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All Chapters of 血と束縛と: Chapter 1021 - Chapter 1030

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第28話(24)

** 守光の部屋の床の間には、涼しげな紫陽花の掛け軸が飾られていた。守光の腰を揉みながら和彦は、なんとなくその掛け軸から目が離せなくなる。ただの絵のはずなのに、床の間にあるだけで、部屋の空気が清澄なものに感じられるから不思議だ。それとも、この部屋の主のせいなのか。「――いよいよ、来週かね」 唐突に守光に切り出され、ドキリとした和彦は数秒ほど返事ができなかった。一体なんのことかと考えるには、それだけあれば十分だ。「はい……。クリニックのほうは、午後から休診にすることを、もうスタッフや患者さんにも知らせてあります。あとは、兄の予定が変わらなければ……」「あえて、金曜に会うことにしたというところに、あんたの悲愴な覚悟がうかがえる。土日の間に、気持ちを立て直しておきたいというところかね」 守光の鋭さに和彦は、目を丸くしたあと、微苦笑を洩らす。「何もかも、お見通しですね。そんなにぼくの行動は、わかりやすいですか」「したたかでタフだが、一方で、実家のことになると、途端に脆くなる――と、話していたのは、賢吾だったか、千尋だったか。あるいは、両方か」「二人には、動揺してみっともない姿を見せてしまいました」「それでいい。だから二人とも、あんたのために動く。大事なオンナを守りたくて。もっとも千尋の場合は、少々頭に血が上りすぎているな」 その千尋は、しばらく経ってから守光とともに部屋に戻ってきたあと、猛烈な食欲を発揮して夕食を平らげ、今は風呂に入っている。守光とどういった話をしたのか、和彦はまだ一切聞かされていなかった。ただ、拗ねた素振りも、不機嫌な顔も見せていなかったことは、安心していいのかもしれない。「……会う必要がないのなら、会いたくはないんです。ぼく個人の問題なのに、長嶺組どころか、総和会も巻き込んでしまったようで……」「長嶺の男は過保護だと思っているだろう」 返事の代わりにちらりと笑みをこぼした和彦は、腰を揉む手にわずかに力を込める。会話を交わしていると、つい気が逸れて力が緩ん
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第28話(25)

 和彦の視線は吸い寄せられるように、守光の背に向けられていた。浴衣に隠れてはいるが、この下には、毒々しい黄金色の体を持つ九尾の狐が潜んでいる。大蛇も怖いが、この狐はそれ以上に怖い。どうやって獲物を狙うのか、その手口すら和彦は想像がつかないのだ。 そんな狐の刺青を背負った男に『逃がさん』と言われれば、それは言霊となって和彦の心と体を縛りつけそうだった。 和彦の中に芽生えた怯えを読み取ったのか、守光がこう付け加える。「――……あんたは振り回されていると感じているだろうが、長嶺の男たちも、あんたに振り回されている。これは、情だよ。あんたとわしらは、情を交わし合っている」「情を、交わし合っている……」「そう感じているのは、わしの勘違いかな?」 肯定も否定もできず口ごもる和彦に、首を回らせた守光がわずかに目を細める。「わしの〈オンナ〉は慎み深い」 守光がゆっくりと体を起こし、布団の上に座る。手招きされて側に寄った和彦は、強い力で肩を抱かれた勢いで、守光にもたれかかった。 反射的に身をすくめたが、それ以上の反応はできない。凄みを帯びていながら、非常に静かな眼差しで見つめられると、怯えると同時に、奇妙な熱が体の奥で高まり始める。このことを自覚した瞬間にはもう、和彦の体は守光に支配されているのだ。「さあ、わしと情を交わしてくれ」 賢吾に似た太く艶のある声で囁かれ、唇を塞がれそうになる。いつもなら、逆らえないまま身を任せてしまうのだが、今夜は事情が違う。寸前のところでわずかに頭を後ろを引き、和彦は抑えた声で訴えた。「今夜は、千尋を刺激したくありません。それでなくても、ぼくが兄と会うことを知らされて、気が高ぶっているのに、こんなところを見られたら――」「刺激すればいい。あれも、なかなか厄介な獣を背負うことにしたようだ。刺激して、高ぶらせて、そうやって成長させる。わしや賢吾、オンナであるあんたの役目だ」 千尋が入れようとしている刺青のことを指しているのだろう。守光の口ぶりに興味を惹かれた和彦だが、すぐにそれどころではなくなる。「あっ…&
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第28話(26)

