All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

その軽い一言で、一同の野次馬根性に火をつけた。紬は、陸がこちらをちらりと見たのに気づいていた。相変わらず飄々とした態度で、ヘラヘラと笑みを浮かべたまま、表面上は悪意を見せていない。紬は口角をわずかに上げた。目の奥には、静かな嘲りが滲んでいる。相手の腹の底など、手に取るようにわかった。A大学は他の大学とは違い、受験番号を発表するのではなく、成績順位のリストを発表するのだ。今日がその日であることを、寧音も知っているはずだ。陸がわざわざ、これだけ大勢のいる場でそれを言い出したのが何のためか、寧音にもわかっている。要するに、公衆の面前で、紬に恥をかかせようという魂胆だ。寧音はわずかに目を細め、紬を冷ややかに一瞥した。紬の成績が良いはずがない。寧音はそれだけは確信していた。寧音は特に表情も動かさず、あくまで寛大に振る舞うように淡々と言った。「今日はせっかく研究所に見学に来ているわけですし、わざわざここで成績を確認するのも、場の雰囲気を壊してしまうんじゃないかしら」一颯はおかしそうに笑った。「そんなことないですよ。この難関分野で好成績を収めるのは、研究所にとっても嬉しいニュースでしょう。優秀な人材が増えることは、国としても喜ばしいことです。ご自分の実力を過小評価しすぎですよ」「そうですよ」と陸も、周りにいる顔なじみの経営者たちを見渡して同意を求めた。「二人は、いわば院試のライバルだったわけでしょう?みんな気になってるんだから、確かめないわけにはいかないですよ。携帯で見るだけですし、すぐ終わりますから」それから、陸はわざとらしく首を傾けて紬を見た。今日、業界の重鎮たちがこれほど顔を揃えている場で、紬の成績が無惨なものだったとしたら、「コネ入学」「ただのお飾り」という不名誉な烙印を押されることになるのだ。陸の悪意ある煽りに乗って、場の雰囲気が一気に色めき立った。相手の目的は明白だった。紬は声に出さず冷笑した。まるで底の浅い茶番でも眺めているような気分だった。承一は、紬の冷ややかな横顔を盗み見てから、にこやかに寧音を見て、あえて驚いたように言った。「園部さん。どうせもう合格も決まっていて、指導教官も決まってるんですから、今さら他人の点数を確認してもしなくても関係ないんじゃないですか?」その一言を聞
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第362話

寧音は眉をひそめ、紬を冷ややかに一瞥した。自分なりに、彼女が恥をかかないよう顔を立ててやったつもりだったのに、それを紬自身が鼻でせせら笑って撥ねつけたのだ。「温井のその見栄の張り方、なかなか真似できるものじゃないね」一颯は紬の見え透いた強がりを鼻で笑い、寧音の方に向き直って声を和らげた。「園部さん、公式サイトで見てみたらどうですか?」「ええ、そうね」寧音はもう、強がる紬に構う気もなく、自身の携帯を取り出してA大の公式サイトを開いた。陸も面白そうに、自分の携帯でサイトを探し始めている。ただ、その成績順位の画面が表示された瞬間――寧音の口元の笑みがピタリと固まり、次いで、その美しい目が信じられないものでも見るように大きく見開かれた。慎は視線を落とし、寧音の画面に目をやった。順位と点数の情報が、はっきりと目に入ってくる……慎は静かに目を上げ、紬の方を真っ直ぐに見た。寧音も同じ瞬間、鉄面皮のような完璧な笑みが、音を立てて崩れ去った。携帯を握る指先が、きゅっと白くなるほど強張っている。呼吸のリズムが、明らかに乱れていた。見間違えたのだろうか。「どうしたんですか?」一颯はまだ自分の端末に目を落としていなかった。ただ、寧音の顔色が一瞬で真っ白になったのを見て、心配そうに声をかけた。紬はこの一部始終を冷ややかに眺め、唇の端に冷笑を浮かべていた。承一は無邪気な好奇心を装って、わざとらしく明るく訊ねた。「見えたか?園部さんは何点だった?