All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

真実を知ったとき、確かに怒りはあった。悲しみも、信じたくないという拒絶も。彼女が自分を愛していなかったという事実は、慎の心を深くえぐった。それでも、そのどれひとつとして、紬の前で見せることはなかった。馬鹿げた話だ、と自嘲さえした。問い詰めたところで、ふたりの関係が惨めになるだけだ。それだけは、何としても避けたかった。彼にできたのは、四ヶ月にわたる長期出張を口実に、ロンドンへと逃げるように身を置くことだけだった。執務室には今も、紬とのたった一枚の写真が飾られている。区役所の写真コーナーで撮った、婚姻届を掲げるふたりの記念写真。感情が溢れ出したとき、その写真立てを投げ捨てたこともある。それでも結局、また拾い上げては元の場所へ戻した。自分自身に、長い沈思の時間を与えた。紬が彼と結婚したのは、他人の謀略の結果に過ぎない。彼女自身が望んだわけではなかった。追い詰められでもしない限り、あんな状況を受け入れる女ではないことも分かっていた。柊は須藤家の事業不正によって収監されたが、それもせいぜい三年のことだ。紬が慎との住まいをあのように甲斐甲斐しく整えていたということは――いつかまた柊ときちんとやり直すつもりでいたのだろう。当時は、彼女の心の中に自分がいないことへの怒りに震えた。だが同時に、自覚もしていた。自分が割り込んだせいで、彼女はあらゆる人間に利用される立場に追い込まれてしまったのだと。彼女を手放したくない執着と、愛という名のもとに縛り付けたくないという理性が、ずっと胸の中で綱引きを続けていた。自己矛盾など、何度繰り返したか分からない。紬の性格はよく知っている。いつだって自分を後回しにする女だ。後ろめたさと、須藤家への義理。そんなものを抱えたまま、「これでいいんだ」と自分を納得させ、人生に妥協してしまいかねない。いつだって彼女は、自分より他人を優先してきたのだから。いっそ何も知らないふりをして、一生そばに縛り付けておこうかとさえ考えた。心の中に自分がいないことが忌々しく、柊の境遇が妬ましく――たとえ紬が去ろうとしても、力ずくで引き止める手段はいくらでもあると、一度や二度ではなく本気で思った。それで彼女に恨まれようとも構わない、と。慎には、それほどの度量も器の広さもなかった。だが、現実は容赦なかった。内にも外に
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第652話

その言葉を口にしたとき、慎は半ば覚悟を決めていた。もう互いに相手の心を探り合う不毛なやり取りには、うんざりだった。以前の自分なら、柊が本当に紬にふさわしい男であれば諦めもついた。だが、柊の一連の振る舞いを見た今、そこだけは譲るわけにいかなかった。柊と茜の婚約が突然こじれたことも、慎の神経を過敏にさせていた。紬が自分の目の前で、柊との関係に区切りをつけると言った日のことは覚えている。愛していないとも、はっきり口にした。それでも……何年もの間、心の奥底に居座り続けた懸念は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。紬にとって、これは想定外の事態だった。まるで顔を覆っていた仮面が剥ぎ取られ、表皮の奥に隠されていた脆い部分が露わになったような――慎のこんな一面を見たのは初めてだった。しかも彼は紬の手首を掴んだまま、ガラスを背に彼女を軽く押さえ込むようにして、逃げ場を塞いでいた。「ひとまず離して」紬は彼の瞳の奥に揺れる激しい感情に気づかないわけではなかったが、その手を振り解こうとした。「答えが欲しい」今度ばかりは、慎は彼女の意志に従わなかった。その瞳は、ただ静かに紬を射抜いている。紬は動じた様子もなく、彼を見返した。こんな質問、答えるのは容易い。迷う必要すらないのだ。柊はとっくに自分の人生からは退場している。慎と結婚してから、柊が自分にとって何なのかをきちんと整理できた。大切な肉親という枠に、自然と分類されていた。