All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

あれほど子供を慈しんでいた紬が、どうして突然、これほど残酷な決断を口にするのか。「私に、あなたに説明する義務があるとでも?」紬は静かに目を伏せ、まだ平らな腹部をそっと撫でた。「あなたはいつだって独善的に物事を進めて、私の気持ちなど考えようともしなかった。だったら、私の体のことをあなたに相談する必要なんて、どこにもないでしょう」慎の張り詰めていた神経が、見えない針で突き刺された。紬を深く見据え、低い声で絞り出す。「……それでも、俺の子でもあるんだ」「……だから、いらないのよ」紬は今度こそ、はっきりと彼を見据えた。声に温度は一切ない。まるで他人の色恋沙汰でも語るかのような冷徹さだった。「長谷川慎、これはあなたがこれまで積み重ねてきたことの結果よ。こんな愛の欠片もない歪な環境に、この子を産み落とすつもりなんてないわ」本当の理由は、己の治療のために堕ろさざるを得ないという絶望的な事実だ。それでも、今口にした言葉もまた、彼女にとっての一つの真実であった。因果応報と言わずして何と言うのか。彼が望まない時は薬を飲まされ、彼が生んでほしいと望めば生む――すべてが彼の都合だけで決まるとでも思っているのだろうか。なぜ、私が……っ!「……須藤柊との婚約が破談になったことと、何か関係があるのか?」慎は紬の顔から目を離さないまま、ふと、そんな疑念を口にした。柊と茜の縁が切れた途端、あれほど子供を望んでいた紬が、自分との子を突然「いらない」と切り捨てたというのか。紬は思わず、膝の上で拳を握りしめた。その心ない一言が、鋭く胸を抉った。「あなたって人は――」「……帰ろう」慎は紬の反論を遮るように短く言い捨て、エンジンを吹かして車を再び発進させた。これ以上、己の胸を無残に引き裂くような言葉を聞きたくなかった。命の存在を知った瞬間の歓喜が大きかった分だけ、突き落された今の痛みはあまりに深すぎた。紬には、慎が「堕ろす」という自分の固い決意を悟ったことがわかった。だから、それ以上は何も言わなかった。慎は無言のまま、一気にマンションまで車を走らせた。息の詰まるような沈黙のエレベーターで上の階へ上がる。慎は自分の部屋へは戻らず、紬の部屋のドアの前までついてきた。紬は振り返り、冷たく告げた。「ここは私
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第662話

紬は一人で寝室へ戻り、ベッドに横たわった。この後、慎がどう振る舞おうと、もう関知するところではなかった。言うべきことはすべて言った。彼が妊娠の事実を知ってしまった以上、これからの手術の計画を隠し立てするつもりもない。慎はリビングのソファで長い間、じっと座り込んでいた。テーブルの上の花瓶に活けられた花を、ただ虚ろに見つめている。一体どれくらいの時間が経っただろうか。ポケットの中で、携帯が執拗に震え続けていた。ようやく重い腰を上げて画面を確認すると、急ぎの仕事の着信がいくつか残っている。それと、国際電話の着信が一件。慎は静かにベランダへ出ると、その海外の番号へ一本だけ電話をかけ直した。通話を終えてリビングに戻ったときには、時計の針はすでに深夜の十二時近くを指していた。紬は夕方からまだ何も食べていないはずだ。台所へ行って冷蔵庫を開けると、新鮮な野菜と果物が整然と並んでいた。紬は自身の健康をきちんと管理していたのだ。彼女は大学時代をM国で過ごした。海外に数年一人でいたこともあって、家事全般は一通りこなせた。ただ今は妊娠中だ、食事の面でも気をつけなければならないことが多い。作り始める前に、携帯でいくつかのサイトを調べた。妊婦の体に何が良いか、必要な栄養素、つわりを和らげる食材。ひとつひとつ真剣に確認した。紬の味の好みは、とうの昔に熟知している。冷蔵庫の中にも、彼女の好きな食材が揃っていた。メニューを決めるのに迷いはなかった。