All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 841 - Chapter 850

868 Chapters

第841話

紫乃も目を赤くして、鼻をすすりながら昭希を揺らし続けていた。「なんて甘ったるいのよ、あの二人!本当に参ったわ!」会場は完全な非公開ではなく、半公開という形だった。招かれたメディアが、終始その場を記録し続けていたのだ。新郎新婦は「逃げた」のに、誰もが感動に包まれていた。慎の独白映像は、ほぼ無編集のまま各プラットフォームに配信された。一時間も経たないうちに、あらゆるランキングの一位に躍り出た。長谷川グループの長谷川代表——金融・投資の世界で頂点に立ち、若くして不可侵の領域に達した男。その知名度はもともと高かったが、誰も知らなかった彼の一途な秘恋が公になり、閲覧数は信じられない勢いで跳ね上がった。トレンドワードが次々と浮かび上がる。#絶美の愛 はい喜んで#人生の勝者・温井紬#本物の夫婦、また愛を信じられた映像は爆発的に広まった。前例のない反響を呼んだ。多くの人が拡散し合い、知人や家族へと広め合い、感動の渦に巻き込まれる人が続出した。コメント欄は感動の声で完全に溢れかえった。長谷川グループの株価は上昇し続けた。企業イメージは短時間のうちに、かつてない高みへと跳ね上がった。しかし何より大きかったのは——これ以降、慎の紬への深い愛を疑う者が、誰一人いなくなったことだ。北国に降り立った紬も、国内のニュースを目にした。窓の前に立ち、様々な時期の慎を改めて思い返していると、なぜか胸の奥がじわりと痛くなった。映像の表面にではなく、その奥の奥にあるものが、肌で感じ取れたのだ。あの感情は、決して軽いものじゃなかった。今日この日まで、気づけば十年近い歳月が積み重なっている。車の中で慎が急に「俺を受け入れるって、一言録らせてくれ」と言い出した時、紬は深く考えずに、気持ちが弾んだまま答えていた。まさか慎がそれを式場に送り返し、あの無数のプロポーズ映像の末尾に繋げるとは、思ってもいなかったのだ。長い年月を経て、ようやく届けられた答え——それがこんな形になるとは。それを知ったのも、実は映像が流れた後だったし、慎がここに連れてくると言い出したのもその後だった。今、北国は大雪だった。舞い落ちる白雪がまばゆく、目がくらむほどだった。世界に自分と慎の二人だけが残されたような気がした。そして
Read more

第842話

紬はようやく、あの頃の慎の切実な気持ちが理解できたような気がした。絶望に近いものがあったのだろう。何年もかけて積み重ねてきた思いが、ようやく報われると思った矢先に、彼女が「別の誰かを深く愛している」と思い込んでしまったのだから。それでも感情をぶつけることはせず、むしろ自らそっと身を引こうとしていた。これほどまでに準備を重ねておきながら、一言も言葉にできないまま、すべての苦さを一人で飲み込んでいたのだ。「本当に、馬鹿ね」そう口にしながらも、紬には痛いほどよくわかった。誰かを心の底から愛せば、人はどうしても臆病になり、不安になるものだ。慎という男は、生まれつき誇り高いところがある。現実を突きつけて、彼女を傷つけるような真似をしたくなかったのだろう。慎は紬の頬を軽くつまんで唇をわずかに尖らせると、かがみ込んでそっとキスをした。それでは物足りなかったのか、もう一度、今度はその柔らかい唇を軽く噛んでから言った。「これが運命の縁ってやつだ。どう抗おうと無駄なんだよ。ほら、お前は最初から俺に嫁ぐことが決まっていたし、俺と縁で結ばれることも決まっていたんだ」「決まっていた?」紬は片眉を上げた。「運命の縁?どう考えても、長谷川代表の『周到な計算』と『巧妙な策略』の賜物なんじゃないの?」振り返ってみれば。慎がここまで手を回さなければ、こんな結果にはならなかっただろうと、正直思う。慎はゆったりと鼻で笑った。「もしお前がもう少し鈍かったら、俺は黙ってこっそり昭希を一人で育て上げて、ある日突然お前の前に現れて、お母さんと呼ばせるところだったな」あの頃、本気でそうなることも想定していた。人は時に、どこまでも意地を張り通す覚悟をすることがある。このまま延々と待ち続けることになってもいいと、腹を決めていた時期すらあったのだ。昭希のことを思った途端、紬の胸の中が溶けるように柔らかくなった。紬は思わず腕時計に目をやった。「じゃあ、家の方にビデオ通話してみましょうか。昭希ちゃんの顔が見たいわ」慎が紬の手を、自分の腕の中へ引き戻した。「今日は二人だけの時間だ。昭希は後回し」いくら昭希といえど、今日の邪魔だけはさせない。紬は少し迷った。「でも、昭希ちゃんは今誰が見てるの?」やはり心配だった。慎はゆっくりと片眉
Read more

