余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる のすべてのチャプター: チャプター 611 - チャプター 620

868 チャプター

第611話

その時の慎の口調は、ずいぶんと柔らかく、穏やかなものになっていた。紬はふと手を止め、顔を上げた。視線が、慎の深い瞳と真正面からぶつかった。何か、いつもと違う気がした。上手く言葉にはできないが、彼が纏う空気が違う。深く考えるのをやめ、紬は彼の手の骨の節に包帯を巻き終えた。そこで初めて、彼の首の横に細い切り傷があることに気がついた。透けるように白い慎の肌に走る傷口からは、まだかすかに血が滲んでいる。おそらく、酒瓶を拳で砕いた時に破片が掠めたのだろう。紬はもう一本、新しいアルコール綿の袋を開けた。「頭を傾けて」慎は素直に従い、頭を少し傾けた。紬は腰を屈め、彼の首筋に近づいて丁寧に血を拭った。消毒液が染みたのか、慎の喉仏がかすかに上下に動く。紬は無意識に、手元の力をさらに緩めた。その時だった。慎がわずかに眉根を寄せ、突然彼女の細い手首を掴むと、そのまま自分の隣へと引き寄せた。「自分でやる」「傷口が見えるの? 痛かった?」「痛くない。お前の吐息がくすぐったいだけだ」慎は長い脚を広げたまま、掴み取った消毒液付きの綿棒を手に取り、鏡も見ずに傷口へ無造作に二、三度塗りつけた。紬は無言でそれを見ていた。「私は生身の人間よ。呼吸くらいするわ。息の何が邪魔だっていうの?」慎はゆっくりと重い瞼を上げ、彼女をさらりと一瞥した。「俺は敏感なんだ」「…………」分かった、と紬は内心で溜息をついた。拳をそっと握り込み、この不毛な話題はもう打ち切ることにする。出しかけた消毒液やガーゼを少し乱暴に箱へ戻し、「どうぞご勝手に」とだけ冷たく言い放った。慎はテーブルに置かれた救急箱を、しばらくじっと見ていた。「薬局でも買い取ったのか?どうしてこんなに揃っている」箱はなかなか大きく、一段目が外傷処置用、残りの二段には様々な錠剤やカプセルが入っており、紬が種類ごとに小さなガラス瓶に分類して綺麗に収めていた。それぞれが何の薬なのか、紬にはちゃんと分かっている。「体が資本だから、サプリはいくらあっても足りないのよ」紬は澄ました顔でさらりと嘘をつき、救急箱を元の棚に戻した。戻ってきてから、慎の足元に黒いエルメスのレザーサンダルが履かれていることに初めて気がついた。上下とも上質な黒のシルクのルームウェアだっ
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第612話

言葉は、思わず口をついて出た。二人とも、どちらが折れるともなく、鋭い言葉をぶつけ合った。慎はしばらくの間、彼女の顔をじっと見つめていた。その沈黙は奇妙で、ひどく居心地が悪かった。長い沈黙を経て、慎はようやくゆっくりと頷いた。「お前は、俺と合っていたのか?」紬は彼の意図が分からず、黙って見返した。何を今さら、そこに引っかかっているのか。けれど、慎が口にした言葉の一部は、認めないわけにはいかなかった。柊と一緒に過ごしていた頃、彼はいつも「兄代わり」という立場を盾にして、紬を精神的に縛り付けようとしていた。彼女の何にでも口を出し、しょっちゅう機嫌を損ねては細かいことで張り合ってきた。だから紬は常に顔色を窺っていたのだ――柊は許してくれるだろうか。自分はこれをやっていいのか、悪いのか、と。少女の頃、柊がよく面倒を見てくれたことは分かっている。彼が自分に対して、本来の「兄妹」以上の歪んだ独占欲と支配欲を抱いていることも。でも慎と過ごしたこの数年間、あの息苦しさは一切なかった。慎と柊は、全く違った。少なくとも、彼の前では、関係がこじれてしまった別居前の時期でさえ、自分が無価値な人間だと感じたことは一度もなかった。自分は尊重されるべき存在だということ、いつでも「嫌だ」と拒絶する権利があること、無理をせず自分らしくあることはそれほど難しいことではないということを、彼は黙って教えてくれていた。けれど、寧音が現れてから、そのすべてが音を立てて崩れ去った。だから紬は、自分を貶めてまで彼に縋りつくようなことはしない。見苦しい真似だけはしたくなかった。「……それは関係ないわ」紬は短く息を吐き、振り返ってキッチンへ向かおうとした。慎の視線が、彼女の背中を追う。そして、気だるげに一言を投じた。「あいつのことを、いつ諦めたんだ?」その言葉に紬の足が、ぴたりと止まった。過去の記憶が少しずつ鮮明に蘇ってくる。正確には、ずっと自分でもよく分かっていなかったのかもしれない。感情が混濁して、見えなくなっていた。慎と結婚してから、その違いがはっきりと浮き彫りになったのだ。家族としての情愛と、異性への恋愛感情。幼い依存心と、対等な愛情――それらは全く異なるものだと、痛いほど分かった。そして気づけば、自分の感情は少
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第613話

