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All Chapters of 血と束縛と: Chapter 1591 - Chapter 1600

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第44話(40)

****「――両手に花です」 隣を歩いている〈彼女〉の言葉に、和彦は軽く首を傾げてから、斜め後ろを歩いている英俊にちらりと目を向ける。不機嫌そうに唇を歪めたまま反応しないため、仕方なく和彦が問いかけた。「何が……ですか?」「今のわたしが、両手に花ということです。よく似た素敵なご兄弟に囲まれて」 なんとも答えようがなくて、和彦は視線をさまよわせる。 英俊の婚約者は楽しそうだが、和彦はずっと困惑し続けている。前日に俊哉から、家族で出かけるとは言われていたが、場所については何も教えられなかった。そのことについては、もう仕方ないと受け入れている。和彦は従うだけだ。 しかし、困惑するぐらいは許されてもいいだろう。 英俊の婚約者と、その両親を交えての昼食会だと告げられたのは、移動中の車内でだった。向かう先は、婚約者両親が暮らす邸宅。 ハンドルを握る俊哉の横顔を一瞥して、和彦は心の中で呟いた。三日前に会ったばかりではないか、と。 和彦の言わんとしたことを表情から読み取ったらしく、俊哉は、お前はお嬢様の眼鏡に適ったようだと、シニカルな口調で応じた。 和彦は、前を走る英俊が運転する車にぼんやりと目を向けていた。その助手席には綾香が座っている。わざわざ二台の車に分乗したのは、和彦に言い含めておくことがあったからのようだ。 つまり面談で、和彦の存在が不穏当だと判断されていれば、婚約の話は流れていたかもしれないのだ。そんな場に、大した説明もなく連れて行かれたのかと、ゾッとするしかなかった。俊哉にも、兄の婚約者にも。 そして現在、一同に会して和やかな雰囲気の中で昼食をとったあと、親同士で大事な話があるということで、英俊と婚約者、そこに和彦も加わって、部屋を移動していた。 大企業の創業者一族という、華やかな家柄に相応しい邸宅だった。建物だけではなく、さりげなく置かれた調度品や美術品には手間も金もかかっているのだろうと、容易に想像できる。 佐伯家の場合、俊哉も綾香も家の中が片付いていればいいという考え方で、だからこそ飾り立てることに興
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第44話(41)

「……いえ、そんなことは……」 まさか今の和彦の生活ぶりについてまで、光希に報告しているとは思えないが、受け答えは慎重になる。「でも、経営者には向いてそう。この人のために尽くしたいと思わせるタイプ。うちのおじいちゃんがそれよ。物腰が柔らかくて、偉ぶってなくて。そのせいで、どこか頼りないと陰口を叩かれることもあったそうだけど、大半の人は、盛り立ててあげないと、って気持ちになるみたい。もう昔のようにバリバリと仕事をする立場じゃないけど、でも、人たらしぶりは健在。いまだに〈お友達〉が多いみたい」 わたしね、と光希が続ける。「おじいちゃんと同じ種類の人と、最近出会ったの。誰だかわかる?」 話を聞いていて、ある人物の顔が脳裏に浮かんでいた和彦は、光希の反応を探りながら答えた。「――もしかして、ぼくたちの父、ですか」「素敵なおじさま。官僚として優秀なのににこやかで優しくて、しかもあんなに眉目秀麗。いろいろな方面から話を聞いたけど、あなたのお父様を悪く言うものは一つもなかった。若い頃から、たくさんの人から好意や尊敬の念を向けられてきたんでしょうね」「ええ、まあ……。自慢の父で――」「でもきっと、家族に見せる面は違う」 きれいなネイルが施された自分の指先を眺めながら、光希が言う。「おじいちゃん、他人からの評判のよさとは違って、家庭だと暴君だったの。今はずいぶん丸くなったけど、それでも、うちの親は逆らえない。おじいちゃんが、わたしに婿を取らせろと言うなら、そうするしかない。あなたのお父様とずいぶん気が合うようだから、縁続きになるのが楽しみなんでしょうね」「……嫌じゃ、ないんですか」「嫌どころか、結婚の話が出てからずっと、ワクワクしてる」 示し合ったように二人は、ガーデンルームで観葉植物を眺めている英俊へと目を向けていた。「あなたとお兄さん、どちらがお父様と似ているの? わたしは、楽しい人と結婚したいなあ」 暗に、結婚相手は和彦でもかまわないと仄めかされる。正式に結納を交わしてはい
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第44話(42)

