All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

紬は、寧音から向けられる視線を無視することなどできなかった。その瞳に浮かぶ笑みの色が――ひどく癇に障る。一方、慎の端正ながらも、氷のように冷ややかな顔には何の感情も浮かんでおらず、かつて紬と親密だった痕跡など、欠片も見当たらなかった。周囲からの好奇そうな視線が、じりじりと肌を焦がすようだ。紬は唇の端をわずかに歪めた。「園部さんにはもう素敵な騎士様がついているようですけれど、清水社長は一体どういう立ち位置なんでしょうね?」その一言で、一颯の顔色が見る見るうちに険しくなる。彼は思わず寧音を一瞥した。苛立ちが胸の奥から込み上げてくる。紬のやつ、当てつけのつもりか!「腰巾着でしょ」笑美の追撃は容赦がない。一颯が紬に突っかかるというのなら、彼女は全力で親友の味方をするつもりだ。そもそも、最初に因縁をつけてきたのは一颯の方なのだから。一颯の表情がさらに曇る。「笑美、いい加減にしろよ。私はただ、園部さんに好意を寄せているだけだ」その物言いに、寧音も思わず眉をひそめた。紬が気圧されて縮こまると思っていたのに、まさか矛先を変え、あろうことか一颯と自分を同列に扱うとは心外だった。一颯のことは悪い人だとは思っていない。だが、こうしてひとくくりにされるのは不愉快だ。何しろ、慎と肩を並べられる男など、この世に存在しないのだから。場の空気が凍りついていることは、紬にも分かっていた。だが、構うものか。ふと顔を上げる。不意に、向かい側に佇む慎と視線がぶつかった。彼は静かに紬を見つめ返している。その表情に変化はないはずなのに、瞳の奥底に、微かな笑みの色が揺らめいているように見えた。紬は思わず息を呑む。慎の真意がまるで読めない。これだけ場の雰囲気を悪くしたというのに、どうして彼は……怒るどころか、楽しんでいるような目をしているのだろう?慎の腹の内がさっぱり分からなかった。紬は眉をひそめると、笑美の手を引き、別の展示エリアへと歩き出した。紬が立ち去ったのを見届けてようやく、寧音は眉間の皺を解いた。そして、今まで傍観に徹していた正樹へ、淑やかで裏表のない笑みを向ける。「秦野さん、またお目にかかりましたね」正樹もようやく口元を緩めた。「園部さん、長谷川代表、お久しぶりです」「凛太はいつ
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第102話

「錦戸家とは姻戚関係……まさにトップ層同士の結合ね」紬は心の中で溜息をついた。この展示会の敷居が高いのも納得だ。名門・錦戸家というブランド力と、秦野家という強固な人脈。選ばれた者だけが足を踏み入れられる場所なのだ。慎が足を運ぶのも、当然の成り行きといえるだろう。一階を見終えた紬たちは、そのまま二階へと足を運んだ。展示エリアごとに趣向が凝らされ、どの作品も目を奪われるものばかりだ。紬は美術品には目が肥えている。母が美術界に身を置いていたこともあり、幼い頃から絵画や彫刻に囲まれて育ったからだ。しかし、一階も二階もくまなく見て回ったものの、母の手がかりとなるような絵は見当たらず、少し落胆を隠せなかった。「ここの絵は売り物ではないの?」紬が尋ねると、事情通の笑美がすぐに首を振った。「コレクションは錦戸家の息子さんの個人的な趣味だよ。それに、錦戸の大御所のために書道作品を特別展示しているという名目もあるさ。要するにこういう場は、風雅を装った人脈拡大のための社交場なんだよ」それは紬を悩ませる事実だった。もしここで母の絵を見つけたとして、どうやって取り戻せばいいのだろう。三階に上がったその時、紬の視線が、ある一枚の絵に釘付けにされた。一目で心を掴まれるような作品だった。だが、非売品である以上、手に入れることはできない。諦めて別の場所へ移ろうとした矢先、背後から、聞き覚えのある寧音の声が響いた。「慎、この絵……素敵じゃない?」