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All Chapters of 血と束縛と: Chapter 1601 - Chapter 1610

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第45話(7)

 和彦は、総子の発言をすぐには理解できなかった。数瞬、呼吸すら忘れる。「ぼく、が……」 総子に手を取られてなんとか部屋に入る。ぎこちなく座布団に腰を下ろして愕然としている間に、君代がやってきて静かに二人分のお茶を出すと、すぐに部屋を出て行った。 それを待って総子が再び語り出す。「紗香が当時、精神的に不安定だったというのは、言い訳にはならないでしょう。ただ、それが原因で善悪の区別がつかなくなり、母親としての本能が暴走したと、考えています。親としては、そう願わずにはいられなかった」「……ぼくは、生まれてすぐに、佐伯家に引き取られたと聞いています。それがどうして、母が、そんな――」 ここで和彦は、俊哉から言われたことを思い出す。「父に言われました。ぼくが、短い間一度だけ、母と暮らしたことがあると。そのときに、何かあったんですか?」「『暮らした』というのは、俊哉さんにしては、婉曲な表現ね」 総子の口調がわずかに皮肉げだったのは、気のせいではないだろう。「まずは、紗香について話しましょうか。その様子だと、あまり教えてもらってはいないのでしょう?」「どういう人だったかということは、ほとんど何も……」 わずかに教えられたのは、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったことぐらいだが、次の総子の言葉を聞いて、和彦は目を丸くした。「――子供の頃からおとなしくて、手がかからない子でした。あまり自己主張もせず、親に逆らうこともなく……。綾香とは対照的な姉妹でしたよ。外に出て自立して、自分で見つけた相手と結婚した綾香の代わりに、婿を取って、この家を守っていくとも言ってくれて」「婿?」「紗香には婚約者がいました。和泉家と古いつき合いのある家の次男で、子供の頃からお互いを知っているという安心感もあって、あとはいつ式を挙げるかという話にまでなっていました。でも、そんな紗香の前に現れた男性がいた」「ぼくの父、ですか?」「いいえ」 えっ、と声を洩らした和彦の顔を、総子はし
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第45話(8)

「……医者にしたいと、母が先に言っていたようです」『母』という呼び方が、どうしてもしっくりこない。戸籍上の母親である綾香に対しても、『母さん』と呼ぶことに、和彦はずっと引け目のような感情を抱き続けていたぐらいだ。和彦にとって母親とは、手を伸ばしても届かない幻のような存在なのだ。そのため思慕の念を抱くのは難しい。 堪らず、総子にこう訴えていた。「あの、母を名前で呼んでもいいですか? 頭ではわかっているんですが、まだ混乱していて……。ぼくを産んでくれた人は、ずっと前に亡くなったと聞かされていたし、記憶からも抜け落ちているんです。それが、ここにきて急に、存在がはっきりとした輪郭を持ち始めて、なんだか――」 怖い。知りたいはずなのに、知ることが怖いのだ。そこには、自分がいままでとは違う生き物になってしまいそうな危惧も含まれる。「呼びたいようにお呼びなさい。母と呼ぶことに抵抗があるのなら、それは仕方のないことで、あなたは悪くありません」 ただ、と総子が続ける。「紗香が、本当にあなたの誕生を望んでいたことだけは、知っていてほしいのです。あの子なりに必死に考えて、足掻いた結果だとしても」「父も、同じ気持ちだったと思いますか?」 総子が一息つき、湯飲みを口元に運ぶ。和彦はじっとその行動を見守っていた。 どんな返事があったとしても受け止めるつもりだったが、総子が口にしたのは意外なことだった。「わたしは本当は、あなたは俊哉さんの血を引いていないのではないかと思っています」 和彦は、自分でも不思議なほど冷静だった。実の母親に殺されたかけたと告げられただけで、十分すぎるほど衝撃を受け、まだ気持ちが持ち直していないところにこの言葉だ。もう、どう驚いていいか自分でもわからなくなっていた。「さっき言われた、母の……、紗香さんの前に現れた男性、ですか?」「紗香は、俊哉さんとの子だといい、俊哉さんも、それを認めた。だけど当時、紗香が想いを寄せていたのは――」 当時医学部に通う学生だったと総子は言った。学生の父親が、正時たちの働きかけに
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第45話(9)

