All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 701 - Chapter 710

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第701話

場の空気を読むのが少し遅れた良平は、隣に立つ慎の横顔をちらりと窺い、出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。仁志はほんのわずかに視線を動かし、小さく頷くにとどめる。慎だけが、どこ吹く風とばかりにゆっくりと伏せていた目を上げ、まるで何事もなかったかのような顔をしていた。余計な口出しをすることもない。仁志もまた、気づかないふりをしていた。ちょうど挨拶に訪れた客が現れたのを機に、ようやく紬から視線を外し、そちらへと向き直る。紬はこれ以上、無駄話に付き合うつもりはなかった。蘭子たちを促し、美智子のもとへと連れていく。紬が離れるのを見届けた途端、陸が慎のそばへ駆け寄ってきた。「この空気……まだ仲直りしてないんですか?」「別れることになった」慎は静かに目を伏せた。子どもの一件があって以来、紬の心の中に自分の居場所はもうないのだと、痛いほど思い知らされていた。そう言い残し、踵を返してその場を立ち去る。陸はその場に立ち尽くしたまま、呆然とその後ろ姿を見送っていた。――どういうことだ。慎が、紬を諦められるはずがないのに。一方、紬は蘭子たちを連れて美智子のもとへ向かっていた。そこへ笑美からラインのメッセージが届く。承一と一緒に到着したという知らせだった。入口のほうへ目をやると、すかさず笑美が承一の手を引いて駆け寄ってくるところだった。慎を相変わらず快く思っていない笑美だったが、美智子の祝いとあれば話は別だ。両親もこの宴に列席するのだから。笑美は少し離れた場所に立つ慎をちらりと睨みつけると、紬の腕を引いて声を潜めた。「あんな男、あんたみたいな奥さん、もう二度と見つけられないぞ。表向きはいつも隙なく完璧に振る舞って、十分すぎるくらい面目を立ててやってたじゃないか」慎の態度とは大違いだ。寧音を連れてのうのうと歩き回っていたときは、紬の顔色など一切気にかけなかったくせに。紬はただ黙っていた。今日が、本当に最後なのだ。今日を境に、ふたりは正式に離婚を公表する。「その点については、オレも同意する」承一がふと眉を上げ、笑美を横目で見やりながら同調した。おそらく自分たちの話が聞こえたか、気配に気づいたのだろう。慎がふいにこちらへと目を向けてきた。笑美は腕を組み、冷ややかに鼻を鳴らす。「何だよ、人の顔をじろじろ見て。間
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第702話

香凛の姿を見た瞬間、笑美の顔がさっと曇った。紬に身を寄せ、声を潜める。「まるで自分が長谷川家の嫁みたいな顔をして、こんな上座まで何しに来たんだ」紬は唇を固く引き結んでいた。病院での一件は、まだ明確な結論が出ていない。香凛を前にして、完全に平静な心持ちでいられるはずがなかった。蘭子は香凛を鋭く一瞥し、この女はただ者ではないと直感した。慎は深く静かな眼差しで香凛を見据えたまま、愛想よく声をかける素振りなど微塵も見せなかった。美智子は小さく頷いた。「わざわざありがとう」祝いの品を受け取るよう使用人に命じたものの、それ以上話を弾ませようとする気配はない。それよりも紬を自分の傍へ引き寄せ、その手の甲をそっとあやすように叩いてから、蘭子のほうへ視線を向けて穏やかに語りかけた。「今日はめでたい日だし、私なんて長く生きても短く生きてもどちらでもいいのよ。ただ一番の望みは、紬と慎がしあわせに寄り添って、ふたりで温かい家庭を築いていってくれること。そしてね……」美智子は慈しむように目を細めて微笑んだ。「今年中に曾孫の顔でも見られたら、もう何も言うことはないわ。ひ孫って、本当にうれしいものだから」香凛は美智子の態度がさほど温かくないことを鋭く察したが、焦る様子は微塵もなかった。ただ傍らに控え、わきまえた客として振る舞っていればそれでいい。美智子の言葉に、蘭子はただ黙り込んでいた。大切な孫娘はもうすぐ離婚しようとしているのだ。とても話を合わせることなどできない。紗代も何も言わなかった。姑である美智子がいる場では、決して余計な口を挟まない。ところが香凛が、ひどく驚いたような顔で口を開いた。「曾孫さん、ですか?でも温井さん、つい先日、長谷川代表のお子さんを堕ろしたのではないですか?皆様、ご存知でなかったのですか?」その声は、決して周囲に聞こえないような小ささではなかった。ざわめきが止まり、周囲の人々が一斉にこちらを振り向いた。慎の瞳が氷のように冷え固まり、一言も発さずに立ち尽くす。「警備員を呼んで、つまみ出せ」だが紬は、弾かれたように顔を上げ、香凛を真っ直ぐに見据えた。その瞬間、確信に変わった。子どものこと……やはりこの女は、無関係ではない。美智子の顔色が一変した。「どういうこと?」紗代までもが、勢
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第703話

