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All Chapters of 血と束縛と: Chapter 1561 - Chapter 1570

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第44話(10)

 自嘲気味な呟きが耳に届く。内奥の入り口を唾液と思しきもので湿らされ、指を出し入れされる。感じる異物感は、内奥の襞と粘膜を擦り上げられているうちに砂糖菓子のように溶け、もどかしい疼きだけが残る。 唾液をさらに垂らされ、指の本数を増やされながら、和彦の内奥は綻んでいく。三本の指をしっかりと挿入され、掻き回すように蠢かされていた。「んうっ……、は、あぁっ。んっ、んっ」「ほら、しっかり腰を上げて、俺によく見せろ。お前のいやらしい――」 魅力的な声が紡ぐ卑猥な言葉は、まるで愛撫そのものだ。和彦は涙ぐみながら、懸命に指示に従う。 開いた足の間に片手が差し込まれ、反り返った欲望を掴まれる。その間も、内奥を指で押し広げられ、潤う蜜がない代わりに、たっぷりの唾液を施された。「ひぁっ」 欲望の先端を擦り上げられて、腰が揺れる。「この部屋に、綿棒はあるか?」「……な、に……」「あとでここも、じっくり可愛がってやる。漏らすほどな」 和彦の肌がざっと粟立つ。苦痛と紙一重の狂おしい刺激――快感を思い出したからだ。男たちによって目覚めさせられた感覚に、自分はすでに虜になりつつあるのではないかと、ふいに怖さを覚える。だが、嫌だとは言えなかった。それが賢吾の手によってもたらされるものなら、なおさらだ。 内奥から指が引き抜かれ、背後で賢吾が身じろぐ気配がする。 戦くほど熱いものが、喘ぐようにひくつく内奥の入り口に擦り付けられる。それだけで和彦は鼻にかかった呻き声を洩らしていた。「――入れるぞ。和彦」 低い囁きとともに、圧倒的な力によって内奥を押し広げられる。重苦しい痛みが下肢に広がり、和彦は慎重に息を吐き出す。すかさず、欲望の太い部分を呑み込まされていた。「はっ……、あっ、あっ、あぅっ……」「相変わらず、美味そうに咥えるな。そんなに、〈これ〉が好きか?」 含まされたばかりのものがあっさりと引き抜かれ、尻の肉を割り開かれる。また検分されているのだ
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第44話(11)

 嵐のような快感は、惜しむ余裕もなく終わりを迎える。和彦は、口腔で精を放っていた。当然のようにすべてを飲み干した。 顔を上げた賢吾が指先で自分の唇を軽く拭い、それを目にした和彦は、初めての行為というわけでもないのに、ひどくうろたえてしまう。 目が合うと、さらりと問われた。「また飲んでやろうか?」「……バカ」「おう、誰に向かってそんな口を利いてる」 明らかに本気ではない凄みを見せながら、賢吾が緩んだ内奥の入り口を指でまさぐってくる。和彦が小さく声を上げると、強引に腰を進めてきた。奥深くを抉るように突かれて、体中が歓喜する。 膝を掴まれて両足をしっかりと持ち上げられていた。賢吾が力強い律動を刻み、送り込まれる快感に和彦はすぐに我を失う。悦びの声を上げていると、精を放ったばかりの欲望を賢吾に掴まれる。「あっ、待っ……。まだ、そこ――」「言っただろ。空っぽにしてやると」 律動に合わせて欲望をてのひらで扱かれ、和彦はその手を押し退けることができない。前後から押し寄せる強い刺激に惑乱しながらも、懸命に賢吾の快楽のために仕え、その分身となるものを締め付け、襞と粘膜で舐める。内奥の淫らな蠕動を、ことさら賢吾は喜んでくれた。「可愛いオンナだ。お前は本当に……」 そう囁かれた途端、和彦の頭の先から爪先にまで、心地いい感覚が駆け巡る。それは、幸福感と表現できるかもしれない。 すがるように見上げた先で賢吾が険しい表情となり、次の瞬間、内奥深くにたっぷりの精を注ぎ込まれる。全身を震わせ、和彦はその感触に酔った。「まだ、仕置きは終わりじゃねーぞ。和彦」 顔を覗き込んできた賢吾が、荒い息をつきながらニヤリと笑いかけてくる。彫像のような男らしい顔に生気を漲らせ、汗を滴らせている。こんな男が、こうも必死に自分を貪っているのだと思ったとき、心の表面に張り付いていた最後の殻が、やっと剥がれ落ちた気がした。 和彦はのろのろと手を伸ばし、賢吾の頬に触れる。その手を掴んだ賢吾は、当然のようにてのひらに唇を押し当てた。「ど
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第44話(12)

