Home / BL / 血と束縛と / Chapter 1511 - Chapter 1520

All Chapters of 血と束縛と: Chapter 1511 - Chapter 1520

1602 Chapters

第43話(6)

 和彦は、苦しげな息の下で優也が言っていたことを思い出す。宮森は、賢吾への義理立てのために、自分を病院に連れて行くことなく、和彦に診察を頼んだのだと。 どうやら優也の叔父は、そこまで打算的ではなかったようだ。 そう和彦が結論を出そうとしたとき、当の叔父がニヤリと笑った。凡庸な容貌の男は、たったそれだけで、鳥肌が立つほど物騒な空気をまとう。無意識に和彦は背筋を伸ばしていた。「優也はずいぶんと、捻くれたことを言っていただろう?」「……えっ、あの、まあ……」「頭の回転は悪くない子だ。何より、数字に強い。今はまだ、積極的に外に出るというわけにはいかないが、リハビリがてら、部屋に人を招いたり、在宅仕事をしてみるのはどうかと、あれこれと考えている」「そうなんですか」「実は、そのことを長嶺組長に相談してみた」 意味ありげに見つめられ、和彦は急にソワソワとしてくる。漠然とながら、これが今日の本題なのではないかと思った。「甘えついでに、うちの先生に頼んでみたらどうだと言われた」「何を、ですか……?」「優也の話し相手になってもらうことを。その代わりといってはなんだが、あの子を、面倒な帳簿付けでもなんでも使ってもらってかまわない」「あっ、いえ、そういう仕事は全部、ぼくも人にやってもらっているので――……」 そうか、と残念そうに宮森が呟く。芝居がかっていると見えなくもなかったが、賢吾と長いつき合いがあり、信頼も得ている人物の頼みを断るのは良心が咎める。何より和彦自身、いくら優也の風邪が完治したとはいえ、それで縁が切れてしまうのも寂しいという思いが多少はあるのだ。 勝手にこちらの気持ちを見透かさないでほしいと、心の中で控えめに賢吾を詰ってから、和彦はおずおずと切り出す。「……今月は忙しいので、部屋を訪ねるのは難しいですが、電話やメールでやり取りをするぐらいなら、大丈夫です。その、優也くんさえよければ」「それは大丈夫。優也も、楽しみにしていると言っていた」
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more

第43話(7)

**** 午前中の患者の施術がすべて終わり、手を洗って仮眠室に入った和彦は、窓から外を眺める。灰色の雲で覆われた空は、今にも何かが降ってきそうで、どうせなら雪がいいなと、子供じみたことを考えた。 和彦はダッフルコートを羽織り、財布をポケットに突っ込むと、待合室へと向かう。電話番のスタッフがにこにこしながらメモ用紙を出してきた。寒いとどうしても、昼食をとりに外へ出るのが億劫になるもので、それは和彦も例外ではない。ただ今日はジャンケンで負けてしまい、買い出し担当となったのだ。 メモ用紙にざっと目を通していると、どこからかスタッフの咳き込む声が聞こえてくる。「風邪かな……」 思わず和彦は呟いていた。美容外科クリニックであるため、風邪を引いて駆け込んでくる患者はまずいないのだが、和彦やスタッフから風邪が移ってしまっては大変だ。全員、インフルエンザの予防接種を打ってはいるものの、だからといって完全に防げるものではない。 職業柄、あれこれ心配して眉をひそめていると、スタッフが苦笑しながら教えてくれた。「風邪じゃないんですよ。最近、乾燥がひどいから、喉を痛めたらしくて」「なるほど……」「でも、明日の〈あれ〉は絶対行くって、はりきってましたよ。多少の喉の痛みぐらい平気だって」 クリニックのスタッフたちとの、ささやかな忘年会を兼ねた食事会のことを言っているのだ。「でも確かに、乾燥は気になるな。日に何度も静電気の直撃を受けてるから……」 待合室や診察室、施術室には加湿器を置いてあるのだが、効果は限定的だ。クリニックは部屋数も多いうえに、ドアや扉で仕切っており、空気の流れは期待できない。ときどき換気はしているのだが、肝心の外気が乾燥しきっているのだ。 今年、年が明けてからクリニックを開業したときはどうだっただろうと、和彦は記憶を辿る。慣れない立場にあって、日々の仕事をこなすのに精一杯で、患者には気を配っても、スタッフの労働環境に対しては意識がおざなりだったかもしれないと、今になって反省する。
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more