紬が振り返ると、寧音が熱心に見つめていたのは、先ほど自分が惹かれたのと同じ絵だった。慎が寧音を見つめた。「気に入ったなら、現地へ飛んでこの画家から直接数点、購入させよう」寧音は優雅に微笑んだ。「ありがとう。でも、そこまでしてもらうのは申し訳ないわ」「構わない」紬の足が、釘付けになったように動かなくなった。そのまま静かに身を翻し、その場を離れる。慎が寧音に注ぐ破格の寵愛は、もう嫌というほど見せつけられてきた。彼は寧音の望みを決して見過ごさず、常に最優先で叶えてあげるのだ。自分がどれほど焦がれても手に入れられない一枚の絵を、慎は何でもないことのように、寧音には惜しみなく与えてみせる。それが、自分と彼女との決定的な違いなのだ。笑美と合流する
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第103話

紬の表情が凍りついた。驚愕のあまり目を見張り、寧音をじっと見つめた。寧音は微笑みを絶やさぬまま、余裕たっぷりの視線を返してきた。その堂々たる自信に満ちた態度は、一片の偽りも感じさせない。一颯が呆れたように眉をひそめる。「温井、サインくらい確認したらどうだ?錦戸家のギャラリーに飾られているのは名画ばかりだよ。無理に良家の令嬢を気取るのはよせ。笑われるだけだから」この言葉の意味を理解できない者などいない。紬が言いがかりをつけていると、自ら宣伝しているようなものだ。寧音の母の名声がある作品を、自分のものだと詐称しようとしているのだと!寧音も一颯の暗示を察した。紬が虚栄心に駆られていると言っているのだ。それについては――彼女も同意見だった。寧音は露骨な言葉は避け、あくまで優しげに告げた。「これは母が海外へ渡る前に売却した、最初の絵なんです。まさかここで巡り会えるとは思っていませんでしたが……」彼女は紬を見やり、口角を上げた。「気に入ってくださって光栄です。温井さんはお目が高いのね」紬には信じられなかった。こんな偶然がここまで一致するはずがない。母の絵の下半分が失われ、時期を合わせて咲がこの作品を発表し、しかも高値で売却したなどと……もし推測が正しければ……咲のこの絵は、母の卒業制作にまつわる因縁と関係があるのではないか?紬は瞬時に冷静さを取り戻した。咲は当時、母の支援があったからこそ上流社会と接点を持ち、富豪に認められて海外へ渡り、永住権を得ることができたのだ。母を踏み台にして、栄光を掴み取った女……!紬は状況が読めない愚か者ではない。今ここで議論しても何の得にもならないことは明白だ。表向き、この絵には咲の署名があるのだから。紬はすぐに気持ちを切り替え、冷静を装った。「確かにこの絵に心惹かれています。錦戸様に連絡を取っていただけないでしょうか。言い値で買い取りたいのです」これは証拠だ。手に入れさえすれば、いつか必ず真相を白日の下に晒せる。「この絵、私がいただくわ」寧音が淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で割って入った。その言葉には強固な意志が滲み、紬の懇願など歯牙にもかけないという態度だった。紬が視線を向けると、寧音が見返した。口調こそ穏やかだが、瞳の奥
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第104話

結局、紬は予想通り首を横に振った。そこへ一颯が追い打ちをかけるように歩み寄ってくる。「誰と張り合うのも勝手だが、よりによって園部さんと?しかも長谷川代表がいる前で、園部さんの顔に泥を塗れると本気で思ってるのか?」一颯の目には、寧音と張り合うなど、紬が自ら墓穴を掘っているようなものだ。「不満なら、自分の旦那を連れてきて競わせたらどうだ?」一颯が嘲るように鼻を鳴らした。紬が既婚者だと知った時、実は彼も少なからず動揺したのだ。かつては、紬に対してそれなりに好感を抱いていた。美しく、物静かで落ち着いた佇まいの彼女を、思慮深く教養のある女性だと思っていたのだ。