 千尋の思いがけない行動に、意識しないまま和彦は声を発する。屈み込んだ千尋に乱暴に腕を掴まれて引き寄せられる。和彦の体は、今度は千尋の両腕の中に捕らえられていた。「この人は、俺のだっ。俺が最初に見つけたっ」 唸るように言い放った千尋に唇を塞がれる。和彦は身じろぎ、逃れようとしたが、千尋の腕は力強い。和彦の抵抗などねじ伏せるように、千尋の舌が強引に口腔に押し入ってくる。粘膜を舐め回され、唾液を注ぎ込まれ、搦め捕られた舌を引き出されて貪られる。 されるがままになっていた和彦だが、布団の上に座り込んだ千尋に、守光がしていたように背後からしっかりと抱き込まれる。肌の熱さを浴衣越しに感じているうちに、眩暈がするような高揚感に襲われる。「んうっ」 頬を撫でられてから、髪を乱雑に掻き乱される。それすら愛撫のような心地よさを覚え、思わず和彦は、千尋の剥き出しの腕に手をかける。一方的だった口づけも変化していき、千尋に求められるまま唇を吸い合い、自然な成り行きで情熱的に舌を絡めていく。 そうしているうちに、足の間に手が差し込まれ、身を起こして熱くなったままの欲望を柔らかく握り締められる。一瞬、和彦の頭は混乱する。千尋かと思ったが、髪をまさぐる手と、腰にかかった手は確かに千尋のものだ。だとしたら――。 和彦は正面を向こうとしたが、千尋がそれを許してくれない。その間にも守光に両足を立てて左右に大きく開かされる。 慣れた手つきで柔らかな膨らみを揉みしだかれ、和彦は腰を震わせながら声を上げる。しかしすべて、千尋の唇に吸い尽くされる。 長嶺の男二人から同時に求められ、快楽を貪り合う経験はこれまでもあった。だが今の状況は、これまでの経験とはまったく異質だ。何が、と明確に表現はできないが、ただこれだけは言える。 これは、長嶺守光が進めている儀式なのだと。「うっ、くうっ……ん」 異常な状況でも高ぶり続ける欲望を、千尋に掴まれ手荒く扱かれたところで、長い口づけから解放される。和彦は鼻にかかった甘ったるい呻き声を洩らし、次の瞬間には二人の男の耳を気にして、羞恥で全身を熱くする。「先生、いい声」 掠れた声で千
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第28話(27)

 荒々しい気配とは裏腹に、千尋の動きは慎重だ。ゆっくりと内奥をこじ開けながら、猛る欲望を確実に挿入してくる。「先生、感じる? 俺とじいちゃんが、先生と一つになっているところを、じっと見てるの。先生のここ、すげー、いやらしい。真っ赤になって、ヒクヒクして、俺のを必死に締め付けて、呑み込んでいってる。もう何度も見てるのに、飽きないんだよ。先生が精一杯、俺を甘やかしてくれてるんだと思ったら。……ずっと見ていたい。でもそれ以上に、もっと気持ちよくなりたい。こうして――先生の奥まで入って」 千尋に一度だけ腰を突き上げられ、和彦は苦しさに声を洩らす。今にも暴れ出しそうな凶暴なものを、それでも和彦の内奥は懸命に締め付け、甘やかす。背後で千尋がため息を洩らし、腰や腿を余裕なく撫で回してくる。そして、両足の間に片手を差し込み、熱くなったまま震えている和彦の欲望を握り締めた。「あっ、いや――……」 性急に欲望を扱かれて、和彦は腰を揺らす。その瞬間を見逃さず、内奥深くを突き上げられ、思いがけず体中に痺れにも似た心地よさが駆け抜ける。それを数回繰り返されたところで、和彦は千尋に完全に支配されていた。 千尋の力強い律動に、浅ましく腰を同調させる。布団の端を握り締め、悦びの声を上げていた。「中、蕩けちゃったね」 行為の激しさとは対照的に、どこか子供っぽい口調で千尋が洩らす。その言葉にすら感じてしまい、ゾクゾクとするような感覚が鼓膜から広がる。千尋の手に促され、和彦は布団の上に精を飛び散らせていた。「うあっ、あっ――、んっ、んうっ」 乱暴に腰を引き寄せられ、これ以上なくしっかりと千尋と繋がる。律動を一度止めた千尋にとっくに解けた帯と浴衣を剥ぎ取られ、露わになった汗ばんだ背を、愛しげにてのひらで撫でられる。和彦は荒い呼吸を繰り返しながら、心地よい感触にそっと目を細めていた。 和彦と千尋の交歓を、ずっと傍らで眺めていたのだろう。わずかな熱を帯びた守光の言葉が耳に届く。「力に溢れる若い獣そのものだな。長嶺は、いい跡目を得た。その跡目のおかげで――いいオンナを得た」 守光の言葉で滾るものがあったのか、
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第28話(28)

