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1602 Chapters

第45話(7)

 和彦は、総子の発言をすぐには理解できなかった。数瞬、呼吸すら忘れる。「ぼく、が……」 総子に手を取られてなんとか部屋に入る。ぎこちなく座布団に腰を下ろして愕然としている間に、君代がやってきて静かに二人分のお茶を出すと、すぐに部屋を出て行った。 それを待って総子が再び語り出す。「紗香が当時、精神的に不安定だったというのは、言い訳にはならないでしょう。ただ、それが原因で善悪の区別がつかなくなり、母親としての本能が暴走したと、考えています。親としては、そう願わずにはいられなかった」「……ぼくは、生まれてすぐに、佐伯家に引き取られたと聞いています。それがどうして、母が、そんな――」 ここで和彦は、俊哉から言われたことを思い出す。「父に言われました。ぼくが、短い間一度だけ、母と暮らしたことがあると。そのときに、何かあったんですか?」「『暮らした』というのは、俊哉さんにしては、婉曲な表現ね」 総子の口調がわずかに皮肉げだったのは、気のせいではないだろう。「まずは、紗香について話しましょうか。その様子だと、あまり教えてもらってはいないのでしょう?」「どういう人だったかということは、ほとんど何も……」 わずかに教えられたのは、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったことぐらいだが、次の総子の言葉を聞いて、和彦は目を丸くした。「――子供の頃からおとなしくて、手がかからない子でした。あまり自己主張もせず、親に逆らうこともなく……。綾香とは対照的な姉妹でしたよ。外に出て自立して、自分で見つけた相手と結婚した綾香の代わりに、婿を取って、この家を守っていくとも言ってくれて」「婿?」「紗香には婚約者がいました。和泉家と古いつき合いのある家の次男で、子供の頃からお互いを知っているという安心感もあって、あとはいつ式を挙げるかという話にまでなっていました。でも、そんな紗香の前に現れた男性がいた」「ぼくの父、ですか?」「いいえ」 えっ、と声を洩らした和彦の顔を、総子はし
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第45話(8)

「……医者にしたいと、母が先に言っていたようです」『母』という呼び方が、どうしてもしっくりこない。戸籍上の母親である綾香に対しても、『母さん』と呼ぶことに、和彦はずっと引け目のような感情を抱き続けていたぐらいだ。和彦にとって母親とは、手を伸ばしても届かない幻のような存在なのだ。そのため思慕の念を抱くのは難しい。 堪らず、総子にこう訴えていた。「あの、母を名前で呼んでもいいですか? 頭ではわかっているんですが、まだ混乱していて……。ぼくを産んでくれた人は、ずっと前に亡くなったと聞かされていたし、記憶からも抜け落ちているんです。それが、ここにきて急に、存在がはっきりとした輪郭を持ち始めて、なんだか――」 怖い。知りたいはずなのに、知ることが怖いのだ。そこには、自分がいままでとは違う生き物になってしまいそうな危惧も含まれる。「呼びたいようにお呼びなさい。母と呼ぶことに抵抗があるのなら、それは仕方のないことで、あなたは悪くありません」 ただ、と総子が続ける。「紗香が、本当にあなたの誕生を望んでいたことだけは、知っていてほしいのです。あの子なりに必死に考えて、足掻いた結果だとしても」「父も、同じ気持ちだったと思いますか?」 総子が一息つき、湯飲みを口元に運ぶ。和彦はじっとその行動を見守っていた。 どんな返事があったとしても受け止めるつもりだったが、総子が口にしたのは意外なことだった。「わたしは本当は、あなたは俊哉さんの血を引いていないのではないかと思っています」 和彦は、自分でも不思議なほど冷静だった。実の母親に殺されたかけたと告げられただけで、十分すぎるほど衝撃を受け、まだ気持ちが持ち直していないところにこの言葉だ。もう、どう驚いていいか自分でもわからなくなっていた。「さっき言われた、母の……、紗香さんの前に現れた男性、ですか?」「紗香は、俊哉さんとの子だといい、俊哉さんも、それを認めた。だけど当時、紗香が想いを寄せていたのは――」 当時医学部に通う学生だったと総子は言った。学生の父親が、正時たちの働きかけに
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