All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 351 - Chapter 360

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第351話

仁志には、紬の言葉の裏がすぐに読めた。今回、穂高グループが滞りなく特許ライセンスを手にできたのは、フライテックが仁志に恩を売ったからではない。ただ、かつて紬の力になったことへの、ささやかな返礼に過ぎないのだ。そして、この恩返しは今回限り――これで貸し借りは帳消しになる。仁志は、紬の物静かで、どこか冷ややかな横顔を見つめた。これまで、彼女が表面上礼儀正しく接してきたのは、決して自分を友人として認めていたからではない。その残酷な事実を、仁志は痛いほどはっきりと理解していた。しばらくの沈黙の後、仁志はゆっくりと頷いた。「……分かった」実のところ、最初からわかっていたのだ。紬が自分に対して、ビジネス以上の感情を抱くことなどあり得ないと。慎の友人という立場である以上、何を望んだところで結果は見えている。端的に言えば、たとえ将来、紬との間に何かしらの関係が芽生えたとしても、その関係をうまく築いていけるかどうかすら怪しいのだ。慎とは十数年来の付き合いになる。その友情を手放すことも、長谷川グループと敵対することも、仁志にできるはずがなかった。だが、人間というものは本来、自分でも望み薄な結末だとわかっているのに、一縷の望みをかけ、どうにかなるのではないかと夢を見てしまう、愚かな生き物なのだ。彼らのような世界では、幼い頃から徹底した利益優先のエリート教育を受けて育つ。純粋で一途な思いなど、果たしてどれほどの人間が抱き続けられるだろうか。一人の女のために身を滅ぼし、目の前の利益や地位をすべて投げ出すような者が、本当に存在するのだろうか。魅力的な女性に目を奪われることはある。だが、紬は友人の妻なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。そして当然ながら、自分は最初から紬の選択肢に入ることすら許されていなかった。仁志は立ち上がると、紬をじっと見つめ、静かに手を差し伸べた。「温井社長、穂高グループにこの機会を与えてくださり、本当にありがとうございます」仁志の複雑な心中など知る由もなく、紬は軽くその手を握り返した。「こちらこそ」掌に伝わる、華奢でやわらかな感触。仁志はそれを、そっと心に刻み込むように確かめた。さりげなく、ほんの少しだけ力を込め、それから未練を断ち切るように、その手を離す。「芙香にまた何かあれば、相談させて
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第352話

紬は小さく首を振った。「彼はわかってるわ。だから何も言わない」承一も腑に落ちたように頷いた。「そうだな。もし園部のために無理を言ってきたら、それこそ人としてどうかしてる」紬は、アロー・フロンティアの行方など微塵も気にしていなかった。叔父の手術を翌日に控えていたから。今の彼女には、それ以外のことに気を回す余裕などなかった。……良平の手術は、随分と前から日程が組まれていた。凛太が治療方針に加わり、検査数値がようやく安定したことで、正式に日取りが決定したのだ。紬は翌日の休みを取ることにしていた。承一は自分は身動きが取れないからと、笑美に付き添いを頼むよう提案してくれたが、紬はきっぱりと断った。家族のことで、周囲に迷惑をかけるつもりはない。それに、フライテックは新システムの件で、今は社内の誰もが手一杯だ。幹部が三人いるとはいえ、そのうち二人が同時に現場を離れるわけにはいかなかった。手術前夜。蘭子は、不安と緊張でほとんど一睡もできなかった。大切な家族の命がかかっているのだから、心配でたまらないのは無理もない。紬にはその痛いほどの思いがわかっていたから、ただ静かに、寄り添うように夜を明かした。手術は午前十一時に始まる。その前に、執刀医の大輔が紬のところへやって来て、現在の状況と、おおよその手術時間を丁寧に説明してくれた。この種の移植手術は非常に複雑で困難を極め、最長で八時間から十時間にも及ぶ可能性があるという。紬は生きた心地もしなかったが、隣には蘭子がいる。自分がしっかりしなければと気丈に振る舞いながら、渡される手術同意書に、次々とサインを済ませていった。そのとき初めて、紬はふと思った。――いつか自分が手術台に上る日が来たとき、自分の代わりにこうしてサインをしてくれる人が、果たしているのだろうか、と。手術は、重苦しい静寂の中で長く続いた。蘭子の顔色は、見るからに悪かった。一晩中眠れずにいたせいで、すっかり憔悴しきっている。心配になった紬は、優しく声をかけた。「おばあちゃん、叔父さんの病室で少し休んでてください。まだしばらくかかりますから、私がここで待ってます。もうすぐ終わりそうになったら、必ず呼びに行きますから」蘭子も無理はしなかった。自分がここで倒れてしまっては、また紬に余計な心配をか
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第353話