 千尋が、自分が所有しているという証を守光に見せているのだと理解し、和彦は強い羞恥に身じろぐ。体を起こそうとして、反対に布団に押さえつけられ、仰向けにひっくり返される。真上から和彦の顔を見下ろしてきたのは、守光だった。 そして、さきほどの千尋の言葉を引き継ぐように、こう続けた。「――だが今は、長嶺の男〈たち〉の、大事で可愛いオンナだ」 力が入らない片足を抱え上げられ、千尋の精が垂れている蕩けた内奥の入り口に、今度は守光の高ぶりを擦りつけられる。「あっ」 和彦が声を洩らしたときには、内奥を押し広げられていた。千尋に愛されたばかりの内奥の襞と粘膜は、熱く発情したまま、新たな侵入者を嬉々として呑み込み、締め付ける。和彦の体の歓喜に、守光はすぐに応えてくれた。「うっ、くうっ……ん」 和彦の体を悦ばせる術を知っている守光は、一息に欲望を内奥深くまで突き込むと、達したばかりの欲望を片手で扱き始める。和彦は声にならない声を上げて上体をくねらせ、乱れていた。千尋の見ている前で。「ひっ……、あっ、あぁっ、ひあっ――」 無意識に手を伸ばすと、その手を強く握り締めてくれたのは、傍らから顔を覗き込んできた千尋だった。強い執着心や独占欲を感じさせる発言をしたばかりだというのに、千尋は落ち着いていた。「このオンナには、長嶺の男に骨の髄まで愛される姿がよく似合う。お前は今は、その姿を堪能すればいい。いずれは、お前だけのものになるオンナだ。それぐらいの度量は、若いお前にもあるだろう」 和彦を犯しながら、守光は千尋に語りかける。内奥で息づく欲望は熱く逞しいというのに、やはり守光は少しも乱れない。 快感を与えられながら、世代のまったく違う長嶺の男二人のやり取りを聞き、姿を交互に見ているうちに、和彦は混乱してくる。いや、惑乱していた。思考が正常に働くことを、放棄したがっていた。 追い討ちをかけるように、守光が薄い笑みを浮かべて言った。「さっきも言ったが、あんたの体の中を長嶺の血で満たすことはできん。だが、どんな男も甘やかして、蕩けさせる場所を、長嶺の男の精で満たすことはできる。
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第29話(1)

 朝は清々しい晴天だったというのに、昼が近づくにつれて急速に雲が広がり、太陽を覆い隠してしまった。金曜日の午後から雨が降り出すと言っていた天気予報は、ありがたくないことに、どうやら当たりそうだ。 ベンチに腰掛けて空を見上げていた和彦は、なんとなく気分が落ち着かなくて、所在なく髪を掻き上げる。 この空模様は、今の自分の心境そのものではないかと自嘲気味に考えてもみたが、それはあまり意味がないことに思え、すぐに意識を他へと逸らす。たとえば今、遠く離れた場所から、自分を監視――見守っている男たちのことだ。 長嶺組だけではなく、総和会からも、〈協力〉という名目で人が来ているらしい。らしい、というのは、和彦は詳しい説明を受けていないからだ。前夜に、心配しなくていいと、賢吾から連絡をもらっただけだ。 今日はマンションを出てから、長嶺組の車は使わず、念のためタクシーを乗り継いで移動した。男たちはその背後を、つかず離れずの距離感を保ちつつ、ついてきたはずだ。 待ち合わせ場所である公園をざっと見回してみるが、見知った顔はない。素人ではないうえに、最大限の警戒心を持っている男たちは、和彦程度に見つかるような身の潜め方はしないだろう。そのことに安堵していいのだろうが、そう単純ではない。さきほどから和彦は、見知らぬ世界に一人で放り出されたような心細さを覚えていた。 日ごろ、街中で不意に襲われる感覚より、さらに強烈なものだった。堅気ではなくなった自分、というものを強く認識させられるのだ。今、目の前を歩いている人たちすべてが、後ろ暗さとは無縁の生活を送っているとは限らないのに。 こう思ってしまうのは、後ろ暗さとは無縁の生活を送っている人物が、もうすぐ目の前に現れるからだ。そしてきっと、自分を面罵する。 その光景が容易に想像できて、自覚もないまま和彦は眉をひそめる。覚悟はしているのだが、だからといって平気なわけではない。 地面に視線を落とし、ぎこちなく深呼吸を繰り返していた和彦の耳に、こちらに近づいてくる硬い靴音が届く。反射的に身を強張らせているうちに、靴音は正面で止まった。「――元気そうだな」 なんの感慨もなさそうに、淡々とした口調で話しかけられる。冷たい手で
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第29話(2)