胃に優しい黒トリュフと野菜のスープ、それにいちじくの胡麻クリーム添え。手際よく仕上げて、エプロンを外す。紬の寝室へ向かい、そっとドアを押して中へ入った。紬は静かに眠っていた。ドアに背を向け、ベッドで丸くなって横たわっている。無防備で、幼い寝顔だった。慎は音を立てずにそのそばへ歩み寄り、ベッドの脇に片膝をついてしゃがみ込むと、しばらくの間、その寝顔を見つめた。やがて視線が、彼女の下腹部でそっと止まった。眠りの浅い紬は、誰かが入ってきた微かな気配ですでに目を覚ましていた。ゆっくりと目を開け、呆れたように呟く。「……まだ、いたの?」「少し食べよう。お前の好きなものを作ったんだ」慎は彼女の冷淡な態度をどこ吹く風と受け流し、そっと手首を引いた。「……私の言っている
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第663話

紬の脳裏に、担当医の言葉がふと蘇った。生命力の強い受精卵は、妊娠中の経過も驚くほど順調だという。これには、父親側の優秀な遺伝子と健康状態が大きく影響しているのだと。だからなのだろうか。自分がこれほど重い病を抱えているというのに、体への痛みや負担はほとんどなかった。お腹の中の小さな命は、驚くほど静かで穏やかだった。そうでなければ、もっと早く体の異変に気づいていたはずだ。おまけに病のせいで生理周期もひどく不規則になっていた。様々な偶然が重なって気づくのが遅れ、今のこの状況が生まれたのだ。目を伏せたまま物思いにふけっている紬を見て、慎は大きな手でそっと彼女の髪を撫でた。「食べたいものがあれば何でも言え、毎日来て作る。家政婦を頼むより、俺にやらせた方が気を遣わなくていいだろう」紬が子供のことを本当は誰よりも深く考えていることは、そばで見守っていれば痛いほどわかった。彼女が本当にこの子を疎ましく思い、嫌っているわけがない。慎はそう強く確信していた。紬の食欲を削ぎたくないと思ったのか、彼はエプロンを椅子に置き、静かに踵を返し、部屋を出て行った。一人残され、物思いに沈んでいた時。腹の奥深くで、ぽこんと、かすかな胎動を感じた。紬の全身が、雷に打たれたように硬直した。初めて感じる不思議な命の躍動に、彼女は息を潜めるようにして全神経を集中させた。本当に微かで、錯覚かと思ってしまうほどに儚い動き。それでも、彼女の中にある「母」としての本能のようなものが、心の深いところで確かに揺さぶられた気がした。ホルモンバランスの乱れのせいなのか、それとも母性という抗いがたい感情なのか――胸の奥からとめどなくあふれてくる熱いものを、どうしても抑えきれなかった。紬の顔には何の表情も浮かんでいなかったが、その目元はいつしか熱を帯び、微かに潤んでいた。この世界で、ただひとり、自分と深く血でつながった小さな命。せっかく宿ってくれた。なのに、ここで……消え去る運命にある。それでもわかっていた。感傷に流されて愚かな選択をする必要はない。子供を産むために、自分の命を投げ出すことはできないのだ。この子を無事に世界へ送り出したいと願うなら、まず自分自身が健康でなければならない。そうでなければ、幼くして母を失った子供がどれほど寂しい思いをするか。
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第664話

悠真はいつもの様子で歩み寄ってきた。「今来たところ?」紬は図面をまとめながら頷いた。さっき一瞬見えた複雑な表情は、気のせいだったかもしれない。今の悠真はいつも通りで、気軽に笑いながら紬を見ていた。「最近少し疲れてるように見えるね。プロジェクトのプレッシャーがきつい? もう少し余裕を持ってもいいと思うよ。高島佳緒さんはサポート役としてついているんだから。どんどん使っていい、教えることにもなるからね」紬もそれはわかっていた。ただ重要なことは、自分で把握しておきたい性分だ。佳緒を育てることに手を抜くつもりはない。ただ、物事の軽重をきちんと分けて考える必要がある。