笑美の悲痛な叫びが響き渡った瞬間、それまで重く沈んでいた場の空気が、根底から覆された。慎が勢いよく振り返り、暗く深い瞳で蒼白になっていく紬の顔を、じっと射抜くように見つめた。その一瞬、自分は何か恐ろしい聞き間違いをしたのではないかと思わずにいられなかった。凍りつくような静寂が、場を包み込む。美智子たちも、あまりの衝撃にしばらく言葉を失っていた。蘭子と良平が、弾かれたようにはっと立ち上がる。「どういうことなの?紬がどうかしたの?」笑美はこの耐え難い事情を思うと、堪えきれずに目の奥が熱くなった。憎々しげに睨みつけ、さらに眉をひそめる香凛へも氷のように冷ややかな視線を突き刺す。「紬は誰一人として傷つけてなんかない!自分たちがさも恩人であるかのような顔をしないで!紬を娶ってやったなんて恩着せがましいことを思ってるなら、大間違いだ。あなたたちさえいなければ、あいつはこんなことにならなかったかもしれないのに……!」「笑美!」承一がはっと我に返り、大股で歩み寄った。笑美の腰に力強く腕を回し、半ば抱きかかえるようにして強引にその場から引き離す。笑美は怒りのあまり、小刻みに震えていた。さっきの紗代の容赦ない言い様が、どうしても許せなかった。今すぐ鼻先に指を突きつけて、その冷酷さを洗いざらい糾弾してやりたかった。承一は険しい表情を崩さないまま、視線を腕の中の笑美へ落とした。「大勢の前でこんなことを騒ぎ立てたら、紬自身の傷口を晒し者にすることになる。それで一番辛い思いをするのは、あいつだろ」その声は、紬と笑美の耳にだけ届くよう低く抑えられていた。その切実な一言で、笑美はふっと我に返った。はっとして、紬のほうを振り返る。紬はそのとき、四方八方から一斉に注がれる無数の問いかけの視線を、逃げることなく真正面から受け止めていた。「命が長くない」という残酷な事実を突きつけられたときのような、あの恐ろしい動揺が、ふたたび暗い波となって押し寄せてくる。深く、深く息を吸い込んだ。患部がまた鈍く疼き始め、頬からさっと血の気が引き、こめかみに冷たい汗がじわりと滲む。慎はすでに、唇を血が滲むほど強く噛み締めていた。そっとそばへ歩み寄りながらも、体の脇に力なく垂らした手が、自分でも気づかぬうちにかすかに震えている。紬の顔を、ただ縋る
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第704話