うちの紬と同じくらいなのか?」承一の言葉が響いた瞬間。寧音は血の気のない唇をきつく結んだまま、無言で携帯の画面を消し、手を下ろした。頭の中で、激しい耳鳴りが渦巻いている。思考がまったくまとまらない。SS……あの紬が、なぜSSなんていう化け物じみた点数を叩き出せるというのか。「な、何かの間違いじゃないですか」陸がようやく我に返り、思わず紬を凝視して、信じられないという顔で声を上ずらせた。「お前が、あの噂の一位……?SS?」一颯の表情が、一瞬で石のように固まった。それから、みるみるうちに顔色が変わっていく。周囲にいた全員が、驚愕の目で紬を見た。最初から最後まで、自らの実力について何一つ主張せず、ただ静かに立っていたあの女を。さっきの寧音の言葉の
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第363話

宏一が不快に思ったのは、紬への態度のことではなかった。学校の公正性も、一人の人間の努力も、軽々しい一言で全て否定し去るような——その不遜な態度が、許せなかった。寧音の顔色はさらに悪くなった。今日のこの騒ぎで、宏一の機嫌を損ねてしまった。それはわかっている。でも……「教授、あの日すでに彼女の点数をご存知だったんですよね、それなら……」寧音は自分を落ち着かせ、息を整えてから訊いた。宏一はこちらを見た。寧音が答えを求めているのが見てとれた。「なぜあのとき直接教えなかったのか、と聞きたいのだろう?」寧音は唇を引き結んだ。ここまで来たら、答えが必要だった。負けを認めない人間ではない。上には上がいることも、ちゃんとわかっている。ただ——あのとき、紬の点数を教えることができたはずだ。なぜ。今日というこの日まで、待つ必要があったのか。あのとき教えてもらえていれば、今日こんな恥をかかずに済んだ。紬はちらりと横目で見て、寧音の内心を瞬時に察した。宏一が点数を伏せていたのは、自分を貶めるために結託していたのだと、寧音は思い込んでいるのかもしれない。宏一はそういった話題に興味を示さなかった。踵を返しながら、一言だけ、厳かに言い残して背を向けた。「君と彼女では、勝負にすらなっていない。説明する必要がない」慎はわずかに体をずらして紬を見た。彼女はまったく動じていない。涼しい顔で、泰然と構えている。宏一のその一言は、いくつかの意味を含んでいるようだった。受け取った者たちは頭を殴られたような衝撃に、言葉を失った。寧音でさえ、思わず絶句した。これは——紬がそもそも争うつもりがなかったということなのか。それとも、もっと別の意味があるのか。陸も一颯も、思考が一時、止まった。健太郎は立ち去り際、寧音を見て、一言だけ添えた。「深く考えないでください。賀来教授は誰に対してもああいう方だ。温井紬をかばったわけではなく、大学それぞれの公正さと厳密さを皆さんに信じてほしかっただけだ」陸はようやく我に返り、内心の動揺を押さえながら唇を引き結んだ。「失礼いたしました。取り乱してしまい……」健太郎は頷くと、宏一のあとを追って去った。今度こそ、視線は一斉に紬へと向いた。寧音も、慎も。寧音の目には、じわりと暗い感情が滲
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第364話

寧音は唇をさらに引き結んだ。どうにか平静を装おうとしたが、表情がみるみる険しくなっていった。紬は慎の目を真っ直ぐに見返し、静かに言い放った。「長谷川代表のお連れ様と比べれば、まあまあといったところでしょうか」慎が一瞬、動きを止めた。紬を見る。寧音の表情が、さっと冷たく凍りついた。紬は自分に対して、点数で優位を見せつけながら、踏みつけているというのか。紬は二人の表情など構わず、踵を返して次のエリアへと歩いていった。承一と並んで遠ざかる二人の背中を見つめながら、寧音はやっと喉の奥に砂を詰め込まれたような息苦しさを感じた。幼い頃から培った自制心が、あふれそうな感情を全て押し込んだ。表には何も出なかった。