All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

紬の態度に、香凛は口元に笑みを浮かべ、最後はただ微笑み返すにとどめた。「それならよかった。わざと隠してたって思われたら嫌だし、せっかく仲良くなれた関係が台無しになっちゃうもの」紬は微かな笑みを浮かべたまま、その穏やかな表情を崩さない。そこからは、何も読み取れない。香凛の奥底には攻撃性が潜んでいる。ふとした瞬間にそれが滲み出るが、幼い頃から場数を踏んできたせいか、動揺した素振りは微塵も見せない。ただ……紬はふと、かつて寧音が口にしていた言葉を思い出した。もしかすると、寧音自身が、事実を誤認しているのではないか?食事会がお開きとなった。紬は秀治に、三日後にチームで機密施設へ打ち合わせに赴く件を確認した。参加者の名簿もすでに確定している。そこには、悠真の名もあった。実のところ、紬はずっと引っかかっていた。帰国したばかりの悠真ならば、まずはベイサイド・テクノロジーに腰を据え、じっくりと地盤を固めるべきではないかと。あそこの上層部は一筋縄ではいかない人間ばかりで、たとえ清実の息子といえども、圧倒的な実力がなければ埋もれてしまう。それなのに、あえて途中で国家プロジェクトのチームに加わるとなると、どうにも腑に落ちない。あそこは、彼の本来の土俵ではないはずだからだ。秀治たちは周囲の目を引かないよう、足早に席を立った。ほとんどの面々が引き上げていく。笑美はよほど気に入った料理があったらしく、弾んだ足取りで店員を呼びに行った。承一にも食べさせてあげたいと、持ち帰り用に包んでもらうためだ。夕闇が、西の空から静かに迫る頃合い。まだ気分が乗っていた香凛が、紬と慎に向かって提案した。「時間もまだ早いし、二軒目に行かない?すごく雰囲気のいいバーを知ってるんだけど、一緒にどう?」悠真も、そっと紬へ視線を向けた。先に口を開いたのは慎だった。「遠慮しておくよ。今夜は叔父の見舞いに行かないといけないからね」紬にはそれが口実だとわかっていたが、小さく頷き、さらりと合わせた。「楽しんできてね」香凛は残念そうに目を伏せ、慎をちらりと一瞥する。「そっか。じゃあ、次の機会に」悠真は香凛のことなど気にも留めない様子で、紬だけを見て静かに微笑んだ。「では、三日後に」何気ない一言だが、どこか含みがあるように聞こえた。
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第602話

せり上がる胃液が喉元を焼くようで、それでも紬は吐き出せなかった。胃の中が激しく痙攣するように締め付けられ、路肩についた腕がかすかに震えている。慎は素早く車を降りた。長い脚でつかつかと歩み寄ると、端正な顔つきを険しくし、笑美よりも一足早く紬の傍らに片膝をつく。背中をそっとさすりながら声をかけた。「どうした?どこが辛い?」紬は今、ひどく苦しかった。腹部が波打つように絞り込まれ、痛む。背中に触れる彼の手を払いのける気力さえ、今はなかった。笑美も顔を青くして駆け寄ってくる。「食中毒かな?」慎は紬を凝視したまま、無意識に眉根を寄せた。「病院に連れて行く」「いいわ……」紬はようやく息を整えると、慎が抱き上げようとする動作を即座に制止した。横目でちらりと彼を見上げ、初めてその瞳が真剣な色を帯びていることに気づいた。めったに見せることのない表情だった。紬は慎の手を払い、笑美へと向き直った。「車酔いよ」本当は分かっている。薬の副作用だ。ここ最近、様々な薬を飲んできた。副作用の強いものもあれば、飲んだ直後に激しい吐き気に襲われるものもある。ただ、こんな姿を人前にさらしたのは初めてだった。慎は心配げに眉を下げ、すでに青白くなっている紬の顔を見つめた。「車酔いするなんて見たことがない。医者に診せた方がいい」紬は笑美の手を借りて立ち上がり、感情のない瞳で淡々と言った。「心配してくれてありがとう。でも、自分のことは自分が一番よく分かってるから」彼とこれ以上話すつもりはなかった。