LOGIN「間違いなく、お前の失踪には協力者がいる。大胆だが警戒心が強く、世の中の仕組みがよくわかっている人物――。去年のクリスマス時期に、ツリーの前にいたお前は、男を伴っていた。そして、先日わたしが電話したとき、若い男の声がした。どっちがお前に手を貸している? それとも、両方か?」
このとき英俊の目に軽蔑の色が浮かんだことを、和彦は見逃さなかった。画像を見ている英俊は、和彦が男と関係を持っていることを当然把握している。どちらの男と関係を持っているのだろうかと、質問と同時に想像したのかもしれない。 英俊のペースになりかけていることに危機感を覚え、足元を搦め捕られそうな怖さを断ち切るために和彦は立ち上がる。英俊に背を向けて告げた。 「――ぼくは今日、現状を説明するためにここに来たわけじゃない。そちらの目的を聞くためだ」 「そちら、か。言うようになったな、お前も」 「いつまでも、兄さんに逆らわず、殴られ続ける人形でいるはずがないだろう」 「だが今でも、わたしが怖いだろう?」 背後から急に腕を掴まれ、和彦は飛び上がらんば横目で一瞥すると、千尋は特に感慨もなさそうな表情で応じる。「じいちゃんとオヤジがあれこれ手を回したみたい。えーと、稜人の養育費や、自分の親との関係について、水商売やってた頃の知り合いに相談して、そこで紹介された弁護士が――」「結婚相手か」「じゃなくて、組にちょっと弱みを掴まれてた弁護士で、その弁護士の友人という設定で結婚相手を紹介した、と」 簡単な関係図を頭の中で描いてから、和彦は顔をしかめる。 稜人の母親が相談したという『知り合い』に、長嶺組の息がかかっていたという可能性に気づいた。悟られないよう稜人の母親を囲い込むなど、抜け目ない男たちにとっては容易かろうと、自分の体験を踏まえてのことだ。そうするだけの理由が、長嶺の男たちには十分ある。そして上手く事が進んだ。いや、進めた。 いまさらながら、ヤクザとは怖い生き物だと、そっと和彦は嘆息する。実のところ、前に稜人の母親の結婚について聞かされたとき、なんの根拠もなく長嶺の男たちが手を回したのではないかと想像したのだ。千尋の話は、その想像が裏付けられたようなものだ。当の千尋も、話しながらややうんざりした顔をしている。言葉の端々に苦さが滲んでいるのは、罪悪感のせいか。 賢吾と守光が暗躍して上手くいかないことなどないだろう。結果として稜人は、長嶺の本宅の中庭でのびのびと遊んでいる。 子供は健全な環境下で、道徳心や倫理観を育まなければならないと、建前だとしても言うべきなのだ。その真逆にあるとも言えそうな本宅は、しかし稜人を守る堅牢な要塞であり、そこに棲まう男たちも盾となるだろう。綺麗事や一般論的な理屈ではない。稜人は、せめて自分で選択できる年齢になるまで、ここで生きなければならないのだ。 気持ちよさそうにブランコを漕ぎながら、稜人がこちらを見る。目が合うと、えへへという声が聞こえてきそうな笑顔を向けられる。「はあ、可愛い……」 心の底からの言葉を洩らすと、千尋がニヤニヤしながら肘で小突いてくる。「すっかり稜人に骨抜きじゃん、和彦」「子供の頃のお前に会っていたら、やっぱり頭を撫でて、可愛いと言ってたと思うぞ」「…&
「自分の親がヤクザの金目当てで稜人を利用してたのに嫌気が差してたところに、自分の結婚が決まって、稜人の母親は決心したわけだ。親と縁を切るのと同時に、ヤクザとの縁もすっぱり切ろうって。……葛藤もあったと思うよ。産んだ子供を、父親とはいえヤクザの家に引き渡していいのか。その葛藤にケリをつけるのに、ここまで時間がかかった」「苦しかっただろうな」「俺はとやかく言う権利はない。何も知らなかったわけだし。ただ、今はほっとしている。稜人が子供らしく育っててさ。たぶん、母親のほうは可愛がってたと思うんだよ。忙しくはしてても。だけど、結婚っていう自分の幸せにも目を向けたというか、なんというか――」 奥歯にものが挟まったような物言いに、和彦は千尋に顔を寄せ、声を潜める。「なんだ?」「稜人の母親の結婚相手、俺、知ってる人なんだ……」 へえ、と声が洩れる。詳しく聞こうとしたが、とてとてと子供らしい足音が聞こえてきたため、会話は一旦中断する。 稜人は大喜びでクッキーを齧っていたが、小さな口を懸命に動かす姿がいじらしくて、和彦は目を細める。 オヤツを食べ終えると、一息つく間もなく、中庭の遊具で遊びたいと控えめにねだってくる。表情が緩みっぱなしの大人たちはもちろん断るはずもない。 中庭に置かれた遊具に忙しなく目移りしてから、稜人はまず滑り台に挑戦して見事に砂場に着地する。