なのにまさか、突然結婚した挙句、自ら専業主婦になってしまうとは。一日中、男に奉仕し、所帯染みた日常に埋没するだけの人生……地に落ちたとしか言いようがない!それ以来、彼は紬を軽蔑するようになった。結局、彼女も世間に溢れるつまらない女たちと何も変わらない。寧音のように有能で、高学歴で、男性に依存せず自立した女性の足元にも及ばないのだ。紬は一颯の偏見になど興味もなかった。ただ、皮肉な話だとは思った。自分のかつての夫?今まさに目の前で、別の女を盲愛している、この男のことだろうか?ちょうど四階から戻ってきた笑美が、一颯がまたしても紬に絡んでいるのを目撃し、血相を変えて駆け寄ってきた。「また何を変な言いがかりつけてるのよ!」紬は笑美の手を握りしめると、冷ややかな視線を一颯に向けた。「あなたには関係のないことです。清水社長、今後私のことに口出ししないでください」紬はただ大人しいだけの女ではない。普段は波風を立てないよう振る舞っているだけだ。相手が土足で踏み込んでくるなら、容赦はしない。一颯は呆気に取られた。温厚な紬がこれほどきっぱりと言い返すとは思わなかったのだ。一瞬、言葉を失う。我に返ると、彼の表情はさらに侮蔑の色を濃くした。やはり、紬は寧音に比べて器が小さい。図星を突かれただけで逆上し、現実から目を背けているだけだ。……紬と笑美は休憩エリアへと移動した。先ほどの出来事を手短に話す。笑美は深く息を吸い込み、怒りで顔を歪めた。「長谷川慎って男は、あなたが傷つくかどうかなんてこれっぽっちも気にしないわけか!
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第105話

紬は言いかけた言葉を飲み込んだ。眉をひそめ、至近距離で彼を見上げた。「長谷川代表の勘違いよ。絵をねだったりなんてしていないわ」慎はすぐには答えず、ただ探るような瞳で紬の白い顔を見下ろしていた。この角度から見ると、彼女の顎は以前より少し尖って見える。両手で掬えてしまいそうなほど小さかった顔が、この短期間でさらに一回り小さくなったようだ。その分、静けさを宿した瞳がやけに大きく際立っている。彼は不意に手を伸ばすと、紬の顎を指先で持ち上げた。同時に、腰に回された腕にわずかな力がこもる。「……ずいぶん痩せたな?ダイエットしてるのか?」腰回りも随分と細くなっている。口調こそ冷淡だが、その瞳の奥に、言いようのない色が微かに揺れた。「それとも、何か食欲をなくすようなことでもあったか?」紬はふいと視線を逸らした。慎の反応は予想外だった。自分の変化に気づいていようとは。だが、それだけのことだ。もし仮に、彼女が抱える病の真実を知ったとしても、彼は眉一つ動かさないだろう。紬は体勢を立て直すと、彼の手を冷たく振り払い、毅然と言い放った。「もう離してもらえる?」彼の問いには正面から答えなかった。慎もそれ以上は無理強いせず、両腕を解いて彼女を解放した。紬がよろめかないよう片手を彼の胸につき、体を支えて離れようとしたその瞬間――脇の通路から戻ってきた正樹が、紬が慎の腕の中からちょうど離れる瞬間を目撃してしまった。正樹の表情が途端に曇る。先ほど慎は寧音のために気前の良さを見せ、錦戸家に一パーセントもの譲歩を申し出たばかりだ。それも、たかだか二千万円にも満たない絵のためだけに。明らかに寧音と慎は恋人同士の関係にある。なのに……どうして紬が、パートナーのいる男にあんな風に抱きついているんだ?正樹の視線は雄弁だった。彼の脳裏で、様々な下世話な憶測が渦巻いているのが手に取るように分かる。だが、こうした誤解はどう弁明しても言い訳にしかならない。慎と離婚していない時でさえ、彼は夫婦関係を公にすることを許さなかったのだ。今となっては尚更、真実など口にできるはずもない。「長谷川代表、これは一体……?」正樹が意味深な笑みを浮かべて近づいてくる。慎の表情は鉄仮面のように崩れない。「少し話を
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第106話