状況が、すぐには飲み込めなかった。ただでさえ不安と心配事で頭の中はぐちゃぐちゃになっているというのに。慎の顔を見た瞬間、紬の目には戸惑いの色が濃く宿った。「なんで……ここにいるの?」慎はゆっくりと視線を上げ、赤く点灯し続ける手術室のランプへと目を向けた。「ここにいたら、いけないか?」まるで、彼女がなぜそんな質問をするのか意味がわからないとでも言いたげに、慎はさらりと、平然と言い放った。紬は不快そうに眉をひそめた。さっきまで胸を占めていた重苦しさが、彼の場違いな登場のせいで調子を狂わされた。「長谷川代表、私が何を言いたいかわかってるでしょう」遠回しに言葉を濁すつもりはなかった。慎はようやく、正面から彼女の顔をまじまじと見た。じっくりと観察するように見つめると、顔がひとまわり痩せ細くなっているのがわかる。頬がこけ、フェイスラインが目に見えてわかるほど、痛々しいほどに痩せていた。ひとしきり見てから、慎はただひと言、低く言った。「ここにいたかった」紬はさらに深く眉を寄せた。「今日が叔父さんの手術だって、どうして知ってたの?」慎は、何でもないことのように気軽そうに答えた。「おばあさんが、お前の投稿した病院の写真を見てな。お前と連絡が取れないから、様子を見てきてくれって言うから来ただけだ」なるほど。それなら慎がここに来ていても不思議はない。そんな事情があったとは、思いもしなかった。「何ともないと、おばあさんに伝えてください。長谷川代表の貴重なお時間を割いていただくわけにはいきません」言葉こそ丁寧だったが、その口調は氷のように冷たかった。慎はしばらく彼女を見つめた。その静かな瞳は冷ややかで、声には一切の起伏がなかった。「いつになったら、そうやって強がるのをやめる気だ」その声は、やはりひどく穏やかだった。まるで傍観者が静かに事実を告げるような淡々とした口調で、そこに特別な感情や思い入れはなく、ただ彼女のそういう意地っ張りなところが余計だと、ただ単にそう思っているだけのようだった。今の紬には、彼に言い返す気力さえ残っていなかった。何も答えず、眉をひそめたまま、そっと隣の椅子へと体をずらした。二人の間に、ぽっかりと、冷たい空席が一つできた。慎は、そんな彼女の拒絶の態度を気にした様子もなかった。二人の間に、重苦しい静
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第354話