** 午後二時を少し過ぎて、ようやく西宮家を辞することになったとき、和彦は誰にも気づかれないよう深く息を吐いていた。自分の役目を無難にこなせたという安堵の気持ちからだ。 親同士はどうであったかはわからないが、少なくとも、光希とは終始無難に過ごせたと思う。もっと場を盛り上げられたかもしれないが、主役はあくまで英俊と光希だ。和彦は脇役らしく二人の会話を繋ぐことに努めた。光希は機嫌を損ねなかったし、英俊も再びガーデンルームに逃げ込んだりはしなかったため、働きとしては十分のはずだ。 和彦は、帰りも俊哉の運転する車に同乗し、わざわざ見送りに出てくれた光希の姿をサイドミラー越しに見つめる。 別れ際、英俊にも言葉をかけていたが、和彦には『近いうちにまた会いたいな』と耳打ちしてきた。言葉の深意は――考えるのはやめておいた。「――明日、帰るよ」 信号待ちで車が停まったのをきっかけに、和彦は切り出す。なるべく自然にと思ったが、声はわずかに上擦っていた。 俊哉は前を見据えたまま唇に薄い笑みを浮かべる。「どこに」「どこに、って……」「総和会と長嶺組、父親と息子で、お前の所有権を争っているんなら、お前がどちらを選んでも、波風が立つ。おとなしくこちらにいたほうが、結果として長嶺の男たちのためになるんじゃないか。息子とは面識はないが、父親のほうは狡猾で老獪な狐だ。揉めたところで、息子が痛手を負うだけだ」 実の父からこんなことを言われて、本来であれば消え入りたくなるべきなのだろうが、和彦は別の想いに囚われていた。俊哉は、長嶺の男――というより、守光の性質を知り抜いている、と。 俊哉と守光の関係を今こそ問おうとしたが、言葉を発したのは俊哉が先だった。「お前の用は終わってない。むしろ、重要なのはこれからだ」 和彦は目を見開いて俊哉の横顔を凝視する。「どういう意味……」「言っておいただろう。行ってもらう場所があると」「でもそれはっ――」 誰にも知らせず、ホテルで光希と会うことではなかったのか。和彦はそう思い込ん
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第44話(43)

 微かに震えている自分の手を、和彦はきつく握り締める。「完全に忘れたままならそれでよかったが、そうじゃない。話していてわかったが、お前の中には確かに記憶が残っている。中途半端に、忌々しいほど優しい形でな」「本当の、母さんのこと……」「お前を和泉の家から遠ざけたかったのは、そのことがあるからだ。お前が子供の頃は、また口が聞けなくなるような精神状態にはしたくないと理由をつけて、向こうの家に連れていかなかった。成長してからは、勉強が忙しいところに余計な負担はかけたくないと。大人になってからは、仕事に夢中で実家に寄りつきもしないとも言ったな。とにかく時間を稼ぎたかった」 不穏な影がぴったりと背に張り付いたような、嫌な感覚が生まれた。少し息苦しさを覚え、和彦は大きく深呼吸をする。「わたしなりの人生設計があった。概ね予定通りだったが、狂いが生じた。……きっかけは、長嶺の男と出会ったことだろうな」「……ぼくが? それとも、父さんが?」 俊哉は答えなかった。 車を走らせている途中、無機質な着信音が鳴り始める。俊哉のジャケットのポケットから聞こえてくるが、車を停める気配も見せない。「おそらく、英俊だろう。車がついてきていないことに気づいたんだな」「それじゃあ、兄さんと母さんにも、何も言わず?」「あの二人には関係のないことだ」 関わらせたくない、という気持ちからなのだろうが、どうしてこういう物言いしかできないのかと、詰りたくなる。「――ぼくと父さんにとって大事なことが、和泉の家にはあるんだね」「杞憂で済めばいいが、わたしの悪い予感は、だいたい当たる」 車が向かった先は、ターミナル駅だった。周辺にある駐車場に車を停めた俊哉は、自身のブリーフケースから取り出した封筒を和彦に渡してきた。「中に、新幹線の切符が入っている。それと地図も。財布は持ってきているか?」「う、ん……」「一応、いくらか入れてある。着替えは適当に買い揃えて持って行け。今から出発だと泊まりになる」
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第45話(1)

