務命令です。拒否は認めない」◇ 結菜が館長室のドアをノックすると、中から「入りたまえ」と、いつもより少し複雑な響きの声が聞こえた。 中に入ると、館長はデスクで腕を組んで難しい顔で彼女を迎えた。
last update最終更新日 : 2025-11-05
続きを読む

73

「君の能力が、あの桐生様に認められたんだ。素晴らしいことだ。私も鼻が高い」 しかし、その表情はすぐに曇った。「だがな、早乙女君。正直に言えば、私の気持ちは複雑だ。今回は今までのような嫌がらせとは質が違うとはいえ、またしても、外部の……桐生家の方々のご意向で、君の人事が動く。私は、君が心配なんだ。大丈夫か?」 館長の言葉には、部下の手柄を喜ぶ気持ちと、彼女の心労を思う親心、そして管理職としての無力感が入り混じっていた。(桐生さんと2人きり? 仕事とはいえ、気が重い……) 彼との複雑な事情が解消していない今、顔を合わせるのはできれば避けたかった。 個人的な感情では、そうだ。しかしこれは市の将来を左右する重要なプロジェクトであり、自分は一人の司書である。ここで私情を挟むことは許されない。 結菜は、心の奥底に湧き上がる全ての感情に蓋をした。「承知いたしました。司書として、全力を尽くします」 結菜はきっぱりと言った。迷いのないプロフェッショナルとしての声だった。◇「今日からよろしくお願いします」「……ああ」 プロジェクトルームの大きなモニターに、古書のデジタル画像が映し出されている。智輝と結菜はそのモニターを挟んで、2人きりで作業を始めた。 辺りには智輝のキーボードを叩く音だけが響いている。古書のデジタル画像が映し出された大きなモニターを睨みながら、彼は何度目かになるデータベースの検索を実行する。しかし結果は同じだった。ヒットなしの表示。「ヒットしないな」 智輝が苛立ちの混じった声で呟いた。「どうかなさいましたか?」 隣で別の資料を調べていた結菜が顔を上げる。智輝は、モニターの一点を指差した。「この『狐の煤』という言葉だ。前後の文脈から、当時の作物を襲った病名であることは間違いない。だが、どの植物病理学のデータベースにも、郷土史の文献にも、この言葉は見つからない」
last update最終更新日 : 2025-11-06
続きを読む

74

「この日誌の数ページ前に、長雨と急な冷え込みの記述があった」 智輝はそう呟くと、該当する年代の気象記録をグラフで表示させる。「……これだ。この年の秋、平均気温が例年より5度も低い。この気象条件下で、麦類に発生しやすい黒穂病菌は……」 彼の指が止まる。「麦角菌……冷害によって誘発され、穂を黒く変色させる。症状が一致する。おそらく、これだろう」 智輝は結菜の持つローカルな知識と、自身の持つ膨大なデータを結びつけて、的確な答えを導き出した。「この時期の冷害の記録と一致する。おそらく、麦角菌の一種だろう」「確か、別の寄贈資料に、その病の被害を『狐の祟り』として鎮めるための、小さな社の記録があったはずです」 結菜は智輝の分析に、司書としての知識から別の光を当てた。「桐生さんの言う通り、原因は科学的には麦角菌なのでしょう。当時の人々はその現象を科学では説明できなかったため、『狐の祟り』だと考えて、その病を『狐の煤』と呼んでいたようです。その証拠に、祟りを鎮めるための社の記録が別の資料に残っています」 智輝のデータと、結菜の学識。2つの情報が結びついて謎が解けていく。 その瞬間、2人は思わず顔を見合わせた。そこには仕事のパートナーとしての純粋な賞賛と、知的な興奮の共有があった。智輝は無意識のうちに、昔のような穏やかな笑みを浮かべる。「……君は、すごいな」◇ ――ピンポンパンポン。 図書館の閉館を告げるチャイムが、部屋の空気を現実に引き戻した。 その音を合図に2人の間の魔法が解ける。智輝の顔からすっと笑みが消えて、CEOとしての仮面が素顔を隠した。結菜もまた専門家の顔から、智輝と距離を置く1人の女性の顔へと戻っていく。 先ほどまでの活発な議論が嘘のように、部屋は重い沈黙に支配された。 智輝は何かを言おうとして口を開きかけるが、言葉にならない。結菜はこれ以上2人きりでいることに
last update最終更新日 : 2025-11-06
続きを読む