「紗香と俊哉さん、それに先生との間で何があったのか、わたしにはわかりません。紗香は頑なに口を閉ざしたまま逝ってしまったし、俊哉さんは曲者。先生は……、何も知らされていなかったのかもしれません」「紗香さんは、その先生が好きだったんですね。一方の父にも、妻子がいた。そんな二人が、どうして……」「一度紗香が、まだ学生だった先生と結婚したいから、婚約をなかったことにしたいと言ってきたことがあります。わたしと主人が猛反対したら、それはもう、絶望したような顔をしていました。それからしばらくして、あなたを身籠っていると告白してきました。しかもその場に伴ってきたのは、よりによって自分の姉の夫。あのときの二人は、道ならぬ恋に浮かれているとか、過ちを犯してうろたえているとか、一切そんな素振りはなく、むしろ毅然としていましたよ」 総子は口元に淡い笑みを浮かべる。娘に激しい感情を抱く時期は過ぎて、どうしようもない空しさを噛み締めているような、そんな表情に見えた。和彦は胸苦しさに耐えきれず、温くなったお茶で口を湿らせる。「俊哉さんは当時、ここから近い自治体に単身で出向していて、仕事と子育てに忙しい綾香に代わり、紗香がお世話に通っていました。そのときに何かあったと考えるべきなのでしょうが、それでも、紗香の目は先生だけに向いていたような気がして……。ただ先生は、紗香の妊娠について何も知らなかったようです。出産からあとのことも、すべて我が家と彼のお父様との間で進めましたが、紗香が亡くなったと知らせたときは、ずいぶん悲しまれて、こっそりお墓にも来てくれました」 これは言うべきなのだろうかと逡巡した和彦だが、医者として黙っていることはできなかった。「……今なら簡単に、親子鑑定ができます。ぼくと父が――」「結果がどうあれ、あなたが紗香の子であることに間違いはありません。本当に、そっくり」 両親からの説得にも関わらず、紗香は和彦を出産し、手放した。手元に置くことだけは、和泉家の総意として許さなかったのだという。何より、〈父親〉である俊哉が、赤ん坊を佐伯家で引き取ることを熱望したという話に、和彦は
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第45話(10)

「今回、ぼくを呼べたということは、相手方と和解なりできたということですか?」 いいえ、と告げた総子の声と表情は、冷然としていた。その様子が、和彦の中で綾香と重なる。「――断絶しました。事業が行き詰まってから、あっという間でしたよ。皆、見ているものですね。和泉家に対する仕打ちが広まって、誰も手を差し伸べなかったようです。失意と絶望は、簡単に人を弱らせる。その家にはもう誰も……」 何もかもが因果応報なのだと、総子は続ける。和泉家も、名を大事にした結果、本来であれば将来家を支えるはずだった紗香を失い、その紗香が生んだ和彦を手放すことになった。「あなたを和泉家には戻さないと、俊哉さんなりの決意の表れなのですよ。〈和彦〉という名前は」「ぼくの名前……?」「和泉家から受けた恩と、かけてしまった迷惑を忘れない。だが、この子を和泉家に戻すことはないと。その証として、〈和〉という字を名前に入れたようです」 自分の名の由来など、和彦は告げられたことはなかった。兄である英俊には俊哉の一文字が入っており、跡取りとそうでない次男との間に、明確な線引きをされているのだと、そう感じていただけだった。「家名と家族を守ることに必死だったわたしたちは、紗香の気持ちを顧みていませんでした。産んですぐに子から引き離されて、母親が平気でいるはずがない。そんな当然のことに気づかなかった……。いえ、気づかないふりをしていた」 紗香が精神的に不安定だったという理由は、話を聞いただけの和彦でも推測できる。俊哉や〈先生〉、家族との関係。妊娠・出産を経る間に、さまざまな軋轢にも立ち向かわなければならなかったはずだ。自業自得という言葉では済まないつらさを伴っていただろう。「何もかもが落ち着いたと思っていたある日、紗香の療養先から、紗香の姿が見えなくなったと連絡が入りました。同じ日に、今度は綾香から、四歳のあなたが連れ去られたと半狂乱になって連絡が。すぐに紗香の仕業だとわかりましたが、警察に連絡もできず、わたしたちは心当たりを探すしかできませんでした」「母が、半狂乱……」
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第45話(11)