彼女は自信に満ち、優雅そのものだ。正樹の脳裏に、先ほど紬が慎に抱きついていた光景がフラッシュバックする。「温井紬というのは、一体何者なんです?」正樹が思案げに尋ねた。一颯は少し考え込んでから答えた。「今フライテックで承一さんのアシスタントをしているようですが……私の見立てでは、二人の関係は、ただの上司と部下ではありませんよ」承一のような立場の人間が、既婚女性である紬をあれほど重用するには訳があるはずだ。男女の特別な関係以外に、考えられる理由などない。だからこそ彼は、紬が救いようのないほどにまで、身を持ち崩していると確信しているのだ。正樹は目を見張った。一颯の言葉の裏にある意味は容易に理解できた。承一は業界内でも評判が良く、スキャンダルなど聞いたこともない。外での接待でも羽目を外すことはなく、清廉潔白を絵に描いたような男だ。だとすれば――紬は承一を手玉に取りながら、さらに慎にまで色目を使っているというのか?「急にどうして彼女のことを?」一颯も不思議そうに首を傾げる。正樹は軽く舌打ちし、グラスを合わせた。「ただ、人は見かけによらないなと思いましてね。綺麗な顔の下に何が隠れているか分かったものじゃありませんな」こうなると、彼は寧音に対して同情を禁じ得なかった。あんなふしだらな女に、男の気を引くための当て馬にされるなんて。「お二人は何をそんなにお話しされていますの?」寧音がドレスの裾を優雅に持ち上げながら近づいてきた。穏やかな顔には、非の打ち所のない浅い笑みを浮かべている。正樹に会釈する。一颯は彼女を見て、思わず声を甘くした。「ただ、有象無象とキミを比べたら、本当に雲泥の差だなと思いましてね。何でもキミと張り合おうとするなんて、身の程知らずもいいところですよ」寧音は片眉を上げた。具体的な内容は分からないが、一颯が誰のことを指しているのかは明白だ。それについて、彼女は淡々と首を振るだけに留めた。悪く言ったりせず、不快感も露わにしない。その態度は正樹に、彼女こそが慎の隣にふさわしい女性だと思わせるのに十分だった。確かに、気品があり寛大だ。「兄貴、誰のこと言ってるの!」通りかかった笑美が、一颯の棘のある言葉を耳ざとく聞きつけ、噛みついた。その嘲笑に満ちた口調
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第107話

寧音も当然、笑美の言葉に含まれる棘を即座に感じ取っていた。眉をひそめ、不快感を隠そうともせず笑美を睨み返した。自分が笑美に何か恨まれるようなことをした覚えはない。笑美の剣幕からすると、紬の入れ知恵も少なからずあるのだろう。寧音はこちらに向かってくる紬をちらりと一瞥し、瞳に苛立ちを浮かべた。紬にはこの程度の卑劣な手段しか残されていないのだ。他の部分では自分に勝ち目がないから、こんな姑息な策略を使ってくる。一颯も実はこの質問の答えに興味津々だった。慎の寧音への態度は確かに手厚いが、彼女として正式に紹介されたことは一度もない。もし慎がただ寧音を追いかけている段階なら、それは自分にもまだ……チャンスが残されているということだろうか?正樹も寧音を見た。その場の全員が、彼女の答えを固唾を呑んで待っている。寧音は唇を引き結び、意を決して口を開こうとしたその時――隣に長身の影が差した。慎が冷ややかな黒い瞳で笑美を一瞥し、何気なく紬の顔にも視線を向けて、氷のように冷淡な声で告げた。「そんなに興味があるなら、俺に聞けばいい。俺が彼女をどう位置づけるか、それがすべてだ」紬の張り詰めていた表情が、ふっと緩んだ。胸の内にあった違和感が霧散した。残ったのは、予想通りの静寂だけ。つまり慎の言葉は、寧音への「庇護」であり、同時に紬への「警告」でもあった。彼は寧音に二人の関係を明言させないことで、彼女に不名誉の泥を被ることから救い出した。彼女か、あるいは婚約者か――彼の口から語られる定義こそが絶対であり、紬が「長谷川夫人」だと名乗り出る道を完全に閉ざしたのだ!