その日の夕方、響は練習室に向かった。 久しぶりに、グランドピアノの前に座りたくなった。美咲の言葉が、響の心を動かしたのだ。音を奏でたい――そう思った。 三階の奥の練習室に入り、扉に鍵をかける。誰にも邪魔されない空間。ここだけが、響の聖域だった。窓から差し込む夕陽が、ピアノの黒い天板を照らしている。 響は鍵盤に指を置き、目を閉じた。 そして、そっと弾き始めた。 最初は静かなアルペジオ。それが次第に高揚し、和音が重なっていく。響の心の中にある、言葉にできない感情のすべてが、音となって溢れ出していく。 孤独、痛み、恐怖――そして、小さな希望。 藤堂に出会ってから芽生えた、温かな感情。 美咲の言葉に背中を押された、前に進もうとする気持ち。 響は夢中で弾き続けた。時間の感覚が消え、ただ音楽だけが存在する。指が鍵盤を滑り、音が空間を満たす。 曲が終わると、響は深く息を吐いた。体が熱い。額に汗が滲んでいる。 その時、背後から拍手が聞こえた。 響は驚いて振り返った。扉の前に、見知らぬ男性が立っていた。 三十代後半くらいだろうか。黒いスーツを着て、鋭い目つきをしている。だが、その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。整った顔立ちと、どこか余裕のある雰囲気。「……誰?」 響の声は警戒に満ちていた。鍵をかけたはずなのに、なぜこの人が入ってきたのだろう。「失礼」 男性は一歩前に出た。革靴が床を叩く音が響く。「扉が開いていたもので。素晴らしい演奏でした」 響は警戒した。扉は確かに鍵をかけたはずだ。それに、この男性は――見たことがない。「私は北川怜の知人でして」 男性は名刺を差し出した。その動作は、洗練されていた。「鷲尾誠司と申します」 響は名刺を受け取った。そこには「RMエンターテインメント プロデューサー 鷲尾誠司」と書かれていた。高級感のある紙質。金の箔押し文字。「プロデューサー……?」
Last Updated : 2025-10-11 Read more