紬は再び呆然と立ち尽くした。慎はすでに彼女から手を離し、踵を返して玄関のドアを出ていた。紬が慌ててドアに鍵をかけ、ドアスコープから外を覗き込むと、慎は平然とした足取りで「向かいの部屋」のドアへ歩いて行くのが見えた。ポケットから鍵を取り出して開け、中に入り、ドアを閉める――一連の動作が、あまりにも滑らかで自然だった。振り返ってこちらの様子を窺うような素振りも見せなかった。紬はしばらくの間、玄関口で呆然としていた。慎が、向かいの部屋に住んでいる?どうかしているんじゃないか。彼には幾つも豪邸があるというのに、なぜわざわざ彼にとっては「質素」とも言えるこんな普通のマンションに越してきたのか。美智子へ「同居している」と言い訳するためだけに、ここまでするというのか。少し考えたが、慎がどこで何をしようが、それはあくまで彼の自由だ。紬がとやかく言う筋合いはない。今日の彼は、本当に何から何まで不可解だったが。それはそれとして、結局のところ、慎は紬を庇ったせいで怪我を負ったのだ。借りを作ったまま放置するのは、紬の性に合わなかった。夕食を作り終えてから少し考え、一人分を保温容器に綺麗に詰めると、ドアを開けて向かいのドアの前にそっと置いた。ノックだけして、相手が扉を開く前に自分の部屋へ逃げ帰った。……翌朝。紬は早起きして、外出の支度をした。どうしても向かいの部屋が目に入ってしまう。突然、真向かいに彼が住むようになったというのは、やはりどこか落ち着かず、妙な感じがした。ただ、昨夜ドア前に置いた保温容器はすでに跡形もなかった。中に持っていったらしい。それをひと目確認して視線を戻し、バッグを提げて足早にエレベーターへ向かった。フライテックに出社すると、承一もちょうど到着したところだった。最近は紬が国のプロジェクトに参加するだけでなく、フライテックとしても参画する別のプロジェクトが動き出していた。重要な入札に向けた準備も着々と進んでいる。提案書の作成作業は極めて煩雑で、その後の約十日間、紬はほとんど息つく暇もなく働き続け、オフィスに泊まり込む日すらあった。SXアロイ材料の件で、慎が上層部とどのように折衝しているのか、その経緯についてはまだ何の連絡も来ていない。そんな中、政府から正式な配属の通知が届い
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第614話