第843話

「温井さん……温井紬さん」肩をぽんと押されて、重たいまぶたをどうにか押し上げた。視界に飛び込んできたのは、騒がしい救急外来の廊下だった。手の甲にはまだ点滴の針が刺さっていて、隣に吊るされたボトルはほぼ空になっている。看護師が覗き込んでいた。「温井紬さんですよね?もうすぐ終わりますので、針を抜かせていただきますね」紬は目をこすって頷いた。昨晩から急に熱が出てしまったのだ。今日の十時に長谷川家と入籍の手続きをする約束をしていたのに、体の調子がひどくて、いっそ朝一番に来て点滴を打ってもらうことにした。早めに来た甲斐があって、時刻はまだ九時半だ。これならなんとか間に合う。看護師がかがみ込んだちょうどその時、廊下の向こうで緊急を知らせる騒ぎが起きた。救急車が到着したらしく、どうやら交通事故のようだ。看護師は表情を変えると、婦長に呼ばれ、慌ただしくその場を離れた。紬はぼんやりと点滴ボトルを見上げた。残りはわずかだ。もう少し待てば、誰かが対応しに来てくれるだろう。点滴ボトルの液体がじわじわと減っていくのを黙って見守りながら、そろそろ自分で声をかけに行こうかと腰を浮かせた、その時だった。目の前にすっと人影が現れて、行く手を、そして視界の光までも遮った。片手が、軽く彼女の肩に置かれた。「座ってろ」紬はぱちぱちと瞬きをして、顔を上げた。見覚えのある顔がそこにあった。薄情なほど涼しげな切れ長の瞳が、視線だけを下ろしてこちらを見下ろしていた。「どこが悪い?」こんな場所で顔を合わせるとは思っていなかった。しかも、ほんの数日前に二人の間にはある出来事があり、少し後味の悪い空気を残したまま別れていたのだ……長谷川慎の、人を寄せ付けないほど整った顔立ちを前にして、紬は無意識に握り込んでいた手を少しほぐしてから答えた。「風邪です」少し間を置いてから、気まずさを紛らわすための話題を探した。「あなたこそ、どうしてここに?」たいして親しい間柄でもないのだ。慎はしゃがみ込んで、紬の手の甲に目を向け、気づかれない程度にわずかに眉をひそめた。「知人が入院していてな」そういうことか。単なる偶然だ。しかも、入籍当日の偶然だ。「針、怖いか?」慎は視線を上げずに聞いた。怖い。紬の心の中では、ほぼ即座に答え
Read more