やがて休憩室が用意され、上座の親族たちが重苦しい空気を漂わせながら、音もなくそちらへと移っていく。今日という今日は何があっても、すべてに白黒をつけなければならない。その光景を前に、笑美は潤んだ目尻を乱暴に拭い、承一の手を振りほどいた。「私も行くぞ」どう見ても、これから紬を糾弾するための場ではないか。承一は、今回ばかりは止めなかった。どうせ縁を切ると決めた以上、「身内の恥は外に出さない」などという体裁を守る必要もない。今の紬の傍に、一体誰がいるというのか。承一と笑美、そのふたりくらいしか、もう彼女の背中を押せる者はいないのだから。慎は紬の手首を黙って握ったまま、一言も発しなかった。その指先が氷のように冷え切っているのを、紬は感じていた。一行が部屋を離れるのを、陸たちが遠くからいぶかしげに眺めていた。何が起きているのかと考える間もなく、ちょうど柊がやって来た。今日ここに紬がいると知っていたから、顔を見に立ち寄ったのだ。陸の姿が目に入り、近づいて声をかける。「堂本社長、長谷川代表と紬は?」「さっきあっちの部屋へ行きましたよ。何をしてるのかさっぱり」陸が指差す方向へ、柊は目をやった。今日ここへ来ていることは、茜には何も言っていない。厄介事を少しずつ片付けて、それから紬とゆっくり話せればと思っていたのだが……その頃、休憩室では――部屋に入るなり、一同の視線が紬へと集まった。幾人かが同時に口を開く。「おばあちゃんに話してちょうだい。体、どうかしたの?」「子どものこと、ちゃんと説明してもらわないと」紗代が冷ややかに言う。「ねえ、あなたを責めたいわけじゃないの。ただ、きちんと話してほしいだけよ」美智子も少し落ち着きを取り戻してはいたが、年配者にとって、血脈に関わる話は一大事だった。そのとき、慎だけが口を開いた。こめかみをわずかに引きつらせ、やがてゆっくりと顔を上げる。「彼女には、あなたたちに何かを報告する義務などありません。もし責め立てることしかできないのなら、最初から聞かないでください。彼女は子供を産むための道具ではありません」その言葉に、紬の胸がかすかに揺れた。笑美でさえ、思わず目を瞠った。子どものことで慎が紬を恨んでいるものとばかり思っていた。少なくともこの場では、紗代たちの激
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第705話

重く降り積もった静寂だけが、喉を締め付ける冷たい刃のようだった。紬は、逃げ場のない自分の苦しみを、ついに正面から受け止めた。だからこそ、目の前で、最愛の蘭子と良平が蒼白になっていくのを、ただ見つめ返すことしかできなかった。ふたりをこれ以上悲しませたくなくて、紬はかすかに微笑みを作った。「子宮がんなんですけど、大丈夫です。ちゃんと治療もしてるし、いい先生に診ていただいてるから。きっと……よくなります」その気丈な声が、重苦しい空気に、わずかな風穴を開けた。美智子はぼんやりとしたまま、ソファにへたり込んだ。呆然として、言葉が出てこない。紗代も信じられないというように深く眉を寄せた。子宮がん……ということは、もしかして……今後、子を宿すことが——だが、慎だけが違った。死人のように青ざめた顔で、薄い唇を何度か動かしたが、声にならなかった。干からびた喉から、ようやく絞り出すように言う。「……いつからだ?」紬はゆっくりと慎に視線を向けた。その瞬間、気づいてしまった。慎の双眸が、真っ赤に染まっている。どんな窮地にも泰然自若としていた男の顔に、今、砕け散るような絶望が浮かんでいた。ずっと、紬の手首を握り続けたまま。その大きな手が、微かに震えていた。彼は、恐れていた。そして、身を切られるように痛んでいたのだ。紬は体の不快感をこらえながら、一言ずつ言葉を置いた。「寧音が帰国して、あなたが彼女の誕生日を祝ったあの日に、診断が出たの」慎の大きな体が、ぐらりと揺らいだ。目の焦点が一瞬ぼやけ、唇から完全に血の色が消えた。まるで最後に残っていた灯火が、ふっと吹き消されたように。あのとき、自分は何をしていた?彼女のそばにいなかった。だから紬はあれ以来、自分の病気について一言も話さなかったのだ。おそらく、あのとき彼女は自分に完全に絶望して、心が死んだのだろう。この瞬間になって、慎はようやく理解した。周囲の音が遠のいていく感覚があった。目の前が暗くなり、耳の奥で不快な轟音が鳴りやまない。自分自身を——到底、許せなかった。笑美は、紬が淡々と話すのを聞きながら、こらえきれずに鼻を啜った。紬がどれだけのものを背負ってきたか、知っているから。知っているからこそ、彼女を傷つけた者たちへの憎しみが、どうしても消えなか
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第706話

