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last update Tanggal publikasi: 2025-11-11 11:49:04

 やがて鏡子は、周囲の注目が自分たちに集まったのを見て、わずかに口の端を上げた。

「あなたが、早乙女結菜さんね」

 その声は美しい楽器の音色のように澄んでいたが、一切の温かみを感じさせなかった。

 たとえるならば、氷の旋律。

「……はい」

 結菜はそれだけ答えるのがやっとだ。

 鏡子は周囲の視線が集まっていると承知の上で、さらに言葉を続ける。

「先日、当家の代理人弁護士を通してお送りした書状の件、まだご返答をいただけておりませんが、いかがなさるおつもりかしら。桐生家の血を引くかもしれない子供のこと、うやむやにはできません」

「桐生家の血」「子供」。

 その衝撃的な単語は、静まり返った館内にさざ波のように広がった。あちこちで小さな声と、ひそひそと交わされるささやき声が生まれる。

「まさか……でも言われてみれば、樹くんと桐生さん、目の色がそっくりだわ……」

「KIRYUホールディングスのCEOが、樹くんのお父さん!?」

「だか

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  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   166

    「最近、うちの会社で優秀な社員の離職が相次いでいてね。特に30代の、これから管理職として会社を引っ張っていってもらいたい世代だ。理由はほぼ全員、育児と仕事の両立が困難になったから、というものだ」 智輝の顔から父親の顔が消えて、経営者としての険しい表情が浮かび上がる。「昨日も、重要なプロジェクトのリーダーを務めていた女性社員から退職願を出された。彼女の子供が通う保育園は、延長保育の枠が常に埋まっているらしい。毎日、定時で仕事を切り上げて走って迎えに行かなければならない。チームのメンバーに申し訳ない、これ以上迷惑はかけられない、と彼女は泣きながら言っていたよ」 結菜は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。 その女性社員の焦りや罪悪感が手に取るように分かる。  彼女自身も樹を1人で育てていた頃は、常に時間に追われて、誰かに謝ってばかりいた記憶があるからだ。「だから、この社内託児所の計画を前倒しで進めているんだ。本社内に子供を預けられれば、通勤時間も一緒にいられるし、急な残業にも対応できる。離職の歯止めになるはずだと思ってね」「とても良い対策だと思います。会社がそこまで考えてくれるなんて、社員の方々は心強いはずよ」「……だが、今日の会議で人事部から上がってきた意見は、手厳しいものだった」 智輝は両手で顔を覆い、深い息を吐き出した。「『ただ子供を預かるだけの施設を作っても、根本的な解決にはならない』と指摘された。親は、子供を長時間施設に押し込めていることに強い罪悪感を抱く。結局、子供に寂しい思いをさせているという思いが拭えなければ、会社を辞めるという選択は変わらない、とな」 結菜は口を閉ざした。 人事部の指摘は的確だった。 どんなに安全で綺麗なおもちゃがたくさんあっても、親と離れて過ごす時間は子供にとって寂しいものだ。  そして、その寂しそうな顔を見るのは親にとって何よりも辛い。「安全第一のプレイルームを作ればいいと考えていたが、どうやら俺の認識は甘かったようだ。付加価値が必要なんだ。親が『ここなら預けてもいい』と心から思えるような、何か特別な理由が」

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   165

     プレイルームの備品リストにあるのは、プラスチック製のすべり台、ボールプール、有名キャラクターの玩具の数々。  子供を「安全な場所に預かっておく」という機能は完璧に満たしている。  しかし、そこには子供の心を豊かに育むための視点が欠けているように思えたのだ。(本が1冊もないなんて) 元司書としての血が騒いだ。 子供が何時間も過ごす場所に絵本がない。  それは結菜にとって、美味しい料理が並んだテーブルにカトラリーが一切ないのと同じくらい、不自然な光景だった。 結菜はピンク色の付箋にペンを走らせた。「絵本コーナーの設置」と書き込み、備品リストのページの端に貼り付ける。  1つ貼り始めると、次から次へと改善案が湧いてきた。「結菜、柚葉、ただいま」 不意に背後から声がした。 結菜の肩がビクッと跳ねる。手にしていた赤ペンが、テーブルの上に転がった。 振り向くと、スーツ姿の智輝が立っていた。  時計をちらりと確認すれば、時刻はまだ夕方の4時を回ったばかり。いつもならオフィスで会議をこなしている時間だ。 彼は首元のネクタイを緩めながら、疲労の色を隠せない顔でため息をついた。「おかえりなさい。今日はずいぶん早いのね」「パパー!」 柚葉が積み木を放り出して、智輝の足元へ駆け寄っていく。  智輝は片膝をつき、娘の小さな体を抱き上げた。「ただいま、柚葉。いい子にしていたかい?」 彼の銀灰色の瞳が、娘を見つめる時だけは柔らかな光を帯びる。  結菜は慌ててテーブルの上のバインダーを閉じようとした。「ごめんなさい、智輝さん。今朝忘れていった資料、つい気になって中を見てしまって」「ああ、それか。構わないよ。機密情報というわけでもないからな」 智輝は柚葉を抱いたまま、ダイニングチェアに腰を下ろした。  結菜の前に置かれたバインダーと、そこからはみ出している何枚ものピンク色の付箋を見て、彼は少しだけ目を細めた。「随分と熱心に読んでく