さっさと車に乗り込む。病院に行くなど、論外だった。慎は助手席のドアをしばらく見つめ、それから笑美に目を向けた。「運転を代わってもいいか?俺の方が揺れが少ない分、あいつも楽だと思う」笑美は反射的に断ろうとしたが、自分の運転が原因で紬が気分を悪くしたのかもしれないと思い直し、唇を噛んで頷いた。「……分かった。でも、自分から申し出たんだから、あの子がまだ辛そうだったら文句言うからね」「ああ」慎は迷いなく運転席に収まった。笑美は後部座席に乗り込む。紬は彼が乗ってくるなり、不快げに眉をひそめた。「長谷川代表、すっかりお抱え運転手気取り?」慎はエンジンをかけながら、口調を変えずに返した。「じゃあ、運賃でもキャッシュレスで払ってもら
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第603話

さすがの紬も堪忍袋の緒が切れた。「長谷川代表、まさかあの『クルーズの件』を蒸し返すつもり?」まだ慎は表立って触れてきていない。でもいったん亀裂が入った以上、何事もなかったふりをするのは不可能だった。先手を打っておくのも、一つの手だ。今度は、慎の口角が意味深に、かすかに動いた。紬は静かに彼を見据え、ゆっくりと、しかし確固たる口調で自分の立場を伝えた。「大人の男女が三年間、夫婦として過ごしてきた。もし本当に関係を清算したいなら、私に言えることは一つだけよ。あなたでなくても、誰が相手でも、私にとっては変わらない。あなたも分かってると思うけど、私があなたに未練がましく付き纏うようなことはないわ。安心して。私たちの間に何があったとしても、二人の結末が変わることはないから」慎が心配しているかどうかにかかわらず、自分の立場だけは、はっきりさせておく。慎はゆっくりと瞼を上げ、底知れぬ瞳で彼女を見た。「俺は古い人間だ。お前ほど割り切れない」紬は彼がそこに反応するとは思っていなかった。最後の「結末は変わらない」という言葉に対してではなく?だが彼の言葉を流すつもりもなく、冷ややかな目で切り返した。「長谷川代表が言行を一致させてから言ってほしいものだけど」慎には分かった。紬が指しているのは、寧音と「一緒にいた」時期に生じたであろう肉体関係のことだ。明らかに、彼が食事の席で言った否定の言葉は一切耳に入っていない。自分が彼女に嘘をついたことは一度もない――彼女は、それを知っているはずなのに。そして二人のこれからに対する彼女の態度は、あくまでも冷やかで、揺るぎなかった。慎は彼女を見ながら、少し首を傾けた。飄々としているようでいて、どこか真面目な声で言う。「まるで寝室を覗き見でもしたような口ぶりだな。どこの寝室だ? まだ覗き穴があるなら俺も覗いてみようか」のんびりとした言い方だった。あの気品すら漂わせたまま。それなのに彼の口から出ると、なんとなく別の意味合いが滲んだ。紬は眉をひそめた。彼がこんな話し方をすることは滅多になかったため、どんな感情を発散させようとしているのか掴みきれなかった。慎は頭上のまばゆい灯りを一瞬見上げてから、改めて言った。「俺は冗談で言ってない」彼の言いたいことは分かる。でも……
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第604話

もっとも、紬はそれをさほど気に病むつもりはなかった。どうせ政府内部に留まる話で、慎との離婚が公になることはない。二人の間の協議にも影響しないはずだ。身支度を一通り済ませると、紬は寝室に引き上げて休んだ。業界では近々大きな動きがある。重要な入札が公開される見込みで、フライテックもそれに向けて万全の態勢を整えなければならない。三日後。紬は一人で指定の施設へ向かった。途中、見知らぬ番号から着信があった。ハンズフリーで出ると、聞き覚えのある女の声が届いた。「私よ、須藤瑠衣」その名前を耳にした瞬間、紬はほとんど反射的に通話を切った。須藤家の人間とは、誰とも関わりたくない。連絡する理由も、向こうの意図を探る理由もなかった。