「わかった、そうするわ」「ベイサイド・テクノロジーの方は、もう余計なことをしてきてない?」紬は何もなかったふりはできない。一言くらいは確かめておかないと。悠真は気にした様子もなく肩をすくめた。「大したことじゃないよ。橘代表は僕の母だから、さすがに僕を直接追い出すことはできない。後始末が面倒なのは確かだけど、若いうちに多少揉まれないと成長しないからね」大げさに言い繕う様子もなく、あるがままに話す。その誠実さが現れていた。紬はしばらく考えて言った。「会社のことで直接力になるのは難しいけど、この恩は忘れないわ。フライテックにいい案件が来たら、必ず返す」自分が思いつく中で最も適切な形だった。余計な感情を絡めず、対等な関係として完結させる。悠真ももちろん、その意味を分かっていた。彼は自然に口元を上げた。「それは本意じゃないな。女性に庇ってもらう立場でもないし。僕も国防用機関連は今回が初めてだから、たまに指摘してもらって大きな間違いを防げれば、それで十分だよ」実にシンプルな要求だった。紬は頷いた。「何かあれば声をかけて」そう言って別の場所へ向かった。悠真はその背中を見送った。表情は変わらなかったが、目の奥に何かが沈んでいた。紬が、妊娠している……それは香凛から聞いていた。それでも、彼はひとかけらも表に出さなかった。何しろ、この子がやってきたのは、最悪のタイミングだ。携帯が鳴った。出ると、香凛の声だった。どこか冷たい。「長谷川慎とはどういう状況なの?難癖をつけてくる気配はない?」西京市での一件、慎の側ではきっとすべ
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第665話

戻りさえすれば、必ず説き伏せるつもりだった。紬は少し考えた。三日後の土曜日は、ちょうど病院と約束した手術の日だ。一日ずれる形になる。「……わかったわ」紬は穏やかに答えた。背後でこそこそ動くつもりは、もとよりなかった。土曜日に告げれば済む話だ。異論がないのを確認して、慎は人知れず安堵の息をついた。紬が約束を破る女ではないことを、彼はよく知っていた。基地の車には乗せず、自分で紬を自宅まで送り届けた。SXアロイの材料に関する手続き上の問題を片づけに行かなければならない。できる限り早く戻って、紬のプロジェクトに影響を出したくなかった。慎が去ると、紬は冷蔵庫を開けた。中には、慎が洗って切っておいてくれた果物と、温めるだけの夕食が入っていた。暗証番号を知らないはずなのに、どうやら物理キーの方から合鍵を作ったらしい。暗証番号だけのロックに付け替えた方がいいかもしれない、と紬は思った。金曜の午後。紬は病院を訪れた。明日の手術に向けて、凛太に術前検査と評価をしてもらう必要があった。こんな理由でここへ来ることになるとは。胸の奥で、じわじわとした痛みが絶えなかった。深く息を吸い込んで、悲しみを無理やり心の奥に押し込めた。迷いなく正面玄関をくぐった。ただ、入ってすぐに奇妙な感覚に襲われ、ふと後ろを振り返った。誰かに見られているような気がしたのだ。だが、大勢の人が行き交うロビーでは気のせいかもしれない。疲れた手つきで眉間を揉み、エスカレーターで上の階へ向かった。凛太は今日、手術が二件入っていた。合間を縫って紬に検査の指示を出してくれた。産婦人科検査と超音波検査だ。「この二つは結果が早く出る。子宮の状態を確認して、あとは麻酔の評価だ」凛太は用紙を渡しながら、落ち着いた目で紬をじっと見た。「緊張しなくていい。怖いなら、清水さんを呼んで付き添ってもらうのもいいんだぞ」紬は首を振った。「話していないので。今日は検査だけですし、大げさにしたくないんです」手術は明日だ。今日は自分でどうにでもなる。凛太が紬の眉間に潜む憂いに気づかないはずがなかった。穏やかな表情の奥に、悲しみが静かに押し込められている。腕時計を確認して彼は言った。「もうすぐ手術があって、一時間ほどかかる。終わったら来るよ。誰