第43話(8)

 結局、和彦が個人で使うために買ったのは、目覚まし時計だった。これぐらいなら、本宅の客間に置いていても何も言われないだろう。 買い物を済ませてフロアを移動していた和彦は、途中で、我ながら恥ずかしくなるような芝居がかった声を上げた。「あー、そうだ」 エスカレーターの先に立つ組員が振り返る。「どうしました、先生?」「えっと……、もうちょっと見ておきたいものがあるんだ。だから、一階で待っていてくれないかな。そこの休憩コーナーで」「気にしないでください。おつき合いしますから」「いやっ、ついてきてもらうほどのものじゃ、ない、んだ。ただ見るだけで、買うつもりはないから、荷物持ちはいらないし……」 話しながら次第に声が小さくなる和彦の様子から、察するものがあったらしい。組員は、自分の職務を忠実に果たすべきか、和彦の希望を叶えるべきかと悩むように、頭を掻く。和彦はすかさず畳みかけた。「ウロウロするわけじゃないから。地下の売り場に用があるんだ」「……必死ですね。先生」 仕方ないと組員が納得してくれたのと、エスカレーターで一階に着いたのは同時だった。その場で再び別れた和彦は、さっそく地下一階の売り場へと向かう。 実は、宮森とケーキを一緒に食べた月曜日の夜から、毎日優也とメールをやり取りしている。前触れもなく、本当はあんたと話すことなんてないけど――と、優也が憎まれ口をメールで送ってきたのだ。 和彦との連絡を楽しみにしていると宮森は言っていたが、とてもそんなふうには読み取れないと苦笑しつつ、和彦は返信したのだが、そこから、なんとなくメールが続いている。 ただ、毎回優也から言われるのは、メールのやり取りは面倒くさいということだ。つまり、チャットアプリでやり取りしたいらしい。 和彦としては意地を張っているつもりはなく、何かと多忙なこの時期、たかが連絡ツールのために、新しい電子機器の使い方を覚える余裕はない。 しかし、気になっているのは確かなのだ。このあたりの心情を、優也や千尋という青年たちに見透かされている気がする
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

第43話(9)

「外で話したいから、どこでもいいから車を停めてくれないか」 顔を強張らせている和彦に対して何か言うでもなく、車は速やかに目に入ったコンビニの駐車場へと滑り込む。すかさずシートベルトを外すと、携帯電話を耳に当てたまま車を降りた。吾川との会話を、長嶺組の組員たちに聞かせたくなかったのだ。 数分の間があったにもかかわらず、ようやく応じた和彦に、吾川は気を悪くした様子もなかった。淡々とも穏やかとも言える語り口で、何事もなかったように続けた。『お疲れのところ申し訳ありません。すでにもう帰宅されているとばかり思っていましたが、もしかして、今は外に?』「え、ええ……。でも大丈夫です。何かご用ですか?」 問いかけて、自分の迂闊さを罵りそうになった。守光の側に仕えている吾川からの電話となれば、用件は限られているようなものだ。「本部に来るよう言われている件でしたら――」『本日、本部に長嶺組長が……いえ、賢吾さんが見えられました』 どうしてそんなことをわざわざ電話で、と戸惑ったのは一瞬だった。「ぼくのことで、賢吾さんが何か?」『最初は冷静に話をされていましたが、途中からずいぶん激昂なさっているようでした。それに……長嶺会長だけでなく、総和会全体が憂慮すべき発言もされていたそうです』「あの人が、激昂、ですか? それに、憂慮すべき発言というのは……」 車内からこちらを見ている組員の視線を意識して、和彦は体の向きを変える。『ここのところ続く総和会の傍若無人ぶりが、腹に据えかねていらっしゃるとのことです。対応を改めないのであれば、長嶺組は、総和会での活動を当面休止する考えがあると――……」 それが具体的にどのような行動となるのか、和彦には想像がつかない。一つはっきりしているのは、賢吾の発言が事実だとすれば、一大事になるだろうということだ。 しかし、吾川の言葉はそれだけでは終わらなかった。『長嶺会長の代で、総和会が分裂する事態も念頭に置いていると、そう賢吾さんは仄め
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

第43話(10)