施設に到着するなり、その番号をブロックした。厳重な身元確認を経て、二階の会議室に通された。先に来ていた悠真と佳緒の姿があった。悠真は紬を見つけると口元をほころばせた。「こっちだ」紬は静かに彼を一瞥し、三人の席が並んでいることに気づいた。席に向かおうとすると、佳緒がすかさず隣の席を指さした。「こっちに座りませんか?」見れば、佳緒を間に挟む形で紬と悠真が並ぶ配置になるようだった。紬は特に気にせず、言われた席へ歩み寄り腰を下ろした。佳緒に先を越されたことを、悠真は少し意外そうに思いながらも、佳緒へ視線をやった。佳緒はペンを握る手をきゅっと強張らせたが、耳を赤くしたまま何も言わなかった。悠真は何も言わなかったが、ポケットからガラスの小瓶を取り出した。中には手作りのキャンディがいくつか入っていた。紬に差し出しながら、気遣わしげに言った。「先日、甘酸っぱいお菓子がお好きなようだったから。家にお抱えのパティシエがいてね、これが得意なんだ。口に合えばいいけど。君は忙しくなると食事を忘れがちなタイプだと思ってね、糖分補給にでも」まるで宝物でも扱うかのように、ずっと大切に持っていたのだろう。彼女を見つけた途端に取り出した。紬は一瞥して言った。「お気持ちだけいただいておきます。ありがとうございます」悠真は彼女のそっけなさを意に介さず、そのまま彼女の手元に置いた。「遠慮しないで。今日は会議が長くなりそうだから、食べたくなったら」そう言いながら、悠真は隣の佳緒に目をやり、肩を
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第605話

「私がですか?」紬は戸惑い、思わず聞き返した。島田はどこか感慨深げな表情で続けた。「先日、確かな内部情報が入りましてね。ランセーが数年前から、イギリスのバーミンガムに多額の資金を投じて関連会社を設立し、水面下で製造技術とサプライチェーンを整備していたそうです。今年に入ってようやく施設が完成し、本稼働できる状態になったと聞いています。温井社長、もし可能であれば……彼らとの交渉の橋渡し役になっていただけませんか?」紬は一瞬、言葉を失った。慎がイギリスにそんな会社を持っていたというのか?なぜ、今まで一度もそんな重大なことを口にしなかったのか。しかも、何年も前から秘密裏に動いていたということになる。この希少材料の製造インフラに投資するとなれば、将来得られる市場シェアと収益は想像を絶する規模になる。国内への導入に成功すれば、国内市場を丸ごと独占できると言っていい。さらに各国の航空宇宙産業とも長期的な取引が可能になる。まさに未来の大きな潮流となるビジネスだ。利益規模は天文学的数字になるだろう。多くの資本家が血眼になって群がるだけの価値がある。――だが、それほど巨大な市場価値があることは、誰もが知っていることだ。それでもなお、実際に参入する者がほとんどいないのは、開発と研究の難易度が桁外れに高いからに他ならない。スタートアップの設備投資だけで、数百億は下らない。技術封鎖という分厚い壁の下では失敗率が驚くほど高く、もし失敗すれば数百億がそのまま泡と消える。しかも、成果が出るまでには何年もの途方もない歳月がかかるのだ。どこからどう見ても、リスクは恐ろしいほど大きい。一般の消費者向けでもない、ニッチで特殊な素材にこれほど巨額の資金を賭けようとする資本家など、ほぼ存在しない。たとえ成功すれば数十倍の利益になるとしても、だ。それに――慎はいったいどうやって、あの国でいくつもの厳しい規制の壁を突破したというのか?「温井社長、いかがでしょうか?」島田が再び尋ねた。彼も分かっていた。慎の会社がイギリスにある以上、国内と深く連携するとなれば、M国からの厳しい制裁を受けて輸出市場に制限がかかる可能性がある。少なからず市場を失うリスクがあるのだ。だからこそ、協力体制の構築も価格交渉も、極めて慎重に進めなければならない。紬は
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第606話