人目を避けるように裏口から、紬を抱いたまま外へ出た。慎のこめかみには冷や汗が滲み、細く切れ長の目が赤く染まっていた。車に乗り込むと、腕の中で痛みに身じろぎする紬を強く抱き締める。そのとき彼の中で、失ってしまうことへの恐怖が頂点に達した。ただ顎を紬の髪に埋め、震える手でその背中を繰り返し撫でながら、無意識のうちに言葉が零れ落ちた。「大丈夫だ、必ず治る……すまない、全部俺のせいだ……」瑞季は息を殺して、慎が病院名を告げるやいなや、アクセルを力いっぱい踏み込んだ。なぜ今日に限ってこれほど激しく発作が出るのか、紬にはわからなかった。内臓を抉られるような痛みが全身を覆い、体を丸めてしまいたいほどだった。耳のそばで、普段の冷静さを失い、崩れかけている慎の声が聞こえる。口を開こうとしたが、何も出てこなかった。ただ痛みに耐、唇を強く噛み締めて目を閉じる。「急いでくれ!」慎の声はひどくしゃがれて、別人のようだった。紬が唇を噛んで血が滲むのを見て、瑞季を急かした後、素早く自分の手を差し出した。彼女の唇をそこから無理やり解放し、代わりに自分の手を噛ませようとしたのだ。紬は痛みに意識が混濁する中、うつむく慎を見た。いつも感情の波一つ見せない冷たい瞳が、今は堪えきれない苦しみを湛え、長い睫毛が濡れていた。そのまま、一粒の雫が紬の目尻に落ちた。ひどく、熱かった。胸の奥底まで、じんと震えた。見間違いだろうかと思った。慎のような男が、涙を流すはずがない。おそらく、かつて彼がひとりで飲み込んできた感情が、今この瞬間の痛みとともに一気に溢れ出したのだろう。紬はどこか報復するかのように、差し出された手に深く歯を立てた。生温かい血の味がした。それでも慎は、少しも腕を引こうとしなかった。ただ、より一層強い力で彼女を抱き締めた。その腕の中で、彼の早鐘のように激しく打っている心臓の音が伝わってきた。紬はふと、全身の力が抜けた。歯をゆっくりと離し、目を閉じたまま、もう何も言わなかった。そして病院に着いた。慎は紬を抱いたまま、早足で中へ駆け込んだ。ちょうど手術を終えて階段を下りてきた凛太と鉢合わせた。その光景を見て、凛太の顔色が変わった。駆け寄ってくる。「こちらへ」慎は頭の中が白くなりかけながらも、感情を殺した機械のように言
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第707話

周囲は相変わらず騒々しく、慌ただしく人が行き交っていた。その喧噪の中で、慎にはただ、自身の早鐘を打つような鼓動だけが聞こえていた。凛太が当事者ではない第三者として、あの日の真実を淡々と語った。一切の誇張などなかった。それでも、その言葉は慎の心を完全に打ち砕くには十分すぎるほどの威力を持っていた。端正な顔が、すっと血の気を失って蒼白になった。深い瞳の奥で、何かがぼろぼろと崩れ落ち、もとの形を失っていく。「彼女は、理不尽な現実をすべて受け入れるしかなかった。仮に本当に自ら処置を選んだのだとしても、君に彼女を責める資格はないはずだ。彼女自身の命に関わる問題だったんだ。生と死の狭間で、彼女に選択の余地などなかった」凛太はかつて、手術室の外に立つ慎の姿を見ていた。あのとき、二人の間に決定的な誤解があったのは明らかだった。そして笑美の言葉の端々からも慎の態度を察し、そのことで紬との間に修復不可能な亀裂が入ったのだとわかっていた。でも、紬は……身も心も、誰よりも深く傷ついていたのだ。何も間違ったことなどしていないのに。医師として患者に感情移入するのは、冷静な判断を妨げる。それはわかっている。それでも、紬が一人で背負いすぎていると、思わずにいられなかった。「……彼女からは、聞いていなかった」慎は、頭を鈍器で殴られたような感覚の中で、ようやくそれだけを絞り出した。凛太は静かに、しかし毅然と言い放った。「あのときの彼女は、十分すぎるほど傷つき、戸惑っていたはずだ。君がどう出るかによって、彼女が何を話せるかが決まった。ただ、それだけのことだ」彼女は、すでに途方に暮れていた。そのうえに慎の感情まで引き受けることなど、できるはずがなかった。これ以上、彼女にどうしろというのか。慎は力が抜けたように壁に手をつき、どんな表情をすればいいかもわからないまま、こめかみがドクンと脈打つように痛んだ。息をするのさえ苦しかった。胸に手を当て、目を伏せて、深く息を吸い込む。何度も。「助かる見込みは……あるのか」声が、ひどく掠れていた。紬が何者かに危害を加えられたという件については――必ず、一点の曇りもなく突き止める。だが今この瞬間、一番大事なのは失われた子どものことではなく、彼女自身の命だった。凛太の言葉は、すべて本当のこ
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第708話