「その挙げ句が、あのおぞましい画像か。ずいぶんいい趣味だな」 わずかに羞恥心を刺激されたが、懸命に押し殺す。左頬が熱を帯びてきているせいで、顔が熱くなったのかどうかすらわからなかった。「ぼくは跡継ぎを期待されているわけでもないんだ。誰と寝ようが、かまわないはずだ。それに……大半の画像は回収したんじゃないのか? 圧力をかけるのは得意だろ、あの家は」「皆、協力的だった。――しかし、画像は回収したとしても、大もとが手に入らないと、無駄なことだ。あれは、映像の一シーンを印刷したものだろ」 どこにある、と英俊の表情が問いかけてくる。「映像のデータは……、もう存在しない」 本当は、存在していたところで無意味だ、と言うべきだろうが、説明が多くなるほど、英俊の追及は厳しくなり、また粗も出やすい。和彦は現在、複数の男と関係を持っており、いかがわしい映像など、撮ろうと思えばいくらでも撮れる状況にあるのだ。 弟が、男と関係を持つどころか、〈オンナ〉であると知ったとき、冷徹な兄はどんな顔するか――。 ささやかな嗜虐性が和彦の中で首をもたげようとしたが、そんな自分自身にゾクリとする。英俊に対してこんな感情を抱くのは初めてのことで、男たちの影響で自分が変化したような気になったのだ。あるいは、こちらが本性なのかもしれない。「それを信用しろと?」「できないなら、ぼくはそれでいい。それで、ぼくを遠ざけてくれるなら……」 英俊は眼鏡の中央を押し上げると、そっと目を細める。「お前もしかして、それが目的で、あんなものをばら撒いて姿を隠したんじゃないだろうな」「だとしたら?」「――あてが外れて残念だったな」 和彦は露骨に不信感を表に出す。肉親に対して、情愛というような生ぬるい感情は最初から期待してはいなかったが、英俊の言葉から、やはり自分を捜していたのは、情以外の理由があると実感していた。 足を組んだ英俊は、怜悧な官僚そのものの横顔を見せながら、滔々と語る。「破廉恥な不祥事を起こした直後に、お前はクリニックを電話一本で
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第29話(3)

「間違いなく、お前の失踪には協力者がいる。大胆だが警戒心が強く、世の中の仕組みがよくわかっている人物――。去年のクリスマス時期に、ツリーの前にいたお前は、男を伴っていた。そして、先日わたしが電話したとき、若い男の声がした。どっちがお前に手を貸している? それとも、両方か?」  このとき英俊の目に軽蔑の色が浮かんだことを、和彦は見逃さなかった。画像を見ている英俊は、和彦が男と関係を持っていることを当然把握している。どちらの男と関係を持っているのだろうかと、質問と同時に想像したのかもしれない。  英俊のペースになりかけていることに危機感を覚え、足元を搦め捕られそうな怖さを断ち切るために和彦は立ち上がる。英俊に背を向けて告げた。 「――ぼくは今日、現状を説明するためにここに来たわけじゃない。そちらの目的を聞くためだ」 「そちら、か。言うようになったな、お前も」 「いつまでも、兄さんに逆らわず、殴られ続ける人形でいるはずがないだろう」 「だが今でも、わたしが怖いだろう?」  背後から急に腕を掴まれ、和彦は飛び上がらんばかりに驚き、振り返る。本能的な反応から、目を見開いたまま顔が強張っていた。そんな和彦を見て、英俊はひどく楽しげに唇を緩めた。思った通りだ、と言わんばかりに。  大人になってどれだけ距離を置こうとも、物心ついた頃から体と心に刻み付けられていた〈痛み〉の記憶は、簡単には消え去らない。絶対に打ち明けられない後ろ暗さを抱えているためか、もしかすると子供の頃よりも和彦は、臆病になっているかもしれない。  この時点で、和彦がささやかに保っていた主導権は、英俊に移っていた。 「本題は、場所を移して話してやる」 「……ここからは動かない」 「そうは言っても、雨が降り出したぞ」  英俊の指摘を受けて、和彦は頭上を見上げる。確かに、ぽつぽつとではあるが雨が降っていた。空の様子からして、これから降りが強くなりそうだ。  和彦がきつい眼差しを向けると、鼻先で笑った英俊が軽くあごをしゃくる。 「そこの通りでタクシーを捕まえる。もう昼だから、ちょうどいい。少し行ったところに、仕事関係でよく使っているレストランがあって、多少無理がきく。
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第29話(4)