「小屋に泊まっている間、紗香はあなたに水も食料も与えてなかったようです。悪意があってのことではなく、頭になかったと思いたいですが、結果として、あなたを殺しかけたことは事実です。自分の子をやっと手元に置いて、笑いかけて、言葉をかけて、抱き締めて……。それで母親に戻れると、あのときの紗香は信じたのでしょう」 ふいに、体に巻き付く生あたたかな感触があった。総毛立った和彦は、誰もいないとわかっているはずなのに、背後を振り返る。 本能的に、子供の頃、紗香に抱き締められたときの記憶だと思った。ムッとするような熱気と、室内のカビ臭さ、窓から見えた鬱蒼と生い茂った雑草と木々。堰を切ったように次々と蘇る記憶に、和彦は動揺する。「和彦さん?」 我に返り、勢い込んで総子に尋ねる。「……母さ……、紗香さんは、ぼくが保護されたあと、どうしたんですか?」「俊哉さんからの知らせを受けて、家の者たちが行ったときには……。あなたをまた奪われたと思って、それでなくても脆くなっていた精神がもたなかったのでしょう。自ら命を絶っていました」 深いため息をついた総子は、湯呑みの縁を指先でなぞりながら呟いた。「……紗香の人生の大きな岐路には、俊哉さんが立ち会う運命だったのでしょうね」 それは言い換えれば、俊哉の人生の大きな岐路に、紗香が立ち会う運命だったともいえる。「ぼくは、佐伯家から疎まれている存在なのだとばかり思っていました。父はぼくに興味がなく、母はぼくを忌々しく感じていて……。だから正直、家を出たあとは、姿を消してしまおうと考えてもいました。でも、久しぶりに家族と関わってみて、そうすることがいいのか迷っています。おばあ様の話を聞いて、まだ考えるべきことはあるんじゃないかと」 和彦はようやくこう切り出す。「――ぼくも、人生の大きな岐路に立っている最中なんです」「話は聞いていますし、悪いとは思いましたが、調べもしました」 目を見開いた和彦に、安心させるように総子が笑いかけ
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第45話(12)

 総子や正時には迷惑をかけたくないし、失望もされたくなかった。和彦が今願うのは、その一点だ。 顔を強張らせる和彦に対して、総子は相変わらず笑みを向けてくる。「この先を生き抜くための武器を、あなたに与えると言っているのです。どう使うかは、あなた自身が決めなさい。あなたの負担にならないよう、いろいろと手立ては講じてあります。心配しなくても大丈夫ですよ」 目の前にいるのは、一見穏やかな高齢の女性なのだが、伴侶と共にずっと、和泉家を切り盛りしてきた人物でもある。ここまで話を聞いただけでも、平穏とは言い難い人生を送ってきたとわかる。 女傑、という言葉が、ふっと和彦の脳裏を過った。「少し話しすぎましたね。続きはまた明日にしましょう」 頭を整理したいと思っていた和彦に異論はない。頷くと、夕食をとるよう勧められる。 こんなときでも腹は空くのだなと、ちらりと苦笑いをした和彦は、総子とともに食堂に向かった。** 食事の味はよくわからなかった。ただ、自分のために準備してくれたのだなとわかる献立は、素直に嬉しかった。 和彦は総子と二人で夕食をとったあと、一気に押し寄せた疲労感を堪えつつ入浴を済ませた。新幹線に乗る前に買っておいたスウェットスーツを着込んだ上から、わざわざ用意してくれた半纏にありがたく袖を通す。大きい家だけあって、人がいる部屋以外は暖房が効いておらず、廊下などは冷え込むのだ。 和彦が使うよう言われた部屋は、庭に面していた。ただ日が落ちてからしっかりと雨戸が閉められたため、外の景色を見ることは叶わない。長い廊下に人影は見えないが、家のどこかで誰かが移動している気配がして、微かに話し声も聞こえてくる。 なんとなく長嶺の本宅の様子を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。 部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。ヒーターも入れてもらっており、室内は十分に暖まっている。スーツもしっかりハンガーにかけられているのを見て、和彦は口元を緩める。 ずいぶん気をつかってもらっているなと思いながら、ボストンバッグに近づこうとして、声を上げる。室内に自分以外のものの気配を感じたのだ。見ると、ほっそりとした体
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第45話(13)