 こぢんまりとした駅を出た和彦は、白い息を吐き出しながら、その場に立ち尽くしていた。 見慣れない風景に、澄み切った空気と吹き付けてくる風の冷たさ。それら一つ一つを丹念に確認してから、和彦はゆっくりと辺りを見回す。 コンビニと喫茶店、ビジネスホテルにガソリンスタンド。目についた建物を心の中で羅列してみたが、すぐに後が続かなくなる。新幹線から在来線に乗り換えて、窓の外を流れる景色がどんどん変化していく様子を眺めてはいたが、和彦の感想としては、長閑な地方都市にやってきたのだなという一言だった。 列車から降りたのは和彦以外には三人で、あっという間に駅から立ち去ってしまう。尾行がついていないのは確実だ。 和彦はボストンバッグを肩にかけ、すでに冷たくなりかけている手を擦り合わせる。俊哉の指示通り、泊まりに必要な最低限のものは、新幹線に乗る前に慌ただしく買い揃えた。せめて、事前に教えてくれていればと、今になって苛立ちを覚える。 おかげで、お守り代わりとしていた、千尋と三田村からのクリスマスプレゼントを持ってこられなかった。賢吾の香水だけは、実家を出る前につけてきたが、時間とともに香りは淡くなり、もうすぐ消えてしまうだろう。 唯一、南郷から贈られた手袋は、コートのポケットに突っ込んだままだったというのは、皮肉というしかない。 物に罪はないからと、和彦は言い訳のように胸の中で呟きながら、手袋をする。 俊哉からのメモを取り出し、目的地までの道程をもう一度確認する。簡潔さを極めたような内容で、和泉家の住所と降りる駅しか記されていないのだ。一応、和泉家の電話番号も書いてはあるが、まさか、迎えに来てほしいと連絡できるはずもない。 雪もちらついており、立ち尽くしているわけにはいかない。和彦は駅に戻ると、案内所で移動方法などを聞いてから、バスの時間も確認し、コンビニで買い物をして小銭を作ってくる。 バスがやってくるまでしばらく待つことになり、いっそのことタクシーを使おうかと考えなくもなかったが、あまり急いで着きたくないという思いもあり、和彦の心中は複雑だ。 熱い缶コーヒーがすっかり冷めた頃にバスがやってきて、急いで飲み干して乗り込む。 車内は暖房が
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第45話(2)

** 案内所で教えてもらった停留所がアナウンスされたとき、和彦はバスの振動と暖かさのせいで、ぼんやりとしていた。我に返り、慌てて降車ボタンを押す。いつの間にかバスには、和彦以外の乗客がちらほらと乗っていた。 降り立った場所の周囲は広大な田畑となっており、遠くに人家が見えている。「……今日中にたどり着けるかな……」 不安から、ぽつりとこぼした和彦だが、運よく畑仕事をしている人を見つけて声をかける。 あからさまに胡乱げな表情を浮かべられたが、和泉家の名を出すと態度は豹変する。ある方向を指さし、この道の突き当たりにある〈屋敷〉が和泉家だと、愛想よく教えてくれた。「屋敷……」 きれいに区分された土地のうえ、道はまっすぐに整備されているため、見通しはいい。確かに突き当たりに何か建物がある。 和彦は礼を言って立ち去る。 歩きながら、寒さが麻痺するほど緊張していた。万が一にも面罵されるような事態になれば、これ幸いと逃げ帰るかもしれない。和泉家での自分がどんな存在なのか、あえて最悪な想像をしておくほうが、何があっても精神的に楽だ。 ようやく道の突き当たりまで来たとき、和彦の額にはうっすらと汗ばんでいた。 古めかしくも手の込んだ工法で造られているとわかる土塀がずっと続いており、たどり着いた門は、家の格を感じさせる立派な数寄屋門だ。石階段を上がって表札を見ると、〈和泉〉と彫られている。 和泉は元は豪農の家で、山林やそれ以外の土地も多く所有しており、その関係から企業人との交流も盛んだったという。一時期は投資でも成功を収めており、地元での権威は絶大だと、ずいぶん前に俊哉が話していた。 そんな家で誕生し、違法な形で養子に出された自分に、いまさらどんな話が――。 門の前に立ったまま、なかなかインターホンを押せないでいた和彦だが、閉じた門の向こうから人の話し声と足音が聞こえてきて、動揺する。一瞬、どこかに隠れようかと思ったが、そんな場所はどこにもない。 そうしているうちに門が開く。「先生っ、上着を着
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第45話(3)