75:決別の時

 玲香の嘘がバレた一件以来、智輝から玲香への連絡は完全に途絶えていた。 綾小路家の朝食は、重苦しい沈黙に支配されていた。玲香が顔を上げると、向かいに座る父親の冷たい視線とぶつかる。「玲香」 父は、カトラリーを置いた。 ――カシャン。その音がやけに大きく響く。「もう二度と、勝手なことはするな。我が社の面子も、桐生様との御縁も、お前のおかげでめちゃくちゃだ」「……はい」 父の声は怒りというよりも、失望しきった響きを持っていた。玲香は唇を噛み締め、うつむくことしかできない。 自室に戻った玲香は、ドアを閉めるなり、ドレッサーの上の高級ブランドの香水瓶を床に叩きつけた。ガシャン! と大きな音を立ててガラスが砕け散り、甘ったるい匂いが部屋に充満する。 玲香は肩で荒い息をした。「お父様まで、私のことを責めるの!? 全て、あの女が悪いのよ! あの女さえいなければ、智輝様も、私も順調だったのに!」 彼女はシルクのクッションを壁に投げつけて、苛立ちのままに叫んだ。 その時、控えめなノックの音がした。メイドが書類を手に入室してくる。メイドは荒れた部屋の中を見て驚いたが、なるべく表情に出さずに書類を差し出した。「お嬢様、こちら、桐生様の代理人弁護士の方から、書留でございます」 差し出されたのは、一通の事務的な封筒。玲香はそれをひったくるように手に取り、封を破った。 中から出てきたのは、婚約指輪の返却を求める極めて事務的な文面だった。『婚約指輪のご返却に関するお願い 綾小路玲香様 前略 当職は、桐生智輝様の代理人弁護士として、本書面を送付いたします。 さて、桐生智輝様と貴殿との婚約関係につきまして、解消させていただきたく、ご連絡いたしました。 つきましては、婚約指輪として桐生様より贈与されました指輪(カルティエ製、5カラット)を、本書面到着後、一週間以内に当事務所までご返却いただけますよう、お願い申し上げます。 なお、本件に関する桐生様ご本人へ
last update最終更新日 : 2025-11-07
続きを読む

76

(智輝様が私から離れたのは、全てあの女のせい。あの女さえ、あの女さえいなければ、智輝様は私の元に戻って来る!)「お嬢様、お茶をお持ちいたしましたが……」 部屋の惨状を心配したメイドが、おそるおそる声をかける。玲香は、砕けた香水瓶の破片を室内履きの靴底で踏みしだきながら、振り返りもせずに言った。「車を用意して。今すぐよ」「でもお父様からは、しばらく外出は控えるようにと……」「私の言うことが聞けないの?」 地を這うような低い声に、メイドは「かしこまりました」と震えながら答えるしかなかった。 玲香は、クローゼットから黒一色のコートを掴み取ると、興信所に電話をかける。「私よ。早乙女結菜が引っ越した、新しい市営住宅の住所を今すぐ調べなさい。5分よ。5分で私のスマートフォンに送りなさい」 一方的な命令に、電話の向こうで相手が何かを言いかけたが、彼女は問答無用で通話を切った。 それから数分後、玲香は自家用車の後部座席に深く身を沈めていた。スマートフォンの画面には、結菜の新しい住所が表示されている。父親や智輝の弁護士からだろう、何度も着信が入るが、彼女はそれらを全て無視した。(もう誰も、私の邪魔はさせない) 窓の外を流れる東京の夜景を、彼女は見ていなかった。その瞳に映るのはただ一人、憎い女の顔だけ。彼女はあの地方都市へと、劇場のままに向かった。◇ 海辺の町での夕方。結菜は、保育園から樹を連れて帰路についていた。「ママ、きょうね、ブロックで、てぃらのくんのおうち、つくったんだよ!」「そうなの、すごいね。今度ママにも見せてくれる?」 息子と手を繋ぎ、今日の出来事を聞きながら歩く。新しいアパートのエントランスを抜け、エレベーターで自分たちの階へ。日常の、穏やかで幸せな時間だった。 自宅のドアが見えてきた、その時だった。 ドアの前に誰かが立っている。夕暮れの廊下は薄暗くて、人影の様子はよく見えない。結菜は、郵便
last update最終更新日 : 2025-11-07
続きを読む

77

「見つけたわ……!」 玲香は、結菜が何か言うよりも早く、その肩を突き飛ばすようにして結菜を壁に押し付けた。「あなたさえいなければ!」 憎しみに満ちた声で叫びながら、玲香は結菜に掴みかかろうとする。髪は乱れ、いつも完璧なメイクは崩れかけていた。 母親に危害を加えようとする玲香を見て、樹が「ママをいじめないで!」と叫びながら、小さな体で玲香の足にしがみつく。 玲香がその小さな体を振り払おうとした、その時。「それ以上、みっともない真似はよせ」 氷のように冷たい声がした。振り返れば、智輝が玄関に立っている。彼は玲香の不審な動きを察知し、後を追ってきていたのだ。 智輝は玲香の腕を強く掴み、結菜と樹から引き剥がす。 玲香は最後の望みをかけるように、智輝に泣きついた。「智輝様、騙されてはいけませんわ! この女は金目当てなのよ! この子供だって、智輝様の本当の子かどうか分かったものじゃない! どうせどこかの男と寝て、種を仕込んだだけに決まっている!」 しかし智輝は一蹴する。「その嘘には、もううんざりだ」 智輝ははっきりと玲香に告げた。 彼のすぐ横では、結菜が怯える樹を優しく抱きしめている。「俺たちの婚約は、今日この時をもって正式に破棄させてもらう。君のような人間が、俺の隣に立つ資格はない」 智輝からの完全な拒絶。それは、玲香の砕け散ったプライドに、最後の一撃として突き刺さった。「そんな……嘘よ……」 玲香は力なく呟いて、その場にへたり込む。 智輝はそんな玲香に一瞥もくれず、結菜に促した。「家に入ってくれ。これ以上、君たちをこの女に関わらせたくない」 智輝の背後から黒い背広の男性が2人、やって来る。智輝のボディーガードだった。「な、何よ! やめなさいよ! あたしを誰だと思っているの!? 智輝様の婚約者で、綾小路銀行の頭取の娘、綾小路玲香なのよ!」 見苦し
last update最終更新日 : 2025-11-08
続きを読む