慎は動こうとしなかった。紬は再び眉をひそめ、彼を見据えた。「まだ何か、お話がありますか?」その言葉の裏には、「一体いつまで居座るつもりなのか」という非難が込められている。慎はちらりと彼女を一瞥し、手首の高級時計へと視線を落とした。「せっかく来たんだ、このまま帰る気はない」紬は軽く皮肉交じりに言った。「私が考えを変えないか、見張りにでも来たんでしょう」先ほどの返答が単なるその場しのぎで、後になって反故にされるのではないかと警戒しているのだ。慎は彼女を見つめ、口角をわずかに上げた。その口調は相変わらず軽薄さを帯びている。「ああ。確かに心配してるんだ」紬はもう慎の放つ、剥き出しの不信感を気に留めることもなくなっていた。彼がそういう性質の人間だと、痛いほど理解している。一度心を決めたら、他人の言葉で容易に揺らぐような男ではない。紬は静かに視線を外し、彼を見ることをやめた。慎の方も、彼女の冷めた感情や頑なな態度など微塵も介していない。この息が詰まるような、気まずい沈黙すらも、彼にとっては特に不都合なものではないらしい。用件はすでに済んでいる。互いにこれ以上、言葉を交わそうともしない。ただ同じ空間を共有しているだけの、見知らぬ他人のように。それはかつての、彼らの日常に存在した、冷え切った距離感そのものだった。凛太が上の階から降りてきたとき、廊下の先でその異様な光景を目にした。思わず足を止める。並んで腰を下ろしている慎と紬の姿を、少し離れた場所から静かに見つめた。凛太の目に、微かな戸惑いの色がよぎった。慎のことなら、もちろん知っている。ランセー・ホールディングスの若き代表。この国でビジネスに関わる者なら、誰もが知る名前だ。錦戸家と長谷川家も、親の代から浅からぬ因縁がある。もっとも、自分と彼がそれほど親密な間柄というわけではないが……なぜ、慎がこんな所にいるのか。このフロアの手術室では今日、良平の大型移植手術一件しか予定されていない。ということは……慎は紬と一緒に、良平の手術の終わりを待っているということになる。凛太の瞳に、かすかな驚きの色が走った。慎と紬は……そこまで親しい間柄だったのか。凛太はしばらく考え込んだが、二人に近づくことはしなかった。……長く座り続けていると
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第355話

紬の心にわずかな動揺が走ったが、決して表情には出さなかった。凛太の目を真っ直ぐに見返す。彼に、不躾に詮索しようという悪意は見受けられない。ただ「たまたま目に入った」から、世間話の延長でさりげなく聞いてみた、という程度のようだった。紬は軽く頷いた。「ええ、帰りました」答えたのはそれだけだった。慎との複雑な関係をわざわざ説明することも、「気にしないでください」と無駄に付け加えることもしなかった。ここで言い訳じみたことを並べ立てても何の意味もない。見られてしまったという事実は、どう言葉を尽くしても変わらないのだ。それならば、余計なことは言わず、話をここで終わらせる方がずっと得策だ。凛太も特に驚いた様子はなかった。紬が慎のことについて深く語りたがっていないのは、その態度から十分に見てとれる。当然、それは彼女の極めて個人的な事情だ。外野である自分が詳しく聞き出す筋合いはない。「これから二十四時間ほどは、ご家族も色々と大変かと思うが……特別室のサポート体制であれば専任の介護スタッフがつくから、無理はしなくていい」その穏やかな声音が、張り詰めていた彼女の不安をそっと解きほぐしていくようだった。紬は深く頷いた。長い待機時間で凝り固まっていた緊張が、ようやく少しだけ緩む。「わかりました」凛太は腕時計で時間を確認し、ふと視線を落とした。極度の緊張からか、あるいはまともに食事が取れず血糖値が下がっているせいか、紬の抜けるように白い首筋には、うっすらと冷や汗が滲んでいた。彼の視線はほんの少しだけそこに留まり、すぐにさりげなく逸らされた。それから、紬がまだ手の中に握りしめている、封の切られていないフルーツ牛乳を顎で指し示した。「看病するなら、まず自分自身をしっかり支えることだ」紬は今、本当に全身から崩れ落ちてしまいそうだった。凛太の言いたいことは痛いほどわかる。彼女は深く深く頭を下げ、謝辞を述べた。凛太は静かに頷き、踵を返して歩き出した。ただ、廊下の角を曲がりかけたとき、白衣の裾を翻して歩いていた足がゆっくりと止まった。彼の知的な目の奥に、かすかな疑問の色が浮かんだ。慎ほどの立場の人間であれば、毎日のスケジュールは分刻みで埋まっているはずだ。にもかかわらず、今日、彼がこの病院に割いた時間は決して短くない。
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第356話