** 今日買ってきた目覚まし時計を箱から取り出したものの、ついぼんやりとしてしまう。 ふと和彦は、自分の頬が火照っていることに気づき、てのひらを押し当てた。入浴してからもうしばらく経っているし、体調が悪いというわけでもない。 体の内で得体の知れない感情がのたうち回り、興奮に近い状態なのかもしれない。そう無理やり、自分を納得させておく。 起床時間をセットしておこうと、もたつきながら操作をしていると、こちらに近づいてくる足音が耳に入る。大きな歩幅で、荒々しい足取りだ。初めて聞く足音ではあったが、誰であるかはすぐにわかった。「――入るぞ」 和彦が応じる間もなく障子が開き、賢吾が姿を現す。帰宅したばかりらしく、ワイシャツ姿だ。 忙しいのだなと思ったあと、なぜ忙しいのかと考えて、ゾクリとした。吾川から言われた言葉が耳元に蘇る。 後ろ手に障子を閉めた賢吾はじっとこちらを見つめたあと、和彦の手元に視線を向けた。「今日買ってきたのか」「……ああ」「スマホも興味津々で眺めていたと聞いたぞ」 やはり、しっかり観察されていたらしい。和彦は苦笑いで返すと、目覚まし時計を置く。「宮森さんの甥っ子から、買ったらどうだと勧められているんだ」「欲しいなら、いつでも準備してやる」 和彦は首を横に振ってから、賢吾に問いかけた。「ぼくに何か用か?」「もう寝ているかと思ってな」「それなのに、あんな、あんたらしくない足音を立ててやって来たのか」 賢吾は一瞬、決まり悪そうな顔をしたあと、すでに延べられている布団に目を遣る。「まだ寝ないのか?」「もう、布団に入るつもりだった。目覚ましをセットしたら……」「そうか。暖かくして寝ろ」 ここで不自然な沈黙が訪れる。珍しく、賢吾が何か言い淀んでいるのだ。その理由には、薄々見当がついていた。 和彦は、吾川から電話があったことを、誰にも知らせていない。帰りの車で一緒だった組員たちは、電話をきっかけに和彦の様子が
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

第43話(11)

 後ろ髪を掴んでいた手が離れる。両腕でしっかりと抱き締められると、和彦もおずおずと賢吾の背に腕を回す。煙草を吸ったばかりなのか、いつもより強く匂いがする。そんなことを頭の片隅で思いながら、ゆっくりと唇を重ねた。「キスだけ、な」 優しく唇を啄まれながら賢吾に言われ、和彦は頷く。自ら求めて賢吾の唇に舌先を這わせると、あっさりと口腔に招き入れられた。きつく舌を吸われて足元が震える。賢吾にしがみついて体をすり寄せると、痛いほどに抱き締められた。 唇と舌を貪り合いながら、賢吾の髪に指を差し込む。するとうなじを撫で上げられ、後ろ髪を今度は丁寧に梳かれる。和彦が洩らした声はすべて唇で吸い取られた。 蛇のように残酷で執念深いが、一方で、溺れそうになるほどの情愛を注いでくれる、優しい#男__ひと__#。 和彦は、賢吾との濃厚な口づけを堪能しながら、ある覚悟をしっかりと胸に刻み付ける。 自分のせいで、賢吾には何も失ってほしくはなかった。かつての満たされた生活を賢吾に奪われはしたが、そのことはもう、和彦にはどうでもいい。 今、大事なのは――。**** クリニックのスタッフとの忘年会を兼ねた食事会は、ホテルのレストランでのディナービュッフェだった。 早いうちからスタッフの一人が、評判のいいプランが今ならまだ予約が取れると話していたため、一任していたのだが、間違いなかったようだ。 皿の上のローストビーフを眺めながら、素直に和彦は感心する。女性の多い職場なので、美味しい食事とデザートが食べ放題というのは何より魅力的だったのだろう。もちろん、中にはすでに、アルコールを飲んでほんのりと頬を上気させているスタッフもいる。 ここはカクテルも女性好みのものが揃っているらしい。明日は土曜日でクリニックが休みということもあり、多少ハメを外しても心配ないようだ。 一方の和彦は、ノンアルコールビールで口を湿らせていた。あまり食欲がないと思いながらも、スタッフたちの手前、何も手をつけないわけにはいかない。 ローストビーフを一口食べると、なんとなく食欲が湧いてきた気がして、せっかくだからと
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

第43話(12)