78:彼の涙

 玲香との決別から数日後のこと。町は小さな夏祭りの賑わいに包まれていていた。 境内には屋台が並んで、夕暮れの淡い闇の中、提灯の明かりが人々の顔を温かく照らしている。焼きそばやたこ焼きのソースの焼ける香ばしい匂いや、綿あめの甘い匂いが混じり合い、子供たちのはしゃぐ声が響いていた。「ママ、りんごあめ、たべる!」「はいはい。1つだけよ」 樹は、買ってもらった真っ赤なりんご飴を大事そうに両手で持ち、嬉しそうに隣を歩いている。「あ、樹くん!」 不意に、後ろから声をかけられた。振り返ると、樹と同じ保育園に通う男の子とその母親が立っていた。「こんばんは、早乙女さん」「こんばんは。偶然ですね」 結菜が挨拶を返すと、子供たちはすぐに意気投合していた。「みてみて、クジでもらったんだぞ!」「わー、すごい! ぼくは、りんごあめ!」 小さな男の子2人が、祭りの戦利品を互いに見せびらかし合っている。その無邪気な姿を、結菜ともう一人の母親は、穏やかな笑みで見つめていた。(この町に来て、本当によかった) 結菜は、心からそう感じていた。 ◇  友人親子と雑談している最中のこと。  結菜のスマートフォンが鳴った。相手は図書館の同僚からだった。「ごめんなさい、早乙女さん! 閉館作業中に、サーバー室の警報が鳴ってしまったの。館長も不在で、解除できるのがあなたしかいないわ。申し訳ないけれど、一度戻ってもらえるかしら?」 結菜は一瞬ためらったが、放置できない問題だ。「ごめんね、樹。ママ、お仕事で図書館まで行かないといけなくなっちゃったの。すぐ終わるから、一緒に行きましょう」 ところが樹はぶんぶんと首を横に振った。「やだ! ぼく、ここで、おまつりをみてる。いい子でまってるから、行ってきて」「えぇ……困ったな」 結菜は考える。急いで行って戻ってくれば、所要時間は20分程度だろう。  とはいえ4歳の子供を1人
last update最終更新日 : 2025-11-08
続きを読む

79

 樹と友人親子はベンチに座って、お祭りの様子を見ていた。  すぐ近くに射的の屋台がある。樹はそれに釘付けになった。一番上の棚に、景品として大きなティラノサウルスのぬいぐるみが飾られていたからだ。「いつきくん、きょうりゅう好きだもんね」 友だちの男の子が、樹の視線に気づいて笑う。「かっこいいよね! キバがすごくてさ!」 2人はきゃっきゃとおしゃべりを始めた。  そんな彼らの背後の道路に、黒塗りの高級車が停まった。中にいるのは智輝である。  彼は今日、町のお祭りが開催されると聞いて、様子を見に来たのだ。(あの子は、樹じゃないか。近くに結菜は……いない。どうしたんだ?) 智輝が車から降りると、樹は彼の存在に気づいた。ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。「おじさん!」 彼は智輝のズボンをぎゅっと掴むと、屋台を指さした。「あのね、てぃらのくんがほしいの!」 智輝は無邪気な要求に戸惑った。「ママはどうしたんだ?」「おしごと!」「すぐ戻ると言っていましたよ。あなたは……?」 友人の母親が口を挟んだ。  何と答えたものか。智輝は一瞬だけ迷って、無難な答えを返す。「早乙女さんの仕事上の知人です。樹くんとも何度か会っています」「あら、そうでしたか」「おじさんー! てぃらのくん、取ってー!」 樹は期待に満ちた目をしている。「やれやれ。分かったよ」 智輝は深くため息をつくと、屋台の主人に金を払い、不慣れな手つきでコルク銃を構えた。  プラスチック銃の頼りない軽さ。彼は眉をひそめながらも、狙いを定めて引き金を引いた。  ポン、と気の抜けた音がして、コルクの弾が飛び出す。しかし、弾は的のティラノサウルスのはるか手前で力なく落下した。「……なんだ、これは」 智輝は自分の能力ではなく、道具の性能を疑った。彼はもう一度、今度は少し銃口を上げて撃った。弾は今度は的の上を虚しく通り過ぎていく。
last update最終更新日 : 2025-11-09
続きを読む
前へ
1
...
678910
...
12
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status