第844話

入籍の手続きは、あっという間に終わった。結婚届を提出して、担当者が結婚届受理証明書と、撮ってくれた記念写真を手渡してくれた。紬が受け取って開いてみると、並んで写る二人の姿があった。慎の表情は想像していたほど冷たいわけではなく、どこか力の抜けた、穏やかな顔をしているように見えた。顔を上げると、慎がちょうど自分の証書をポケットにしまうところだった。ちらりと紬を見て、口を開く。「新居がまだ仕上がっていないから、とりあえず別のマンションに移ってくれるか?」紬はすぐに頷いた。「もちろんです」慎が車のドアを開けようとした瞬間、携帯が鳴った。緊急の仕事の電話らしい。電話に出ながら紬を見て言った。「先に車で帰ってくれ。荷物をまとめて、俺のところへ移ってきてくれればいい。俺はまだかかる」紬が何か言う間もなく、慎は車のドアを閉めた。同居することになるとは、思っていなかった。夫婦としての体裁を整えながらも、実態はそれぞれ別々に生活する——その程度のものだろうと思っていたのだ。慎が自分に対してそれほど満足しているわけでもないのはわかっている。運転手が口を開いた。「奥様、お荷物をまとめるため、先にご自宅へお送りいたします。もし多ければ、こちらで人を手配いたしますが」全部あらかじめ決められていたような気がして、紬は少し迷ってから首を振った。「いえ、大丈夫です。そんなに多くないので。着替えと本くらいですから」須藤家にいた頃から、自分の居場所など家の中にほとんどなかった。大学を出て一人暮らしを始めてからも、身の回りのものは最低限しか持っていなかった。荷物が多いはずがない。運転手は車を出した。慎は車が走り去るのを静かに見送ってから、別の車を呼んだ。そのまま会社へ直行した。緊急の会議が控えていた。会議室では、熱を帯びた発言が続いていた。慎は社長椅子に深く腰かけていたが、カバンの中にある結婚届受理証書が、じわじわと存在感を放っていた。視線を落とし、机の下でそっとそれを取り出した。隣にある、二人の写真を見た。口の端が、ほんのわずかに上がった。生まれて初めて、会議中に別のことが頭をよぎったのだ。携帯を取り出して、開いた証明書をそのまま写真に収めた。SNSを開いて、そのまま写真をアップしようとして、本文を打
Read more

第845話

この部屋の暗証番号。その「0518」という数字に何の意味があるのか、紬にはわからなかった。慎の誕生日は聞いたことがあったから、それでないことだけはわかる。でも明らかに、何か特別な意味を持つ日付だ。元カノの誕生日だろうか?詮索するつもりはなかった。長谷川慎のような男に、過去の恋の一つや二つあるのは当然のことだ。部屋の中は広かった。正面には床から天井まで届く大きな窓が広がっていて、西京市でも指折りの華やかな繁華街を見下ろすことができた。突然一緒に住むことになって、紬はまだ落ち着かない気持ちでいた。何をすればいいのかわからない。あちこち勝手に見て回るのも、失礼な気がする。でも、荷物は片づけなければならない。あれこれ迷った末、慎にメッセージを送ることにした。【どの部屋を使えばいいですか?】返信はすぐに来た。【?】紬にはその意味がわからなかった。続けて文字を打った。【部屋がいくつかあるみたいですが、どこを使えばいいですか?】この結婚は、美智子たちへの体裁を整えるためのものだろうと思っていた。慎が本気で自分と一緒に暮らすつもりでいるとは、少しも考えていなかったのだ。今度は、すぐに明確な返信が来た。【入って左の、一番手前】教えてもらった通りに歩いていくと、そこは広々とした主寝室だった。見晴らしがよく、立派なウォークインクローゼットもある。中には、すでに慎の衣類がきっちりと収められていた。「…………」言い間違えたのだろうか。右側の一番手前と間違えたのだろうか?紬は一度廊下へ出て、確認してみた。向かいにも同じくらいの広さの寝室があった。眺めはこちらより悪く、余分なものは何も置かれていない。やっぱり、慎は左右を間違えたのだ。そう確信して、荷物を右側の部屋に移した。慎に対して、紬の気持ちは複雑だった。本来ならもっと家格の釣り合う良い縁談があったはずなのに、こんな望まない結婚に巻き込まれた被害者なのだ。彼が自分を深く恨んでいないのなら、それだけで十分すぎるくらいだ。むしろ、怒りに任せて報復してこないだけでも、優しいとも言える。慎は品のある人だから、表立って怒りをぶつけてくるような真似はしない。だが紬のほうは、内心ずっとひやひやしていた。須藤家の思惑が絡んでいる以上、彼に対する後ろめたい気
Read more