「温井紬はずっと意図的に抑えていたのか、それとも本人も自分があそこまでやれるとは思っていなかったのか」陸は複雑な顔のまま呟いた。今でも、記憶の中の紬と今の紬が、どうしても繋がらない。宏一の研究室の枠を取ったと聞いたときは、運が良かっただけだと思っていた。しかしこの点数は……本物だ。偽りようがない。紬に手を抜かれていたというのか。「園部さんは小さい頃から海外で教育を受けてきたんです。帰国してからの受験勉強の期間も短かった。負けたわけじゃない」一颯は眉を寄せ、寧音がこれ以上傷つかないよう言葉を選んだ。寧音の表情は完全に冷え切っていた。もう取り繕う余裕もなかった。今日の出来事を、頭の中で整理するための時間が必要だった。紬が総合一位だという事実を。自分を納得させるための理由を、どうしても見つけ出さなければならなかった。寧音は隣の慎へと目を向けた。「慎、少し体の具合が悪くて。先に行ってもらえる?」その一言を聞いた一颯は唇を引き結び、慎を見た。慎が紬の去った方向をほんの少しだけ、物思いに沈んだ目で追っているのに気づいた。一颯はかすかに眉をひそめた。まさか慎が紬に惹かれ始めているのではないか。瞳の奥に不満の色がよぎった。慎は他のことには気がつかず、視線を落として寧音を見た。ひと呼吸おいてから、低く言った。「送っていく」一颯は寧音が慎に痛々しいまでに縋り付いているのを見て、二人の背中を見送りながら、複雑な気持ちを抱えた。二人が立ち去るやいなや、陸は仁志にラインを送った。【やばい、マジでやばい~!温井
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第365話

紫乃は言いかけて、一瞬詰まった。「寧音さんが二位じゃないの?なんで……」言葉が途中で止まった。慎の漆黒の瞳と正面から視線がぶつかった。怒りも苛立ちも浮かんでいない。ただ静かに見ている。その目だけで、紫乃の背筋に冷たいものが走り、体がぶるりと震えた。彼女は慌てて口にチャックをする仕草をした。彼は、寧音のことを祖母の前で「お義姉さん」と呼ぶな、と警告しているのだ。ただ……遅れて、さっきの言葉の真意をじわじわと理解した。「お兄ちゃん、一位って……まさか紬じゃないよね?」紫乃は自分でもおかしい質問だと思いながら聞いた。もしかして単なる聞き間違いかも。「何と呼ぶ?」慎は襟元のネクタイを緩めながら、静かに見据えた。紫乃は愕然として、首をすくめた。「お義姉さん……」言い終わるか終わらないかのうちに、背後から美智子の声が響いた。「あなたのお義姉さんがどうしたの?」紫乃は振り向いた。美智子が階段を降りてくる。慎がとっさに庇ってくれたのだと気づいた。紬を名前で呼ぶのを美智子に聞かれたら、きつく叱られるところだった。慎は美智子をちらりと見た。何か言う前に、紫乃は弾かれたように立ち上がり、美智子に寄り添った。「お兄ちゃんのお嫁さんがね、航空宇宙工学の院試、専攻一位だって。おばあちゃん、信じる?」美智子はさっき紫乃が「寧音」と言いかけたのを聞いたかどうか、顔には出さず、ただ慎を見た。「紬が院試を?」慎はゆったりと答えた。「ああ、今日A大の公示が出た。専攻一位だ」慎の言葉で確認が取れた瞬間、紫乃の表情がすっかり変わった。まさか、本当だったのか。寧音は成績Aだったはずなのに、あの紬に負けるはずがない。美智子は喜びで顔をほころばせた。「紬、そんなに頑張っていたのに、なんで私に教えてくれなかったの!」慎は美智子の嬉しそうな様子を見た。顔色がいつもよりずっとよく見える。「これで得心がいったでしょう」と淡々と応じた。「そうね、そうだわ!」美智子は手を合わせて頷いた。「これは大事よ、こんなめでたいことを何もなしに済ませるわけにはいかないわ。決めたわ!今週末、長谷川家で業界の方々を広くお招きして、表向きは祝賀会という名目で紬の進学祝いをするの。外には長谷川家に慶事があると伝えるだけでいい。来たい人に来てもらえ
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第366話