** ひどい車酔いに苛まれながら和彦は、ウィンドーの外に目を向ける。とっくに日が落ちて辺りは闇に包まれてはいるものの、ぽつぽつと点在する街灯と、前後を走行する車のライトのおかげで、かろうじて周囲の景色を見ることはできる。 とはいっても、目に入るのは木々の影ぐらいで、それが巨大な生き物に見えてくるぐらいには、和彦は不安感に支配されていた。 どこに連れて行かれているのかは、すでにわかっている。ただ、なぜその場所なのかはわからない。 後部座席に並んで座る守光は、雪が見たくなったからだと言っていたが、そんな説明を和彦が信じるとは、端から思っていないだろう。和彦の理解と納得など、必要としていないのだ。ただおとなしく運ばれればいいと、それだけを求めている。 木の枝に積もった雪が風でハラハラと散る光景を、視界の隅に捉える。今は止んではいるが、この様子だと少し前までけっこうな勢いで降っていたのかもしれない。道全体が白く染まっている。ただ、運転は慎重ではあるが、移動が困難なほどの積雪にはまだなっていない。 前方を走っていた車が停止し、人が降りる。何をしているのかと見るまでもない。道を塞いでいたガードフェンスを移動させているのだ。和彦も知っている手順だった。 再び車は走り出したものの、それも長い時間ではなく、見覚えのある建物が見えてきた。先に到着している人間がいることを物語るように、駐車場だけではなく、玄関先も照明が灯っており、部屋の窓からも電気の明かりが見える。 総和会が所有している別荘だった。 かつて和彦は、この場所に二度訪れており、そのいずれも同行者は違っていた。前回は五月の連休中で、三田村と中嶋が。さらにその前は、年が明けたばかりの頃、賢吾と千尋が一緒だった。 そして今は――と、和彦はそっと隣の守光を見遣る。駐車場の照明の明かりを受け、一瞬守光の横顔に濃い陰影が浮かぶ。それによってひどく凶悪な相に見えてしまい、和彦は内心震え上がっていた。 ふっとこちらを見た守光が穏やかに微笑む。「大丈夫かね。顔色が悪いようだが」「……少し、車に酔って……」
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

第43話(13)

 そう言って守光が、男たちを引き連れるようにして一階の奥へと向かい、和彦は案内されるまま二階へと上がる。偶然なのか、通されたのは、これまで使ってきたのと同じ部屋だった。 こちらもすでに暖められ、ベッドも整えられている。さらに、布団の上には畳まれたスウェットの上下と、デパートの袋が置いてあった。テーブルの上にはミネラルウォーターのボトルとグラス、菓子が盛られた器が。 室内を確認していて、扉が開いたままのクローゼットが目に留まる。数着の服が吊るされており、どれも新品のようだ。部屋のものは自由に使ってくださいと言われており、つまりこれは和彦のために用意された着替えということだ。 ダウンジャケットを手に取ったところで、ハッとして慌ててベッドに戻り、デパートの袋の中を覗く。思ったとおり、新品の下着が入っていた。 全身の血が沸騰しそうだった。体を駆け巡る激情が一体なんなのか、和彦自身もよくわからないが、とにかく必死に押し殺し、荒く息を吐き出す。 痒いところに手が届きそうな準備のよさは、今日思い立ってできるものではない。お前は罠にかかった獲物なのだと、暗に仄めかされているようだ。 悄然と立ち尽くしていたが、ふいに貧血のような症状に襲われて、ベッドに腰掛ける。自分の置かれた状況に、いまだに脳の処理が追い付かない。頭の芯が熱を帯び、考えることを放棄したがっている。 ふと、部屋まで案内してくれた男がまだ去っていないことに気づく。和彦が顔を上げると、待ち構えていたように、入浴を勧められた。簡単な食事もすぐに準備できると言われたが、さすがにそれは遠慮しておく。 座り込んでいても仕方ないと、和彦は用意された着替えを抱えて立ち上がった。** 日付が変わってからも、ベッドに入る気にはなれなかった。 仕事を終えたあとの長距離移動で、肉体的にはくたくたではあるのだが、気持ちは高ぶったままで、眠気はやってこない。 意味もなく室内を歩き回ったあと、部屋の隅に置いたアタッシェケースの存在を思い出す。和彦が入浴に行っている間に部屋に運び込まれていたのだ。 何げなく開けてみて、愕然とする。中に入れてあった携帯電話が二台ともなく
last updateLast Updated : 2026-08-13
Read more

第43話(14)