柊が出所したあの頃は、紬自身が満身創痍で、温井家を支える必要もあり、身内と呼べる人間が極端に少なかった。だからこそ、柊の出所を重大な事として受け止めていたのだ。けれど、出所した柊が最初にしたことは、紬を傷つけることだった。数々の言動は明らかに意図的で、彼女を苦しめることを目的としていた。透けて見える悪意に、時間をかけてゆっくりと気づかされた。もはや肉親とも呼べない、と。そして、慎が気にしている件については……「私は――」「何してるの?」入り口から声が飛び込んできて、紬の言葉を遮った。外から入ってきた佳緒が目にしたのは、慎が紬の腕を押さえ込み、身動きを封じている光景だった。ふたりの表情には甘さなど微塵もなく、一触即発の重苦しい空気が漂っている。明らかにおかしい。佳緒の顔色が変わった。足早に駆け
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第653話

最初の計測が終わり、機密データをすべて収めて帰路についてから、ようやく思考が巡り始めた。あれは、本心からの吐露だったのだろうか。どこか現実感のない、奇妙な感覚が胸に澱のように残っていた。まさか慎が、あの二つの懸念をずっと抱え込んだまま、一度も問い質すことなく過ごしてきたとは思いもしなかった。そうして互いに、何年ものあいだ決定的なすれ違いを繰り返してきたのだ。パソコンの中には、膨大なデータが詰まっている。十代の頃から天文学に惹かれ、天体写真の撮影も趣味だった。機材を少しずつ買い揃え、日々の記録を残してきた。それらがすべて、あのフォルダの中に眠っている。もはや自分でも、何がどこにあるのか把握しきれないほどに。そのデータが、慎の誤解を招いた。ふたりの間に突き刺さる、鋭い刃となった。紬はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。これほど多くのすれ違いが積み重なってきたのは、結局のところ、ふたりに縁がなかったということの証左なのかもしれない。慎には慎の矜持があり、気になりながらも一度も口にしなかった。その結果、その後の出来事はすべて、互いを傷つけ合う地点の上に積み上げられていった。起きたことは変えられない。今の自分には、過去に囚われるつもりは毛頭なかった。考えをひと通りまとめると、紬は時刻を確認した。まずは病院に手術の予約を入れよう。お腹の子に……決着をつけなければならない。凛太に相談して、事前に診断を仰ぐ必要がある。基地に戻り、機密データを提出してから、紬は病院へ向かった。西京市内でも有数の私立病院だ。コネを使えば、産婦人科の腕のいい医師の予約を優先的に取ることができる。番号札を受け取り、紬が上の階へ向こうとしたとき、思いがけず、支払い票を手にした柊と再会した。ちらりと目をやると、退院手続きに関する書類だった。それで、茜の存在を思い出した。柊は紬に気づくと、深い眼差しで彼女を射抜いた。「具合でも悪いのか?」紬は答える気にもなれず、その脇を通り過ぎようとした。柊の表情が一瞬、凍りついた。「茜が手術を受けた……俺はこのまま婚約を続けるべきだと思うか?」紬の反応を試すように、じっと顔を覗き込んでくる。何かを言わせようとしているのだ。紬は眉をひそめ、冷徹に言い放った。「私には関係のない
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第654話