当然と言えば当然だ。この病室は、病院の中でも最高級のVIP仕様なのだから。蘭子が紬のお膳を差し出した。「そうみたいよ。さっき、専任の介護スタッフさんが運んできてくれたんだ」紬は素直にそれを受け取り、席に着いた。費用が高いのには、それなりの正当な理由があるものだと、しみじみと実感する。それからの二日間、三食が定刻通りに届けられ、毎食、彩り豊かな日替わりのメニューが提供された。やがて良平はICUを出て、無事に意識を取り戻した。まだ自力で動くことはできないが、顔色は随分と落ち着いている。その吉報を聞くなり、笑美が「すぐに承一を連れてお見舞いに行く!」と言い出した。紬が制する暇もないほどだった。二人は仕事の合間を縫って駆けつけてくれた。笑美は、この数日間ずっと気を張り詰めていた紬の顔を見るなり、心配そうにその頬を両手でそっと包み込んだ。「プロの介護スタッフも看護師さんもついてるんだから、あなたも少しは気を抜いて休みなさいよ」承一は、持参した高級な栄養補助食品の紙袋を、音を立てないようにそっとテーブルに置いた。ベッドの上の良平は、今はちょうど穏やかな寝息を立てている。紬は二人を促し、病室の外にある豪奢な応接スペースへと連れ出した。二人は見舞いに来たついでに、この二日間の業界の動向を教えてくれた。「昨日、風の噂で耳にしたんだけどさ。アロー・フロンティアとスホンが正式に提携したみたいだぜ。新製品の共同開発だってよ」と、承一が切り出す。笑美は腕を組み、鼻で笑った。「どうせ、スホンと提携するふりをして、フライテックの新しいシステムを間接的に使おうって魂胆でしょ。あの園部、相変わらずやり方が小賢しいね」スホンは本来、新素材開発を主力とする企業だが、最近になってドローン製造技術にも乗り出していた。アロー・フロンティアとの今回の提携は、飛行制御以外のハード面でアロー側が技術支援を行い、互いの弱点を補完し合う形になるのだろう。確かに、製品の完成度は上がるかもしれない。ただ、このいびつな提携で、アロー・フロンティアが主導権を握ることなどあり得ない。紬はわずかに眉を上げた。寧音の動きは予想以上に早い。業界で完全に干されるわけにはいかないと、必死にもがいている証拠だ。もっとも……「アローが提携先を探すなら、
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第357話

紬は、寧音の態度など見る気もなかった。余計な視線を向けることもなく、そのまま通り過ぎた。アロー・フロンティアがスホンと手を組んだところで、自社で技術を完全に握っているのとは、価値が天と地ほども違う。表面上は持ちこたえているように見えても、実際に得られるものはたかが知れているのだ。テクノロジーの波に飲み込まれないよう、かろうじて生き延びているに過ぎない。あとは慎が送り込んだ人材が、どれほどの新しいものを作り出せるかにかかっている。だが、紬はそれを心配していなかった。自分のシステムの水準はよくわかっている。慎が新たな人材を入れ、技術のテコ入れを図ったとしても、二年もあれば、まったく別の発想で、なおかつこちらに匹敵するものを作ることはまず不可能だ。慎の介入は、ただその時期を少し早めるだけのことである。午前中、紬は主治医と相談し、しばらく化学療法を見合わせることにした。ここ数日、心身ともに消耗していた。この状態では、副作用に体が持ちこたえられない。医師もまずは体力の回復を優先すべきだと判断し、別の分子標的薬を試すよう提案した。医師との相談を終え、紬は時計を確認した。数日前、悠真と食事の約束をしていた。今日がその日だ。ベイサイド・テクノロジーは、フライテックについてもっと詳しく知りたいようだ。承一は都合がつかないため、紬は笑美を連れて行くことにした。笑美もフライテックの経営幹部のひとりだ。悠真の考えも直接聞いてみればいい。悠真が指定したのは、隠れ家の料亭だった。個室へ通されると、悠真はすでに立ち上がって出迎える準備をしていた。ただ、個室にはもうひとり、見知らぬ女性がいた。凛とした佇まいで、しかし目元は艶やかだ。「望月さん、こちらはフライテックの清水笑美です。今日は一緒に詳しくお話できればと思いまして、よろしいでしょうか」と、紬は穏やかに言った。悠真は「もちろんです」と快く頷いた。「こちらの方は?」紬はその女性へ目を向けた。女性は立ち上がった。鋭くも美しい目に、修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ泰然とした落ち着きがある。手を差し伸べながら言った。「フライテックの温井社長ですね。ベイサイド・テクノロジーの橘清実(たちばな きよみ)です」紬の目に、かすかな驚きが過ぎった。橘代表――ベイ
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第358話

