All Chapters of 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない: Chapter 81 - Chapter 90

113 Chapters

80

「やったー! あたった! おじさん、すごいよ!」 樹が小さい手で目一杯拍手をしている。「良かったな、坊主。この大物を取られちまうなんて、そこの旦那は大した腕だ」 屋台の主人はぬいぐるみを拾い上げて、樹に渡した。  自分よりも大きいくらいのぬいぐるみを、樹は満面の笑みで抱きしめる。「おじさん、ありがとう!」 一点の曇りもない感謝の言葉と笑顔に、智輝は胸を締め付けられるような、言いようのない愛しさを感じた。 ◇  結菜は図書館からの帰りの道を、息を切らしながら走っていた。(樹、いい子にしているかしら。早く戻らないと……) お祭りの場に戻った結菜が見たのは、大きなぬいぐるみを抱えて飛び跳ねている樹と、傍らに立つ智輝。それから、少し遠巻きに彼らを見守っている友人の親子だった。「桐生さん? あの、一体何を」「いや……」 結菜は、智輝と、大きなぬいぐるみを抱えた樹を見て、驚きと申し訳なさで言葉を失った。  智輝は何かを言おうとするが、言葉にならない。「その方が射的で、見事にぬいぐるみを取ったんですよ」 友人の母親が言った。「すごかったよ! びゅーんってたまが飛んで、ばしって当たったの」「てぃらのくん、ごろっておちたよね」 樹と男の子が交互に言う。「ママが戻ってきてよかったね。じゃ、私たちはこれで」「お世話になりました。本当にありがとうございました」 友人親子が去っていく。「桐生さんも、ありがとうございます。ご迷惑でなければ、射的の料金を払いますが」 結菜は固い声で言うが、智輝は首を振った。「いや、いいよ。俺も楽しかったし、その子が喜んでくれたから」「そうですか……」 結菜は頭を下げた。樹は声を上げる。「ママ! おまつり、もっと見ようよ!」「そんなに大きなぬいぐるみを持って、歩ける?」「歩けるも
last updateLast Updated : 2025-11-09
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81:女帝の来訪

 玲香との決別から一週間ほどが過ぎて、図書館には束の間の平穏が戻っていた。  しかし智輝と結菜の間の溝は埋まらないまま、気まずい空気が流れている。 智輝は、プロジェクトルームのドアを開け、結菜が作業している一般書架の方へと、意を決したように歩き出した。  通路の向こうに彼女の姿が見える。結菜は小さな脚立に乗って、高い棚にある本の背表紙に、一枚一枚、丁寧に新しいラベルを貼り付けていた。その横顔は真剣で、黙々と作業に没頭している。  単調な作業であっても真面目に取り組んでいる。結菜の人柄がよく現れていた。 智輝は彼女に声をかけようと、一歩踏み出した。「早乙女さん……」 だがその声は彼の喉の奥で消えた。  何を言えばいいのだろう。謝罪だろうか? 5年前のことを、今さらどう謝罪しろというのだろう? 思考は堂々巡りで、かけるべき言葉が何一つ見つからない。  智輝は固く拳を握りしめると、踵を返してプロジェクトルームへと引き返した。彼の広い背中には、深い後悔ともどかしさがにじんでいた。 結菜は、智輝の視線と気配に気づいていた。  書架の整理に没頭するふりをしていても、プロジェクトルームのドアが開いて、彼がこちらを見ているのが気配で分かる。そのたびに結菜は心臓が掴まれるような心地がした。ラベルを貼る指先が一瞬、震える。(あの人に、何を話せばいいというの) あの雨の日。ホテルの部屋で、「君を信じたい」と言ってくれた彼の真摯な瞳は、嘘ではなかったかもしれない。しかし結菜の頭の中には、鏡子から送られてきた冷たい書状の文面が、焼き付いて離れない。  樹のDNA鑑定を要求し、結果次第では親権を協議すると伝えてきたあの内容が。(あの手紙は、桐生家からの正式な通告。樹を奪うための、最初の一手……。それなのに、あの人は何も知らないような顔をしている。それとも、知らないふりをしているの? 素知らぬ顔で、私から樹を取り上げるつもり?) 信じたい気持ちと、拭いきれない恐怖。その間で彼女の心は揺れていた。 終業を告げるチャイムが鳴ると、結菜は弾かれたように動
last updateLast Updated : 2025-11-10
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82