確かに痛いところを突かれた。紬は思わず眉間を押さえながらも、自分から彼に会いに行く正当な大義名分がないことも分かっていた。「都合が悪いなら、別にいいわ」どうせSXアロイの件は長期的な課題だ。今日明日にすぐ決まるものでもない。彼が嫌だと言うのなら、こちらに強制する手立てはない。電話を切ろうとした、その直前。「ランセーで待ってる」慎はまるで彼女の行動を読んでいたかのように、ゆったりとそれだけ言って、紬より先に通話を切った。紬は明確な答えを得た。先ほどの意地悪なやり取りにはあえて触れず、車を走らせてランセーへと向かった。ランセーの本社ビルを訪れるのは久しぶりだった。この壮麗なビルに足を踏み入れると、ロビーを行き交う人々の視線が、自然と紬の歩みを追ってきた。フロントのスタッフが丁寧に深く一礼する。「奥様、代表専用のエレベーターをご利用ください」紬は落ち着いた様子で小さく頷いて礼を言い、エレベーターに乗った。二人の関係が周知されてからというもの、周囲の態度の変わりようは、以前とは比べ物にならなかった。最上階の社長フロアに着いた。秘書室の前を通り過ぎると、中で忙しく働いていた秘書たちが紬の姿を見つけ、一様に表情を変えた。複雑な色が隠しきれていない。かつての紬はランセーの広報部マネージャーであり、慎とは縁もゆかりもないように見えた。それが、あんなに身分を隠して社内にいたなんて……と思うと、全員が記憶を掘り起こし、過去に彼女に対して失礼をしでかしていなかったか必死に思い返しているのだ。紬は彼らの心中など構わず、慎のオフィスへと真っ直ぐ向かった。瑞季も要も見当たらなかったので、自分でドアをノックする。押し開けると、慎がちょうどデスクから顔を上げたところだった。彼は鼻梁にかけていたフレームレスの眼鏡をさっと外した。「食事は済ませたか?まだなら一緒にどうだ」「いいえ、今日は仕事の話をしに来たの」紬はソファのそばに腰を下ろし、事務的な口調で切り出した。慎は彼女の表情を静かに観察してから立ち上がり、斜め向かいの席に座った。「聞こう」「来た目的は分かってるはずよ」紬は今、一つ合点がいっていた。あの日の食事会で材料の話が出た時、彼はちゃんと聞いていたはずなのに、一言も口にしようとしなかった。い
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第607話

紬には彼の意図が理解できなかったが、唇をきゅっと結んで言った。「申し訳ないけれど、それは別の話よ。それに、あそこはもう私の家じゃないわ」別居してもうどれだけ経つと思っているのか。今さら戻って何になる。彼は彼女の冷たい拒絶を想定していたかのように、涼しい顔で言った。「じゃあ、俺がお前の家に行く」紬は冷ややかな目で彼を睨みつけた。この男、どうかしてるんじゃないか。慎は目を伏せ、薬指にはめられた結婚指輪を指先でそっと撫でた。「昨日、祖母が家に来たんだが、お前の生活した痕跡が完全になくなっていることに気づいた。誤魔化しきれなくてな」その仕草に釣られて、紬の視線も自然と彼の指輪へと向かった。慎は、まだ外していないようだった。だが、それは今の話とは関係ない。紬は静かに彼を見たまま、表情を一切動かさなかった。「私が話したいのは仕事の件よ。あなたの家であれ私の家であれ、どちらも承諾できないわ」こうした事柄に対する紬の態度は、一貫してぶれることがない。慎にはそれがよく分かった。もともと、強いるつもりもなかった。彼女に対して力で押さえつけるような真似をするのは、彼の流儀ではない。「……好きにしろ」「材料の件は?」「話をつける」思いがけず……あっさりと決まった。紬は少し拍子抜けした。慎からもっと意地悪な条件を出され、難癖をつけられることも覚悟していたのに。「こんなに簡単でいいの?」彼女は思わず声が弾んだ。慎は口角をかすかに上げた。「もう一度、交渉しなおすか?」それだけは絶対にご免だ。紬は即座に立ち上がった。「ありがとう、お邪魔したわ。