「手術の日程は、決まっているか」慎は重苦しい沈黙の後、乾いた喉を鳴らして訊ねた。「以前に日取りを決めていたが、彼女の体調さえ許せばいつでも」慎は顔を上げて凛太を見た。その眼差しは、深く沈み込んでいた。「彼女は、どちらの方針で話を進めていたんだ」凛太は紬のかつての様子を思い返し、その心中を推し量った。「彼女の考えからすると、わずかな可能性に賭けようとしているんじゃないかと」「子宮を全摘出してくれ」慎の低く響く声が、凛太の言葉を静かに断ち切った。凛太は思わず目を見張り、慎を見つめた。その目の奥にあるのは、一切揺るがない強固な決意だった。まるで、この世に彼女の命より重いものなどないのだとでも言うように。凛太はようやく、この男の底知れぬ深さを垣間見た気がした。目を細めて問う。「つまり……彼女に代わって、君が決めるというのか?」「彼女が生きていてくれることより、優先すべきことなどあるのか」慎は拳を壁から離し、すっと背筋を伸ばした。声はまだかすれていたが、その瞳には、一切の迷いがなかった。万が一にも、紬を失うリスクを残すわけにはいかない。凛太の言葉の意味は、痛いほどわかっていた。手術が失敗すれば、命は……もう長くはない。末期の癌は、ほんのわずかな風にも揺れる、風前の灯だ。慎は、どうしようもなく自分自身を憎悪した。あのクルーズでなぜ、あのとき、彼女を抱いてしまったのか。紬を今の絶望的な状況に追い込んだのは、他の誰でもない、自分自身に他ならないのではないか。慎は誰よりも紬のことをわかっているつもりだった。彼女は一見冷静で隙がないように見えて、その実、根はとても情に脆い。身内が少なく、家族の温もりをあまり知らずに育った。だからこそ、血の繋がった自分の子どもだけが、これから先に彼女と深くつながれる存在になり得るのだと、紬はずっとそう思っていたはずだ。彼女がどれほど子どもを望んでいたか、慎には痛いほどわかっていた。もしかしたら紬は……あの微かな可能性に命を懸けようとするかもしれない。凛太は驚きを隠せないまま、目の前の男を見ていた。誇り高き長谷川家の当主が、一族の血脈のことを一切気にしていないとでもいうのか。慎は目を閉じ、それからゆっくりと言った。「彼女とちゃんと話してみる。一つ
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第709話