 プロジェクトの喧騒が日常となりつつあった、午後の図書館。図書館のガラス張りのエントランスの向こうに、一台の黒塗りの車が現れた。  この地方都市の道ではおよそ見慣れない――ただし智輝や玲香のおかげで時折目にするようになった――大型の高級セダンだった。鏡のように磨き上げられた車体が、午後の光を鈍く反射する。エンジン音もほとんど聞こえない。その車は滑るようにエントランスのロータリーに停まった。 制服に身を包んだ運転手が、寸分の隙もない動きで運転席から降りて、後部座席のドアを恭しく開けた。  開けられたドアから、一人の女性がが降り立つ。年の頃は50代後半くらいだろう。高価な生地で仕立てられた、一分の隙もないスーツに身を包んでいる。その身のこなしは玲香の派手さとは全く違う、本物の気品と威圧感をまとっていた。 彼女が館内へと足を踏み入れた瞬間、図書館のざわめきが嘘のように静まり返る。職員たちの話し声、利用者のページをめくる音、子供のはしゃぐ声。全てが止んで、不自然なほどの静寂が訪れた。  カウンターで作業をしていた結菜は、その異変に顔を上げた。エントランスに立つ、その女性と目が合った。 智輝と――そして樹と生き写しの、銀灰色の瞳。  だが、その光の質は全く違っていた。智輝の瞳の奥に時折宿る激情も、樹の瞳にある無垢な輝きもない。そこにあるのは、磨き上げられた鉱石のように一切の感情を映さない、絶対零度の光。(この人は……智輝さんの、お母様) 結菜はその女性が誰であるかを、瞬時に悟った。5年の歳月を経て、あの書斎喫茶で対面した時のことを思い出す。とても忘れられる人ではなかった。心臓が氷の塊を飲み込んだように冷たくなっていく。 鏡子は結菜から目を離さないまま、迷いのない足取りでカウンターへと近づいてくる。コツ、コツ、と彼女のヒールの音だけが、静まり返った図書館に響いた。  結菜の前に立った彼女は、何も言わなかった。ただ、まるで品評会にでも出品された美術品を鑑定するかのように、結菜の顔、司書としてのシンプルな制服、カウンターの上に置かれた指先までを、品定めするようにじろりと一瞥した。 威圧的な沈黙が、結菜の呼吸を浅くさせ
last updateLast Updated : 2025-11-10
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83

 やがて鏡子は、周囲の注目が自分たちに集まったのを見て、わずかに口の端を上げた。「あなたが、早乙女結菜さんね」 その声は美しい楽器の音色のように澄んでいたが、一切の温かみを感じさせなかった。 たとえるならば、氷の旋律。「……はい」 結菜はそれだけ答えるのがやっとだ。  鏡子は周囲の視線が集まっていると承知の上で、さらに言葉を続ける。「先日、当家の代理人弁護士を通してお送りした書状の件、まだご返答をいただけておりませんが、いかがなさるおつもりかしら。桐生家の血を引くかもしれない子供のこと、うやむやにはできません」「桐生家の血」「子供」。  その衝撃的な単語は、静まり返った館内にさざ波のように広がった。あちこちで小さな声と、ひそひそと交わされるささやき声が生まれる。「まさか……でも言われてみれば、樹くんと桐生さん、目の色がそっくりだわ……」「KIRYUホールディングスのCEOが、樹くんのお父さん!?」「だから桐生さんは、あんなに熱心にこの町のプロジェクトを……?」「早乙女さん、一人でずっと樹くんを育てていたのに。桐生さんは今までどうしていたの?」 これまで誰もが胸の内に秘めていた疑問が、一斉に答えを得た瞬間だった。職員や利用者たちのささやき声が、驚きや好奇心、同情となって結菜の耳に突き刺さった。  彼らの声に悪意はない。けれどそれでも、結菜にとっては針のむしろだった。  当然だ。隠していた真実を、一方的に暴かれたのだから。「改めて、貴女の子のDNA鑑定を要求します」 玲香の感情的な暴力なら、まだ耐えられた。しかしこれは違う。計算され尽くした、静かな公開処刑だった。(逃げ道を塞がれた。この町のみなに事情を知られてしまった。もう今までのようには暮らせない。また逃げ出すの? どこへ? どこへ行ってもきっと、この人は追ってくる) 結菜の顔から血の気が引いた。指先から急速に温度が失われていく。何かを言わなければと思うのに、声が出ない。  足元の感覚が無くなっていく。彼女はカ
last updateLast Updated : 2025-11-11
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84:彼の選択