お見送りは結構よ」紬はそれ以上長居するつもりもなく、求める答えを得た以上、まっすぐドアへ向かった。背中に、未練の欠片もなかった。慎には、それが残酷なほどよく見えていた。しばらく閉ざされた扉の方を眺め、それから伏し目がちに自身の指輪を見つめてから、立ち上がって瑞季に電話を入れた。……慎が上層部と直接会うことが決まり、紬はそれ以上あれこれと気を揉む必要はなくなった。それにしても、あれほど巨大な事業を彼がこっそりと成し遂げていたことへの驚きは、まだ胸の奥に燻っていた。とはいえ、国内の発展を大きく後押しする話であれば、一人の技術者として素直
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第608話

柊はドアにもたれかかっていた。紬が突然ドアを開けたせいで、体がぐらりとふらつく。眉をひそめて顔を上げた彼の全身からは酒臭さがプンプンと漂い、手には酒瓶まで握りしめられていた。けれど、紬の顔を認めた瞬間、眉間に刻まれた険しいシワがさっと解けた。柊はドア枠に手をついて彼女を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと笑みを浮かべた。「急に会いたくなってさ。住所がなかなか分からなくて、随分と手間取ったよ」柊は酔っていた。紬の表情は冷ややかだった。彼がもともと酒浸りになるような人間ではないことは知っている。ただ、こうして夜中に断りもなく押しかけてくるような真似は、到底受け入れられなかった。「ご近所の迷惑になるから、これ以上ドアを叩かないで。帰って」まともに相手にするつもりもなく、そのままドアを閉めようとする。その決定的な拒絶の動作を、柊ははっきりと目の当たりにした。その瞬間、アルコールで朦朧としていた頭が一瞬だけ醒めたかのように、素早く手を伸ばしてドアを押さえ込んだ。「説明してくれないのか?なんで一人でこんな所に住んでる?長谷川慎はどうした?別居してるのか?」その事実は、彼にとって狂おしいほど嬉しくもあり、同時に激しい痛みを伴うものでもあった。紬は何も答えなかった。それでもいい。少なくとも、紬と慎の関係が上手くいっていないことだけは確からしい。それだけで、胸の奥に渦巻いていた黒い靄が、すっと晴れた気がした。紬が慎のもとから離れていると分かった時、どれほど歓喜したことか。何も考えられず、気づけば無我夢中でここまで車を飛ばしてきたのだ。「あなたに関係ある?」紬は、酔った人間とまともに話すのは無意味だと思っていた。氷のように冷たい目で見据える。「今後はもう連絡しないでください、須藤社長」そのあまりにも冷酷な響きに水を差されたように、柊はぼんやりとした意識を冷たい現実に引き戻された。紬の無機質な表情を穴のあくほど見つめ、それからゆっくりと口を開いた。「君たち、やっぱり上手くいってないんだろ?教えてくれ、離婚するのか?いや、もう……離婚したのか?」この一件に関する柊の嗅覚は、恐ろしいほど鋭かった。ギラギラとした目で紬を射抜く。愛と恨み、そして狂おしいほどの深い執着が入り混じった瞳。そのためなら、すべてを投
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第609話

だが、慎の反応は素早かった。躊躇なく拳で真正面から瓶を受け止め、空中でそのまま粉砕した。ガラスが砕け散り、慎の拳の関節から赤い血が滲むのを、紬ははっきりと見てしまった。二人の大柄な男が、狭い玄関で激しくもつれ合う。痛みに酔いが完全に醒めた柊は、赤く充血した目で慎を憎々しげに睨みつけ、切れた唇の端を吊り上げて笑った。「長谷川慎、正直に言う。紬はずっと、僕のことだけを想っていた。お前なら、他にどんな女でも選び放題だろう。なんでわざわざ僕たちの間を割って入る?頼むから、彼女を解放してくれ。僕の元に、返してくれ」その言葉を耳にした瞬間、極限まで冷え切っていた慎の動きが、ふと止まった。ほんの一瞬の、致命的な隙だった。柊の凶暴な本能が火を噴いた。