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last update Huling Na-update: 2025-11-10 21:48:19

 プロジェクトの喧騒が日常となりつつあった、午後の図書館。図書館のガラス張りのエントランスの向こうに、一台の黒塗りの車が現れた。

 この地方都市の道ではおよそ見慣れない――ただし智輝や玲香のおかげで時折目にするようになった――大型の高級セダンだった。鏡のように磨き上げられた車体が、午後の光を鈍く反射する。エンジン音もほとんど聞こえない。その車は滑るようにエントランスのロータリーに停まった。

 制服に身を包んだ運転手が、寸分の隙もない動きで運転席から降りて、後部座席のドアを恭しく開けた。

 開けられたドアから、一人の女性がが降り立つ。年の頃は50代後半くらいだろう。高価な生地で仕立てられた、一分の隙もないスーツに身を包んでいる。その身のこなしは玲香の派手さとは全く違う、本物の気品と威圧感をまとっていた。

 彼女が館内へと足を踏み入れた瞬間、図書館のざわめきが嘘のように静まり返る。職員たちの話し声、利用者のページをめくる音、子供のはしゃぐ声。全てが止んで、不自然なほどの静寂が訪れた。

 カウンターで作業をしていた結菜は、その異変に顔を上げた。エントランスに立つ、その女性と目が合った。

 智輝と――そして樹と生き写しの、銀灰色の瞳。

 だが、その光の質は全く違っていた。智輝の瞳の奥に時折宿る激情も、樹の瞳にある無垢な輝きもない。そこにあるのは、磨き上げられた鉱石のように一切の感情を映さない、絶対零度の光。

(この人は……智輝さんの、お母様)

 結菜はその女性が誰であるかを、瞬時に悟った。5年の歳月を経て、あの書斎喫茶で対面した時のことを思い出す。とても忘れられる人ではなかった。心臓が氷の塊を飲み込んだように冷たくなっていく。

 鏡子は結菜から目を離さないまま、迷いのない足取りでカウンターへと近づいてくる。コツ、コツ、と彼女のヒールの音だけが、静まり返った図書館に響いた。

 結菜の前に立った彼女は、何も言わなかった。ただ、まるで品評会にでも出品された美術品を鑑定するかのように、結菜の顔、司書としてのシンプルな制服、カウンターの上に置かれた指先までを、品定めするようにじろりと一瞥した。

 威圧的な沈黙が、結菜の呼吸を浅くさせ

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  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   112:5年目のプロポーズ

     KIRYUホールディングスの会議の一件から数日後。智輝が、結菜のアパートを訪れた。 あれから会議は終了になって、鏡子と重役たちはエドワードから説教をされた。「お前たちに苦労をかけたのは分かっている。だが、これはないだろう。会社という組織のために個人の幸福を潰すのならば、そんな会社こそ潰れてしまえ。KIRYUホールディングスは、社員の幸せと社会貢献を重んじる。それは今も昔も変わらない」 偉大な創業者に諭されて、全員がうなだれるばかりであった。 そうして鏡子は、決断をする。「母さんからの伝言だ」 彼は少し気まずそうに、しかし穏やかな表情で切り出した。「代理人弁護士を通じて、親権に関する一切の要求を正式に取り下げた、と。それから……」 智輝は、一度言葉を切った。「『あの子のために、季節ごとの衣服を贈らせてほしい』と。母さんなりの謝罪の形なんだと思う。母さんは君に酷いことをした。そう簡単に許せるものではない。ただ……心から悔いているように見えた。あのプライドの高い人が、非を認めたのだから」 智輝の言葉に、結菜は目を瞬かせた。(服? あの氷のようだったお母様が、樹にプレゼントを?) 直接的な謝罪の言葉ではない。けれどあれほどプライドの高い彼女が、不器用で遠回しな形で歩み寄ろうとしてくれている。 それは鏡子が樹を「桐生家の資産」としてではなく、一人の「孫」として認めようとしている。そんな兆しに思えた。 結菜をあれほどまでに追い詰めた女性。憎んでも憎みきれないはずだった。なのに、なぜだろう。不器用な愛情表現に、結菜の胸の奥が、じんわりと温かくなっていくのを感じている。「今すぐでなくていい。君の気持ちが落ち着いたら、どうか、受け取ってくれないだろうか」「……はい」 結菜は微笑んだ。優しい笑みだった。「ありがとうございます、と、お伝えください」 かつて2人の間にあった、桐生家という巨大な氷の壁。それが春の陽

