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血と束縛と のすべてのチャプター: チャプター 1341 - チャプター 1350

1382 チャプター

第38話(31)

「しかし愚かなりに、最低限のものは守っているようだ」 ベンチに座り直した俊哉が、ゆっくりと辺りを見回す。さきほどから目の前の道を人が行き交っているが、俊哉の目が捉えようとしているのは、総和会の男たちだろう。楽しそうな口調でふいにこんなことを語り始めた。「昔……、お前が生まれる前だが、長嶺守光に会った。あのときの奴は、どこかの御曹司のように見えた。行儀がよくて控えめで、話し方も品があった。会話を交わしてすぐにわかったが、当時のわたしの同期たちよりよほど頭がいいと感じた。見た目とは裏腹に、抜け目ないが、少なくともわたしの前では、極道の地金は出さなかった。わたしの抱えたトラブル処理のために、よく手を回してくれたよ。どうしてそこまでするのかと聞いたら、当時組長だった父親に命令されたと言っていた。わたしが頭を垂れて感謝したくなるほど、徹底して尽くせとな。だから遠慮なく尽くさせた」 俊哉の口から語られる守光の話に、不思議な感覚を味わう。和彦が知っているのは、総和会会長としての守光だ。しかし俊哉の記憶にある守光は、まだ長嶺組の組長ですらない。おそらく今の和彦と変わらないか、わずかに上ぐらいの年齢だったはずだ。「どうしてぼくに、そんな話を――……」「わたしはあの男を恐れていないということだ。今ではずいぶん大物になっているが、人間の本質はそう変わらない。わたしは昔、長嶺守光の本質を見抜いた。もっともそれは、向こうも同じだろうがな」「……ごめん、父さん。何を言いたいのか、よくわからない。ぼくにとっては長嶺会長は、ただ畏怖の対象だ。大事にはしてもらっているけど、怖い。逆らえない」 ふっ、と俊哉は短く声を洩らして笑った。「どれほどの化け物だと思っているのか知らないが、あの男も弱みがないわけじゃない。――まだ三十そこそこの、わたしと変わらない若造のくせに、妙に家に固執している男だった。長嶺という家を。いや、血というべきか」「ああ、それは……」 わかる、と心の中で和彦は答える。「いざとなれば、こちらも手段を選ばない。総和会全体を相手にするのは無理だ
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第38話(32)

「責めているのか? 人並み以上のものは与えてきただろう。お前もわたしに従って、結局のところ安穏とした医者としての生活を手に入れ、満喫していた。長嶺の人間と知り合わなければ、おそらく今も。お前は結局、自分を満たしてくれる環境を与えてくれるのであれば、相手は誰だっていいんだ」「そんなことはないっ」 和彦が声を荒らげると、俊哉は軽く眉をひそめる。だが次の瞬間には、極上の優しい笑みを浮かべた。ただし和彦にとっては、底知れない俊哉の闇を感じる恐ろしい表情だ。 かつて俊哉は、こんな表情を浮かべながら――。 古い記憶が刺激され、軽い吐き気を催す。無意識に和彦は口元に手をやり、必死に実の父親から目を背けていた。 この感覚があるから、何があっても自分は俊哉に逆らえないと思ってしまう。骨身に刻みつけられるどころか、体中に流れる血に、細胞に、俊哉への恐怖が組み込まれているのだ。だから、会いたくなかった。「――定期的にお前と会う機会を作らせる」 じっと考え込んでいた和彦は、何か大事なことを言われた気がして我に返る。「えっ?」「息子の身を案じる父親としては当然の要求だ。わたしと交渉をしたいなら、向こうも呑まざるをえないだろう」 化け狐と腹の探り合いだと、どこか楽しげに俊哉は呟いた。「……会いたくないというぼくの要求は、当然通らないんだろうね」「上手く立ち回れ、和彦。今は紳士ぶっている連中だが、お前をわたしに取り上げられるかもしれないとわかった途端、どんな極道らしい手口を使ってくるかしれない。お前は野獣どもの中でがんばって、自分だけじゃなく、わたしも守るんだ。言う通りにできたら、褒美をやろう」 このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、和彦には自覚はなかった。ただ俊哉は短く声を洩らして笑ってから、スマートな動作で立ち上がる。和彦の目の前に立つと、スッと耳元に顔を寄せて言った。「お前は、特別な息子だ。英俊よりも。だから、〈父さん〉が言いたいことはわかっているな?」 和彦は震えを帯びた声で、俊哉が求める答えを口にする。「ぼくは――」**
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第38話(33)