手の中に残った割れた瓶の鋭利な破片を床に放り捨て、慎の衿元を両手で掴み上げると、そのままドアに向かって乱暴に叩きつけた。ドン――という重い衝撃音が響き渡る。紬はその生々しい暴力の応酬を目の当たりにし、胸の奥で燻っていた怒りがついに喉元まで込み上げてきた。「もういい加減にして、柊っ!」紬はめったなことでは怒らない人間だ。どんなに理不尽な局面でも、できる限り穏やかに対処しようと努めてきた。それでも今、きつく握りしめた拳が、怒りのあまり小刻みに震えていた。柊がかつて自分を気にかけ、守ってくれたことへの感謝は、確かにある。かつての温かな記憶が、今この瞬間、鋭い刃となって彼女の胸をずたずたに切り裂いていた。ずっと、柊は母や祖母、叔父と同じように無条件で信じられる存在だと思っていた。共に支え合える、絶対の拠り所だと。肉親への愛情に対して、紬はどこか執着に近いほどの強い思いを抱いていたのだ。けれど、あのぼんやりとした甘い依存の幻想は、とうの昔に音を立てて砕け散っていた。今となっては、十数年という歳月をかけて積み重ねてきたはずのその絆の残滓さえ、どこにも見当たらない。「柊、答えが欲しいんでしょう?」紬は冷え切った目で彼を見据えた。「私には、あなたが思い描くような感情なんて、一切ないわ。昔はただの感謝から、刷り込みのような幼稚な依存心から、あなたに頼っていただけ。あなたを愛していたわけじゃないの。分かった?分かったなら、今すぐ帰って」柊は一瞬、雷に打たれたように固まった。
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第610話

茜が心の中で何をどう思おうと、紬はこれ以上彼女と言葉を交わすつもりはなかった。今夜、理不尽に巻き添えを食ったのは自分の方なのだ。表情を氷のように凍りつかせたまま、最低限の礼節だけを残した冷え切った声で告げた。「事実がどうであるかは、あなた自身が一番よく分かっているはずよ。人に責任を押し付けて逃げ回らなくていいわ。お二人の末永いお幸せを、心から祈っています。今後、用があってもなくても、二度とここには来ないで」それだけ言い放ち、二人を冷酷に追い払った。今夜は随分と騒々しい夜だった。柊はかなり深く酒に溺れていた。アルコールが再び彼の思考を霞ませていたが、それでも彼のその目だけは、紬の姿だけを追い続けていた。茜が隣でいくら泣き喚き、名前を呼ぼうとも、充血した目を見開いたまま一言も発しようとしない。いったい誰に対して、何のために意地を張っているのか。紬は遠ざかる柊に一瞥もくれることなく、言うべきことをすべて言い終えると、隣で彫像のように静かに立っていた慎へと振り向いた。紬が振り向いた瞬間、慎は静かに視線を落とし、彼女を真っ直ぐに見つめ返した。廊下の暖色の光がその黒い瞳に宿り、彼はただ黙ったまま、彼女を見つめ続けていた。紬は少しだけ躊躇してから、慎のスーツの袖口を軽く引いた。「……入って」少なくとも柊の目の前では、自分と慎の間に「夫婦らしい様子」を演じてみせる必要があった。夫婦としての体裁を保つためにせよ、あるいは柊にこれ以上ない絶望を与え、完全に諦めさせるためにせよ。ドアが、静かに閉まった。少し手狭な玄関の空気が淀んでいるようで、互いの体温と香りが微かに混じり合う。紬は慎の表情を窺うことなく、背を向けて奥へと歩き出した。「こっちに来て」慎はようやく体を動かし、長い脚でゆっくりとリビングへと足を踏み入れた。そこには、紬の生活に対する細やかな美意識が、部屋の隅々まで行き届いていた。窓辺のカーテンは淡いイエローと清潔な白のシフォンを重ね合わせ、テーブルと椅子は落ち着いたウォールナット材で統一されている。テーブルの上には繊細な意匠のコースターが置かれ、ソファの前には足元を温める柔らかな白のラグが敷かれていた。ローテーブルの上には小ぶりなガラスの花瓶があり、清楚なカサブランカが二輪、静かに香りを放っている。
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