 いまさらながら、急に気恥ずかしさが込み上げてきた和彦は、もそもそと寝返りを打って賢吾に背を向ける。「――和彦」 名を呼ばれてから、目の前にグラスがつき出される。結局起き上がった和彦は、そのグラスを受け取り、シャンパンを注いでもらう。さすがにぬるくなっていたが、喉が渇いているため気にならない。あっという間にグラスを空にすると、また注いでもらう。 賢吾は、オードブルやケーキを取り分けた皿をベッドの上に置くと、自らも慎重にベッドに腰掛けた。こんな不安定な場所ではなく、テーブルで食べればいいのにと思っていると、ローストビーフをぺろりと食べた賢吾がいきなり切り出した。「俺からのプレゼントは香水だ。千尋は名刺入れ。三田村からは……中身は見てないが、可愛い袋に入ってたな。申し合わせたわけでもないのに、かさばらないプレゼント揃いだ。愛されてるな、和彦」 意味ありげに笑いかけられ、顔を背けた和彦は二杯目のシャンパンも飲み干す。「〈向こう〉に持って行っても不自然じゃないものだ。まあ、お守り代わりにしてくれと言うことだ」「……ささやかでもいいから、ぼくも何か買っておけばよかった。あんたたちにクリスマスプレゼントを。今年は特に慌ただしくて――」「年が明けて、また元気な顔を見せてくれたらいい。それが何よりだ」 ふいに胸が詰まって、返事ができなかった。うつむくと、乱れたままの髪を優しく撫でられる。「ケーキはどうだ?」「食べる」 賢吾が、フォークで掬い取ったケーキを口元に持ってくる。「サービスがいいな」「俺のオンナが初めて愛を囁いてくれたからな。機嫌は悪いままだが、良くもある」「……意味がわからない」 食べさせてやるということなので、仕方なく口を開ける。クリームが舌の上で溶け、甘酸っぱい味が広がる。「――美味しい」「お前が好きそうだと、千尋がアドバイスをくれたんだ」 やはり仲がいい父子だなと思いながら、ありがたくもう一口食べさせてもらう。しかし、賢吾がじっと口元を見つめてくるため、
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第44話(13)

**** 中途半端な疲労感に浸りながら和彦は、シートに体を預けてウィンドーの向こうに目をむける。昨日まではクリスマス一色だった街並みは景色を一変させ、駆け足で年越しへと向かい始めたようだ。それでなくても慌ただしかった日常の空気に、一層の気忙しさが加わったと感じる。 土曜日である今日、本来であればクリニックは休みなのだが、実はさきほどまで和彦は、そのクリニックにいた。組関係の者を診ていたというのっぴきならない理由からではなく、一人、大掃除をしていたのだ。「いや、それは言い過ぎか……」 つい独りごちてしまうと、ハンドルを握る護衛の男が一瞬、背後をうかがう素振りを見せる。和彦は軽く咳払いをして誤魔化した。 クリニックは、月曜日が年内最後の診察日となっている。 連休に入る前にということか、予約がほぼ隙間なく入っており、スタッフたちと年末の大掃除をやる余裕はない。年明けに業者が清掃に入る予定のため、あえてやる必要もないのだが、プライバシーに関わるものを置いてある空間ぐらいは自分たちの手で、ということになった。 そこで、クリニックの管理者である和彦としては、一人で心行くまで作業をしたくて、休日出勤をしたわけだ。 手が必要ならうちの若い者を遣わせると、朝方、出かける準備をしていると吾川が申し出てくれたが、もたもたと言い訳をしながら断った。主目的は、息が詰まる本部を出たかったからだ。そんな和彦の思惑など、おそらく吾川はお見通しのはずだ。わかりましたと、あっさり引き下がってくれた。 一応クリニックでは、出したままとなっていたクリスマスツリーや、飾り付けを片付けたあと、約一年の間に溜め込んだ資料を整理したり、自分のデスク周辺も掃除したのだ。 それが終わったあとは、のんびりとコーヒーを飲んだりしていたが――。 外で遅めの昼食をとったあと、ついでに買い物も済ませて、こうして帰途についている。 和彦が何げなく髪を掻き上げた拍子に、鼻先を柔らかな香りが掠めた。自身がつけているものなので、香ったところで不思議ではないのだが、反射的に背筋を伸ばしたのには理由がある。クリス
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第44話(14)