「あ、の……」 戸惑う和彦に対して、男性は取り繕うように笑いかけてきた。「ああ、ごめんなさい。昔の知人によく似ていたものだから、もしかして身内の方なのかと思って」 雰囲気そのままに、口調も柔らかだった。和彦は数回目を瞬いたあと、いまさらながら、ここは〈母親〉の生まれ育った地なのだと実感する。しかも、実家の前だ。いくらなんでも誤魔化すのは無理がある。「……この家の主の孫、です」 やっぱり、と洩らした男性は、ふっと笑みを消すと、気遣わしげな視線を門の向こうへと投げかけた。それだけで、和彦も不穏な気配を感じ取る。 病院が休みであるはずの三が日に、往診を頼むぐらいだ。誰かに、何かが起こったのだ。 本当に自分はこの地を訪れてよかったのだろうかという思いは、移動中ずっと胸を塞いでいた。そして今、和彦の中に過ったのは、自分は疫病神なのではないかという考えだ。「ご高齢だからね。少しでも体調で気になることがあれば、いつでもお呼びくださいとお願いしているんだよ。杞憂で済めばそれでいいし、万が一にも何かあれば、すぐに大きな病院への入院の手続きができる。今回は、杞憂のほうだ」「そう、ですか……」「去年からずっと、お孫さんと会えるのを楽しみにされていたんだ。少し興奮したのかもしれないと、ご本人は笑っていらっしゃったよ」 ここで車のクラクションが短く鳴らされる。看護師の女性が運転席から身を乗り出して、こちらを見ている。「ああ、いけない。これから、新年の集まりにお呼ばれしているんだ」 そう言って男性は車に駆け寄ろうとしたが、ふいに立ち止まって和彦を振り返る。さきほどまでとは一変して、真剣な顔をしていた。「一つ、不躾な質問をしていいかな?」「えっ」「――君の年齢が知りたい」 なぜ、と思わなくもなかったが、男性が和泉家から出てきた医者ということもあり、和彦は素直に答える。「来月で、三十二になります……」「三十二……。そうか、君が――
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第45話(4)

「あのっ――」  和彦が石階段を駆け下りるより先に、車は走り去ってしまう。  少しの間、その場に立ち尽くしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、インターホンを鳴らす。応じたのは元気な女性の声だった。名乗ると、数秒の間のあと、慌てた口調ですぐに迎えに出ると言われる。  その言葉通り、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきて、門が開く。出迎えてくれたのは、割烹着姿の中年女性だった。 「寒い中、お待たせしましたっ。どうぞお入りください」  大きな声に面食らった和彦だが、満面の笑顔を向けられて、門を潜る。  まず驚いたのは、目を瞠る敷地の広大さだった。土塀に囲まれてはいても閉塞感が一切ないのは、露地から見渡せる景色のよさのおかげだろう。  寄棟屋根の大きな平屋が母屋で、渡り廊下で別棟が繋がっている。さらに、ざっと確認できただけでも、白壁の土蔵が三つ、納屋らしき建物もある。広々とした庭の先にはなだらかな坂道があり、そこから山へと上がれるようだ。ただ、ここからの位置では、和泉家の全容を見ることはできない。  一つの集落がすっぽりと収まっているみたいだなと、観光地を訪れたような感想を抱きつつ、和彦は玄関に入る。  廊下を歩いていた白猫といきなり目が合った。さらに、下駄箱の上にはトラ猫が。見知らぬ他人がやってきたというのに警戒する様子もなく、香箱座りで寛いでいる。 「このお家、猫が多いんですよ。あっ、猫は大丈夫ですか?」  靴を脱いだ和彦はスリッパに履き替えながら、表情を緩める。 「はい。飼ったことはありませんが、好き、です……」 「昔は、外飼いがほとんどだったんですよ。お米とか蔵に保管してあって、ネズミ駆除のために。でも今は、その必要もなくなったんですけど、不思議と猫が居ついちゃうんですよ。旦那様も奥様も、寂しくなくていいからっておっしゃって、みんな引き取られて」  肉付きも毛並みもいい猫たちは、ずいぶん可愛がられているようだ。和彦はトラ猫に触れてみたかったが、機嫌を損ねるのを恐れてやめておく。  案内されて廊下を歩いていると、夕食の準備をしているのか、いい匂いが漂ってくる。医者の往診を頼む事態が起こったにしては、張り
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第45話(5)