紬は当然、混乱していた。とうに離婚手続きを終えたはずの慎のことで、なぜ今さら審査で問題が起きるのか、全く理解できなかった。どうにか気持ちを落ち着けてから、冷静な声で訊き返した。「具体的に、何が問題なのでしょうか?」スーツ姿の男性は紬のその落ち着いた態度に少し驚いた様子だったが、少し間を置いてから、手元のファイルから数枚の書類を抜き出した。「温井さんが提出された身辺調査書類には『離婚済み』とご記入いただいておりましたが、こちらで公的な記録と照らし合わせて詳細に確認しましたところ、現在も婚姻関係が継続していることが確認されました」「……それはあり得ません。何かの間違いでは?」紬は思わず強く否定した。おかしいではないか。正式な離婚届に署名し、彼に託したはずなのだ。どこかの役所の事務手続きで誤りが生じたとしか思えない。「いいえ、間違いございません。ですので、配偶者の方の詳細情報も改めてご提出いただく必要があります」配偶者情報は、国家機密を扱うプロジェクトにおいて極めて重要な必須項目だ。必ず裏付けを取り、不足なく書類を揃えなければならない。紬の心が、ずしりと重く沈み込んだ。普段は鉄面皮なまでに冷静な表情が、一瞬だけ硬直する。渡された書類の束を目で追う。そこには紛れもなく、公的記録として「婚姻中」であると明記されていた。普段から厳格を極める審査を行う政府の専門組織が、こんな初歩的であってはならない誤りを犯すとは思えない。とすれば――紬の唇から、さっと血の気が引いた。書類の束を握る手が、無意識のうちに小刻みに震え、力がこもる。「……分かりました。もう一度こちらでも詳しく確認して、至急対応いたします」「よろしくお願いします。こうした情報の取り扱いは、くれぐれも慎重にお願いしますよ」相手も何かしら腑に落ちないものがあるようだったが、あくまで規則通りに動くだけで、それ以上の詮索はしてこなかった。同席していた島田も、不思議そうに紬の顔を見た。「こんな基本的なところでミスをするとはね。温井さんは上層部からの特別な手配で、特例中の特例扱いなんだから、こういう事務的なミスは困るよ。でもまあ大丈夫、早めに書類を補完してくれれば問題ないですから」紬はどうにか、引きつりそうな顔で笑顔を作るしかなかった。激しい
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第615話

電話を一方的に切った。しばらくマンションの地下駐車場で車の中に座ったままだったが、ふと何かを思い出したように急いで車を降り、自分の階へと上がった。寝室に入るなり、机の引き出しを勢いよく引き出した。以前大切に保管しておいた、あの離婚届受理証明書を探すためだ。偽物とも思えなかったのに、なぜこんなことになっているのか。紬は書類を握りしめたままベッドの縁に腰を下ろし、長い間、そこから動けなかった。頭の中でいくつもの可能性がよぎったが、そのどれもが荒唐無稽に思えた。これ以上、自分一人で考え込んで苦しんでも仕方がない。髪を乱暴にかき上げ、深い溜息をついた。どうしようもない。今はただ、慎からの連絡を待つしかなかった。外はいつの間にか、冷たい雨が降り始めていた。窓辺でぼんやり待っていても、余計なことばかり考えて心がすり減るだけだ。先にシャワーを浴びて、身を清めることにした。何かの手違いだ。事務的な手続きミスのせいに違いない。そう、紬は何度も何度も自分に言い聞かせた。忙しなく動き回っているうちに、三時間近くが過ぎていた。慎からは、まだ何の連絡もなかった。じりじりと、胃を焼くような焦りが積もっていく。もう一度かけ直そうとスマホを手に取ったその時、玄関のドアがノックされた。紬はドアをじっと見つめ、しばらく深く息を整えてから立ち上がり、ゆっくりとドアを開けた。そこには、急いで戻ってきたらしい慎が立っていた。まだ長距離移動の疲れが顔に残っているようで、外は雨が本降りだったのか、上質なスーツの肩口が少し黒く湿っていた。彼は腕時計に目を落とした。東京から立花市まで、これが最速で戻れる限界の時間だった。「村岡から、急ぎの用があると聞いた」紬は彼の表情をじっと観察した。まさか本当に、あの重要な会議をすっぽかしてまで戻ってくるとは思っていなかった。でも……。「私の政府の身辺審査で重大な問題が出たの」できる限り平静な、抑揚のない声で言いながら、目は彼の表情から一秒たりとも離さなかった。「私たちが、まだ婚姻中だと言われたわ……何かの間違いよね?」慎はドアの前に真っ直ぐに立ったまま、深い瞳で紬を静かに見据えた。驚きも、困惑も、その端正な顔には一切浮かんでいなかった。その、わずか一秒で。紬の心は、音を立てて冷た
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第616話