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第666話

その力の強さが、紬の不安をさらに募らせた。肩に食い込む指が、一切の動きを封じていた。「何をするんですか?注射なんて聞いてないわ!」紬の感覚は鋭い。違和感は確信へと変わった。「温井さん、落ち着いてください。アレルギー検査です」看護師が歩み寄り、医師と一緒に紬を押さえ込んだ。声は事務的で冷淡だったが、その手は容赦なかった。こんな手順はあるはずがない。いくらなんでも、紬にだってわかる。今の自分の体は、万全には程遠い。あらゆる処置は、医師が細心の注意を払って判断しなければならないはずだ。凛太は、こんな検査のオーダーは出していない。採血ではなく、注射だ。「放してッ!」紬は激しく抵抗した。鋭い声も、相手の動作を止めることはできなかった。苛立った看護師が両手で押さえにかかった。完全に身動きを封じられた。紬は自分の腕の血管に針が刺さり、ずっと黙り込んでいる男が薬液を少しずつ注入していくのを目の当たりにした。どこからそんな力が湧いたのか、紬は火事場の馬鹿力を出した。針が皮膚を傷つけることも構わなかった。思い切り足を蹴り上げ、医師の腹部へ叩き込んだ。躊躇などしていられなかった。こいつらは自分を害そうとしている。理由はわからないが。紬の激しい抵抗に、看護師も吹き飛ばされた。男の医師がひるんだ一瞬を突いて、紬はベッドから転がり降り、よろめきながらドアへ走った。だが扉には外から鍵がかかっていた。紬は力の限りドアを叩いた。廊下へ声を届けようとした。紬が激しく抵抗し、騒ぎ立てるのを見て、ふたりは顔色を変えた。もう一方の扉から素早く逃げていった。その頃、凛太の手術は予想より早く終わっていた。縫合や後処置を他のスタッフに任せ、紬の様子を見に行こうと歩き出した矢先、廊下の奥から尋常ではない物音が聞こえてきた。眉をひそめながら中へ進んだ。診察室は静かだった。物音は一番奥の部屋から聞こえてくる。「誰か……助けて……っ」声が途切れ途切れに聞こえた。凛太はその声が、紬だとすぐにわかった。表情を引き締め、迷わずそちらへ向かった。ちょうどそのとき、ドアが内側から開いて、紬がよろめきながら飛び出してきた。凛太の顔色が変わった。咄嗟に両腕で受け止めた。見下ろすと、紬の腕に刺さった注射
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第667話

産婦人科のスタッフの動きは、訓練されたように素早かった。凛太が意識を失いかけた紬を抱えて手術室へ駆け込むと、即座に彼女をベッドに横たわらせ、バイタルを確認し、呼吸を安定させた。凛太は、紬の細い腕に刺さったままの注射針を確認すると、消毒用の綿棒で周囲を圧迫しながら、慎重にそれを抜き取った。シリンジの中には、薬液がまだかなりの量残っていた。全量が血管に入ったわけではない。今の紬の体に起きている急激な異変は、これが原因だろう。血の滲む針を手に手術室の外へ出ると、ふたりの外国人医師がすでに最速で駆けつけていた。想像していたよりも、ずっと早い到着だった。ここは世界的な富裕層やVIPを顧客に抱え、プライバシー保護と医療水準の高さに定評のある私立病院だ。高額な報酬で海外から招聘された専門医も複数常駐していた。紬の件は突発的な緊急事態だ。今すぐ動ける熟練の医師なら、誰の手でも借りたかった。凛太は、そのふたりと面識がなかった。手早く消毒を終えた医師たちが手術の準備を整える。凛太が手術室を出ようとしたとき、ふと足を止め、流暢な英語で声をかけた。「……本来この患者を担当している専門医は、今日は対応できないのですか?」片方の医師が軽く頷いた。「こちらの患者は、緊急で人工中絶の処置が必要です。他の医師は現在対応できない状況ですので、我々が呼ばれました。ただ、ご心配なく。我々にとっては簡単な処置ですから」凛太は、紬が悪意ある襲撃に巻き込まれて緊急処置が必要になったのだとは説明せず、そのまま静かに手術室を出た。