紗代の一件は、紬の心の片隅にさえ留まることはなかった。彼女が心底から自分の味方をしてくれているなどと、微塵も信じてはいない。ただ、期待をかけていた寧音が思い描いていたような人間ではなかったため、最近の騒動を機に考えを改めたというだけの話である。月曜日。紬は承一と連れ立って、国際貿易センターの近くまで商談に赴いた。帰途につこうと車へ向かった折、向かいに一台の車が停車し、カツカツという甲高いハイヒールの音を響かせて寧音が降り立つのが目に入った。以前とは見違えるほど、落ち着きを取り戻している。寧音もすぐに紬の存在に気づいた。その眼差しは瞬時に凍りつき、しばらく視線が交錯したかと思うと、彼女の口元に冷ややかな笑みを浮かべた。何も語ることなく、寧音は向かいのビルの中へと姿を消した。紬はその背中を見送りながら、どこか心に引っかかるものを覚えた。以前の寧音であれば、こちらなど眼中にないかのように一瞥もくれなかったはずだ。だが今は違う。わずかではあるが、悪意に満ちた棘のある態度が見え隠れしていた。今の寧音は、余裕を失っている。紬はそう直感した。本当に危機感を抱いていない人間が、わざわざ態度を変えることなどあり得ないのだ。「聞いた話だと、あちらの違約金、もう片がついたらしいよ」承一が口を開いた。業界に顔の広い彼の耳には、すでに噂が届いていた。「今日、そういう話を聞いてね」驚くべきことではなかった。あの事件が表面化した瞬間から、慎が動く可能性は想定の範囲内だった。アロー・フロンティアはすでに情報漏洩と著作権侵害の件で多大な損失を出している。寧音たちが自腹を切った額も決して少なくはないはずだ。しかし今回、美術館とのトラブルはアロー・フロンティアとは無関係である。十億という大金を全額自力で工面するとなれば、そう容易い話ではない。これほど短期間で決着がついたとすれば、慎が手を貸した以外に理由は考えられなかった。「これほどの事態に陥っても、アロー・フロンティアの仕事をひとつとして止めなかった。そこだけは評価するわ。精神力が並大抵ではないわね」紬は淡々と述べた。承一も同感だった。他の誰かであれば、とっくに心が折れていたかもしれない。「後ろ盾となってくれる人間がいなければ、話は別だったろうけどね」承一は唇の端をわずかに歪め
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