 しっかりダウンジャケットを着込んだ和彦は、静かに部屋のドアを開け、廊下の様子をうかがう。もともと騒々しさとは無縁の場所ではあるのだが、深夜ともなり、二階に人の気配は感じられなかった。足音を殺して廊下に出てしまうと、あとは開き直るだけだ。 素早く一階に下りると、非常灯だけが点るエントランスホールを駆け抜けて、玄関から自分の靴を取ってくる。この別荘の造りはほぼ頭に入っており、最短距離で庭に出るためダイニングへと移動した。誰かが使っていた形跡がテーブルの上などに残っているが、人はいない。和彦はこの隙にと、キッチン脇にある裏口から庭へと出ていた。 慎重な足取りで歩きながら、ダウンジャケットの前を掻き合わせる。雪を踏みしめるサクッ、サクッという微かな音すら聞こえるほど、静かだった。まだ起きている者もいるだろうが、別荘から聞こえてくる物音はなく、皆が息を潜めているようだ。 この瞬間、強烈な孤独感に襲われた和彦は、臆病な小動物のような動きで庭を見回していた。ここから表の通りに出られないかと考えたのだ。 いや、出ること自体は不可能ではない。ただし、何重もの鉄条網を潜り抜け、明かりもない暗く細い道を通っていかなければならない。しかも今は雪が積もっており、足を取られるのは必至だ。深夜にやるべき冒険ではないだろう。 頭では理解しているが、未練がましく広い庭に足跡を残していく。そうしているうちに、また雪が落ち始める。立ち止まると、感覚を奪う寒さが爪先から這い上がってきた。かまわず和彦は空を仰ぎ、落ちてくる雪を顔で受ける。「――こんな時間に雪遊びか、先生」 前触れもなく揶揄するような声をかけられ、一瞬呼吸を止める。次の瞬間、弾かれたように声がしたほうを見ると、いつからそこにいたのか、マウンテンパーカーを着込んだ南郷が立っていた。 なぜ、という言葉がまっさきに頭に浮かぶ。別荘に到着したとき、南郷の姿はなかった。移動の車列にも加わっていなかったため、少なくとも今夜は、南郷はここにはいないと思ったのだ。しかし現実は――。 いつだって南郷は、いてほしくない場面で登場する。まるで、和彦の驚きを楽しむかのように。 声もなく警戒する和彦に、南郷は大仰に肩を竦めて見せる。
last updateLast Updated : 2026-08-13
Read more

第43話(15)

「――……何を設置したんですか?」「電気柵。見たことなくても、言葉から想像はできるだろう。張った電線に電気が通ってる。本来は獣を驚かせて追い払うものだが、ちょっと弄って、人間が怪我するレベルの電圧にしてあるから、迂闊に近づくなよ、先生」 脅しだと疑うには、目の前にいる男はあまりに物騒だ。ただ皮肉なことに、そんな男の話を聞いていくうちに、和彦が把握しているある一つの情報が、今のこの状況と結びついていく。 情報とは、一週間ほど前に中嶋からもたらされたものだ。南郷が隊員たちに行き先も告げず、何日か姿を見せていないと聞かされたとき、和彦は必然的に、守光から指示を受けて動いているのだろうと思った。それがまさか、自分に関わるものだとまでは、思い至らなかったが。「今はここに、余計なものは近づけたくないし、騒ぎを起こしたくない。そのための準備だ。……久しぶりに泥に塗れる仕事をして、なかなか楽しかった」「そう、ですか……」 応じた和彦の声は微かに震えを帯びていた。それを南郷に知られまいと、低く抑えた口調で続ける。「寒いので、中に戻ります」 足早に南郷の傍らを通り過ぎようとして、腕を掴まれた。和彦は咄嗟に怯えた表情を向け、南郷は意味ありげに目を眇める。 数十秒もの間、どちらも身じろぎをせず、言葉すら発しなかった。異様な空気に和彦は瞬く間に呑まれてしまったのだが、南郷のほうは相変わらず何を考えているのかうかがわせない。 寒さで歯が鳴る。それを恥ずかしいと思う余裕すら、もう和彦にはなかった。「……南郷さん、離してください」「あんたを追い立てている獣は、誰だ?」「えっ」「俺か、オヤジさんか。佐伯家の人間か、里見という男か。それとも、長嶺組長か」「何を、言って……」 和彦は腕を引こうとするが、ダウンジャケットの上からがっちりと南郷の指が食い込んでいる。「追い立てられるあんたは、実にいい。弱々しく青ざめて、それでも精一杯に気丈に振る舞って、持って生まれ
last updateLast Updated : 2026-08-13
Read more
PREV
1
...
150151152153154
...
161
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status