茜は全身の血が引いていくのを感じた。柊が急に結婚したくなくなったのは、誰かの差し金に違いない。ふたりはまるで示し合わせたかのようなタイミングで……茜は強く拳を握りしめたまま、結局、紬に気づかれる前にその場を離れた。今、一番の懸念は、慎が紬の妊娠も中絶の意志も、まったく知らないという事実だった。そのことを、青ざめた顔で思案した。柊が茜の降りてくる姿を認めたのは、しばらく上の階を見上げてからのことだった。青ざめたその顔を一瞥し、短い声で言った。「送っていく」茜は唇を噛み締め、彼を睨みつけた。「私の子が消えたのよ、柊さん。あなたには私に負い目があるでしょう」柊は思わず足を止め、眉間に皺を寄せた。それは事実であり、否定のしようがなかった。先日の言い争いで、茜が子供を盾に脅してきたのだ。それが原因で激しく揉み合い、結果として思わぬ事態を招いてしまった。茜もその代償として、心身に深い傷を負った。「後でな」彼は無表情のまま外へ歩き出し、それ以上は取り合おうとしなかった。茜は言い返したい衝動をかろうじて抑えた。子を失った悲しみの中で、行き場のない怒りがこみ上げてきた。「正直に言うわ。私の子がいなくなったのは、あの温井紬のせいでもある。あなたが彼女との関係を清算していれば、私がこんなに思い詰めて、子供を失うことにはならなかった」柊はそこで振り返った。目が冷たかった。「茜、八つ当たりするな。他人のせいにするな。関係ないとわかってるだろう」茜は言葉に詰まった。わかっている。わかっていた。でも、どうすればいい?柊を手放せない。かといって彼を責める気にもなれない。だとしたら、この痛みをどこへぶつければいい?柊は紬に関することで茜と言い争うつもりはなかった。たとえこんな状況になったとしても、目の前で紬を貶めさせるつもりもなかった。振り返ることもなく、車に乗り込んだ。茜は、平らになった腹部をそっと撫で、無言で後部座席に乗り込んだ。茜が流産で体を壊したという噂は、すでに広まっていた。もちろん、須藤家の耳にも届いていた。康敬は不憫に思い、茜に須藤家でゆっくり養生するよう声をかけた。茜は断らなかった。須藤家にいる限り、柊とは縁が切れない。それだけで十分だった。玄関をくぐったとき、リビング
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第655話

茜自身も、確信を持てずにいた。紬は子を堕ろそうとしているのに、それを慎には隠し通そうとしている。絶対に、何か裏がある。これ以上、紬が柊の心を揺さぶるような隙を与えるわけにはいかない。ここで決定的な手を打たなければ……ただ、その一言が、思わぬ波紋を呼んだ。香凛は弾かれたように顔を上げた。束の間、その端正な顔立ちに動揺が走った。隠しきれないほどの衝撃だった。紬が……慎の子を宿している!?彼らの長い結婚生活の中で、ふたりの間に子がいないことなど、絶対の事実として信じて疑わなかった。それが今、突然目の前に突きつけられ、頭の中でけたたましい警報が鳴り響いた。茜と瑠衣は、香凛のその一瞬の表情の変化に気づかなかった。瑠衣はといえば、心の中でひそかに安堵の息を吐いていた。ある意味で、茜と思惑が一致したからだ。二人が何かを口にしようとした瞬間、香凛はすでに立ち上がっていた。その顔から一切の感情を拭い去り、冷ややかな声で告げる。「急に思い出したことがありまして。本日はこの辺でお暇いたしますわ」瑠衣は面食らった。香凛のような太いパイプは、どうにかして繋ぎ止めておきたい。「あら、残念だわ。じゃあお見送りするわね。またぜひいらして」香凛は瑠衣の愛想笑いには応えず、相変わらずの高貴な物腰を崩さぬまま、足早にその場を後にした。そもそも今日、須藤家に足を運んでやったこと自体が、彼女なりの恩恵のつもりだったのだ。まさか、これほど重大な情報が転がり込んでくるとは思いもよらなかったが。……病院を出るころには、もうすっかり日が傾いていた。手術は翌週の土曜日に決まった。ぐずぐずしていても仕方がない。日を追うごとにお腹の子に情が移っては、未練が募って辛くなるだけだ。早く決断し、早く終わらせる。この子のために自分の命を賭けるという選択肢は、最初から存在しなかった。堕ろさなければ、自身の治療が始められない。紬には、そもそも選択の余地など残されていなかったのだ。誰にも知られないまま、ひっそりと終わらせるのが一番いい。そうすれば、誰の日常も、何も変わることはない。マンションに戻ると、空はゆっくりと夜の帳が下り始めていた。エレベーターを降りれば、嫌でも向かいにある慎の部屋が視界に入る。どうやら、彼はまだ帰っていな
