四月の夕暮れは、いつも灰色の帳に包まれていた。 篠原響は小さなワンルームマンションの一室で、鍵盤に指を這わせていた。窓の外では桜の花びらが舞い落ち、新入生たちの歓声が遠く聞こえてくる。春の訪れを祝う声、友人たちと肩を組んで歩く足音、恋人同士の笑い声――それらはすべて、響の部屋には届かない。厚いカーテンは閉ざされ、室内を照らすのは電子ピアノとパソコンのモニターが放つ冷たい光だけだった。 指が鍵盤を叩くたび、旋律が生まれる。それは誰にも聴かせるつもりのない、響だけの言葉だった。高音から低音へと滑り落ちるアルペジオは、心の底に沈んだ孤独を掬い上げるように鳴り響く。和音が重なり、不協和音もやがて切なく解決していく。ハ短調からヘ短調へと転調し、まるで迷い込んだ魂が出口を探すように旋律は彷徨う。この瞬間だけは、響は自分が存在していいのだと思えた。音楽だけが、響の心を受け入れてくれる。「……これで、いいんだ」 言を呟いて、響は保存ボタンを押す。パソコンの画面には、無数の音符が並んでいた。DAWソフトに打ち込まれた音楽は、完璧に整えられているはずなのに、どこか欠けているような気がする。まるで、響自身のように。 響は細い指で黒髪を掻き上げ、深い溜息をついた。猫背気味に椅子に座る響の影が、壁に大きく映っている。その影さえも、孤独を象徴しているようだった。部屋にはコーヒーの冷めた匂いと、埃っぽい空気が漂っている。エアコンの音だけが、単調なリズムを刻んでいた。 携帯電話が震えた。画面には母からのメッセージが表示されている。『今日は帰ってくる? ご飯を作って待っているわよ。響の好きなハンバーグにしようかしら』 響は既読をつけたまま、返信しなかった。実家に帰れば、母は優しく微笑み、温かい食事を用意してくれる。けれどその優しさの奥に、いつも同じ言葉が潜んでいることを響は知っていた。「普通に、幸せになってほしいの」 普通――その言葉が、響の胸を締め付ける。 母にとっての「普通」とはなにか。それは、異性を愛し、家庭を持ち、社会に溶け込んで生きること。母は悪気なくそう信じている。けれど響は、そ
Last Updated : 2025-10-01 Read more