**** 廊下からのガタガタという物音で目が覚めた。 室内の暗さに少しの間戸惑った和彦だが、ここは和泉家の一室だと思い出し、安堵の息を吐いた。昨夜は肉体的にも精神的にも疲労困憊しており、早々に床に就いたのだ。 夢も見なかったと、和彦はもそりと寝返りをうつ。祖母の総子から聞かされた話はあまりに衝撃的で、夢見の悪さを覚悟していたのだが、眠りの深さが勝ったようだ。 再び眠気が押し寄せてきて、素直に目を閉じる。物音が、雨戸を開ける音だとわかってしまえば、耳に障るものではない。夜が明けたようだが、今何時なのかわかるものは手近にない。テレビをつければいいのだろうが、わざわざリモコンを取るために起き上がる気にはなれなかった。 掛け布団と毛布に包まっていても、室内に冷気が流れ込んでくるのがわかる。なぜかといえば、猫たちが出入りするのに困るだろうと、板戸をわずかに開けて休んだからだ。 自分たちの寝床にきちんと戻ったのだろうかと、ぼんやりと考える。夜、ヒーターを消してしまうと、ぬくもりを求めるように和彦に身を寄せてきて、ひとときの幸福感を味わわせてくれたのだ。 二匹の猫の警戒心のなさは、ここで大事にされていることの表れだ。祖父母は、何も覚えていない和彦に対しても親愛の情を示してくれた。わが子たちに対してはどうだったのだろうかと、ふと気になった。 和泉家のために娘に婿を取らせようとした結果が、悲劇を生んだ――とは言いすぎかもしれない。すべて巡り合わせだと、和彦は思う。和彦自身、巡り合わせから、裏の世界に引きずり込まれ、怖い男たちと関係を持っている。 強い力に流されただけだと、他人は言うかもしれない。それでも、するべき選択はしてきたと、今の和彦なら主張できる。 紗香が生きていれば、和彦の現状をどう受け止めていただろうかと想像して、次の瞬間、不思議な感覚に襲われた。実母にこんなふうに思いを巡らせるなど、初めてだったからだ。 母親の実家に滞在し、過去の話を聞いたせいだろう。今日はおそらく写真を見せてもらえるはずだ。そして、できることなら――。 すっかり眠気がどこかにいってしまい、二度寝を諦めて和
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第45話(14)

 灰色猫は、窓一枚を隔てた和彦に気づくことなく目の前を通り過ぎるかと思われたが、何かを感じ取ったようにこちらを見上げてきた。琥珀色の瞳に見入っていると、灰色猫は尻尾を揺らして素っ気なく行ってしまう。あとでまた会えるだろうかと考えながら和彦は部屋に戻った。 ひとまず着替えを済ませて布団を畳み、洗面所で顔を洗った帰りに君代に出くわす。ちょうど和彦を呼びに来たところだったという。 朝食の準備ができているということで食堂に向かうと、着物姿の聡子がすでに席についていた。和彦を待ってくれていたらしく、二人分の朝食がテーブルに並んでいる。 おはようございますと挨拶すると、柔らかな微笑みが返ってきた。「ゆっくり休めましたか?」「はい。――ここは、とても静かですね」「昨日話しましたが、昔はたくさんの人が出入りして、朝早くから夜遅くまで騒々しかったのですよ。そうでなくなった今も、年末年始ぐらいはにぎわっていましたが、うちの人があの調子ですから……。本当は、年末に餅つきをして、あなたにもそのお餅を食べてもらいたかった」 君代がご飯をよそった茶碗を二人の前に置き、朝食を食べ始める。 味噌汁と卵焼きの味に感動しつつ、和彦はこの家にいる猫たちのことを話題にした。「ここの猫は人懐こいですね。ぼく相手にも威嚇しないどころか、側に寄ってきてくれて」「あなたをこの家に呼んでおきながら、猫は平気なのか確認するのを忘れていて、ハラハラしていました。もしダメなようなら、別棟の部屋をつかってもらおうと思っていたのですよ。あそこは、猫たちは入れないようにしてありますから」「猫は好きですけど、いままでずっと飼える環境になかったんです。ですから、同じ部屋に猫がいるなんて初めてのことで、喜んでいます」「――……紗香も、猫が好きでした」 箸をとめた和彦は、まじまじと総子を見つめる。「一方の綾香は猫が……というより、動物全般が苦手で。猫をかまう紗香に、よく綾香が怒っていました。その声がにぎやかで……。女の子の声って、華やかでしょう? 怒って
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第45話(15)