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   164:福利厚生の課題

     初夏の陽気が、開け放たれた窓から心地よい風を運び込んでいた。 桐生邸の広々としたダイニングルームで、結菜はテーブルの端に座っている。ノートパソコンの画面と向かい合っていた。 少し離れた床の上では、3歳になった柚葉がカラフルな木製の積み木を積み上げていた。カチャ、カチャと楽しげな音が室内に響く。「ママ、みて。たかーいおしろ」 見れば大きな積み木はたくさん積まれて、お城の形になっている。「わあ、本当。とても上手ね」 結菜が声をかけると、柚葉は満足げな笑顔を浮かべて、さらに上に三角のパーツを乗せようと手を伸ばした。 先日の読み聞かせ支援のプロジェクトは、順調な経過を見せていた。 ボランティアたちへのシステム化とマニュアル化は、現場の負担を減らしてくれた。 経験の薄いボランティアも、システムとデータベースの支援を受けて良い仕事に取りかかれる。 小さなトラブルはいくつかあったが、概ね問題ない経過を見せている。 結菜主導の時は過ぎて、今はもう各地のボランティアたちが自発的に動き始めていた。 柚葉から目を離して、結菜の視線は手元のバインダーへと戻る。 それは今朝、智輝がダイニングテーブルに置き忘れていったものだ。 黒い革製のバインダーの表紙には、『KIRYUホールディングス 社内託児所新設プロジェクト概要』という堅苦しいタイトルが銀色の文字で印字されていた。 夫の仕事の資料を勝手に見るべきではない。そう頭では分かっていた。 ただ、「託児所」という文字が、結菜の興味を強く惹きつけたのだ。 少しだけなら、と自分に言い訳をしてページをめくったのが30分前。 今や結菜は手元に付箋と赤ペンを用意して、すっかり内容を読み込んでいた。(……これは、とてももったいないわ) 結菜は眉間にしわを寄せ、企画書の1ページを指先でなぞった。 計画自体は素晴らしいものだ。 KIRYUホールディングスでは近年、子育て世代の離職が問題になっている。 彼らを引

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   163

    「頭を上げてください、代表さん。現場で長く活動されている皆様の率直なご意見があったからこそ、私たちもアプリの方向性を明確にすることができたんです。これからも、ぜひお力をお貸しください」「ええ、もちろん! 早速、うちの団体のメンバー全員にあのアプリを登録させます。選書リストも、次の病棟訪問で使わせてください」 代表が明るい顔で頷いた。 その横で、タブレットを持った佐藤が興奮気味に駆け寄ってくる。「結菜代表! アプリのダウンロード数が急激に伸びています。今日のイベント参加者だけでなく、口コミで広がっているようです。オンライン掲示板にも、早速『今日の読み聞かせで学んだこと』の書き込みが殺到しています!」「本当? よかった……」 結菜は胸を撫で下ろした。 彼女の思いは、確実に現場の人々に届き広がり始めている。◇ 全てのプログラムが終了し、参加者たちを見送った後。 閑散としたホールに、結菜と家族だけが残っていた。「ママ!」 遠くから樹が駆け寄ってきて、結菜の足元に抱きついた。「ママ、すっごくすっごく上手だった! 僕が読んでもらった時より、もっと楽しかった!」「ふふ、ありがとう、樹。樹が応援してくれたおかげよ」 結菜はしゃがみ込み、息子を強く抱きしめた。 智輝が、柚葉を抱きかかえながら近づいてくる。彼の銀灰色の瞳は、心底誇らしげな光をたたえていた。「最高のイベントだったよ、結菜。子供たちも、大人たちも、みんな君の作る物語の世界に引き込まれていた」「智輝さん……。KIRYUの技術チームのおかげよ。あの空間演出がなかったら、あそこまでの一体感は出せなかったわ」「技術は裏方さ。君という本物の司書がいたからこそ、あのシステムは活きたんだ」 智輝の言葉に、結菜は胸がじんと熱くなるのを感じた。 鏡子が静かな足取りで歩み寄り、結菜の前に立った。