そして気まぐれに砂で遊んだあと、一人用の小さなトランポリンに乗り上がる。先日までは置いてなかったよなと首を傾げていると、機嫌よくトランポリンで跳ねる稜人の様子を、千尋がスマートフォンで撮影し始める。 和彦はそんな父子を撮影したかったが、自重しておく。「――あんなにちっこいのに、子供ってよく動くよなー」 最初は稜人について回っていた千尋だが、五歳ともなるとここにある遊具で危なげなく遊べるとわかったらしく、縁側に腰掛けた和彦の隣にやってくる。「稜人専用の公園を作った甲斐があったな。楽しそうに遊んでるじゃないか」「もっと暑くなったら、プールを買ってきて出すんだ。あと、水遊びなら水鉄砲もいるよね。俺と和彦の分も
「――もうすっかり仲良しだね」 感心したような、しかしわずかに呆れを含んだ声が会話に割って入ってくる。障子の陰から、ひょっこりと千尋が姿を見せる。「俺なんて、会った初日は、稜人はまともに目も合わせないし、ろくに話もしてくれなかったんだぜ」「それはまあ、びっくりしたんじゃないか。見知らぬ大人の男というだけで、子供は警戒する。……今は違うんだろう?」 千尋は軽く唇を尖らせたあと、部屋に入って身を屈める。稜人に向かって手招きした。稜人は小さく、んしょっ、と声を出し、イスから下りる。その動作があまりスマートではないのは、イスも学習机も大きいからだ。同年代の子供に比べて、稜人は小柄なのかもしれない。ただ、かつて病弱だったという千尋の幼少時の写真を見たが、やはり線が細くて小柄な印象だった。それがいまやふてぶてしいほど元気で逞しく成長しているのだから、将来が楽しみだ。 稜人が遠慮がちに千尋の元に歩み寄る。見ていてハラハラしてしまうが、千尋はあっという間に腕の中に稜人を閉じ込める。照れたような表情を一瞬浮かべたあと、稜人はくすぐったげに首を竦める。そこに千尋に対する親愛の情を見て、和彦はほっとする。父子は着々と距離を縮めていたようだ。「よかった。そっちも仲良しなんだな」「そう。だから、稜人と和彦が気まずそうにしていたら、間に入ろうと待ち構えてたんだ。なのに、あっという間にニコニコし合ってさ、出番がなかった」「そこは喜べよ」「さすが、タラシの佐伯先生」 にんまりと笑いかけてきた千尋の背を、稜人にバレないよう拳で殴る。きょとんとした目で稜人が見上げてきて、取り繕うように微笑みで返す。「……子供の前で、変なこと言うなよ。教育に悪い」「和彦って、教育ママ――いや、なんでもない」 もう一発殴ってやろうかと思っていると、卑怯なことに千尋は稜人の背をこちらに向けて盾にする。もっとも、頑丈な男が、非力な和彦の拳など本気で恐れていないのだろうが。 オヤツだと言って、組員が器やカップがのったトレーを抱えて部屋にやってくる。器に盛られているのは、猫の顔の形を象った小さなクッキー
**** 和彦は子供とは縁遠い人生を歩んできた。親戚の子を可愛がるという経験もほぼなく、研修医時代に四苦八苦しながら小児科での研修を終えたぐらいで、はっきり言ってしまえば、子供は宇宙人にも等しい存在だ。だからといって接したくないというわけではなく、何かあれば守ってやりたいという使命感や庇護欲はあるのだ。これまで実行に移す機会には恵まれなかったが。 五歳児は、想像よりはるかに達者に話せるのだなと、昆虫図鑑を開いていろいろと説明してくれる稜人の相手をしながら、和彦は感心しきりだった。玄関での初対面では警戒されてしまったが、慣れないながらも和彦のほうから話しかけていると、意外に短時間のうちに笑顔を見せてくれるようになった。その様子がひたすら可愛い。もしかすると人懐こい性質なのかもしれない。 カマキリの写真を小さな指でさし示しながら、丸い目がこちらを見上げてくる。キラキラとした目の輝きに、知らず知らず和彦の表情は緩む。昆虫は苦手のような話を千尋から聞いたが、意外に写真だと平気のようだ。 稜人に用意されているのは、中庭に面した一室だった。この部屋の前から、遊具が置かれた場所に出られるようになっている。廊下に面した障子を開け放っているが、いつになく組員の姿が目につくのは、やはり稜人の存在が気になるからだろう。 稜人は来年の小学校入学を控えて本宅で暮らす予定で、今から環境に慣れさせていくのだという。とりあえず今日は日帰りで。様子を見ながら一泊させ、さらに宿泊の日数を伸ばしていく。常識的に考えれば、大人の男たちばかりに囲まれての環境は稜人にとって不安であるはずだが、生まれた頃から賢吾とはたびたび会っており、一応祖父だと理解もしているようだ。