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【第37話】記録にない者

last update Last Updated: 2025-12-12 23:38:38

春だった。

璃晏宮廷の庭に、白桃の花がはらはらと降る季節。

枝の影が石畳にまだらな模様を落とし、風が吹くたびにそれがゆるく流れて、地面さえも夢を見ているように見えた。

琉苑はその中に立っていた。

かつて毎朝のように歩いていた、宮の裏庭。

兄弟たちにとっては退屈な回廊も、彼には唯一無二の聖域だった。

あの頃と何も変わらぬ配置のまま、花の香りと朝露の気配が漂っている。

けれど、そこにいる人々──姉や兄たちも、幼い侍女も、下働きの書吏すら──誰ひとりとして、琉苑の存在に目を留める者はいなかった。

琉苑は名を呼ぼうとした。

けれど、喉からは声が出なかった。

いや──声はあるのに、空気に届かない。音になる直前で消えていく。

まるで、彼の「在る」が、この庭にとって“無”であるかのように。

視線を下げると、縁の紙を束ねた書類が風で捲れていた。

かつて自分の名が記されていた、璃晏皇族の系譜。

そこには、もう「琉苑」という字はなかった。

筆跡の歪みも、修正の跡もない。ただ、初めから、そこに名などなかったかのように。

(──俺は、最初から……)

その瞬間、胸元で何かが熱を持った。

懐に手をやると、シュアから渡された小さな首飾りが、静かに輝きを放っていた。

名を呼ばれるような、声が届く。

──リウ。

低く、深く、どこか遠い場所から、けれど確かにその名を抱き寄せるような声が、夢の淵を震わせた。

汗ばんだ額に指を当てながら、琉苑は目を開けた。

寝台の上、まだ夜が明けきらぬ静かな空気の中。

窓の向こうで鳥が鳴いている。朝が近い。

首飾りを取り出し、指先で撫でると、そこには微かに残る温もりがあった。

夢ではなかったのかもしれない、と琉苑は思う。

あるいは、夢の形を借りて何かが告げられたのだ、と。

「……俺の庭だったはずなのにな」

ぽつりと呟いた声が、妙に薄く響いた。

まるでこの部屋そのものが、彼の発した言葉を受け取りかねているかのように。

外に出ると、空気は冷たく、早朝の石廊下に足音がひとつだけ響く。

書庫に向かう途中、ルシェリアとすれ違った。

彼女は目を見開きかけ、そして一瞬、何かに迷うように──言葉を飲み込んだ。

「お……おはようございます」

「……今、“お”の次、詰まったな?」

琉苑の言葉に、ルシェリアははっとして伏し目になる。

すぐに立ち去ってしまった背中に、何かを問いただす気には
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