「いえ、しかし会長から……」「戻ります。できないというなら、ここで車を降りて、タクシーで帰ります」 頑なに和彦が主張し続けると、ようやく本気だと悟ったらしい。助手席の男が携帯電話を取り出してどこかに連絡を取り、ぼそぼそと相談を始める。和彦はあえて聞かないようにしていた。誰から何を言われようが、自分の意志を曲げるつもりはなかったからだ。 結局、総和会が折れることになり、車はまっすぐ自宅マンションに向かった。 部屋まで送り届けられ、玄関のドアを閉めて一人になると、一気に体中の力が抜けた。何もしたくなかったが、明日も仕事があることを考えると、このままベッドに潜り込むわけにもいかない。 バスタブに湯を溜めている間にスーツを着替え、食欲はなかったが、今日は朝から何も食べていないことを思い出し、仕方なく冷凍庫を覗く。気が利く長嶺組の組員は、手軽に食べられる冷凍食品も常備してくれていた。 焼きおにぎりを温めると、これだけの食事のためにわざわざダイニングのテーブルにつく気にもなれず、キッチンの隅に置いたイスに腰掛けて、さっさと胃に収める。その後、ふらふらとバスルームに向かった。 湯に浸かった和彦だが、到底寛げるはずもなく、今後のことを考えて胸が苦しくなった。俊哉と顔を合わせるたびに、今のような気持ちを味わわなくてはならないのだ。罪悪感に押し潰されそうになる自分の姿が容易に想像でき、行き場もないのに逃げ出したくなる。 本当に雁字搦めだと、和彦は荒く息を吐き出す。 和彦に何かあったとき、俊哉はまず間違いなく、総和会と長嶺守光の双方に確実なダメージを与えられる長嶺組を狙うだろう。俊哉は、ハッタリは口にしない人間だ。いつだって、口にしたことは実行してきた。 のろのろとバスルームから出た和彦は、脱衣所でバスタオルを手にしたところで、ふと耳を澄ます。部屋の電話が鳴っていた。ここで、携帯電話の電源を切ったままにしてあることを思い出した。護衛の男から報告を受けた守光からだろうかと見当をつけたが、今夜はもう、どれだけの義務感を費やしても、誰かと話せる心境にはなれなかった。 和彦はパジャマを着込んでから、鳴り続ける電話を無視して、ダイニン
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第38話(34)

 欲望を口腔に含まれて、声を上げる。しかし、その声が和彦自身の耳に届くことはなく、ただ空気を震わせただけのような気がする。 自分は夢を見ているのだと漠然と理解はできたが、恍惚としてしまうほど、与えられる愛撫が心地いい。和彦に対する深い愛情が伝わってくるような愛撫は、三田村を思い起こさせる。いや、三田村そのものだ。 いつの間にかうつ伏せになり、高々と腰を上げた姿勢を取らされて、内奥を舌と指を使って解される。そのまま背後から貫かれて、和彦は喉を震わせて歓喜に鳴く。何度も力強く突き上げられて、腰から背筋にかけてじわじわと快感が這い上がってくると、大きな手に欲望を包み込まれて手荒く扱かれる。その手つきは賢吾のものだ。 ここでふいに繋がりが解かれて再び仰向けにされると、きつく抱き締められる。和彦がおずおずと両腕を相手の背に回すと、しなやかな筋肉の感触を感じる。 まだ若い体は熱く、余裕なく和彦を求めてくる。内奥に欲望が挿入され、ただひたすらに奥深くを突いてきながら、耳元で荒い息遣いを繰り返す。これは千尋だと思い、背を撫で回す。まだ刺青を入れる前の滑らかな肌の感触が懐かしく、いとおしい。 次の瞬間、強い力で上体を抱き起こされ、繋がったまま相手の腰の上に座らされる。胸の突起を吸われながら、尻の肉を強く掴まれて揺さぶられる。内奥で逞しい欲望が蠢き、襞と粘膜を小刻みに擦られるたびに、和彦は声を上げて背をしならせる。思わず和彦は、こう呼びかけていた。秀、と。 何人もの男たちが次々と入れ替わり、和彦の肌を吸い舐め、体位を変えながら内奥を犯してくる。恥知らずに足を大きく開き、和彦は男たちを求めていた。男の手を取り、柔らかな膨らみを手荒く揉みしだいてもらい、弱みを指先で苛められながら、放埓に悦びの声を上げ、絶頂に達する。 夢の中だからこそ際限なく享楽に耽ることができるが、次第に気づくことになる。いかに快感を与えられようが、自分がまったく満たされないことに。 和彦は、自分がどれだけ男たちに頼りきり、支えられて生活してきたのか、よく自覚している。だからこそ、今の生活を失いたくなかった。打算のみで繋がることになっても、男たちが温もりを与え続けてくれる限り。 元の生活に戻ったときのことを想
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第39話(1)