 プロジェクトルームで作業をしていた智輝は、高い集中状態にあった。モニターに映し出された複雑なデータだけが、彼の世界の全てだった。BGMのように遠い館内の喧騒が聞こえていたが、意識には上らない。 そのBGMが、ふと途絶えた。  初めは集中力が高まったせいだと思った。そのせいで音が意識の外に押しやられたのだと。  だが、違う。利用者の話し声も職員がカウンターを走る足音も、本のページをめくる微かな音さえ何も聞こえない。防音室にでも放り込まれたような、完全な無音。  プロジェクトが始まって以来、この図書館にこんな静寂は一度もなかった。(何事だ?) 智輝は、胸騒ぎを覚えて顔を上げた。作業を一度中断し、ホールへと向かう。 ドアを開けてホールを見渡した智輝は、その異様な光景に動きを止めた。  図書館の時間が凍りついている。  職員も利用者も、誰もが動きを止めて、たった一点を――カウンターの前を、固唾をのんで見つめていた。 その視線の中心に立っていたのは、2人の女性。  1人は女帝のように絶対の威厳をまとって立つ、彼の母親、鏡子。  そしてもう1人は、女帝の前に突き出された罪人のように顔を青ざめさせ、立っているのがやっとという様子の、結菜だった。「改めて、貴女の子のDNA鑑定を要求します」 鏡子の冷たい声が響く。  智輝の頭の中で、今まで不明だった数々の事実が組み合わさり、一つの結論を形作った。 ――なぜ結菜は最近、あれほど俺を避けていたのか。まるで、俺自身が何か恐ろしいものであるかのように。  ――なぜこの図書館には、玲香が去った後も、ずっと見えない緊張感が漂っていたのか。  ――そしてなぜ、俺の母親が今、ここにいるのか。 答えは、目の前にあった。  結菜をここまで追い詰められる人間がいるとすれば、それは玲香ではない。彼女のやり方は、もっと感情的で浅はかだ。 だが鏡子は違う。静かに冷徹に、最も効果的なやり方で相手の心を折る。今目の前で行われているこの静かな公開処刑こそが、母・鏡子のやり方そのものだった。
last updateLast Updated : 2025-11-11
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85

 コツ、コツ、と智輝の革靴の音だけが、静まり返ったホールに響く。それは鏡子のヒールの音とは比べ物にならないほど、重く力強い響きを持っていた。  その音に、カウンターを囲むように見守っていた人々の視線が、一斉に智輝へと注がれる。人波が割れて、彼が進む道が自然と開けていった。「桐生さんご本人が来たぞ……」「どうなるんだ、一体」 新たな緊張と、かすかな期待を含んだささやき声が、智輝の背後で交わされた。 ◇  智輝はまっすぐにカウンターへと歩を進めると、立ち尽くす結菜の隣に立った。  結菜の震える肩に手を置く。驚いて顔を上げた結菜に、彼は頷いてみせた。大丈夫だ、とでも言うように。  そして智輝は、何も言わずに結菜の体を自分の背後へと導いた。彼の広い背中が、結菜を鏡子の冷たい視線からさえぎる防壁となった。 母親である鏡子に向き直った智輝の表情は、氷のように冷え切っていた。彼が生まれて初めて母親に向ける、鋭い非難の色を帯びた瞳だった。  低く抑えられた声が、静寂を破る。「母さん、これは一体どういうことだ。なぜ、あなたがここにいる」 智輝の非難に満ちた視線を受けても、鏡子は全く動じなかった。彼女はあくまで、桐生家の未来を守る当主の代理としての仮面を崩さない。彼女は、出来の悪い息子を諭すように、冷静な口調で言い放った。「智輝、あなた個人の感情で動くのはおやめなさい。これは桐生家の問題です」 その言葉は智輝と結菜の関係を「個人の感情」と断じ、切り捨てるものだった。「この女性に、私たちの家の血を引く子供がいるかもしれないのですよ。その可能性を放置することの方が、よほど無責任だとは思いませんか?」 鏡子の言葉は、智輝の最後のためらいを打ち砕いた。彼女の口から語られるのは、家の血統と体面だけ。結菜という一人の人間の尊厳も、子供の気持ちも、そこには一片たりとも存在しない。鏡子にとって、結菜はただ「家の問題」をこじらせる障害物でしかないのだ。  智輝は、その事実を痛いほど理解した。 智輝は、母親の凍えきった瞳を、生
last updateLast Updated : 2025-11-12
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86