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   111

    「……」 鏡子はモニタの向こうで笑う、樹の姿を見た。小さい頃の智輝とそっくりの少年が、目を輝かせてこちらを見ている。(あの年頃の頃、智輝はどうしていたかしら) よく思い出せない。その頃の鏡子は仕事に追われて、家庭を顧みていなかった。 それ以降は、智輝に厳しい教育を施した。桐生家の跡継ぎにふさわしいように、尊敬する父から受け継いだ血と会社を途絶えさせないようにと。 智輝は期待に応えて、優秀な大人になった。 でも、いつからだろうか。息子が心から笑わなくなったのは。 大人になればそんなものだと、鏡子は気にしていなかった。だが智輝は、結菜と樹の前では笑うのだ。 楽しそうに。孤独の影を脱ぎ去って。――幸せそうに。『幸せになってほしかった』『あの光こそが、桐生の名を未来へ繋ぐ』『雅臣くんを伴侶に選んだのは、彼が優しい心の持ち主だから』 父の言葉が何度もこだまする。 ふと横を見れば、智輝が慈しむような目で樹を見つめていた。久しぶりに見せる――否、鏡子が初めて見る心からの穏やかな笑顔。(私が、間違っていたというの?) 認めたくなくて、鏡子は何度も頭を振った。「鏡子」 そんな娘の肩に、エドワードは手を置いた。しわ深く痩せてしまっているけれど、確かに父の温かい手だった。「お前には、必要以上の重圧をかけてしまった。後悔しているよ。愚かな父を、許してくれるだろうか」「そんな。お父様は、間違いなど犯しません。全ては私が至らないせいで――」「間違いを犯さない人間などいないよ、鏡子。私も、お前もね。けれど真に反省して前を向けば、それでいいんじゃないかな」「……!」 鏡子は顔を歪めた。涙が出そうになって、必死にこらえる。「おばさん、ないてるの? どこかいたいの?」 モニタの向こうの樹が、鏡子の様子に気づいて心配そうに言った。結菜がぎゅっと息子を抱きしめる。「&he

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   110

    「こんにちは! さおとめ、いつきです。4さいです!」 元気よく自己紹介した樹は、エドワードの姿を見て不思議そうに首を傾げた。「しらないおじいちゃんがいる」「こら、樹! 失礼でしょ! この方は、智輝さんのおじいさまよ!」 横で結菜が必死で息子をつついている。「おじさんの、おじいちゃん? おじさんのお父さんのお父さん?」 樹はますます首を傾げた。「樹くんは、いい子だね。結菜さんが心優しく育ててくれたのだろう」 エドワードが言うと、樹は嬉しそうに笑った。「うん! ママは、とってもやさしいよ!」◇ エドワードは、画面の中で屈託なく笑うひ孫の姿に目を細めた。(そうか……この人とこの子が、智輝の大事な宝物) 智輝は桐生家の女帝だった母に反旗を翻してまで、戦ってみせた。 孫のそんな姿に、エドワードはかつての自分を思い出す。戦後の日本に単身で渡り、無一文から会社を興した若き日の自分を重ねていた。守るべき血統や家柄など何もない。ただ、未来を信じる情熱だけがあった、あの頃の自分だ。 旧華族の名門・桐生家の娘と結婚したのも、ただ純粋に相手を愛していたからだ。 当時の桐生家は名門の名ばかりで、すっかり没落してしまっていた。だから結婚に特に利益があったわけではない。 エドワードと妻は、戦後の動乱期と会社の成長を二人三脚で乗り切った。信頼と愛情があってことのことだった。 その妻はもういない。十数年前に先立ってしまった。 エドワードの気落ちは激しく、娘の鏡子に全てを任せて隠居生活に入った。 その時の智輝はまだ10代の学生。結果、鏡子に全ての責任がのしかかった。(あの時、隠居するのは早かったかもしれんな。おかげで鏡子に、最後まで苦労をさせてしまった) エドワードは内心で首を振って、過去の後悔を振り払った。 今、孫の智輝が守ろうとしている「未来」そのものが、画面の向こうで輝いている。 

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   109

    「違うだろう。私はただ、お前や雅臣くんや智輝に、幸せになってほしかったのだよ」「……!」 鏡子は絶句した。 幸せになってほしい。そんな素朴な願いが、尊敬する父の口から飛び出るなんて。「お前の伴侶に雅臣くんを選んだのは、彼が優しい心の持ち主だからだ。お前のビジネスの手腕と、雅臣くんの優しさ。夫婦の力が合わされば、いい未来を掴み取れると思った。……現実は、そこまで上手くいかなかったかもしれないが」 エドワードは苦く笑った。「あの……エドワード様」 重役の一人がおそるおそるといった様子で声をかけると、エドワードは頷いた。「君たちは、席を外してくれ」「かしこまりました」 役員たちが退出していく。 会議室には、エドワード、鏡子、雅臣、そして智輝だけが残った。「智輝。久しぶりだね。あまり元気そうではないが」 智輝は祖父の前で改めて背筋を伸ばした。「いいえ、お祖父様。お知らせすることがあります。俺は今、大事な人を得ました。愛する女性と、彼女の間にできた子です」「智輝!」 鏡子が声を上げるが、智輝は構わずに続けた。「俺は彼女たちを守ると誓いました。母は不満のようですが、負けるつもりはありません。必ず、幸せを手に入れてみせます」「そうか。あの小さかった智輝が、そんなことを言うようになったのか」 エドワードは感慨深そうに頷いた。「智輝。その女性と子に会うのはできるかな?」「結菜と樹です。彼女らは地方にいます。ビデオ通話でよければ」「それで構わない。まったく便利な世の中になったものだ」 智輝はタブレットを取り出して、結菜にビデオ通話をかけた。画面の向こうの結菜は、驚いた顔をしている。 エドワードがタブレットを覗き込んだ。「こんにちは、お嬢さん。私は智輝の祖父で、エドワードという」「おじいさま、ですか? 