 ボストンバッグとコートを女性に預けてから、部屋に入る。座卓についた高齢の女性がじっと和彦を見つめていた。着物姿だからというだけではないだろう。凛然とした佇まいに和彦は気圧され、緊張すら一瞬忘れてしまう。 声が出ない和彦に対して、高齢の女性は穏やかな笑みを口元に湛えると、座布団を外して畳の上に正座し直す。そして、深々と頭を下げた。「――お帰りなさい。和彦さん」 まさか、仰々しい挨拶で出迎えられるとは想像していなかった和彦は、慌ててその場で正座して、同じく頭を下げる。「長らくご無沙汰しておりまして、申し訳ありません」「あなたが謝ることではありません。むしろ悪いのは……」 ここで一旦言葉が途切れたあと、頭を上げるよう言われて従った。改めて向き合うと、にっこりと笑いかけられる。こんな表情を目にしてしまうと、勘違いしそうだった。 自分は、和泉家に歓迎されていると――。「あの……、おばあ様、と呼んでも、いいですか?」「小さい頃のように、〈ばあちゃま〉でもかまいませんよ」 和彦が曖昧な表情を浮かべると、祖母である和泉総子はわずかに顔を伏せた。このとき、肩の上で切り揃えられた白髪がさらりと揺れる。「やっぱり、覚えていませんか」「すみません……」「あなたは悪くありません。悪いのは、わたしたちです。……佐伯の家では、ずいぶん肩身の狭い思いをしてきたでしょう。あの娘は、気位が高いうえに、強情なところがありますから。紗香の子に冷たく接しているのではないか、ずっとそのことが気がかりでした」 総子は、和彦が置かれていた環境をどこまで把握しているのか。それを問おうと口を開きかけたとき、板戸の向こうからさきほどの女性が呼びかけてきた。それを受けて総子が立ち上がる。「込み入った話を始める前に、まずは〈じいちゃま〉に顔を見せてあげてください。ずいぶん楽しみにしていたのですよ。うちの人は特に、あなたを可愛がっていたから」『可愛がっていた』という言葉に、和彦は不思議な感覚に陥る。
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第45話(6)

「……ずいぶん、静かですね」「大勢の人が出入りしていたのは、十年以上も前の話です。今は、商売を畳んだり、この辺りのいくつかの田畑以外は、貸し出すか、処分しましたから。あとの世代に苦労と面倒を背負わせたくないというのが、わたしと主人の考えです」 途中、総子に言われて洗面所に立ち寄り、丹念に手を洗う。ガラス戸の部屋の前で差し出されたマスクをしてから、ようやく和彦は祖父である正時との対面を果たすことができた。 ベッドに横たわる正時は酸素マスクをつけており、深くゆったりとした呼吸を繰り返していた。眠っているかと思ったが、和彦たちの気配を感じ取ったように目を開く。総子が顔を寄せて告げた。「和彦さんが来てくれましたよ」 意識ははっきりしているようで、正時の視線は迷うことなく和彦に向けられ、表情が和らぐ。何か言おうと正時は唇を動かしたが、すぐに咳き込み、代わって片手を布団の下から出した。意図を察し、和彦は痩せた手を握り締める。ドキリとするほど熱く、かかりつけ医を呼んだのはこの熱が理由なのかもしれない。「和彦です。顔を出すのが遅くなりました」 よく来てくれたと、咳が落ち着いてから、絞り出すような声で正時が言う。勘違いなどでなく、総子同様、和彦の訪問を歓迎してくれているのだ。 傍らの総子を見遣ると、嬉しそうに笑みを湛えている。正時はまだ話したそうにしていたが、宥めるように総子が言葉をかける。「熱が下がってから、思う存分話してください。和彦さん、ゆっくりしてくれるそうですよ」 一瞬視線が泳いだ和彦だが、すぐに頷く。この場で否定できるはずもなかった。なんにしても、今日は泊めてもらうことになる。 明日の予定は、明日考える。 短い対面を終え、最初に通された部屋に戻りながら総子が教えてくれた。「心臓が、だいぶ弱っているんです。年齢が年齢ですから、仕方がないんでしょうけど。――この家に婿に入ってくれてから、とにかく一生懸命働いてくれた人で、いい歳になったら、さっさと隠居して二人でのんびりしましょうねと話していました。でもお互いの性分で、それが無理で……。娘の一人を亡く
last updateLast Updated : 2026-08-29
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