紬はただ静かに微笑むだけで、肯定も否定もしなかった。清実はすぐに軽く笑った。「失礼なことを聞いてしまいましたね。業界の慣習として、優秀なエンジニアの個人情報は守られるべきものです。探ろうとか引き抜こうとか、そういう下心は一切ありませんので」飾らない率直な言葉だった。紬は柔らかく微笑んだ。「いえ、おっしゃる通りです。こちらこそご理解いただけて」清実は紬のことが気に入っていた。これほど若いのに、物事に動じず筋道が通っている。この分野の分析も、深い洞察に感心させられた。「いかがでしょうか?」悠真はずっと傍らで見守っていたが、ここで少し姿勢を正し、清実を見た。清実はちらりと彼を見た。「深く連携できる機会があれば、フライテックとベイサイド・テクノロジーの理念は合うと思います」紬にはベイサイド・テクノロジーの意向が伝わった。互いに淀みなく社交辞令を交わした。食事は和やかに終わった。お開きとなると、清実は急ぎの用があると言って一足先に席を立った。悠真はわざわざ足を止め、振り返って紬を見た。手を差し出す。「温井社長、これからも末永く、お互い良好な関係を築けることを願っています」紬は軽く頷き、握手に応じた。「こちらこそ」悠真はそれから笑美にも軽く会釈し、踵を返して去っていった。笑美はその後ろ姿を見送りながら、思わず声を漏らした。「やっぱり若いイケメンって、目の保養になるね!」紬は言葉を失った。笑美はすっかりご機嫌で続けた。「気づいた?彼、さりげなく気が利くよ。控えめでいて、しかも今日みたいに橘代表まで連れてくるなんて、すごい誠意の表れじゃない」紬もそれは素直に認めた。「普段、橘代表に直接会うのは、なかなかできないことだから」笑美は感嘆のため息をついた。「あんな大物を引っ張り出せるなんて、よっぽど腕が立つか、社内で一目置かれてるんだよ。橘代表くらいの人なら、フライテックが話題になってるくらいじゃ特別驚かないはずだよ。もしかして……」笑美は意味ありげな目で紬を見た。「望月さんって、橘代表の……『お気に入り』だったりして?」彼女が既婚だなんて話、聞いたことないし!紬は呆れ果てて言葉も出ず、笑美の額を指で軽く弾いた。「詮索するの禁止。会社に戻るよ」笑美も冗談のつもりで、本気ではなかった。フライテックへ
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第359話