さらには、賢吾についている護衛の組員たちとも顔馴染みとなっている。 問題は、千尋への認識だ。「この本、チヒロくんが買ってくれたんだよ」 子供向けとはいえ、なかなかしっかりとした作りの図鑑だ。稜人は重そうに抱えていたその図鑑を真新しい学習机の上に置くと、最後のページを開いて見せてくれる。子供に人気のキャラクターが印刷されたネームシールがすでに貼られ、そこに『ながみねやまと』と書かれている。千尋の字
「組長から?」「ええ、はい。今日はちょっと、特別な日と言いますか……」 和彦はぎょっとして目を剥く。「それって、ぼくがのこのことと本宅に押しかけたら、迷惑になるだろ。釣った魚さえ笠野さんに渡してもらえたら、ぼくは別に本宅に寄らなくても――」「いやいやっ、そうじゃないんですっ」 とにかく本宅に行けばわかると、やや強引に押し切られた。 何が待ち構えているのかと和彦は戦々恐々とするが、車から降ろしてもらうという選択肢はない。 賢吾か千尋に電話して聞いてしまおうかと考えもしたが、実行できないまま車は本宅に到着した。表は普段通りで、物々しい警戒態勢が敷かれている様子もなく、それどころか組員の一人がのんびりと箒で掃き清めている最中だ。こちらに気づいて、手を上げて寄越してきた。 門の前に車を停めると、さっそく和彦の荷物を持った組員に促されて本宅の敷地に入る。防犯カメラで見ていたのか、玄関先に立つと同時に絶妙なタイミングでドアが開けられる。なぜか、正面の玄関ホールには賢吾と千尋が並んで立っていた。さらには数人の組員たちも。そのうちの一人である笠野は、玄関に入ると待ちかねていたように笑顔でクーラーボックスを受け取り、和彦に一礼して立ち去る。 和彦はおずおずと長嶺の男二人に問いかけた。「……ぼくの釣った魚を楽しみにしていた、というわけじゃないんだろう?」 失礼なことに、賢吾と千尋は互いに顔を見合わせ失笑した。和彦は唇を尖らせる。「もったいぶらずに――」 教えてくれ、と続けようとした和彦の視線は、賢吾の背後からひょっこりと現れたものに釘付けとなった。子供だ。賢吾の腰の位置よりやや低いぐらいの身長で、周囲の男たちが大きいせいもあり、だからこそ存在が際立って見える。 丸い目がこわごわとこちらをうかがっている。目が合うと、賢吾の腿に手をかけたまま背後に隠れるが、すぐにまた顔を覗かせる。年の頃は四、五歳ぐらいに見えた。身じろぐたびに薄茶色の髪がさらさらと揺れ、いかにも柔らかそうだ。色白で、まるで人形のように繊細な顔立ちをしており、パッと見ただけでは男の子なのか女の子かわ
「しかし、そんなあなたを守るのが、総子さんの生きる原動力になった。正時さんを亡くして、さらに拍車がかかるでしょう」「それは……」「紗香さんへの思い入れがそのままあなたに移ったというのもあるでしょうが、あなたは危ういと、総子さんはおっしゃってました」 確かにここ数年はふらふらとして褒められた生き方はしていないなと、苦い表情となる。「誰に対しても寄り添えて、だからこそ誰からも必要とされた結果、苦しむのではないか――。心当たりがあるんじゃないですか」「……暗に、八方美人の自業自得だと言われている気が……」 九鬼が肩を竦めたタイミングで、ふわりと鼻先をコーヒーの香りが掠める。いつの間にか傍らに烏丸が立っていた。その烏丸が向けている視線を辿ると、駐車場に護衛の組員たちの姿があった。ここで時間切れと言わんばかりに九鬼が立ち上がり、和彦も倣う。 駐車場で和彦の身柄は長嶺組へと移り、保冷バッグとクーラーボックスも車に運び入れてもらう。 自身も車に乗り込む前に、和彦は改めて九鬼と向き合う。複雑な心境ではあるが、世話になったことへの礼を述べる。「もしかして、さっきのやり取りで和彦さんから嫌われたかもしれませんね」「仮にそうだとしても、おばあ様があなたを信頼していることは変わらないんですから、ぼくとしては、一層嫌われないよう努めるだけです」 スッと九鬼から表情が消える。その変化にぽかんとする和彦に代わり、側に立つ組員がなぜか身構えた。興味深そうに九鬼が呟く。「あー、なるほど。そういうところが、ですか」「……なんですか」「いいえ。では気をつけてお帰りください」 胡散臭さ全開の笑顔を向けられ、和彦は首を傾げつつ車に乗り込んだ。** さほど遠出をしたわけでもなく、派手に立ち振る舞ったわけでもないが、疲労感が肩にのしかかる。それが顔に出ていたのか、いつもなら軽く会話を振ってくる組員たちは、移動の最中黙ったままだった。和彦としても、九鬼との込み入ったやり取り