紬の腹の中にいる子は……もう、流れてしまうかもしれない。妊娠継続のための処置を取ることも医学的には可能だが、紬は元々明日の土曜日に、自らの意思で人工中絶の手術を予定していた患者だ。この突発的な薬物の影響が重なった状況では――結果として、彼女の妊娠は今日、終わることになる。扉が閉まった。凛太は、廊下で赤く点灯し続ける手術中のランプを、しばらく無言で見つめていた。やがて携帯を取り出し、正樹に電話をかけた。正樹はちょうど退勤したところで、すぐに着信に出た。「凛太?今日は早いね、どうしたの」凛太は単刀直入に切り出した。「フライテックの、清水笑美さんの連絡先を知ってるか?すぐに教えてくれ、急用がある」
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第668話

凛太は、立ち尽くす慎の横顔に、深い自嘲と底知れぬ虚脱の色を見た。男に、これほど悲愴な顔をさせるとは……慎はゆっくりと喉仏を動かして何かを呑み込むと、両手できつく拳を握り締め、深く俯いた。極限の疲労と、言葉にならない衝撃の重圧の下で、彼の屈強な体が少しずつ押し潰されていくようだった。肺に取り込むひと息ひと息が、胸腔を鋭いナイフで内側から刺すように痛い。目を伏せ、唇をわずかに歪めて、乾いた自嘲の笑いを漏らした。その瞳の奥には、すべてが燃え尽きて、冷たい灰だけが残ったような、虚無の痛みが漂っていた。それでも、彼はもう一言も言葉を発しなかった。彼の全身から放たれる気配は氷のように冷たく鋭く、ただ側に立っているだけで息が詰まりそうになるほどだった。笑美は、素早く頭を働かせた。彼女は慎に対して、何の弁明も説明もしなかった。ただ真っ直ぐに、凛太のところへ歩み寄った。今の慎は深い絶望の底に沈み込んでおり、外の音など何一つ耳に入っていないはずだ。「錦戸先生……」凛太と視線が絡む。笑美の瞳が訴えかけたいことは、明確だった。凛太は、瞬時にそれを読み取った。笑美は、慎に対して「紬の本当の病状」について、絶対に何も話してほしくないのだ。凛太は小さく、同意するように頷いた。患者のプライバシーに他人が土足で踏み込むべきではない。腕時計を確認し、静かに告げた。「もう一件、俺の執刀する手術が入っています。彼女が目を覚ましたら、いつでも呼んでください」紬の腕から抜き取った例の注射器は、すでに院内の検査機関へと回してある。中にどんな薬液が入っていたかも、おおよその見当はついている。妊婦の体と胎児に与える影響は、計り知れないほど大きい。紬が無事に目を覚ましたら、担当医としてきちんと話をしなければならないことがある。処置室で起きた襲撃事件についてはすでに病院の上層部に報告を上げており、今は警察への通報を含めた後続の対応を待つだけだ。「……いろいろと、よろしくお願いします」笑美は、複雑な気持ちを胸に抱えた。本当は、今日手術をするはずではなかったのだ。これは完全に想定外のことだった。凛太は足早にその場を去っていった。笑美は振り返って、いまだに一言も発しない慎の横顔を見た。その顔には、晴れること
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第669話

今は、ふたりだけにしてやる必要がある。笑美は、夫婦の間に無理に踏み込むつもりはなかった。笑美の棘のある言葉が、慎の耳から離れなかった。彼は無言を貫いていた。この二日間、彼はほとんど休みなく動き続けていたのだ。一刻も早く戻るために、現地での複雑な案件を無理に切り上げさせ、睡眠などほとんどとっていなかった。紬は、少なくとも俺の帰りを待っていてくれる。そう信じていた。お腹の小さな命の父親である自分に、それくらいの温情は見せてくれるはずだと。狂ったように急いで戻ってきたというのに、彼女の冷酷な決断には間に合わなかった。本当に、最初から待つ気などなかったのか。それとも、最初から一筋の希望の光さえ、俺に給うつもりなどなかったのだろうか。紬が麻酔から覚めるのは、思いのほか早かった。