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   108

     エドワードの登場に、その場の空気が、一瞬にして凍りついた。 先ほどまで智輝を糾弾していた役員たちが、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、一斉に椅子を引いて立ち上がる。その動きは、まるで軍隊の号令にでも従うかのように、一糸乱れぬものだった。 彼らは皆、若き日のエドワードのカリスマ性と厳しさを知る世代。その創業者を前に、彼らは会社の重役ではなくただの平社員へと戻っていた。 鏡子もまた、完璧なポーカーフェイスを崩していた。信じられないものを見たように唇をわずかに開く。(お父様がなぜ、ここに……?) 彼女の視線が、父の車椅子の横に立つ夫、雅臣へと突き刺さる。(雅臣さん? いつも私の言うことには黙って従うだけのあなたが、なぜ!?) 雅臣は妻の非難に満ちた視線を、逸らすことなく受け止めていた。常の気弱な彼としてはあり得ない態度である。 裏切りに対する怒りと、尊敬する父の登場による狼狽。鏡子の心中は激しく揺れた。「お父様……なぜ、ここに?」 ようやく絞り出した声は、力を失っていた。◇ エドワードは、騒然とする役員たちを一瞥で黙らせると、車椅子をゆっくりと進めた。孫である智輝の苦悩に満ちた顔をじっと見つめる。その視線を娘である鏡子へと移した。 そうして発せられた声は穏やかだったが、その場の誰をも黙らせる力があった。「鏡子。お前には、ずっと苦労をかけてきたな」「……え?」 予期せぬ労いの言葉。鏡子は、驚いて父の顔を見上げた。「雅臣くんが、経営には向かぬと分かっていながら、婿に迎えたのは私の判断だ。そして、なまじお前に能力があるからと、智輝を産んだ後も、重い荷物を背負わせすぎてしまった」 エドワードは一度言葉を切ると、静かに続けた。「だが、もう一度考えてみてほしい。会社はもちろん大事だ。だが会社とて、人間一人ひとりによって支えられているもの。そして人間は機械ではない。みなが心を持ち

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   107

     鏡子は智輝を結菜から引き離し、精神的に追い詰める。その上で最終的に樹を奪い取るための正当性を、会社を巻き込んで作り上げようとしているのだ。 それがどれだけ自分勝手で理不尽なものであるか、鏡子は気づいてもいない。 彼女はただ、桐生家の当主として、KIRYUホールディングスの重役として責任を果たしているつもりでいる。(まったく、手間のかかること。とはいえ、私が婚約者選びに失敗したのも事実ですね。綾小路銀行との縁は良いと思ったけれど、当の玲香さんがあそこまで浅はかとは。まあ、結婚相手はこれからまた探せる。今は確実に子供を手に入れておきましょう) 鏡子は窮地に立たされている息子を、無感動な目で見やっていた。◇ 会議室は、重苦しい膠着状態に陥っていた。 役員たちはただただ非難を繰り返すが、智輝も折れることはない。 話のすり替えに応じず、感情を殺して反論してみせる。 しかし役員たちもまた、鏡子の前でそう簡単に白旗を上げることもなかった。 その時、コン、コン、と控えめなノックの音が、重厚なドアを震わせた。 役員の一人が、苛立たしげに「誰だ」と声を上げる。重要な役員会の最中に許可なく入室を求める者など、通常では考えられない。 ドアがわずかに開いた。隙間から顔を覗かせたのは、若い秘書だった。彼は室内の重圧に気圧されたように青ざめている。「申し訳ございません。……お客様が、どうしてもと……」 秘書の言葉が終わるよりも早く、ドアがさらに押し開かれた。 ドアの前に立っていたのは、心配そうな、どこか安堵した表情の雅臣だった。「雅臣さん? あなたに出席の資格はないはずですけれど?」 鏡子が、驚きと非難の入り混じった声で夫の名を呼ぶ。しかし雅臣は妻の視線を無視すると、恭しく背後の人物に道を開けた。 静かなモーター音と共に、一台の電動車椅子がゆっくりと入室してくる。 それに乗っていたのは、一人の老紳士だった。90歳を超えているはずだが、その

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