第846話

紬は内心、首をかしげた。この店のおしるこは、西京市でも名物だというのに。人の好みというものはわからないものだ。まあ、ちょうどもう少し甘いものが欲しいと思っていたところだったし。「では、いただきます」と、素直に受け取った。「ああ」再び、重苦しい沈黙が下りた。慎という男は、底知れぬほど無口だった。望まぬ相手と無理やり結婚させられたというのに、これほど平然としていられるものだろうか。自分に対して、少しくらい不満をぶつけたいのではないか。紬には、慎の心の中がまったくわからなかった。頭の中で何度か練習した言葉があった。これからしばらく体裁を保てたなら、離婚したい時は全面的に協力する、と伝えてみようか。ちょうど口を開こうとした、その時だった。慎が机の上に、小さな箱を置いた。見覚えのある形だった。指輪のケースだ。慎は紬を見た。「結婚指輪だ。気に入らなければ、別のものを用意する」指輪のことなど、まったく考えていなかった。この言い方からすると、特別に選んだわけではなく、適当に買ってきたものなのだろう。だから別に、気に入らなければ買い直せばいいと言っているのだ。この結婚で自分が文句を言える立場にあるはずがない。むしろ向こうが一方的に損をしたのだから。紬は中身をほとんど確認もせずに受け取った。「いえ、何でもいいです」開けようとする気配がないのを見て、慎は自分のポケットの中にある指輪にそっと触れた。「そうか」立ち上がって、寝室のほうへ歩いていった。紬はほっと息をついた。指輪のケースを持って、自分の部屋へ戻ろうとした。慎は部屋に入って、辺りを見渡した。紬の気配がない。衣類がない。スキンケア用品も化粧品もない。わざわざこの日のために用意させた化粧台には、使った形跡がまったくなかった。寝具は女性らしいものに変わるかと思って一応覚悟していたが、そのままのグレーのシルクだった。慎は少し立ち止まってから、もう一度廊下へ出て確認した。見間違いではなかった。何も変わっていない。妻を迎えたとは到底思えない部屋だった。考えながら廊下へ出ると、向かいの部屋から紬が出てきた。「…………」慎の眉が微かに跳ね上がった。「向こうで何をしていた?」紬は慎の意図がつかめなかった
Read more

第847話

紬は、この奇妙な共同生活に、そう簡単には慣れないだろうと思っていた。しかし実際には、想像していたほど難しいことではなかった。慎は紬に対して声を荒げるわけでもなく、想像していたよりずっと落ち着いていた。須藤家のことも自分のことも深く恨んでいるだろうと思っていたのに、結婚後の数日間は特に何も起きなかった。そして何より意外だったのは、慎が思っていた以上にインドア派だったことだ。毎日、必ず帰ってくる。帰ってきても書斎には行かず、リビングのソファに座ったまま仕事をしている。これだけ仕事があるなら会社で片づければいいのにとも思うが、ともかく、水を飲みに来ても、花に水をやっても、ちょっとした用を済ませようとしても、常に慎の気配があった。紬はいつの間にか、見知らぬ「夫」という存在に、わずかながら興味を抱き始めていた。ある夜、水を取りに出てきた紬が部屋へ戻ろうとすると、慎が何気なく声をかけた。「もう寝るのか?」紬はこくりと頷いた。慎は表情を変えなかった。だが内心では、妻が自分に対してあまりにも素っ気ないことを感じていた。リビングにこうして何日も陣取っていたというのに、紬は歩み寄ってくる気配がまるでない。慎は顎をしゃくって見せた。「少し話さないか」紬は一瞬、びくっとした。まさか、離婚の話を切り出されるのではないかと思った。まだ康敬から返事をもらっていないのだ。こんなに早く放り出されてしまえば、彼との約束も反故にされてしまう。水の入ったグラスをしっかりと握りしめて、近づいた。ソファに腰かけた慎が、すっと手を伸ばした。差し出されたのは、一枚の黒いカードだった。紬は怪訝な顔でそれを見た。慎は落ち着いた目で紬を見返した。「新居の内装にかかる費用だ。好きなスタイルがあれば、デザイナーに直接言えばいい。素材はすべて、一番いいものを使ってくれ」紬は目を丸くした。「離婚の話じゃないんですか?」慎の眉が、かすかにひくっと痙攣した。こらえきれずに言った。「……甘いことを言うな」結婚したばかりで、離婚だと?寝言は来世で言え。紬はあっさりと、言葉に詰まった。慎は立ち上がって、カードを紬の手の中に直接押し込んだ。「新居のことは、俺は一切口を出さない。あれはお前の家だ。俺たちの家だ。お前の好
Read more