紬には、この不条理な状況を到底受け入れることができなかった。自分の命の終わりが近いかもしれないと冷酷に告げられた時、自分なりに必死に、大きく前へ踏み出したつもりだったのだ。多くのものを自らの手で変えようとした。過去に別れを告げ、自分の足で立ち上がった今の自分を、純粋に嬉しく、誇らしくさえ思っていた。人はもともと、逃げることを本能とする生き物だ。慣れ親しんだ場所にただ留まり、変化に伴う痛みを恐れるからだ。それでも、ここまで来られたことを、紬は自分なりに高く評価していた。なのに、その「晴れやかな前進」の裏側で、自分はまだ、あの薄暗い牢獄の中に囚われたままだったのだ。だからこそ、慎のこの残酷な隠蔽は、絶対に受け入れられなかった。自分一人だけに向けられた、逃げ場のない、完全なる感情の包囲網。紬は機械ではない。ボタン一つでデータを「削除」するように過去の記憶が全て消え去るわけでも、「手放す」と言えば心に波一つ立たなくなるわけでもない。自分がどれほどの血の涙を流して味わってきた痛みかは、自分にしか分からない。そう簡単に忘れられるような、軽いものではなかった。「……本当に、すまない」慎は、怒りと絶望で潤んだ紬の目を真っ直ぐに見つめ、喉仏をかすかに動かした。無意識のうちに手を伸ばし、彼女の頬を伝う涙を拭おうとする。紬は弾かれたように一歩後ろへ引いた。疲れ果てたように、ただ低い、掠れた声で言った。「もう、あなたと話すことは何もないわ」いったい、こんな真似をして何を勝ち取ろうとしているのか。自分の身に起きたこの不条理の極みを改めて考えると、怒りを通り越して少し笑えてくるほどだった。紬は慎の表情を確かめることもなく、背を向けてドアに手をかけた。慎が手を伸ばし、ドアを押さえて閉まるのを阻んだ。紬が激しくヒステリックに感情をぶつけるタイプの女ではないことは知っている。それでも、彼女の内に溜まったその言葉には、外への出口が必要だった。「ああ、後悔している。お前に行ってほしくなかった」紬はひどく可笑しそうに、冷ややかな目で彼を振り返った。「俺はお前が思っているほど、何でも完璧にこなせる人間じゃない。真実を隠していたのは、単純に俺が現実から逃げていただけだ。今まで生きてきて、自分の決断を後悔したことなど一度もないと
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第617話

昨夜は一睡もできず、感情の波に激しく揺さぶられたせいで、全身からすっかり力が抜け落ちていた。紬は水を一口飲んで乾いた喉を潤し、また寝室に戻ってベッドに横たわる。誰かに怒りをぶつけ、激しく言い合うことがこれほど体力を消耗するものだとは。自分はもう、こういう問題に立ち向かう気力を完全に失っていた。横になっても、結局、浅い眠りを繰り返すだけだった。昼が近づいた頃、玄関の呼び鈴が鳴った。紬は鉛のように重い体を引きずって立ち上がった。ドアスコープから外を確認すると、宅配便の配達員だった。自分で何かを注文した覚えはない。「温井様、お受け取りをお願いいたします」差し出された箱を確認すると、確かに自分の名前と電話番号が印字されている。受け取って短く礼を言い、ドアを閉めた。持ち上げてみると、それほど重くはない。伝票を見ると、差出地は随分と辺鄙な地方の都市だった。一週間も前に発送されている。箱を開けると、一番上に茶封筒が置いてあり、中に一通の立派な証書が入っていた。中身を確認した瞬間、紬は息を呑んだ。それは寄付の受領証明書であり、分厚い領収書の束も同封されていた。慎が投じたのは、一時的な寄付金などではなかった。紬と慎の連名で設立された、十校にも及ぶ「こども教育支援センター」の建設費用だったのだ。それらは二人の名義で、アジアの僻地や厳しい環境にある貧困地域へ、点在するように建てられていた。最も遠方に位置するのは、険しい山々に囲まれた奥地。この小包は、まさにその支援拠点から届けられたものだった。証明書の他には、現地の特産品が箱いっぱいに詰められていた。見たこともない珍しい乾物や、素朴な手織りの布。それらが不器用ながらも、一つひとつ慈しむように丁寧に包まれている。さらに、各地のセンターから集められたという数枚の写真が添えられていた。完成したばかりの白亜の校舎を、子どもたちが弾むような足取りでくぐり抜けていく。建物は立派な五階建てで、清潔な寄宿舎や図書室まで完備されていた。孤児や身寄りのない子どもたちにとって、そこはただの学び舎ではなく、世界で一番温かな「心の拠り所」となった。写真の中の子どもたちの瞳は、驚くほど澄み切っていたが、その頬は長年の栄養不足を物語るように、痛々しいほどこけていた。カメ
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第618話