 和彦はパジャマ姿のまま賢吾に抱き上げられた。普段であれば怖くて声を上げて暴れるところだが、安定剤で意識が朦朧としているため反応は鈍い。「……こんなことしなくても、ぼくは歩ける。……重いだろ」「かまわねーから、もっと太れ。――晩メシは食ったのか?」 少し、と吐息を洩らすように答えると、ふっと意識が遠のきかける。弛緩しきった体は抱えにくいはずだろうが、賢吾はものともせず寝室を出る。廊下には組員たちの姿があり、歩きながら賢吾は抑えた声で何か指示を出した。 玄関を出た途端、薄着の体に冷たい空気がまとわりつく。軽く身を震わせると、賢吾の胸に強く抱き寄せられた。「少し我慢しろ。すぐに車に乗せてやる」 普段は余裕たっぷりのバリトンが、いつになく切迫感のようなものを滲ませている。そう感じるのは、自分の願望の表れなのかもしれないと和彦は考える。 先にエレベーターホールに向かった組員の一人が、エレベーターの扉を手で押さえて待っている。和彦を抱えた賢吾が乗り込むと、あとからやってきた組員も慌ただしく続く。手には毛布を抱えており、そっと和彦の体にかけてくれた。 一階に着くと、正面玄関の前に二台の車が停まっており、組員が待機していた。なんだか大事になっているなと、他人事のように思った和彦は、堪え切れずに目を閉じる。賢吾の腕の中にいて、安堵する反面、すべてを打ち明けることが怖くて仕方なかった。 明確に厄介な存在となった自分を賢吾がどう扱うか、最悪の想像をしてしまう。「やっぱり……、一人でいたい……」「薬でこんなにグニャグニャになっているのにか?」「放っておいてくれたら、いつかは切れる」「それで、一人で泣くのか?」 賢吾の声にわずかな怒気が含まれる。後部座席に乗せられ、崩れそうになる体を支えるようにシートベルトを締められる。その上から改めて毛布をかけられた。 隣に賢吾が乗り込んでから、速やかに車が走り出す。微かな振動と車内の暖かさに、あっという間に深い眠りに引き込まれそうになったが、いつの間にか毛布の
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第39話(2)

 賢吾が何か話しかけてきたが、もう声も出せない。和彦が深く息を吐き出すと、大きな手に髪を撫でられた。 そこからの和彦の意識は曖昧だ。安定剤の効き目に逆らうことなく眠りにつきながらも、唐突に押し寄せる強烈な不安感に追い立てられるように目が覚め、まだ走行中の車内だと確認して、再びウトウトする。賢吾も、そんな和彦の様子に気づいているようだった。 安心させるように肩に手がかかり、子供をあやすように軽く叩かれる。ふいに携帯電話の着信音が聞こえ、ビクリと体を震わせる。なぜだかわからないが、総和会からか、俊哉から連絡が入ったと思ったのだ。すると、顔を寄せてきた賢吾に囁かれた。「大丈夫だ。今夜は、先生の怖いものは何も近寄らせねーから。安心しろ」 そう言ったあと、賢吾が助手席に座る組員に短く何か告げる。すぐに着信音が切れた。和彦はおずおずと肩から力を抜き、すぐにまたスウッと眠りにつく。 その後の記憶はさらに曖昧なものとなる。体がふわりと宙に浮く感覚があり、また抱き上げられたのだろうかとぼんやりと考えているうちに、布団らしきものの上に横たえられた。 なんとか瞼を持ち上げようとしたが、両目を温かな感触に覆われる。「もう、本宅に着いた。俺はここにいるから。……今夜は何も考えるな」 大事にされていると、理屈ではなく肌で実感する。また嗚咽をこぼしそうになったが、その前に和彦は完全に意識を手放した。**** 和彦が目を覚ましたとき、まっさきに視界に飛び込んできたのは、千尋の寝顔だった。二度、三度と瞬きをしているうちに、昨夜、自分の身に起こったことを思い出し、胃がキリキリと痛む。 わずかに上体を起こして辺りを見回し、不思議な感覚を味わう。安定剤を服用して、自宅の寝室のベッドに潜り込んだのに、起きてみれば、長嶺の本宅の客間にいるのだ。賢吾が運び込んでくれたことは覚えているが、結局、自分の目で確認することはなかった。和彦が眠りにつくまで、両目は賢吾のてのひらに覆われていたせいだ。 起きてみれば、傍らには千尋がいる。和彦が寝入ってからもう一組の布団を敷いたらしいが、千尋の体
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第39話(3)