美智子からそんな話が伝わっているとは思ってもみなかった。紬はどうにも納得がいかない。「……慎も、開催に同意したんですか?」「当然よ。私が言い出したことに、あの子が逆らえるわけがないでしょう」紬は眉をひそめ、しばらく黙り込んだ。まさか、これほど大々的なことになるとは。よく慎が同意したものだ。かつての自分との関係が露見することを、彼は心配しないのだろうか。「そんなに気を遣っていただかなくて結構ですよ。これくらい、ささいなことですし」断る口実を必死に考えながら、紬はこめかみを押さえ、溜息混じりに答えた。「あなたに気を遣うことなんてないわ。もう手付け金として、すでに二千万円振り込んだわ。わざわざ週末を選んだから時間も取らせないし、遠慮なんてしなくていいのよ。時間が決まったらまた連絡するわね」美智子は紬の性格を熟知している。断る隙など微塵も与えず、一方的に電話を切ってしまった。紬は思わず絶句した。携帯を耳から離し、机に置く。しばらくの間、この事態をにわかには信じられなかった。どうして美智子の耳に入ったのか。しかも、こんな大がかりな祝いの席まで設けるなんて。なぜ慎は美智子を止めようとしなかったのか問い詰めたかったが、今の美智子のあの張り切りぶりを思えば、誰の言葉にも耳を貸さないであろうことは容易に想像がつく。あれこれ思案してみても、もう自分が口を挟む余地は残されていなかった。慎が動こうとしていないということは、この祝賀会が問題なく終わるという確信があるのだろう。……寧音に大差をつけてトップだったという事実は、咲の耳にも届いていた。当日からすでに、その噂は広まり始めていたのだ。フライテックの温井社長が、過去最高得点を叩き出した、と。寧音は、事の詳細を語ろうとはしなかった。ただ、咲は居ても立ってもいられず、病室を抜け出して、アロー・フロンティアへと乗り込んできたのだ。咲が寧音の母親だと知っているスタッフたちは、恭しく上の階へと案内した。寧音は、咲の顔を見た瞬間にその来意を悟った。ここ二日ほど頭痛が続いており、今も顔色が優れない。「お母さん、体調が悪いんだから無理しなくていいのに」咲は眉を寄せ、露骨に不快感を露わにした。「温井紬があんな点数を取るなんて、いったいどういうことなの
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第367話

その一言で、寧音の顔から血の気が引いた。秘書が差し出す招待状へと、視線を吸い寄せられた。「園部代表、これは……」状況が掴めない秘書は、招待状を机の上にそっと置いた。ご令孫の若奥様?長谷川家に、他に何人若奥様がいるというのか。「もういいわ、下がって」真っ先に冷静さを取り戻したのは咲だった。表情をほとんど崩すことなく、気品のある立ち居振る舞いを保ったまま告げる。秘書は頷き、退室した。足音が遠ざかるなり、寧音は眉をひそめた。それでも、さほど取り乱す様子は見せない。「あちらの大奥様は、私を牽制するおつもりかしら?」少しばかり、意外だった。わざわざ「お孫さんのお嫁さん」の祝賀会という名目で、招待状を送りつけてくる。紬の点数のことも、すでに耳に入っているのだろう。それだけの理由で、これほど大がかりな祝いの席を設けるというのか。しかもこの招待状は、決して出席を促すためのものではない。長谷川の若奥様は紬である。そう、暗に突きつけられた、痛烈な宣戦布告だ。咲もまた、表情を引き締めた。「美智子さんがおっしゃりたいのは、温井紬があちらでいかに大切にされているか、ということよ。あなたに来てほしいわけじゃないの。慎に直接言い聞かせることができないから、あなたに『圧力』をかけてきているのよ」寧音は、大きな動揺は見せなかった。咲は立ち上がり、寧音の肩にそっと手を添えた。「大丈夫、落ち着いて。美智子さんだって、あなたのことが嫌いなわけじゃないわ。ただ、慎と紬の間には、腐れ縁のような歴史があるから。年を取ると、最初の妻が一番可愛いという、古い考えに囚われやすいのよ。