「ただ、ずいぶん雰囲気が優しくなった気がする。お前の友人から様子は聞いていたんだが、正直、荒んだ生活を送って、相応の見た目になっていると思っていたんだ。だが今のお前は――実家にいた頃より、満ち足りているようだ」「ぼくがなんと答えたら、兄さんは満足なんだ」「お前に関することで、わたしは一度でも満足したことはない。今までは」 英俊の言葉は容赦がないというより、和彦を傷つけるための鋭い刃を潜ませている、という表現が正しいだろう。ときおり自分の口から放たれる毒は、きっとこの兄に影響されてのものだと和彦は思っている。「そんな不肖の弟に会いに来たんだ。早く本題に入ったら?」 英俊はグラスの水を軽く一口飲んでから、ようやく切り出した。「お前も知っている通り、わたしは国政選挙に出馬することにした。問題が起きなければ、二年後に」「ずいぶん先だ」「わたしは、勝てない勝負に打って出る気はない。そのために今は、父さんと一緒に準備している最中だ。地盤を譲ってくれることになっている代議士も、最後の花道のために、いろいろ仕掛けているようだしな」「――……楽しそうだ」 ぽつりと和彦が洩らすと、英俊はしたたかな笑みを浮かべて頷く。理性的で、和彦に手を上げる以外では感情の起伏が表に出ることが少ない英俊だが、こういう表情をすると、ドキリとするような艶やかさをまとう。 漠然とだが、しばらく会わない間に英俊は、人を惹きつける魅力を手に入れたように感じた。「佐伯家の血だろうな。野心的な計画に対しては、際限なくのめり込む。母さんも、違う方面で協力してくれていて、やっぱり楽しそうだ」 ふいに和彦の胸の奥から、苛立ちにも似た感情が込み上げてきて、それを誤魔化すように乱暴に髪を掻き上げる。「家族三人で上手くやっているなら、それでいいじゃないか。そもそも畑違いの仕事をしているぼくに、なんの手伝いが出来るっていうんだ」「家族一丸となって、と薄ら寒い言葉があるだろう。あれだ。本来、候補者の隣に美人妻が立って――というのが理想なんだろうが、わたしは独身だ。だったら、見た目も職業も申し分ない弟を利用しない手はない」
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第29話(5)

 ほお、と芝居がかった口調で洩らした英俊の目に、狡知な色が浮かぶ。それと同時にゆっくりとイスから立ち上がった。 その光景が、和彦の記憶を刺激する。子供の頃の体験が生々しく蘇っていた。 本能的な危機感から、怯える小動物さながらの動きでテーブルを離れる。和彦が出入り口の扉に行かないよう牽制しつつ、英俊が近づいてくる。広い個室とはいえ、逃げ回れるほどのスペースがあるわけではなく、あっという間に和彦は窓際へと追い詰められていた。 英俊はあくまで優雅な仕種で、和彦の喉元に片手をかけてきた。力を込められたわけではないが、それだけで息苦しくなり、完全に動きを封じられる。「あまり、お前の顔を殴るのは好きじゃない。忌々しいぐらい、わたしに似ている顔だからな。だからといって、蹴るのは野蛮だ」 英俊に冷たい迫力に圧され、無意識に後退った和彦の背に窓ガラスが当たる。完全に逃げ場を失った和彦に対して、英俊が顔を寄せ、低く抑えた声で囁いてきた。「里見さんが気になることをちらりと洩らしていたが、なるほど。こういうことか」「何、が……」「こちら側の動きを、お前がある程度把握しているということだ。確かに、お前の今の物言いは、何かを知っている感じだ。どこまで知っている? 誰から聞き出した? いつからこちらの動きを探っている?」 立て続けに質問をぶつけられながらも、和彦が気になるのは、喉元にかかった英俊の手にじわじわと力が込められていることだった。 体格はほぼ同じなので、英俊を押しのけることは不可能ではない。それどころか、顔を殴りつけることもできるはずなのだ。だが、和彦の手は動かない。頭ではわかっていても、兄に逆らうという行為に、体がついてこない。「お前単独での動きじゃないはずだ。身を潜めながら日常生活を送り、そのうえでこちらの動きを探るなんて、一介の医者には無理だ。協力者なんて言い方はしない。――お前のバックには誰がいる?」 間近から目を覗き込まれ、和彦は唇を引き結び、瞬きもせず見つめ返す。かまわず英俊は話し続ける。「わたしは正直、あの画像を見たとき、お前が性質の悪い奴に騙されたか、自ら進んで仲間になって、佐伯家を
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