 思いがけない出来事に動揺する和彦とは対照的に、賢吾は悠然としていた。おそらく、和彦がシャワーを浴びていると知っていたのだろう。わずかに目を細め、舐め上げるように和彦の裸体を見つめてくる。 和彦は我に返ると、慌ててカゴに歩み寄り、用意されているバスタオルを取り上げて体を隠す。肌にはまだ、守光による愛撫の痕跡が残っているのだ。「先生が起きたらすぐ知らせるよう、客間に立派な番犬を置いておいたはずなんだが――」 賢吾が普通に話しかけてきたことに内心で安堵しながら、和彦は素早く体を拭く。「千尋なら、よく寝ていた。起こすのもかわいそうだから、そのままにしておいた」「明け方までは、起きて先生の様子をうかがっていたんだぜ、あいつも」「……それを知ってるってことは、あんたも、か……?」 返事のつもりか、賢吾は口元に薄い笑みを浮かべた。体を拭く手を思わず止めそうになったが、風邪を引くぞと賢吾に言われ、とりあえずスウェットの上下を着込む。すると、賢吾がバスタオルを取り上げ、まだしずくが落ちている髪を拭き始めた。 和彦は、タオルの隙間から賢吾の様子をうかがっていたが、沈黙に耐えきれず口を開く。「あんたに黙ってた。父さんと会うことを。……結局、知られたけど」「なんとなく、先生が俺に隠し事をしているのは察していた。いや、隠し事はいくつもあっただろうが、あまり性質のよくないものだ。鷹津に連れ去られた後から、どこか怯えたように俺を見ることがあったからな」 和彦が目を見開くと、バスタオルをカゴに放り込んだ賢吾が、乱れた髪を手櫛で整えてくる。その手つきはあくまで丁寧で優しく、無意識のうちに詰めていた息をぎこちなく吐き出す。「――……あんたは、怖い。ずっとぼくを観察していたのか」「強引に口を割らせたほうがよかったか? あいにく俺は、大事で可愛いオンナを痛めつける趣味はねーんだ」 黙っていたことを責められる覚悟はしていたが、いざとなると身が竦む。賢吾の指先が頬を掠めた瞬間、和彦はビクリと肩を震わせていた。途端に賢吾が苦笑い
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第39話(4)

「だったら、言いたくなったら言え。色っぽい隠し事なら暴いてやりたくなるが、それ以外は、先生の誠意として話してくれたらいい」 廊下を歩いているうちに、次第にいい匂いが漂ってくる。出汁の匂いだとわかった途端、和彦は強い空腹を覚えた。昨日からまともに食事をとっていないのだから仕方ないが、自分の正直な反応に呆れる。それと同時に、本宅にいて少し気が緩んだのだろうかとも思う。 目が覚めて、千尋の無防備な寝顔を見て、油断ならない賢吾と心の中をまさぐられるような会話を交わして。「ヤクザが、誠意なんて言葉を使うな……」 賢吾に聞こえないよう小声で呟いたつもりだが、しっかりと耳に届いたらしい。さらりとこう返された。「いつもの調子が出てきたな、先生」 和彦が唇をへの字に曲げると、賢吾に肩をぽんぽんと叩かれる。「笠野がはりきって朝メシを作っていたから、しっかり食えよ。……本当なら、今日ぐらいクリニックを休めと言いたいところだがな」「いい加減なことはできない。あんたが持たせてくれたクリニックだし」 賢吾が何か言いかけたが、その前に、廊下を慌ただしく駆けてくる足音が近づいてくる。姿を見る前に、正体がわかった。 廊下の角を曲がった千尋が、二人に気づいてパッと目を見開く。驚いたのは、千尋が次の瞬間、泣きそうな顔をしたからだ。大股で和彦の側までやってくると、いきなり手を握り締められた。「どうかしたのか、千尋?」「起きたら、先生いなかったから……。帰ったのかと思った。先生の実家に」 顔を強張らせる和彦に、長嶺の男二人は強い視線を向けてくる。和彦の返事次第では、平気で監禁ぐらいしてしまいそうな迫力だ。 本当に物騒な男たちだと、和彦はそっと息を吐き出す。握り締められた手を抜き取り、千尋の頬を軽く抓り上げた。「そんなわけ、ないだろ。考えてもいなかった。……お前、そんなことを心配して、ぼくの側で寝ていたのか」「だっていきなり、先生が父親と会っていたなんて聞かされたら、びっくりするし、不安にもなるよ」
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第39話(5)