紬は、まどろみの中をさまよっていた。手の甲に、温かく湿った感触がある。下腹部を苛んでいた激しい痛みは、もう和らいでいた。長く病と付き合ってきた体の勘で、鎮痛剤を打たれたのだとわかった。ゆっくりと顔を向けると、慎の赤く腫れた目がそこにあった。紬が目を開けたのを見て、慎は思わず口を開こうとしたが、喉がひどく掠れていて、言葉にならなかった。一度唾を飲み込んでから、静かに訊いた。「楽になった? まだ痛みはあるか?」紬は小さく首を横に振った。慎が握る自分の手に視線を落とす。手の甲には、彼の涙の跡があった。「……大丈夫」口癖のように自然に出てきたその言葉が、またも慎の胸を締め付けた。紬がこの長い時間の中で、痛みで眠れない夜を、どれほど一人でやり過ごしてきたか。考えることさえ、怖かった。強くいるしかなかったのだ。蘭子にも、良平にさえも、打ち明けられないまま。彼女は自分の苦しさを軽々しく口にするような人間ではない。紬は手を引っ込めようとした。しかし今回は、慎が離さなかった。それどころか、より一層強く握り締めてくる。紬の胸に戸惑いが走る。こんな慎を見るのは初めてだった。「ひとりで、こんなに長い間……辛かっただろう」慎は彼女の手の甲の濡れた跡をゆっくりと拭いながら、声を絞り出すように言った。紬は少し考えてから、正直に答えた。「最初は、そうだったかもしれない。でも後になると、もう慣れてしまって。こうなったものは仕方ないし、どう足掻いたって何も変わらないなら」むしろ、自分の状態を知った人たちが心配し、眠れない夜を過ごすほうが辛かった。ならば最後の治療を迎えるそのときまで、なるべく彼らが悲しむ時間を短くして、余計な気を揉ませたくない。もうすでに、精神的に限界だった。疲れ果てていたのだ。紬は決して感傷的な人間ではない。どこまでも現実的で、理性的なのだ。大人は自分のことに責任を持てばいい。これ以上、人に迷惑をかけるつもりはなかった。「背負わせるつもりはなかった」その言葉に、紬の目の色がかすかに揺れた。それから、静かに、ありのままを言った。「頼りたかったよ。でも、あのとき、あなたは別の女のそばにいた。そんなあなたに縋って、同情してもらえると思える?」この一年、ずっとそう思ってきた。慎が心変わりをしたのなら、
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第710話

慎の長い睫毛が、かすかに震えた。鋭利な刃物のように、その静かな言葉が胸を深くえぐった。自分の決めつけが、あのとき紬の口を塞いだのだ。責められたから口を閉じたのではない。自分が——あのとき、彼女の口から語られる真実を受け取る資格すらなかったのだと、思い知らされた。「凛太から、すべて聞いた」慎はゆっくりと、ひび割れた唇を動かした。自嘲めいた色が混じり、言葉にならない痛みが胸の奥で黒く渦巻いていた。紬は、特に驚く様子は見せなかった。「そうなのね。なら、もうわかってもらえたはずね」言葉にしなくても、慎には為すべきことがあるはずだ。紬にはわかっていた。失われたあの子は、自分一人だけの子ではないのだから。すべてを話し終えてみると、こんなにも心が軽くなるものかと、紬は自分でも少し意外だった。そして、自分の病のこと——「俺と一緒に、海外へ行かないか。向こうで治療しよう」慎は今、ただそれだけを必死に考えていた。この病についての詳細は、すでに調べ尽くしている。文字の羅列が、病の深刻さと絶望的な末路を容赦なく突きつけてきて、到底一人では受け止めきれなかった。紬に万が一のことが起きるなど、絶対に許さない。どんな手を尽くしてでも、健やかな体を取り戻させる。俺はまだ、彼女に許されていない。彼女が本当に望む生き方を、まだ取り戻させてやれていない。先はまだ長くあるはずだ。もう二度と、彼女ひとりに孤独な傷を抱え込ませたりはしない。紬は、慎の目を見た。その漆黒の瞳の中に深く滲む苦痛と悲哀が、はっきりと見えた。胸を刺すように伝わってきて、思わず体が強張った。小さく息をついてから、静かに言う。「錦戸先生のことは信頼しているから。もう具体的な治療方針も話し合って決めている。癌の専門家として、十分すぎるくらい信頼できる方よ」慎は言いたかった。保存療法などという不確かな賭けはやめて、子宮ごと取ってしまってくれと。でもその言葉が、重い喉の奥で止まった。彼女の気持ちが、痛いほどわかるから。どんな女性にとっても、そう簡単に割り切れる決断ではない。自分が「子どもができなくても構わない」と口にするだけで解決できるような単純な問題ではないとも、よくわかっていた。それでも自分は、ただ彼女の命だけを大事に思っている。そのとき、病室の扉が外から激しく
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