紬が慎の意図を理解できないはずがない。もし自分がここで波風を立てれば、慎も容赦はしないだろう。彼は自分が事を荒立てることなど恐れたこともない男だ。特に今は離婚手続きを進めている最中。彼はその流れに乗って寧音を正式な妻に据えるだろう。その時、一番惨めな思いをして恥をかくのは、結局自分だけなのだ。それどころか、寧音の評判を傷つけたという怒りを、自分の親しい人々にまで向けるかもしれない。紬は徐々に心を冷ましていった。彼の寵愛を受けたことがない以上、今さら失望するわけもない。笑美も慎の隠そうともしない態度を見て取り、心配そうに紬に駆け寄った。「紬……」
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第108話

寧音の考えでは、慎が認めていない以上、紬は長谷川夫人ではない。……笑美は今日は本当についてないと思い、紬を誘って飲みに行ってカラオケでもと考えた。かつて紬が広報として働いていた頃は、接待で多少酒をたしなむこともあったからだ。だが今は病を患っている以上、できるだけ刺激物は避けている。それに――慎と寧音のことは、もはや自分にそれほど大きな影響を与えなくなっていた。酒に溺れて憂さを晴らすほど、心が動かされることもない。結局、笑美は他の友人を誘って遊びに行った。紬が車で帰宅する途中、承一から電話が入った。ギャラリーの様子を気遣う内容だったが、紬は淡々と受け流した。「明日うちに来て食事しないか?親父が明日休みなんだ。善は急げって言うし、機嫌を取っておくに越したことはないだろう」紬は少し考えた。新プロジェクトにはまだ解決すべき課題があり、宏一の意見を聞きたいこともあって同意した。「明日迎えに行くよ」紬は素直に了承した。翌日、紬はわざわざ東城の老舗洋菓子店に並び、宏一が大好物のリーフパイを購入した。車で迎えに来た承一は、すぐに降りてくると、助手席のドアを開け、ついでに熱々の焼き栗が入った紙袋を紬の腕に押し込んだ。「お前の好物だろ。ちょっと腹に入れとけ」紬の瞳がわずかに輝いた。「ありがとう、承さん」承一は紬の頭を軽くポンと叩き、眉を上げて冗談めかして言った。「礼などいい。オレをもっとよく見ておけよ。そうすりゃ、将来男を見る目が養われるからな」紬は思わず吹き出した。車が走り去ると、向かいの路肩に停まっていたベントレーの窓が音もなく下りた。仁志は複雑な表情で、二人が去った方向を見つめていた。芙香のために菓子を買いに来ただけだったのだが、まさか紬と承一の……プライベートな逢瀬を目撃することになるとは。紬と知り合ってから随分経つが、彼女があれほど穏やかで、柔和な、心から親しげに誰かに微笑む姿など見たことがなかった。まさか、紬は本当に慎に見切りをつけるつもりなのか?その可能性は低いように思えた。あの頃、紬が慎に対してどう接していたか、自分も陸も目の当たりにしてきたからだ。彼は携帯を取り出し、何度も躊躇してから慎にメッセージを送った。【温井さんと最近どうなってるんだ?】慎と離婚す
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第109話

電話の向こうで、慎も実は意外だった。紬にあの絵の写真を何枚か送ると約束し、手が空いたタイミングで送信しようとしたのだが、ずっと既読にならず。さらにタイムラインを開いたら、いつの間にか【投稿はありません】になったのだ。つまり、いつ紬にブロックされたのかさえ分からない。絵画展の時だろうか?それとももっと最近?ただ、さほど気にも留めなかった。最近のゴタゴタを考えれば、紬が反応しない方がおかしい。ブロックしたのも――ささやかな抵抗か、不満の表れなのだろう。以前にも似たようなことがあった気がする。あの時、紬は一週間ほどでブロックを解除し、最終的には何事もなかったかのように振る舞った。今回は……残念なことに、自分が彼女の「小細工」に気づいたのは、随分時間が経ってからのことだ。