「まだ何も食べてないだろう?」慎はその小包をちらりと見やってから、振り向いた。「先に少し食べないか?」紬にはもう、昨夜のような激しい感情の波は残っていなかった。誰だって、あんな信じがたい状況に直面して、ずっと平静でいられるはずがない。慎のルームウェア姿を静かに一瞥した。あれほど仕事に没頭する仕事人間が、平日に会社にも行かずここにいる。「気を使わないで」紬は自分なりに落ち着いているつもりだった。「これからのことを、どうするつもり?」彼女が静かに訊いた。慎は、この瞬間は必ず来ると分かっていた。目を伏せ、彼女の表情の変化を片時も逃さずに観察した。「なぜこんなことになったのか、少しも知りたくないのか?」今の彼にとっての最大の問題は、紬が過去について何も訊こうとしないことだった。なぜ離婚できなかったのか、なぜ離婚しなかったのか、なぜ今まで黙っていたのか。彼に対して……もはや微塵の関心も残っていないように見えた。紬は彼を真っ直ぐに見た。「理由も言い訳も、それはあなたの個人的な問題よ。でも、その結果の責任を負うのは私で、私の望まない状況を勝手に押し付けられている。私が、あなたにどういう感情を返すべきだっていうの?」自分の言い方が時に冷酷で辛辣であることは認める。でもこれは、これまでの日々で積み重なってきたものの結果だ。かつての自分が、慎に対してこんな言い方をしたことは一度もなかった。避妊薬の件では一度譲ったが、今回はもう譲れなかった。いつだって、一方的に踏み荒らされるのは自分の地雷ばかりなのだ。慎の喉仏がかすかに上下に動いた。紬の目の奥に宿る決定的な拒絶が、鋭い氷の刃のように空気を切り裂いて突き刺してくるようだった。「望まない状況――お前は最初からずっと、俺と関係を断ち切りたかったのか?」それでも彼は、彼女の目の奥、心の奥底を覗き込むように尋ねた。「過去の三年間も、ずっと?」紬は彼の望む答えに興味はなかったが、彼は彼女の明確な答えを求めていた。紬は静かに見返した。「長谷川代表、少しでも気にかけてくれていたなら、あの数年間、私があなたにどれほど尽くしてきたかくらい、分かるはずよ」「俺と結婚した『きっかけ』も含めてか?」彼は、思わずそう口にした。紬の目がわずかに揺れた。慎が唐突に、
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第619話