実のところ、どうにもならないわ」咲は目を細め、言葉を継ぐ。「いずれ美智子さんと直接お会いする機会があれば、あなたが紬よりどれほど優れているか、自然とわかっていただけるはず。そうなれば、必ず受け入れてくれるわ」「それにね」と、咲はさらに続けた。「もともと秘密の結婚なんだから、美智子さんがどれだけ大がかりにやったところで、慎はあなたが居心地の悪い立場に置かれるような真似は絶対にしないはずよ」そこだけは、咲も絶対の自信を持っていた。寧音は机の上の金箔があしらわれた招待状を見下ろし、汚い物でも払うように忌々しげに脇へと押しやった。「わかってる。慎はおばあさんに気を
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第368話

紬は、そこは気にしていなかった。仮に何かが漏れたとしても、自分が言い出したことではない。自分には関係のないことだ。「あちらのおばあ様のことは、後でこっちからお声がけするわね」その一言に、紬は無言で眉をひそめた。蘭子の存在を、すっかり失念していたのだ。「それは結構です、おばあさん。蘭子おばあちゃんは叔父のことで疲れていますから、今日は伺わなくて大丈夫です。祖母に代わってお礼を申し上げておきますね」美智子が離婚の事実を伏せている以上、蘭子を呼べば全てが露見しかねない。今はとにかく、美智子をなだめるしかない。「そう、そっちも大変だったものね。じゃあ、慎にあなたを迎えに行かせるわ。今すぐ知らせるわね」美智子は今日はすこぶる機嫌がよく、あっさりと話題を切り替えてまた段取りを進め始めた。紬が断る隙を与えないよう、さっさと電話を切る。前も後ろも、完全に退路を断たれてしまった。紬は携帯の暗い画面を見つめ、それから時計を確認した。慎が迎えに来る……もしふたりで揃って会場入りなどすれば、嫌でも人目を引くに決まっている。美智子も慎も、その程度のことが想像できないのだろうか。美智子はどうしても今夜、彼女を連れ出す気でいる。美智子の目には、今も紬が長谷川家の「大切なお嫁さん」として映っているのだ。その誤解を解こうにも、うまく伝わるような話ではない。紬はしばらくその場に座り込んで考えてから、ゆっくりと立ち上がり、バッグの支度を始めた。……慎の乗った車が、マンションのエントランスに滑り込んだ。慎は後部座席でタブレットの画面から目を離さず、顔も上げずに命じた。「奥様に電話をしてくれ」要は車を停め、頷いた。美智子からの至上命令とあらば、今日はわざわざここまで出向くしかなかったのだ。要が電話をかける。少しの間の後、通話が繋がった。相手の声は温度がなく、ひどく淡々としていた。「もう出ました。あとはそちらでお好きにどうぞ」慎はわずかに指の動きを止め、視線を上げて運転席を見た。要は途端に眉をひそめる。「ですが……お迎えに伺うとご連絡していませんでしたか?」知っていて、あえて先に出たというのか。しかも、一言の断りもなく?「あなたは彼の部下ですか、それとも私の部下ですか?連絡が来たからって、私がいつまでも待たなけ
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第369話

慎はゆっくりと階段を上がり、紬の背後に立った。紫乃を静かに見据えるその瞳には、明らかな警告の色が浮かんでいる。紫乃はすぐに首をすくめ、紗代の背後へと逃げ込んだ。紗代にも、慎の意図はわかっていた。紫乃が今口走ったことは、決してこのような公の場で口にしていいことではない。壁に耳あり、もし誰かに聞かれでもすれば、あのいびつな内情が明るみに出てしまう。体裁が悪いどころの話ではないのだ。「おばあちゃんのところへ行きなさい」紗代は紫乃を一瞥し、苦り切った顔でたしなめた。紫乃は唇を噛み、紬をひと睨みしてから、渋々踵を返して走り去っていった。紬は背後に慎の気配を感じ、わずかに体をずらして、二人の間の狭い距離を広げた。紗代は複雑な眼差しを紬へ向けた。