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第656話

慎は画面の中の、紬の後ろ姿をじっと見つめていた。別の一枚では、彼女が静かに俯き、自身の平らな腹部をそっと撫でていた。顔の表情までは読み取れない。それでも、その何気ない仕草だけで、すべてが雄弁に語られていた。胸の奥底で、固く閉ざされていた何かが静かに熱を帯びて脈打ち始めた。じわりと、手足の指先まで温かい血が染み渡っていくような感覚。どうしようもなく、胸がじんわりと熱くなる。常に冷徹なまでに冷静沈着でいられるはずの思考が、一瞬にして乱れ飛んだ。ハッと気づいたときには、無意識のうちに椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。携帯をひったくり、紬へ発信した。なぜ自分に一言の相談もなかったのかなど、そんな些末なことはもうどうでもよかった。過去の確執も、他の何もかもが、今は一切関係ない。ただ一つ確かなのは――自分と紬の血を分けた子が、今、確かにそこに存在しているということだけだ。慎が血相を変えて執務室を飛び出していくのを見て、瑞季は慌てて後を追った。「代表!本日はこの後、いくつか重要な面会が入っておりますが、全て延期になさいますか?」メールの内容は瑞季も確認済みだった。普段は氷のように冷たい慎が、今どのような心情でいるのか、痛いほど理解できた。「全て白紙に戻せ」慎は長い廊下を大股で歩きながら、耳元の携帯に意識を集中させていた。今の彼にとって、最も優先すべき事項はたった一つしかない。瑞季は瞬時に察した。それでも、秘書としての務めとして、一件だけ確認を取らざるを得なかった。「本日十一時より、東凛テクノロジーズにて大規模なレセプションが予定されております。海外からの要人も多数来場され、代表は特別VIPとして招待を受けておられますが」「関係ない」慎は取り付く島もなく吐き捨て、なおも紬へのコールを続けた。しかし、一向に繋がらない。慎はふと足を止め、苛立たしげに眉間を押さえた。深く息を吸い込み、少しだけ荒ぶる感情を落ち着かせてから口を開く。「東凛テクノロジーズの事務局に確認してくれ。招待リストの中に、フライテックの名前が入っているかどうかを」この規模のレセプションには通常、業界の重鎮や大手企業が名を連ねる。だが、フライテックは今や飛ぶ鳥を落す勢いで一目置かれる存在だ。東陽とのコネクションを加味すれば、リスト
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第657話

こうした社交の場において、挨拶回りと酒は切っても切れない関係にある。笑美はあらかじめ会場のスタッフに手を回し、紬のグラスの中身をさりげなくノンアルコールのカクテルへとすり替えさせておいた。一方の笑美自身は、愛想良く何人もの相手とグラスを傾けて回ったため、さすがに少し足元がふらつき、頭がくらくらとしてきた。「ふう、とりあえず主要な何人かとは連絡先を交換できたよ。これで後続のプロジェクトも、少しは話がスムーズに進むはずだよ。十分な収穫だね」紬がミネラルウォーターのグラスを渡し、彼女の背中を優しくさすった。「無理しないで。あとはゆっくりやればいいわ」笑美は気丈に振る舞いながら、こめかみを軽く揉みほぐして言った。「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくるね。すぐに戻るから」紬は笑美を見送ってから、手持ち無沙汰になり、会場を見渡した。――その視線の先に、会場に現れたばかりの柊の姿が飛び込んできた。彼は目の前の相手と和やかに言葉を交わしながらも、その漆黒の瞳は紬を真っ直ぐに射抜いていた。彼がこちらへ歩み寄ろうとする気配を察知し、紬は静かに踵を返し、別の方向へと歩き出した。柊は遠ざかる彼女の華奢な背中を目で追いながら、クリスタルグラスを持つ手にわずかに力を込めた。唇の端が、ほんの少しだけ硬く引き結ばれた。「やあ、須藤社長。どちらへ行かれるのですか?」ふいに別の招待客が歩み寄り、愛想良くグラスを差し出してきた。