ぼんやりと重い目を開けると、すぐそばに誰かの気配があった。ゆっくりと首を向けると、そこには蒼白な慎の顔があった。彼はただ、そこに座って紬の顔をじっと見つめていた。一体どれくらいの間そうしていたのかは見当もつかない。その顔に表情はなく、ただ重く、底なしの沼のように暗く沈んでいた。紬の頭の中で、不吉な何かが警鐘のように鳴った。自分の体が、どこか空洞になってしまったように感じた。ほんの数時間前まで確かにあった、あの微かな命の繋がりのような温かい感覚も、今はすっかり消え失せていた。……わかった。もう、私のお腹の中にはいない。もとより、自分の意思で堕ろすつもりだった。でも、こんなまったく予期しない暴力的な形でそれが起きてしまったことに、口の中にじわじわと耐え難い苦味が広がっていく。それでも、慎の前で悲しみを表に出すことはできなかった。自分でもよくわかっていた。自分に、この命を失ったことを悲しむ資格などあるのだろうかと。だからふたりはただ、互いの顔を見つめたまま。凍りついたような長い沈黙が続いた。体も心も、硬直したまま。見えない刃が、ふたりの間で静かに交錯していた。しばらくして、慎は重い喉を動かし、ゆっくりと手を伸ばして紬の首元の布団の端を整えてやった。その声はひどくしゃがれていて、人の温もりが一切感じられなかった。「……どこか、痛むか?」それは、彼がいつも口にする、ありふれた労わりの問いかけだった。なのに、何かが決
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第670話

紬の固い決意が、慎の目に見えないはずがなかった。彼女の中には、少しでも俺に寄り添おうとする気など、どこにも残っていなかった。俺との子を手放すという拒絶の行動は、どんな言葉よりも残酷に事実を物語っていた。慎は、ふと考えた。紬は俺を、一体どこまで嫌悪しているのか。あの頃、たしかにふたりの間に穏やかで良い時間があった。あれは責任感から来るものだったのか、それとも……本当に互いを愛していた瞬間が、わずかでもあったのだろうか。だが、今となっては。ふたりの絆であった子が消えた。紬の心が今どこにあるのか、その答えがはっきりと出た。どうしても、割り切ることはできなかった。柊との婚約がこじれたことの当てつけ以外に、彼女がこんなにも急いで子を手放した納得できる理由が見つからなかった。自分を欺き続けることすら、今の彼にはもう力が湧かなかった。紬は今、慎に向けてどんな顔を作ればいいのかわからなかった。今日自分の身に起きた恐ろしい事故のことも、慎のあの絶望に満ちた誤解の眼差しも、どちらも重すぎてうまく向き合えない。心身ともに限界まで磨り減っていて、弁明の言葉を発する気力すら残っていなかった。やがて慎は静かに立ち上がり,重い喉仏を動かして言った。「……お前の体が回復して、基地の仕事がすべて片づいたら。その後は、お前が望む形に……俺は従う」氷のように冷たい宣告。それだけを残して、彼は振り返ることなく病室を出て行った。今はこれ以上、彼女の顔を見ていられなかったのだ。今年で三十歳になる。物心ついてから一度も、これほど心を抉られるような深い痛みを覚えたことはなかった。怒りも、自分自身が足元から崩れかけるような感覚も、今は確かにあった。それでも同時にわかっていたのだ。彼女を責める資格など、俺のどこにあるというのかと。自分を愛していないことは、決して罪ではないのだから。紬は彼を引き留めなかった。必死に説明したところで、一体何を言えるというのか。今の慎の痛みに満ちた状態では、彼の中ですでに結論が出てしまっている。それに、こんな世界的に有名な病院の中で、見知らぬ医師に危害を加えられたなどと、どうやって彼に証明すればいい?確固たる証拠も何もないのだ。紬はそっと、自分の平らになった腹の上に手を当てた。親子の縁というのは、かくも不思議なもの
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