紬はその時ようやく思い出した。ずいぶん前に慎をブロックしていたことを。個人アカウントだけでなく、仕事用のアカウントもブロックリストに入れていたのだ。慎がこれほど時間が経ってからそのことに気づいたのは、紬にとって意外ではなかった。ブロックする前から、慎が自分から連絡してくることは稀だった。いつも自分が気遣いのメッセージを大量に送り、彼は気まぐれに返信するだけだったからだ。重要でないと判断されれば、既読スルーは当たり前。大抵の場合、空虚な独り相撲に過ぎなかった。チャット画面には、自分の長文の間に、わずかな【うん】【分かった】【了解】というそっけない返信が点在しているだけ。きっとこの期間、自分からの連絡が途絶えて、慎はせいせいしたに違いない。「……何か、ご用件でも?」紬は彼の無言の問いは無視し、淡々と用件を促した。慎はしばらく沈黙してから、抑揚のない声で言った。「あの絵の写真が欲しいんじゃなかったのか?ラインで送れないから、電話で送付先を聞くしかないだろう」紬は指先でグラスの縁をなぞりながら、彼の言葉に微かな棘があるのを感じ取った。まさか、自分がわざと騒ぎを起こしてブロックし、彼の注意を引こうとしているとでも言いたいのだろうか?わざわざ自分から電話をかけさせて、理由を尋ねさせようとしていると?もうすぐ離婚するというのに、慎がそんな深読みをする必要などないはずなのに。慎が心の中で何を考えているのか、今の紬には
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第110話

フライテックのプロジェクトが軌道に乗り、安定期に入れば、安心して治療に専念できるはずだ。そうすれば蘭子や良平たちにも、落ち着いて説明できるだろう。着替えて浴室から出ると、携帯が鳴り続けていた。紬は画面を覗き込んだ。笑美から送られてきた写真だった。しかも、盗撮のようなアングルだ。写真には、きらびやかなショッピングセンターの宝石店で、慎が寧音に宝石を買い与えている姿が写っていた。店員の手には、大粒のダイヤモンドのネックレスがうやうやしく捧げ持たれている。自分に電話をかけてきたのは、デートの合間に時間を作って日課を片付けるかのような、事務的なものだったのか。笑美からのメッセージが連投されていた。【聞いて!最悪なんだけど!すぐ隣にいたんだけど、ずっと長谷川慎が園部寧音にカード使いまくってるの見てたんだ。数え切れないほどのブランド品を買い込んで、さっきもおよそ一億円以上するダイヤモンドのネックレスとイヤリングのセットを買ってた!あいつ、平然とブラックカードを切ったんだから!誰が見ても、この愛人サマは勝ち組だって思うよね!】紬はゆっくりと視線をその写真から外し、慎との結婚生活を回想した。彼が自分と一緒に買い物に付き合ったことは一度もなく、自分も彼にねだったことはなかった。慎が自分に贈ったプレゼントといえば、大抵は美智子が陰で指示し、もしくは要求して、出張や海外視察のついでに限定品のバッグや宝飾品を持ち帰らせたものばかり。あとは誕生日や記念日などに、秘書の要に指示して見繕わせた品を届けさせる。一見丁寧に見えるが、実際は効率的な「タスク」として消化されているだけで、そこに心などこもっていない。彼が贈ってくれたものはどれも高価だったが、寧音に自ら付き添い、選んでやる姿と比べれば、その冷たさは歴然としている。それらの品々は箱からも出さず、まだ新居のウォークインクローゼットの棚に眠ったままだ。どれほど高価でも、もう欲しいとは思わない。紬は笑美に【早く帰りなさい】とだけ返信して、ベッドに入った。慎と寧音のことは、もう尋ねない、気にしない。自分の心にさざ波ひとつ立てたくはないのだ。翌日。紬はフライテックに出社した後、メールボックスを確認した。慎からの写真はまだ届いていない。おそらく忙しくて忘れてい
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