それは、慎が密かに打っていた賭けだった。紬が国のプロジェクトチームに入れば、厳重な身辺調査によって婚姻関係の問題が必ず浮上することは分かっていた。それでも彼は何も手を打たず、あえて事態が露見する流れに任せたのだ。自分でも合理的な説明がつかない「大博打」だった。彼はどうしても知りたかった――紬の中に、まだ自分への感情が一片でも残っているのかどうかを。だが、目の前に突きつけられたのは、紛れもない、完全なる無関心だった。胸の奥に長年刺さったまま抜けない棘が、また静かに、じわりと疼き始めた。「先に食べろ。話し合う時間はこれからいくらでもある」彼は向き直り、重箱の蓋を開けた。これ以上は踏み込まないという、彼なりの一歩引いたサインだった。紬は、今日の自分が驚くほど冷静だと感じていた。慎と感情的に言い争うつもりは、もうない。ここまで来れば、分からないことなど何もない。あの支援センターの件が、彼からの不器用な一つの答えになった。慎の一連の行動も、全て線で繋がったのだ。だからといって、今さら甘い顔をされたからといって、単純に喜べるほど愚かではない。過去に受けた致命的な傷を忘れて許す道理などなかった。「あなたのやり方は、本当に空恐ろしいわ。いつも何も言わずに、黙ったまま相手を切り捨てる。慎、私たちはもう戻れないのよ」紬の声は静かで、穏やかだった。ただ、冷厳な事実を淡々と述べていた。紬は彼を見つめた。「私は今、政府の特命チームに入って、国防航空基地への着任も正式に決まったの。この諸々が落ち着いたら、改めてきちんと話し合いましょう」今回の婚姻状況の件が突然表面化したのは、明らかに厄介な事態だった。キャリアを左右する一番大事な時期に、こんな形で火の粉が降りかかってきたのだ。宙ぶらりんのまま、身動きが取れない。今ここで騒ぎを大きくして揉めれば、政府の上層部にも悪影響が出る。そして、基地への着任は一刻を争う。手続きが終わるのを一ヶ月以上も待って、書類を出し直してから仕事を始めるなど、到底できるはずがない。もともと特例中の特例で一度例外を認めてもらった身だ。上層部にこれ以上、余計な手間をかけたくなかった。それに、自分の病状のこともある。余計な体力と精神力の消耗は避けたかった。慎は室内の柔らかな明かりの中で、瞳の奥を
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第620話

昨夜の出来事を、静かに振り返る。あの時は感情が激しく昂っていたせいで、不自然な点に気づけなかった。ただ、慎が目の前に現れた時、少し疲れた様子で、スーツの肩口が濡れていたことだけは分かっていた。それ以外のことは察することもできなかったし、彼自身も何一つ口にしようとしなかった。慎のような立場の人間は、ビジネスの場では冷酷なほど決断が速い。そうでなければ、海外の長谷川家分家との熾烈な争いを制して、長谷川家の実権を握ることなどできなかったはずだ。だが、手段が苛烈である分、恨みを買うことも決して少なくない。窮地に追い詰められた人間の中には、彼を道連れにしてでも、と狂気に駆られることがある。そんなことを考えていたところへ、メールの着信があった。慎からだった。身辺調査の問題を解決するための、彼自身の詳細な個人情報が送られてきている。しばらく、そのメールを無言で見つめていた。問題ないと確認してから、承一へはさらりとメッセージを返した。【大したことではないみたい】離婚していなかった件については、少し考えてから、やはり落ち着いて直接会って話すことに決めた。友人たちがどんな客観的な意見をくれるか、それを聞いてみたかったのもある。自分がどう動くべきか、いつ動くか。今の紬には正直、それ以上深く考える気力は残っていなかった。翌日。紬は身支度を整えて出かけた。ドアを開けて正面を向けば、否応なく慎の部屋のドアが目に入る。昨夜の承一の言葉が、まだ頭の片隅を漂っていた。慎という人間は、良いことも悪いことも、彼自身の都合でしか語らない男だ。紬は振り返ることなく、エレベーターに乗り込んだ。フライテックの本社ビルに着き、専用エレベーターに乗ろうとした直前、背後から男性の声が聞こえてきた。「紬。どうして何度電話しても出なかったんだ?」足を止めて振り向くと、ロビーの待合スペースに、康敬と瑠衣の須藤家父娘が座っていた。紬の目が、見る見るうちに氷のように冷え切った。康敬は紬の冷淡な表情も気に留めず、慈愛に満ちた父親の仮面を被って歩み寄ってきた。事情を知らない他人が見れば、娘を気遣う立派な父親に見えるだろう。「しばらく実家に顔を見せなかったじゃないか。なぜ帰ってこない?今、少し時間があるか?お前に大事な話があるんだ」瑠衣は紬を上か
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