 ずっと考えていたわけではなく、今朝になって頭に浮かんだことだった。自分を産んでくれた人は本当にもうこの世にいないのだと、この目で見て実感したかった。「せっかくこの家に来たのだから、きちんと挨拶をしたいと思って……」「ありがとうございます、和彦さん。わたしから切り出していいものかと迷っていたことですから、そう言ってもらえて、あの子の母として嬉しいです」 さっそく、と言った様子で総子は君代を側に呼ぶと、声を潜めて何事か相談する。すぐに君代は食堂を出て行った。「――出かけるなら、午前中がいいですね。今日は午後から、この家が長年お世話になっている弁護士の先生が来られます。わたしたちからあなたへの生前贈与について、説明をしていただきます」「生前、贈与……」「難しく考える必要はありません。手続きはこちらであらかた済ませますし、あなたに経済的な負担はかけません。それは、綾香や英俊に対しても同じです。ただあなたには、生い立ちから今に至るまでのことでの贖罪もしたいのです。……これは、わたしたちが楽になりたいがために必要な手続きですね」「……それが、この先を生き抜くための武器、ですか」「あなたが一番必要とするものでしょう。佐伯家にはできないことを、この家はできます。それなりに修羅場を潜り抜けているのですよ。和泉という家は」 穏やかな表情には似つかわしくないことを言ってから、総子は立ち上がる。飾り棚の引き出しから便箋とペンを持ってくると、和彦が見ている前でさらさらと地図を描き始める。「ここに来る途中に見かけたかもしれませんが、お寺があるのですよ。和泉家の先祖のお墓はそこにあって、紗香も……。あの子のためにお墓を作りました。寂しくないよう、わたしたちもそこに入ろうと決めています」 この家から寺までの道順と、墓の場所を記した便箋を差し出され、和彦は覗き込む。建物が密集して道が入り組んだ地域ではないため、地図はシンプルで、わかりやすかった。おかげで和彦は、昨日、和泉家に歩いて向かいながら、寺らしきものを視界の隅に捉えて
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第45話(16)

 一度部屋に戻った和彦は、出かける準備を整える。外はかなり冷え込んでいるということで、どうしようかと迷ったものの、南郷から贈られた手袋も持っていくことにする。 玄関に行くと、三和土には何足もの運動靴が並んでおり、ぎょっとする。君代によると、どれが和彦の足に合うかわからないので、家にある運動靴をあるだけ持ってきたのだという。和彦はサイズを確認して、何足か履いてみてから、少し大きめのものを借りることにした。 出かけるだけで一騒動だが、気遣ってもらっているとわかるだけに、胸の奥が温かくなってくる。笑顔の君代に見送られて和彦は玄関を出た。 風の冷たさが想像以上だったため、門にたどり着くまでの間に手袋をしていた。 地図では、昨日通った道だと寺に行くには遠回りになるらしく、田んぼの間の砂利道を通ることにする。 傍らを流れる用水路を覗き込み、散歩途中の犬にまとわれつかれたので撫でさせてもらったり、遠くで上がる凧に見入ったりと、街中とはまた違った散歩を楽しんでいた。 もしかすると、この地で自分が育っていたら、こんなふうに毎日ここを歩いていたかもしれない――。 和彦はふっとそんな想像をして、軽く身震いしていた。寒さのせいなのか、それ以外の何かを感じたのかは、よくわからない。 民家が立ち並ぶ車道に出たが、車や人の姿はまばらだ。そんな中を歩いて気づいたことがある。 通りの家の多くが玄関先に正月飾りをしているのだが、和泉家にはそれがなかったということだ。あれだけ立派な屋敷だ。しめ縄や門松が出ていても不思議ではないのに、一切ないのだ。朝の総子の口ぶりによると、正時の具合からそれらを準備する状況ではなかったようだし、さらに、和彦の訪問に合わせて慌ただしく予定を組んだり、準備をしていたはずだ。 自分は和泉家に新たな嵐を呼び込んだことにならないだろうかと、和彦は無意識に歩調を緩めていた。 顔を合わせた人たち皆が暖かく迎え入れてくれたからこそ、申し訳なさを感じる。 何げなく視線を上げた先で、看板が見えた。地図を確認すると、花を買うよう言われた商店で間違いないようだ。 さっそく店の前まで行くと小さなスーパーで、軒先テントの下には果物や野菜の他
last updateLast Updated : 2026-08-31
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