第848話

そのくらいの分別は、紬にもある。初出勤の日、紬は瞬く間に一連の業務を把握した。一方、最上階の代表室。慎は手にしたボールペンを指の間でくるくると回しながら、薬指にはめられた結婚指輪を眺めていた。目の前で部下が熱心に報告をしているというのに、その声はほとんど耳に入っていなかった。考えていたのは、紬のことだ。社会に出たばかりの、まだ年若い女だ。職場の殺伐とした空気に、そう簡単に馴染めるものだろうか。鍛えてほしいという気持ちはある。広報部は人を磨くのに向いている部署だ。でも、やはり心配だった。「長谷川代表、自動運転の件で、競合他社が意図的に世論を悪い方向へ誘導してきています。広報部が緊急で三つの対応案を用意しましたので、ご確認いただけますでしょうか」「広報部が?」慎は顔を上げて、すっと立ち上がった。「いい、マネージャーのところへ俺が直接行く」幹部が驚いた顔をした。「代表自ら、ですか?」わざわざ足を運ぶ必要があるのか?慎はそんな疑問を意に介さず、さっさと歩き出した。ランセーのビルは二棟のタワーが二重螺旋状に繋がった構造になっていて、広報部は別棟にある。まさか代表である慎が突然降りてくるとは誰も思っていなかったため、マネージャーは彼の顔を見た瞬間、あわてて飛び出してきて出迎えた。慎の後ろには、幹部たちの群れがぞろぞろとついてきている。慎の視線が、ごく自然に、一番奥のデスクへと流れた。そこで一人、頭を下げて黙々と資料を整理している人物がいる。マネージャーとともに個室に入ると、マジックミラー越しに外のフロアの様子が見えた。しかし遠くの席にあるのは、紬の頭のてっぺんだけだ。「代表、ご提案のいずれかに何か問題がありましたでしょうか?」マネージャーは蛇に睨まれた蛙のように縮み上がっていた。代表がわざわざこの部署に降りてきたことなど、今まで一度もないのだ。三案ともに却下されて、怒鳴り込みにいらしたのではないかと思った。「いや、案を一つずつ直接説明してくれ」慎は気もそぞろな様子で、ガラス越しに外のフロアを眺めていた。マネージャーは訳がわからないまま冷や汗を拭い、おそるおそる担当を引き連れて報告を始めた。慎は何も言わない。二分おきに、その視線がちらりと向こうへ泳ぐ。室内の空気が重くなる一方で、同席し
Read more