 エレベーターに乗り込んでから、ああ、と声を洩らした。さきほどの南郷の発言は、勝手に部屋には入っていないとアピールする意図があったと察したのだ。多分。いや、絶対に。 自分が疑り深くなり、穿った見方しかできない人間になるのではないかと、薄ら寒い気分になる。人からクリスマスプレゼントを贈られるなど、本来は嬉しい出来事であるはずなのに。 和彦はもう一度、手首をそっと鼻先に近づけた。**** どれだけ嫌だと思おうが、時間を停めることはできない。 とうとう、実家に向けて出発する日がやってきた。 朝から和彦はひどく緊張していた。前夜は安定剤を飲んでベッドに入ったが、気が高ぶっていたせいで、短くまどろんでは目が覚めるということを繰り返していた。おかげで頭が重い。 部屋で一人で朝食をとったあと、ベッドに腰掛けた和彦は、スーツケースに詰め込んだ荷物を改めて確認する。里帰りは、一応一週間を予定している。クリニックの仕事始めは年明け六日からとなっており、その日までにはなんとしても戻ってこなければならない。「どこに――……」 無意識に言葉が口を突いて出る。そして、肩を落としていた。 和彦としては長嶺の本宅に戻るつもりだが、周囲は、この総和会本部こそが戻ってくるべき場所だと認識しているはずだ。自分が知らないところで、総和会と長嶺組の駆け引きが始まっているのだろうかと考えると、それだけで胸が締め付けられる。 ため息をついてから、忘れ物はないだろうかと室内を見回して、テーブルの上に置いたものが目に留まった。南郷からのクリスマスプレゼントだ。羊革を使った滑らかな手触りの手袋で、かさばらず実用的なものをと、考慮したのかもしれない。 和彦はテーブルに歩み寄り、複雑な気持ちで手袋を眺める。物に罪はないと頭ではわかっていても、使うには抵抗がある。そこに、控えめなノックの音が響いた。「――先生、そろそろお時間です」 返事をした和彦は、反射的に手袋をジャケットのポケットに突っ込む。慌ててロングコートを羽織ってからドアを開けると、吾川が立っていた。
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第44話(15)

 護衛をつけられない代わりに、和彦自身に慎重になってもらいたいと、何度も念を押された。総和会だけではなく、長嶺組からも。 後部座席に乗り込んだ和彦は、すでにもう気疲れしていた。 今からこの調子で、実家に着いたときにはどうなるのか――。 ふっと息を吐き出したところで、吾川が車内を覗き込む動作をする。ウィンドーを下ろすと、わざわざ声をかけてくれた。「行ってらっしゃいませ、先生」「……行ってきます」「元気な姿で戻られるのをお待ちしております」 吾川に見送られながら車が静かに走り出し、ウィンドーを戻す。 本部を出た瞬間、出勤時とはまったく違う感情が和彦の胸の内に生まれる。もしかして、もう二度と、ここを訪れることがないのではないかと、漠然と考えていた。 反射的に身震いをしたのは、そうなったとき、必然的に長嶺の本宅を訪ねることもできない可能性に気づいたからだ。 魔が差したのかもしれない。自らを不安に陥れるようなことを考えてどうするのかと、和彦は身じろいでから、外の景色に目を向ける。見慣れた道を車は走り、曲がり角でスピードを落とす。 前触れもなく、視界の隅に人影が映った。住宅街の景色に紛れ込んでしまう、地味な色合いのスーツを着た男――。 ハッとした和彦は目を見開き、食い入るようにその人影を見つめる。数メートル先の電柱の陰に立っていたのは、紛れもなく和彦の〈オトコ〉の姿だ。「みっ――」 危うく声を出しそうになり、必死に呑み込む。三田村も、車中の和彦をじっと見つめていた。 何時に本部を発つか、和彦は長嶺組に連絡を入れていない。総和会で予定を立てると言われて、和彦自身が把握していなかったためだ。つまり三田村は、朝からずっとあの場所に立っていたことになる。 少しの間車を停めてもらおうとしたが、すぐに思い直す。三田村が独断でやって来ていたのだとしたら、総和会に行動を知られては、三田村の立場を危うくしかねない。 和彦はウィンドーに軽くてのひらを押し当てる。手を振れないが、これで気持ちは伝わるはずだと信じて。 振り返って最後まで三田村の姿を見ていた
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第44話(16)