 智輝の広い背中が、結菜を鏡子の威圧感からしっかりと守っている。結菜はその背中を、夢でも見ているように見つめていた。  5年間、ずっと待ち望んでいた言葉。彼女を信じて守ってくれるという、ただその一言が欲しかった。彼は今、あの恐ろしい母親を前にして、結菜と樹を守るためにたった一人で立ち向かっている。(この人は、私のために……樹のために戦ってくれている) その事実が、凍りついていた結菜の心の奥深くに、温かい雫となって落ちた。 智輝からの明確な反逆に、鏡子の完璧に整えられた無表情が、初めてわずかに歪んだ。 すっと細められた彼女の瞳の奥で、絶対零度の光が、燃え上がるように揺らめくのを智輝は見逃さなかった。それは熱を感じさせない、冷たい怒りの炎だった。(この私が息子に、指図されている?) 智輝は既に母親への敬意も、恐怖も捨てていた。目の前にいるのは、桐生家の女帝ではない。結菜と樹を傷つけた、ただ一人の敵だ。  彼は最後通牒を突きつけるように、はっきりと告げる。「この件は、俺が全て解決する。あなたのやり方では、ない。俺のやり方でだ」 彼は鏡子を「母さん」ではなく、「あなた」と呼んだ。「だから、二度と彼女たちに近づくな。次に同じような真似をすれば、その時は……俺があなたの敵になる」 鏡子と智輝の同じ銀灰色の瞳が、火花を散らして激しく交錯した。数秒か、あるいは数分か。永遠にも感じられる沈黙のにらみ合いの末、先に視線を逸らしたのは鏡子だった。「まあ、いいでしょう。やりようはいくらでもありますから」 彼女は智輝を一瞥すると、興味を失ったように、何も言わずに踵を返した。その背中は少しも揺らいでいない。敗北ではなく、次なる戦いへの予感だけを物語っていた。 鏡子の姿がエントランスの向こうに消えると、止めていた息を吐き出すように、館内にどよめきが満ちていく。  だがその喧騒は、智輝と結菜には届いていなかった。  智輝は結菜に向き直る。母親に向けていた怒りは既に消えている。彼の瞳には、深い後悔と、どうしようもないほどの痛みが浮かんでいた。
last updateLast Updated : 2025-11-12
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87:5年の代償

 鏡子が図書館を訪れた翌日。智輝は、朝から仕事が全く手につかなかった。  モニターに映し出されるプロジェクトのデータも、次々と鳴るスマートフォンの着信も、彼の意識には届かない。頭の中を占めているのは、昨日母親の前でかろうじて立っていた、結菜の青ざめた顔だけだった。(謝らなければ……。そして、俺の意志を伝えなければ) 守ると決めたのだ。この期に及んで悩みたくない。  時刻はもう夜になっている。図書館のスタッフはほとんどが退勤していて、周囲は静かだ。  彼は上着を掴むと、部屋を飛び出した。運転手に結菜の新しいアパートの住所を告げて、後部座席に身を沈める。  車が夜の闇の中を走り出す。窓の外を流れる見慣れた町の風景も、今の彼の目には映っていなかった。 アパートの前に着くと、智輝は運転手を待たせて一人でエントランスを抜けた。目的の部屋のドアの前で足を止める。  これから彼女に何を言えばいいのか。5年という歳月の重みが、彼の肩にのしかかる。だがもう逃げるわけにはいかない。  智輝は一度固く拳を握りしめて、開いた。 覚悟を決めた彼は、初めて結菜の部屋のインターホンを鳴らした。 ◇  インターホンが鳴った時、結菜は首を傾げた。(こんな時間に、誰だろう?) 夜になってから、結菜を訪れてくる人はほとんどいない。彼女の人間関係は、ほとんどが図書館の仕事上か樹の友達関係だからだ。  彼女は、モニターに映し出された人物の姿を見て、息を呑んだ。 智輝だった。(どうして桐生さんがここに?) 結菜の頭の中は、恐怖と混乱で一杯になった。(まさか昨日の続きなの? お母様の……桐生家の、次の一手?) 昨日、図書館で母親に反旗を翻し、自分を守ってくれた彼の姿が脳裏に蘇る。あの広い背中も自分を庇ってくれた力強い声も、嘘ではなかったはずだ。(でも、この人は桐生家の人。信じていいの……?) 信じたい気持ちと、拭いきれない恐怖。その間で彼女の心は激しく揺れていた。「
last updateLast Updated : 2025-11-13
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88