第849話

さすがに自分でも、情けなくなった。真顔を作って廊下へ出たところで、視界の端に映った紬の手元を見て、はたと気づいた。彼女が指輪をしていないことに。慎は思わず足が止まった。そして眉が寄る。紬は、なぜしていないのか。指輪が嫌いなのか。それとも、俺が嫌いなのか……指輪を換えたいのか、それとも夫を換えたいのか。どちらにしても、論外だった。エレベーターの前に立ち、自分の薬指を持ち上げて見た。さりげないデザインの結婚指輪が、紬が外しているこの状況下では、かえって一人で浮かれている間抜けな男のように思えた。紬の気持ちが、まだ掴めない。外しているのには、何か彼女なりの理由があるはずだ。少し考えてから、慎も自分の指輪を抜いてポケットに仕舞った。一つには彼女の気持ちに合わせて、様子を見てみたいという思い。それともう一つには、今この時点で自分たちの関係があまり目立つのも得策ではないという判断からだ。紬の存在を、まだ公——特に海外の一部の人間——には知られたくなかった。その後の一ヶ月間。広報部にとって、それは異例とも言える受難の日々の始まりだった。どんなに忙しいはずの代表が、三日に一度のペースで突然降りてくるのだ。仕事に口出しするだけして、さっさと帰っていくのだ。そのおかげで部署が抱えていた問題が次々と炙り出され、不真面目な社員は容赦なく処分された。かと思えば、外部から高級スイーツと上質なコーヒーが大量に届いて、まさに飴と鞭が交錯する日々が続いた。紬も、慎が眉一つ動かさずにベテラン社員を冷徹に処分していく場面を目の当たりにして、仕事における彼の厳格さを初めて肌で知った。彼が本気で怒ると、本当に人を凍りつかせるほどの迫力がある。背筋が、自然と伸びた。慎は、自分の周囲に無能な人間を置かない人だ。自分がうまくやれなければ、同じ目に遭うだろう。途端に気が抜けなくなった。マネージャーに残業を止められても、自分から積極的に残って業務の勉強をした。一刻も早く、この環境に馴染みたかった。その結果、毎晩帰宅するのは夜の十時になっていた。帰ると、慎が何も言わずにリビングのソファに座っていた。「まだ起きてたんですか?」慎はさりげなく紬を見た。「広報部は、そんなに忙しいのか?」紬はこくりと頷いた。「や
Read more

第850話

「大丈夫です。広いベッドなので、邪魔にはなりませんから」言い終わるが早いか、慎は立ち上がって布団をめくり、ベッドに滑り込んだ。静かに横になって目を閉じる。「電気を消してくれ」紬は「……あ、はい」と言って、部屋の電灯を切って横になった。二人の間には、相応の距離が保たれている。慎は自分のような女に興味などないはずだ。自分に何を期待することもないだろう——そう思ったら、不思議なほど何も考えずにすとんと眠りに落ちてしまった。隣に人がいるというのに。慎は横を向いて、紬の寝顔を見ていた。腹の立つほど、あっさり寝てしまった。自分が品行方正な君子だとでも思われているのか。頭の中が清廉潔白だとでも?手を伸ばして、意趣返しのつもりでその柔らかい頬をつねってやろうとした。でも、できなかった。代わりに、小指をそっと彼女の指に引っかけてみた。触れた瞬間、喉が静かに鳴った。それだけでは、物足りなくなった。そのまま、彼女の手全体を握りしめる。細くて、柔らかい手だ。紬を起こさないようにじわじわと近づき、頭を支えながら、その寝顔をしばらく見つめた。睫毛が長い。骨格が美しくて、輪郭が繊細に整っている。唇は淡い紅で、リップクリームのせいか、ぷっくりと艶めいている。見入ってしまった。少しかがみ込んで、静かに唇を重ねた。胸の奥が熱く疼いた。ベッドに突いた手が自然と握り込まれ、青筋が浮き出る。彼女のすべてを奪い尽くしてしまいたいような衝動が込み上げて、次々と湧き起こるよからぬ思考を、どうにか理性で抑えようとしていた。その時、紬が眠りの中で息苦しさを感じたのか、無意識のまま手を振り上げた。ぱちん。小さく、だが乾いた音が響いた。紬は目を覚ましていない。でも慎の思考は、その一発で完全に覚めた。頬にじんとした感触が残っている。生まれてこの方、誰かに平手打ちされたのは初めてだった。しばらく無言で紬の寝顔を見つめてから、仕方なく起き上がり、音を立てずに洗面所へ向かった。このままでは、本当にどうにかなってしまいそうだった。翌朝、目が覚めると、昨夜と同じ安全な距離が保たれたままだった。紬はほっとした。やはり自分には興味がないのだ、それどころか彼はちゃんと紳士だったのだ。そう思ったら警戒心がまた少し緩んで
Read more
PREV
1
...
828384858687
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status