 家の様子に大きな変化はなかった。そういえばこんな感じだったなと、ぼんやりと思い出をたぐり寄せながら、二階へと上がる。自分の部屋は物置きになっているのではないかと、多少危惧していなくもなかったが、ドアを開けて安堵した。最低限の家具類しか置いてはないものの、子供の頃から使っていた和彦の部屋が、確かに目の前にあったからだ。 コートを脱いで、ベッドに腰掛ける。部屋の空気は澱んでおらず、定期的に換気が行われていたのだとわかる。触れたシーツはしっかりと糊が効いており、デスクの上などには埃が見当たらない。通いの家政婦がやってくれているのだろうが、少なくともこの部屋の存在を忘れられてはいなかったということだ。 一息つく間もなく、和彦はガーメントバッグを開けてスーツを取り出すと、クローゼットにコートと一緒に掛ける。他の着替えはデスクの上に出しておいた。 ここで手持ち無沙汰となり、なんとなく携帯電話を手にしていた。必要ないとは言われているが、無事に到着したと連絡だけはしておこうかと考えていると、階下から微かな気配がした。 慌てて一階に下りると、帰宅した様子の俊哉と廊下で顔を合わせた。 咄嗟に声が出ず、顔を強張らせる和彦に対して、俊哉は驚いた様子もなく言った。「――久しぶりの実家はどうだ。和彦」 開口一番に面罵されることを覚悟していた。そうされて当然だとも思っていた。しかし、予想に反した俊哉からの言葉に、形容しがたい感情が込み上げてくる。緊張や畏怖もあるが、それ以上の何かが。「変わってないと、思う。ぼくの部屋は全然……」「母さんは手を入れたがっていたがな。わたしが、そのままにしておくよう言った。いつお前が戻ってきてもいいように」 和彦はようやく、正面からしっかりと俊哉の顔を見つめ返すことができた。体面を繕うための穏やかな笑みはなかった。これが俊哉の素顔だ。 一人の人間として、自分を見てくれているのだろうかと、和彦は考えてしまう。「ぼくは父さんにとって……、ううん、この家にとって、本当に必要なんだろうか」「不必要だと答えたら、すぐに出ていくか?」 あまりな言いよ
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第44話(17)

 和彦は意識しないまま、口元に手をやる。急に吐き気が込み上げてきた。 俊哉は抑えた声音で言った。「わたしとお前にとっての因果が巡ってきたというところだな。よりによってこの時期に、〈向こう〉が動き出したというのも」「父さんと、ぼく……?」 こちらを探るように俊哉が一瞬目を眇める。そして、ああ、と声を洩らした。「……本当に、覚えてないんだな。わたしがずっと遠ざけてきた甲斐はあったということか。お前にとってよくない場所だったからな。この先も縁遠いままであればよかったが、そうもいかないようだ。事情があるらしく、相手はひどく急いでいる。ここで断ると、お前に会いに押し掛けてきても不思議ではないと判断した。今は、これ以上の揉め事は困る」 ここで深く息を吐き出した俊哉が、指で目頭を押さえる。どうやら疲労が溜まっている様子だ。 守光とのやり取りで神経をすり減らしたのか、仕事が多忙だったせいなのかと考えるが、本人には聞けない。息子の勘として、俊哉のプライドを傷つけるだろうと思ったからだ。 数十秒ほどの静寂のあと、姿勢を戻した俊哉が口調を変えないまま言った。「――英俊が、今になって迷い始めている」 何を、と和彦は視線で問いかける。このとき、口元にやっていた手をやっと下ろした。「国政への出馬と、婚約について。まだお前にはきちんと話してなかったが、どうせヤクザ共が調べて、その報告を受けているんだろう。英俊からも聞いているんじゃないのか」「出馬のことは聞いていたけど、婚約については……。前に会って話を聞いたときは、兄さん、張り切っているようだった。父さんたちも協力してくれているって言ってたし。何が――」 和彦はハッとして顔を強張らせる。佐伯家にとって自分の存在が一番の障害になっていると、当然のことを思い出していた。「ぼくのせいで……」「そうとは言い切れない。〈あれ〉は、この家とわたしに依存して生きてきた。そこから切り離されて生きていくことに、いまさら不安を覚えたんだろう」 和彦はそっと眉を
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第44話(18)