「……急にすまない」 智輝は結菜の警戒心を解くように、静かな口調で言った。「少しだけ、話せないだろうか」 その声には、懇願するような響きがあった。  結菜はドアの隙間から、もう一度彼の顔を見た。昨日、自分と樹を守るために、あの恐ろしい母親に立ち向かっていた強い光は、そこにはない。代わりに深い後悔と、どうしようもないほどの痛みをたたえた一人の傷ついた男が立っていた。(この人は、敵? それとも……) 信じたい。でも、また裏切られるのが怖い。  結菜の心が、激しく揺れる。しかし彼の瞳の奥にある誠実な色が、彼女の凍えた心をほんの少しだけ溶かした。  結菜は、一度ぎゅっと目を閉じた。ゆっくりと息を吐き出すと、緊張でこわばる指でドアチェーンを外した。カチャリ、という小さな音が、やけに大きく部屋に響いた。「……どうぞ」 ◇  部屋に通された智輝の目に、まず飛び込んできたのは、リビングの床でお気に入りの恐竜のフィギュアを並べて遊んでいる樹だった。「あ、おじさんだ!」 樹は智輝の姿を認めると、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。その手には、先日の祭りで智輝が取ってやった、大きなティラノサウルスのぬいぐるみが抱えられている。「おじさん、みてみて! てぃらのくん、おうちかえってきたよ!」「そうか。よかったな」 無邪気な歓迎に、智輝の強張っていた表情がわずかに和らいだ。  しかし彼はすぐに結菜の方へと向き直り、深く頭を下げた。「早乙女さん。昨日は……母が、すまなかった。君と樹くんに、酷い思いをさせた」 その声は、後悔に満ちていた。  結菜は智輝と、その足元で「おじさん、あそぼ!」とズボンを引っ張る樹を交互に見た。これから始まるのは、子供に聞かせるべき話ではない。 結菜は樹の前に屈み込むと、優しく言い聞かせた。「樹。少しだけ、お部屋で遊んでいてくれる? ママ、桐生さんと大事なお話があるから」「うーん、わかった! おじさん
last updateLast Updated : 2025-11-13
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89

 結菜は目を見開いた。(DNA鑑定が必要ない?) 智輝は、彼女の瞳を真摯に見つめて続ける。「俺は、あの子が俺の子だと確信している。鑑定などという手段は、必要ないよ」 智輝の真剣な言葉に、結菜は混乱していた。(何を言っているの……?) 彼の言葉と、先日送られてきた冷たい書状の内容が、結菜の中で全く結びつかない。「……どうして、ですか」 結菜は細い声で尋ねた。「あの書状を送ってきたのは……桐生家の総意であり、あなたの意志ではなかったのですか?」「書状?」 今度は、智輝が眉をひそめる番だった。「何のことだ。俺は、何も知らない」 その声には、嘘や誤魔化しの色は一切なかった。純粋な困惑だけがあった。(そうか。そういうことだったのね……) その瞬間、結菜の中は理解した。あの書状は智輝の知らないところで、鏡子が独断で送りつけてきたものだったのだ。  そして彼は、昨日母親のその非情なやり方を知り、今日、こうして彼女の元へ来てくれた。 結菜の中で、5年間固く凍りついていた何かが、音を立てて崩れていく。  初めて、彼が自分と同じ側に立とうとしてくれている。その事実に、彼女の心の氷がようやく溶け始めていた。「その書状を見せてもらえるだろうか」「ええ」 結菜は戸棚の引き出しから書類を取り出して、智輝に渡した。  読み進める彼の表情がみるみるうちに曇っていく。「早乙女さん……本当にすまない。玲香にばかり気を取られていたが、あの母が大人しくしているわけがないと、もっと早く気づくべきだった」 智輝は後悔と罪悪感で顔色を悪くしている。そんな彼の前で、結菜は首を振った。「いいえ。私もこれが桐生さんの意志だと信じ込んで、確かめようとしませんでしたから。あなたが桐生家の名のもとに、私から樹を取り上げようとしていると思い込んでいた。だから、あなたを信じることができなかったんです」「……」 結菜
last updateLast Updated : 2025-11-14
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