今日の研究所の見学枠は二百名。各企業や団体がまとめて申し込む形だ。入口付近には人が集まっていた。視線を向けた先に、ちょうど車を降りる慎の姿が目に留まった。ドアの縁に手を添え、後ろから降りる寧音のために自然に手を差し出している。寧音は機嫌よく顔を上げ、慎に向かって穏やかに微笑みながら何か話しかけていた。慎は時折、短く相槌を打つ。もう一台の車からは、陸と一颯が談笑しながら歩いてきた。それからほどなく、全員の視線がこちら、紬と承一の方へ向いた。紬はすでに視線を外し、承一とともに中へ歩いていった。愛想を振りまくつもりはない。慎は紬の後ろ姿をひと目見てから、挨拶にやってきた別の会社の役員と言葉を交わし始めた。続々と入場が進むと、担当者が出てきて案内を始めた。自然とひと塊りになって移動し始めた。寧音は慎の隣に立ち、少し先を歩く紬のことは意に介する様子もなく、ただときおり口元を手で隠しながら慎に小声で話しかけていた。一颯は承一のことを以前から慕っており、自ら近づいて声をかけた。「承一さん、笑美のやつは来なかったんですか?」一颯は心中でため息をつく。向上心もなく、ただ漫然と過ごすことしか考えていないあの妹には本当に手を焼く。承一を少しは見習えないものか。それとも寧音のような優秀な例を目の前にして、少しは刺激を受けないのか。毎日、紬とつるんでばかりいて。「こういう雰囲気が苦手なんで、無理させても仕方ないよ」と承一は笑った。「それもそうか、来ても大人しくしてないでしょうし」一颯は頷き、さりげなく紬に目をやった。笑美はフライテックの幹部だからここにいても不思議はないが、紬はどうだ。ほんの数ヶ月で一気に上り詰め、本来なら自分たちとは住む世界の違う領域に足を踏み入れている。今日ここにいられるのは、承一と笑美がいたからこそだ。この二人がいなければ、紬がこの場所に足を踏み入れることなど、一生なかっただろう。陸も近づいてきた。「最近、フライテックが話題ですね。おめでとうございます、賀来さん」それから紬を見た。「おや、温井さんも来てたんですね」その一言には、明らかな含みがあった。紬は視線を向けようともしなかった。陸の言葉の裏は、聞けばわかる。「承一」へのお祝いだけで、紬は端から眼中にない。それ
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第360話

寧音には、到底納得できなかった。今やアロー・フロンティアには、スホンという強力な提携先がついているのだ。特許を盾に取る紬の対応など、所詮は弱者の悪あがきであり、幼稚で噴飯ものだとしか思えなかった。研究所の一般公開日である今日、敷地内にはA大の学生たちも多数訪れていた。もちろん、他社の人間もいる。先日、咲の個展に顔を出していた経営者たちの姿もあった。彼らは皆、慎への顔を立てるために来ている連中だ。彼らは慎の姿を見つけると、機嫌を伺うように、我先にと慎のもとへ次々と挨拶に訪れていた。今日の研究所内には、いくつかの見学プログラムが組まれている。しばらくすると、案内役の宏一が、四十過ぎと見える男性を引き連れて現れた。二人の登場で、場の空気はいっそう和やかなものになった。紬には、その男性に見覚えがあった。宏一の隣を歩いているのは、宏一の最初の教え子である斉藤健太郎だ。銀縁の眼鏡をかけ、物腰が柔らかく穏やかな雰囲気を纏っている。寧音は健太郎の姿を見つけると、そつなく愛想の良い挨拶をした。「先生、ご無沙汰しております」健太郎は鷹揚に頷いた。だが、視界の端に紬の姿が映ると、一瞬だけ足を止めた。それから紬の方へ体を向け、にこやかに、かつ丁寧な所作で頭を下げたのだ。その予想外の振る舞いを、寧音は無言で眉をひそめて見ていた。一颯が寧音の不機嫌そうな様子に気づき、慰めるように小声で囁いた。「気にしなくていいですよ。今や、あの温井は賀来教授の学生なんですから、斉藤教授が身内として挨拶するのも当然の成り行きです。賀来教授の威光がなければ、あんな女など、本来なら誰も見向きもしないはずですから」寧音も、理屈ではそれを理解していた。彼女は何事もなかったかのように微笑んだ。「ええ、わかっていますわ。別に気にしてなんていないですから」一颯は、寧音があまり動揺していないのを見て、ようやく安堵の息をついた。寧音は横を向き、慎を見上げた。一歩、すがるように身を寄せて小声で言う。「慎……今日、先生に直接お会いするのって、やっぱり少し緊張するわ」慎は静かに彼女を見下ろした。「大丈夫だ。お前が緊張する必要などない」寧音は彼の言葉で表情を和らげ、安心したように頷いた。宏一は健太郎を連れて、少し離れた場所にいる担当者のところへ向かい
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