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   162

     映像や音響はあくまで補助にすぎない。 空間の中心にいるのは、紛れもなく結菜の声と、彼女が作り出す子供たちとの温かいキャッチボールだった。「……見事ね」 代表はペンを握る手に力を込めた。 自分の偏見が恥ずかしくなる。 結菜の読み聞かせは血の通った、素晴らしいものだった。◇ 約20分の読み聞かせが終わり、ホールの照明がゆっくりと明るくなった。 子供たちの割れんばかりの拍手と、「もう1回読んで!」というアンコールが飛び交う中、結菜は深く頭を下げた。「さあ、絵本の時間は終わりです。みんな、次はあっちのお部屋で工作をしようね」 子供たちが別室での工作ワークショップに移動した後、ホールにはボランティアスタッフたちだけが残された。 ここからは、結菜が講師を務める大人向けのワークショップだ。 結菜はマイクを手に取ると、まっすぐにボランティアたちを見渡した。「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。先ほどの読み聞かせを見て、どう感じられたでしょうか」 結菜はゆっくりと歩きながら語りかける。「特別な技術や、演劇のような大げさな表現は必要ありません。大切なのは、目の前の子供たちの声に耳を傾けること。彼らが絵本のどこに興味を持ち、何を感じているのか。それをすくい上げ、一緒に楽しむこと。それが、私が皆様にお伝えしたい『対話する読み聞かせ』です」 参加者たちが熱心に頷き、メモを取る音が響いた。「もちろん、毎回上手くいくとは限りません。子供の反応が薄い時もあれば、脱線してばかりの時もあります。そんな時のために、私たちの財団が用意したシステムを活用してください」 結菜の合図で、ホールのモニターに佐藤が開発した「マッチング&ノウハウ共有アプリ」の画面が映し出された。「このアプリの掲示板には、私自身が選書した『対話が生まれやすい絵本リスト』と、その本を読む際の問いかけのヒントがまとめられています。皆様も、現場での成功体験や

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   161

    「しっぽ! しっぽが見える!」 男の子は楽しそうに叫んだ。 その子の言葉を受け止めて、結菜は再び子供たちへ語りかけた。「本当だ、ふさふさのしっぽが見えるね。誰のしっぽかな?」 子供たちは次々と声を上げる。「きつねさん!」「りすじゃない?」「ううん、きっと、くまさんだよ!」 結菜が理想としていた言葉と心のキャッチボールが、しっかりと行われていた。 結菜は子供たちの声を1つひとつ拾い上げて、大きく頷いた。「きつねさんかな? りすさんかな? くまさんかもしれないね。じゃあ、呼んでみようか。せーの」「でておいでー!」 子供たちの声に合わせて、結菜が仕掛けのページをパタッとめくる。「ばぁ! りすさんでした」「やったー! 当たった!」「りすさんだ、かわいい!」 子供たちの歓声に合わせて、壁のプロジェクションマッピングに、一匹のリスのシルエットがさっと駆け抜けていく演出が入る。 結菜はページをめくるたびに、子供たちの表情を確かめた。 前のめりになる子がいる。 親の腕にしがみつきながらも目を輝かせる子もいる。 彼らの反応を見て、読むスピードを変え、声のトーンを調整する。 絵本という1つの世界を介して、結菜と何十人もの子供たちの間に、見えない糸が張り巡らされているようだった。(楽しい……!) いつしか結菜は、心の中で叫んでいた。 AIが完璧な発音で読み上げるのとは違う。 その場にいる人間同士だからこそ生み出せる、予測不可能な対話がここにある。 これこそが、結菜がずっと信じてきた「読み聞かせ」の本当の姿だった。◇ 観客席の最後列では、首から「ボランティア」の名札を下げた大人たちが、食い入るように結菜の読み聞かせを見つめていた。 その中には、以前のオンライ

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