 英俊は優秀で、両親どころか親族たちからの期待を一身に受け、それに見事に応えてきた。叶わないことはないとでもいうように、充実した日々を送り、順調に省内で出世し、このまま俊哉のあとを追いかけ続けると、誰もが思っていた。しかし、実際のところ、俊哉の口から一度でも英俊に対して、『官僚になれ』、『佐伯家を継げ』と言ったことがあったのだろうか。もしかすると、政治家を目指すというのも、英俊の意思がどれだけ反映されているのか。 ふと疑問が過った瞬間、寒気がした。 俊哉が望んでいるはずだと信じて邁進してきた英俊が、その俊哉から婿養子に行くよう言われたとしたら、どう感じるか。 和彦は瞬きもせず、真正面から父親の顔を凝視する。昔からほとんど衰えることのない容色と、他人を惹きつける謎めいてすらいる華やかで艶やかな雰囲気は、ある意味毒気だ。和彦はこのとき、守光の存在を思い出していた。 内心うろたえ、動揺を表に出すまいと努める。今は、俊哉と守光の関係を問う場面ではない。「――……父さんは、兄さんに対して声を荒らげたことがある?」 俊哉にとっては意外な質問だったらしく、わずかに目を細めた。「どうしてそんなことが聞きたい」「兄さんは、ぼくに対してはよく声を荒らげていた。あの人は、父さんをなんでもコピーしようとしてたわけじゃない。自分を律しようと努力はしてたけど、感情的な人間だよ。もちろん、ぼくも」 話していて、自分は英俊に同情しているのだろうかと、自問したくなる。和彦の、兄に対する気持ちは複雑だ。だが決して、憎んではいないのだ。 ふふ、と俊哉は声を洩らして笑った。「わたしも、お前たちと同じだ。どこまでも感情的で、だからこそ己を律する術を身につけた。そうしないと、自壊するとわかっていたからな」「……ぼくは、感情的になった父さんを見てみたかったよ。いつだって落ち着いてて、遠い存在に思えた。きっと兄さんも。ずっと、父さんが何を考えているかわからなかったんだ。一番わからなかったのは、どうして、ぼくをこの家に引き取ったのか――」 そもそも、怜悧狡知な俊哉が、なぜ義妹と関係を持つという行為に至
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第44話(19)

「鷹津が、総和会を引っ掻き回すために、憎まれ役をやるつもりだと教えてくれたのは、父さんだよ。……あの男はさらに何かやるつもりなんだろ?」「さあ。わたしは何も聞いていない。お前が心配したところで、簡単に野垂れ死ぬ男でもなかろう」 そう、と応じて部屋を出た和彦は、ドアを閉める寸前に一瞬だけ、俊哉の表情を盗み見た。非常に険しい顔をしていた。 廊下を歩きながら、俊哉の表情の意味を考える。昔一度だけ、あの表情を間近で見た記憶があった。常に冷静な父親がこんな顔をするのかと、幼心に強く記憶に刻み込まれたのだ。 それなのに、いつ、どんな状況であったのかが思い出せない。 胸の奥がざわざわと落ち着かなくなり、急き立てられるように足早に玄関ホールに出たところで、ある人物と遭遇した。 和彦は大きく見開いたあと、反射的に半歩だけ後退ってしまう。まだ、心の準備ができていなかった。「――帰っていたの」 針を潜ませた冷ややかな声に、妙なことだが、実家に戻ってきたのだと実感していた。 和彦はぎこちなく笑いかける。「ただいま、母さん」 綾香は、久しぶりに顔を合わせた〈息子〉を容赦なく観察してきた。頭の先からつま先までじっくりと見つめられながら、和彦もまた、母親を控えめに観察する。 昔から、スカートを穿いた姿をあまり見せない人だった。今もパンツスーツ姿で、髪もきれいにまとめている。異様な若々しさを保っている俊哉ほどではないが、六十代前半には見えない容色だ。かつては省庁で有望な女性官僚として勤めていたが、和彦が美容外科医に転科して慌ただしくしていた頃にいつの間にか退職し、その後は大学で教鞭をとっている。 非常に整った顔立ちをしているのだが、表情は女性的な柔らかさが乏しく、近寄りがたい雰囲気がある。このあたりは俊哉とよく似た夫婦といえる。 もっとも綾香の場合、頑なな殻をまとっていなければ、己を保てなかったのではないか。そう気づいたときから和彦は、どれだけ冷たく接されようが、笑いかけることができるようになった。「さんざん迷惑かけたのに申し訳ないけど、年末年始の間、ここに滞在させてもらうから」
last updateLast Updated : 2026-08-23
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