「今日のこの場は、お義母さんがわざわざあなたのために設けてくださったのよ。でも表向きには、長谷川家のお嫁さんのための進学祝いだとは公表していないわ。あくまで、ただの招待宴。ここでは誰も、あなたの本当の素性を知らないの。お義母さんのご好意に感謝しているのなら、言動にはくれぐれも気をつけてちょうだい。自分の素性を明かして、長谷川家の顔に泥を塗るような真似だけは絶対にしないで」慎と寧音の関係は、外ではすでに噂になっている。この場で紬が「長谷川家の妻」だと明かしてしまえば、長谷川家そのものへの影響はさほど大きくないにしても、格好のゴシップの種にされてしまう。少なくとも今の時点では、寧音の実家のテクノロジー企業はまだ立ち上がったばかりであり、長谷川家と釣り合うような家柄ではない。事が表沙汰にならないに越したことはなかった。「宴の主催者は長谷川家でしょう。私に説教を垂れられる筋合いはありません」紬は涼しい顔で言い放った。紗代の思惑など、とうにお見通しだった。紗代がとっさに眉をひそめた。慎は紗代をちらりと一瞥すると、淡々とした声で告げた。「紬が長谷川家の顔に泥を塗ったことが、過去に一度でもありましたか。『立場を危うくする』という懸念があるなら、私に直接仰っていただければ済むことです」紗代は眉を寄せたまま、返す言葉に詰まった。紬をひと睨みすると、何も言わずに踵を返し、来客の対応へと戻っていった。来賓から慶事の中身を尋ねられても、彼女は一律に「子どもの慶事です」とだけ答えていた。
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第370話

それ以外にも、紬は、いくつか有益な繋がりになりそうな相手と出会うことができた。言葉を交わし、各社の強みを的確に把握しながら、将来への見通しを頭の中で立てていく。しばらくすると、美智子の傍付きである山谷がそっと近づいてきて、耳元で囁いた。「若奥様、大奥様が、少し後で主賓席へ旦那様とご一緒にお越しいただきたいと仰っております」紬は軽く眉をひそめ、即座に断りを入れた。「それは難しいです。この場にそぐわないですし、慎も快くは思わないでしょう」山谷は食い下がるように言った。「では、旦那様とご相談いただけますでしょうか?」紬はとっさに周囲を見渡した。しかし、慎の姿はどこにも見当たらない。「お気遣いなく。大奥様には私から直接お伝えしますので。私たちは公表しないと決めております。よろしくお願いします」山谷の返事すら待たずに、紬は踵を返し、別の方向へと歩き出した。その時、ちょうど外から入ってきた凛太と正面からぶつかりそうになった。凛太も紬の姿を認め、わずかに目を見開く。紬は軽く会釈をした。「錦戸先生もいらしていたんですね」凛太は静かに頷いた。「祖父が美智子様と旧知の仲でして、本日は一緒に祝いの席へ」「そうでしたか」紬はそれ以上、深くは聞かなかった。二人はそれほど親しい間柄ではない。紬が丁寧に一礼して背を向けると、凛太も自然な所作で道を空けた。凛太はわずかに眉を寄せ、紬の遠ざかる背中を見送った。今日の長谷川家の宴席は、決して純粋なビジネスの場ではない。彼女が経営するフライテックと長谷川家が、とりわけ密接な取引関係にあるわけでもないのだ。それなのに、なぜ紬がここにいるのか——先日の病院での一件と照らし合わせる。凛太はゆっくりと視線を戻し、思案に暮れた。……紬の携帯に、仕事の電話が入った。朝日からだ。実証試験に問題が生じたという報告だった。電話で直接指示を出す必要がある。紬は人の流れから外れ、ホテル外の静かな回廊へと出た。「アルゴリズムをもう一度見直してみて。データにエラーが出ているはずよ」朝日の報告を聞きながら、問題の所在が明確に見えてきた。向こうが検証作業に入っている間、紬はふと顔を上げ、斜め前方に広がる駐車場の方へと視線をやった。目が、止まった。街灯の光が、夜の闇を照らし出している。二
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