和彦は、総子の発言をすぐには理解できなかった。数瞬、呼吸すら忘れる。「ぼく、が……」 総子に手を取られてなんとか部屋に入る。ぎこちなく座布団に腰を下ろして愕然としている間に、君代がやってきて静かに二人分のお茶を出すと、すぐに部屋を出て行った。 それを待って総子が再び語り出す。「紗香が当時、精神的に不安定だったというのは、言い訳にはならないでしょう。ただ、それが原因で善悪の区別がつかなくなり、母親としての本能が暴走したと、考えています。親としては、そう願わずにはいられなかった」「……ぼくは、生まれてすぐに、佐伯家に引き取られたと聞いています。それがどうして、母が、そんな――」 ここで和彦は、俊哉から言われたことを思い出す。「父に言われました。ぼくが、短い間一度だけ、母と暮らしたことがあると。そのときに、何かあったんですか?」「『暮らした』というのは、俊哉さんにしては、婉曲な表現ね」 総子の口調がわずかに皮肉げだったのは、気のせいではないだろう。「まずは、紗香について話しましょうか。その様子だと、あまり教えてもらってはいないのでしょう?」「どういう人だったかということは、ほとんど何も……」 わずかに教えられたのは、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったことぐらいだが、次の総子の言葉を聞いて、和彦は目を丸くした。「――子供の頃からおとなしくて、手がかからない子でした。あまり自己主張もせず、親に逆らうこともなく……。綾香とは対照的な姉妹でしたよ。外に出て自立して、自分で見つけた相手と結婚した綾香の代わりに、婿を取って、この家を守っていくとも言ってくれて」「婿?」「紗香には婚約者がいました。和泉家と古いつき合いのある家の次男で、子供の頃からお互いを知っているという安心感もあって、あとはいつ式を挙げるかという話にまでなっていました。でも、そんな紗香の前に現れた男性がいた」「ぼくの父、ですか?」「いいえ」 えっ、と声を洩らした和彦の顔を、総子はし
Last Updated : 2026-08-29 Read more