 本部に到着するなり吾川の出迎えを受け、速やかにエレベーターに乗り込む。 守光の住居スペースに足を踏み入れると、吾川にコートとアタッシェケースを預ける。和彦の視線は守光の私室のほうへと向くが、すかさず吾川に言われた。「会長は、こちらの部屋でお待ちです」 吾川が示したのは、初めて和彦がここを訪れたとき、守光と千尋の三人で食事をした部屋だった。ごくりと喉を鳴らしてから、和彦は閉まっている襖の前に立ち、声をかける。「和彦です。遅くなりました」 中から応じる声があり、襖を開ける。畳敷きの部屋の中央に座卓が置かれ、和装の守光が座っていた。静かな眼差しを向けられた瞬間、背筋にピリッと緊張が走る。怯みそうになる気持ちを和彦はなんとか奮い立たせ、部屋に入る。 向かい合う形で席についても、守光はすぐには口を開こうとはしなかった。和彦は、そんな守光から目が離せない。 昨夜、俊哉から聞いた話を思い返していた。この守光が、俊哉に――自分の父親に〈尽くして〉いたと聞いて、何も感じないはずがなく、深い深淵を覗き込んだような気持ちになる。 さらに、怖くてたまらないのに、深淵の底にあるものを知りたくなってしまうのだ。 顔を強張らせる和彦に対して、ふいに守光が柔らかな微笑を浮かべる。そして、穏やかな口調でこう切り出した。「――午前中、賢吾がここに来ていた。子供の頃に見て以来の、見事な仏頂面を下げて」 肩を震わせた和彦は、次の瞬間には頭を下げる。「申し訳ありません。……賢吾さんたちと接触しないよう言われていたのに、昨夜は本宅で過ごしました。それに――」「賢吾から、だいたいの事情は聞いた。わしより先に賢吾が、昨日の対面での内容を把握したということも」 口調は変わらないものの叱責された気がして、和彦はますます顔を伏せる。そこに、襖の向こうから吾川が控えめに声をかけて部屋に入ってきた。 出されたお茶を一口飲んで乾いた口を湿らせる間に、守光と吾川は低く抑えた声で二、三言やり取りを交わす。吾川は和彦に目礼して、すぐに部屋を出て行った。「あんたが賢吾に話したことについては、咎めるつもりはない
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第39話(6)

「その交渉というのは、結局のところ、あんたを説得できるかどうかということになる。あんたは戻るつもりはないと言ったが、それは、長嶺の男たちのもとに身を寄せていたいという意味だと捉えてかまわないだろうか?」 和彦はこの瞬間、違和感を覚えずにはいられなかった。『長嶺の男たち』という括りの中には当然、守光自身も含まれているだろう。それが、違和感の正体だ。 正直に認めるなら、賢吾や千尋の側にいて、和彦は安らぎを覚えることができる。しかし守光に対しては――。 迂闊ともいえるが、和彦は返事を躊躇した。守光がわずかに目を細める。「あんたは、力に身を任せる術は身につけても、媚びるということはできんのだな。実家に戻りたくないなら、怯えた顔でもして、お願いしますと頭を下げれば済むのに、わしの言葉を深読みして、身構える」「……申し訳、ありません」「あんたの立場を思い出させるために、言い方を変えよう。――あんたは、長嶺の男たちのオンナだ。わしらが求めるなら、あんたは応える意思があるかということだ」 守光の声に凄みを感じ、反射的に和彦は背筋を伸ばす。この状況で許される答えは一つしかなかった。「ぼくは……、長嶺の男たちのオンナです。その立場を捨てるつもりは、ありません」 屈辱感も羞恥心も湧かなかった。父親と会ったことで里心が出たのではないか確認され、和彦はきっぱりと否定して見せたことになる。 守光はふっと眼差しと声を和らげ、世間話でもするかのような口調で、俊哉と何を話したのか尋ねてくる。俊哉から聞いた話と齟齬がないか試されているとは感じたが、打ち明けてはいけないことを心に刻みながら、覚悟を決めて会話を続ける。 賢吾は、特別な隠し事を許容してくれた。しかしきっと、守光はそうではない。だからこそ、慎重になる。 実際のところ、守光に話せる内容はそう多くはない。俊哉と会っていたのは三十分間で、その間に交わせる会話はたかが知れており、さらに佐伯家の事情に立ち入った内容をあえて守光に伝える必要もない。 それに守光の関心は、父子が何を話したかよりも、対面したこと自体にあるようだった。
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