柊はハッと我に返り、瞬時に隙のないビジネススマイルを浮かべた。「ええ、少し身内の姿を探しておりまして」「ああ、なるほど。それはそれは。ご家族思いでいらっしゃる」柊は曖昧に微笑みを深めただけで、それ以上は何も語らなかった。その間、紬はAI分野で頭角を現している気鋭のCEOと出会い、思いのほか深い技術談義に花を咲かせていた。新エネルギーの潮流は世界的なうねりであり、その応用の幅は計り知れない。彼女自身が密かに温めている将来の構想とも、見事にベクトルが一致していた。連絡先を交換したあと、ふと紬は笑美がまだ戻ってきていないことに気づいた。嫌な予感が胸をよぎる。紬は近くを通りかかったホテルスタッフを引き留めた。「すみません、先ほど私と一緒にいた女性を見かけませんでしたか?どちらのお手洗いへ行かれたか、ご
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第658話

慎の名前が聞こえた瞬間、紬は視線を落とし、押し黙った。そのまま、電波の状態が悪くなり、笑美との通話が途絶えた。メインホールでは、笑美が慎に気づいたのと同じタイミングで、周囲の人間も彼の存在に気づいていた。慎とほぼ同時に会場入りしていた香凛は、数人と言葉を交わしてから、まっすぐ彼に向かって歩いてきた。慎は他の人間など目もくれず、笑美にだけ問いかけた。「紬はどこだ?」笑美が知るはずもない。ただ、近くにいたスタッフが慎と笑美を見て思い出したように、左手の廊下を指さした。「温井様でしたら、3007号の休憩室へ向かわれました」慎はその方向へ視線を向けた。香凛が近づいてきた。「長谷川代表、清水社長、温井さんと賀来代表のお姿が見えないが」その一言の間に、慎はすでに左側の休憩エリアへ足を向けていた。余分な視線を誰にも向けない。今はただ紬と直接、妊娠のことを確かめたかった。それだけだった。ところが、そのスタッフが何か思い出したように声を上げた。「あの、長谷川代表、少々お待ちいただけますか?私が呼んでまいりましょうか?」慎はようやくそちらを見やった。笑美も、そのスタッフの表情がどこかおかしいことに気づいた。眉をひそめる。「何をぐずぐずしてるんだ?」香凛も首を傾けてスタッフを見た。スタッフは思案するように口を開いた。「温井様は今、方里技術の須藤社長とお会いになっているようでして」それだけの一言だった。笑美はすぐに冷たい顔になった。「兄妹で会うことの何が問題なのか?あなたが口出しすることじゃないよ」だが内心では、嫌な予感がしていた。紬が柊と一緒にいる理由など、あるはずがない。しかもこのスタッフは、慎の目の前でわざわざそれを口に出した。周囲には、耳を立てている人間もいる。早めに芽を摘んでおく必要があった。香凛はそこで思い出したように言った。「そういえば、須藤社長は養子だと聞いたわ。私、婚約者の方とも面識があって、温井さんのことをだいぶ気にされている様子だったわよ。義姉なのに妹に嫉妬するものなのかしら」慎は取り合わず、ただ真っすぐ歩いた。香凛が前に出て、腕を横に広げ、慎の行く手を遮った。冷たい目で彼を見据えながら、声をひそめる。「長谷川代表、私の方でも人づてに耳にしたのだ
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第659話

紬にも、その場の空気はすぐに読めた。客観的に見て、明らかにまずい状況だ。男女が同じ部屋から出てきたところを見られたのだ。それだけで、十分に奇妙に映る。香凛が歩み寄ってきて、細めた目で柊を見やった。「須藤社長、何か外で話せないことでも?温井さんをわざわざ部屋に呼んだとしたら、誤解を招きかねませんわ。温井さんの評判のことも、やはり考えていただかないと」笑美は気を取り直して、わずかに眉をひそめながら言った。「兄妹をどうして疑うんですか。望月さん、少し邪推ではありませんか?」香凛は笑みを浮かべ、さほど食い下がるでもなく続けた。「いいえ、ただ温井さんのためを思ってのことよ。それより、松永さんから聞いたけれど、温井さん妊娠されてるのね。おめでとうございます」柊の、さっきまで余裕を見せていた表情が、ぴたりと固まった。紬の表情も変わった。……茜?香凛を見た。まさかこの人が知っているとは思わなかった。しかも慎の前で、こんな形で公になるとは――笑美の顔色が変わった。突然の暴露だ。こんな場で暴露されれば、話がこじれるのは目に見えている。慎には、紬から直接伝えるつもりがないことはわかっていた。それをよりによって、外部の人間である香凛に指摘されれば、何か隠していたように見える。おまけに紬は今、柊と「同じ部屋から出てきた」ところだ。慎がどう受け取ろうと大した問題ではないと、紬は思っていた。ただ、紬の評判に少しでも傷がつくのは困る。もし慎がここで紬を問い詰め、あげく柊との関係まで疑い出して、お腹の子の話にまで及んだら……慎が難題を持ち出してきたとき、紬はどう対処すればいい?笑美がそんな懸念を胸に抱えて顔色を曇らせていると、慎は静かに紬を見て、ゆっくりと歩み寄り、その手を取った。指を絡ませて、しっかりと握りしめた。その親密な仕草を、柊は嫌というほどはっきりと見た。紬は胸の奥が微かに揺れるのを感じながら、彼の穏やかな横顔を見上げた。「紬の妊娠中は何かと気遣いが必要ですから、須藤さんが今日その場にいてくださって、助けを貸していただけたのなら、こちらとしてもありがたい」慎の声は淡々として、感情の色は見えない。誰もが想像していた「詰問」も「収拾のつかない修羅場」も、どこにもなかった。香凛でさえ、その反応は予
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第660話

慎に手を引かれ外へ出ると、会場に残っていた人々の視線が自然と注がれた。慎は歩みを止めなかった。紬の手も、ずっと離さないままだった。東凛テクノロジーズを出て、車に乗り込んでも、紬は何も言わなかった。遅かれ早かれ、妊娠のことを話さなければならない。それはわかっていた。「シートベルトを」慎が身を寄せて、紬のベルトを締めてやった。視線が一瞬、彼女の腹部で止まった。「このまま帰ろう」紬は静かに座ったまま答えた。「ええ」慎はすぐにエンジンをかけた。柊との件を問いただすことも、一切なかった。「今、お腹の具合はどうだ? つわりとかはあるか?」紬は答えなかった。慎はハンドルを回しながら、彼女の態度など気にする様子もなく、口元にかすかな笑みを浮かべた。「元々あまり体が丈夫なほうじゃない、家庭医に診てもらおう。妊娠中の体調を少しでも楽にしてやれるように」落ち着いた低い声には、どこか温かな辛抱強さが宿っていた。「昔から、お前が子供好きだとは知っていた。男の子がいいか、女の子がいいか?俺は、どちらでも構わない。一人いれば十分だ。そう思っている」それが彼の本音だった。紬はもとから丈夫なほうではないが、子供を慈しむ心は誰より強い。妊娠したのであれば、全力で守り抜きたい。体への負担を、できる限り取り除いてやりたい。自分たちの血を分けた子は、一人いればそれでいい。「計算すれば、そろそろ安定期に入る頃だな。前に調べたことがあるんだが、十二週ごろには胎児らしい姿になって、体の主要な器官もできて、手足も動き始めるという。もう、胎動を感じることはできるか?」声はゆっくりと、口元にわずかな笑みを湛えたまま。そこには、確かな命が宿っている。紬は何も言わなかった。この命の行く末を知っているのは、自分だけなのだから。慎の様子は、香凛から聞きかじった程度の確信ではなかった。彼はすべてを悟っている。慎は紬の心中を察しながら、珍しく自分から本心を打ち明けた。「メールが届いたんだ。お前が産婦人科に出入りしている写真だった。知るのが遅れたし、父親になるという報せを人づてに聞かされるとは思わなかったが――そういう瞬間こそ、俺がそばにいたかったんだ」紬は静かに目を伏せた。産婦人科の写真……状況は整理できた。香凛が茜から聞いたと
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