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All Chapters of 血と束縛と: Chapter 1621 - Chapter 1630

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第45話(27)

** 昼頃まで横になっていた和彦だが、朝方、総子に言われていた予定が気になり、起き上がっていた。 慎重に布団から出てみたが、心配していたような眩暈はなく、足のふらつきもない。やはり身体的に問題が起こったというより、精神的なショックが強すぎた故の失神だったのだろう。 枕元に残っていた湯呑みと急須がのった盆を抱えて部屋を出ると、廊下に、窓ガラスの向こうをじっと見つめている白猫がいた。昨日玄関で見かけた猫かと思ったが、一回り小さくまだ若い猫のようだ。和彦に気づくと、小さな声で鳴いてから、素早く側にやってくる。身を擦りつけるようにして和彦の足元にまとわりついてくるため、できることなら撫でてやりたいが、盆を持ったままでは叶わない。 どうしようかと立ち往生していると、ふいに若い白猫は身を離し、ひときわ甘い声を上げた。見れば、総子がこちらに向かってくる。「あら、置いたままでよかったのですよ」 そう言いながら和彦からさりげなく盆を受け取った。「もう起きて大丈夫ですか? 顔色はまだよくないようですけど」「動ける程度には、もう……。午後から、弁護士さんが来られると聞いていたので、気になって」「それは、明日に変更していただきました。今日は近くにある宿に泊まってゆっくりされるそうなので、あなたが心配しなくても大丈夫ですよ」 当然のように、和彦がこの家にもう一泊することは決定しているようだ。「……すみません」 お腹は空いていないかと問われ、正直、食欲はまったくなかったが、少しでも血の巡りをよくするためにも胃に何か入れておこうと考えた。 若い白猫は途中まで和彦たちに同行していたが、ふいに廊下を曲がってどこかに行ってしまう。「母親を探しているのですよ、あの子は。家の中で見かけませんでした? 大きな白猫。それが、あの子のお母さん。あんまりあの子が甘えるから、母親のほうが逃げるように移動していて、まるで追いかけっこをしているみたい」「そう、ですか……」 つい和彦は視線を伏せた。今、母子の話題を出されると
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第45話(28)

「いいお肉を配達してもらったから、今晩はすき焼きにしましょうね。明日のお昼は炊き込みご飯がいいかしら」 麺を一本、二本と啜っていた和彦だが、やはりどうしても気になってしまい、おずおずと総子に尋ねた。「――……墓地で倒れていたぼくを、見つけた人がいたんですよね? どうして、ぼくがこの家に滞在している人間だとわかったんですか?」「最初から、あなたを知っていたからです」 総子の言葉に、すぐには反応できなかった。和彦は目を瞬いてから、ゆったりとした口調とは裏腹に、休みなく動き続ける総子の手元をなんとなく見つめる。「昨日、あなたに言ったでしょう。この先を生き抜くための武器を与えると。何もそれは、和泉家が代々受け継いできた財産のことだけではありません。わたしたち夫婦が築いてきた人脈もあるのですよ」「人脈……」「昨日、お墓参りに向かう途中で、気になる人たちを見かけませんでしたか?」 総子の問いに対して、和彦の脳裏に浮かんだのは、小さなスーパーで見かけた二人組だった。この土地にまったく馴染んでいない風体で、帰省客かと咄嗟に判断したぐらいだ。 和彦は頷く。「予定では、弁護士の先生に同行するはずでしたが、急遽、彼らだけで一足先にこちらに来たそうです。でもそのおかけで、気を失ったあなたを助けることができたのですから、彼ら特有の勘が働いているのかもしれませんね。びっくりしました。気を失ったあなたが、背負われて帰ってきたのですから」「……どういった、人たちですか?」「心配しなくても、会社勤めをしている、身元のしっかりした人たちですよ」 意識しないまま奇妙な表情を浮かべていたらしい。ちらりと視線を上げた総子が、和彦の顔を見るなり声を洩らして笑った。「その会社は、わたしたちが設立したものです。便宜上必要でしたから。――綾香や英俊はともかく、あなたは今後、深くつき合うことになるでしょう。ですから、今回は顔合わせも兼ねて、こちらに呼んだのですよ」 どういった会社なのか気になるが、さすがに今日はもう、頭の中に情報が溢れすぎて限界だった。
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第45話(29)

** 何から切り出すべきなのかと、借りた携帯電話を手にしたまま、和彦は途方に暮れていた。俊哉に言いたいこと――確認したいことがあまりにありすぎる。 しかし、連絡しないわけにはいかない。 和彦が難しい顔で考え込んでいると、ヒーターの前で丸まっていた黒猫がふいに起き上がり、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。伸ばしていた和彦の足に軽く身をすり寄せると、甘えるような顔で見上げて鳴く。 この部屋のヒーター目当てで、自分の存在など目に入っていないのかと思ってあえて構っていなかったのだが、予想外の態度を示された。そっと片手を差し出すと、黒猫は自らあごを擦りつけてくる。気をよくした和彦は、ここぞとばかりに撫でさせてもらう。柔らかく滑らかな毛並みと、てのひらから伝わってくる高めの体温が心地いい。「温かいな……」 仰向けになって腹まで撫でさせてくれた黒猫は、気が済んだのか、あっさりとヒーターの前へと戻っていく。 少しだけ肩の力が抜けた和彦は、その勢いで俊哉に電話をかける。携帯電話の呼出し音を聴きながら、ある種の感慨深さを覚えていた。 俊哉と別れてから、まだ丸一日しか経っていないのだ。その間に、和彦はいくつもの真実を知り、さらに封じていた記憶が蘇った。衝撃を受けすぎて神経が麻痺しているのか、手足を動かし、さまざまなことを自分の頭で考えているのに、どこか他人のものであるような、奇妙な違和感がある。 ついてのひらを眺めたのは、この体に、俊哉の血は流れているのだろうかと思ったからだ。感傷的になっているわけではなく、ただとにかく、具合が悪かった。 壁にもたれかかったそのとき、呼出し音が途切れ、俊哉が出た。和彦は咄嗟に声が出ず、不自然な沈黙が十秒ほど流れた。『――今どこにいる』 開口一番の俊哉の言葉に、安堵と同時に不快さを感じた。この人は何があったも変わらないと、嫌でも痛感した。「和泉の家、だよ……」『総子さんから、いろいろ聞いたか』「……うん」 紗香の墓参りのあと気を失ったとは言えなかった。ただ、体
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第45話(30)

『そんなことを聞きたくて、電話してきたのか』「大事なことだっ。少なくとも……、ぼくにとっては。ううん、きっと、父さん以外の人たちにとっても大事だと思う」 俊哉は書斎にでもこもっているのか、物音一つ伝わってこない。『――血は、呪いだ』 ふいに俊哉が切り出す。今度は和彦が息を詰める番だった。『大半の人間にとってはそうではないだろうが、少なくとも、佐伯の血はそうだ。それに、和泉の血も。逃れたくても逃れられない。わたしは昔から、それが疎ましくて仕方なかった。否応なく体に流れる血と、だからこそ受け継ぐことを当たり前とされる官僚としての人生。求められるなら、淡々と歩めばいいと、ずっと思っていた。興味はないが、それが佐伯俊哉という人間に与えられた生き方だ』「何、言って……」 佐伯という名家の名と、自らの努力で手に入れた権力を誇りにしている。それが俊哉だった。和彦の思い込みなどではなく、俊哉自身がそう振る舞っていたのだ。優秀な長男に家を継がせ、その長男が結婚して子が誕生したら、当然のように官僚の道を歩ませ、佐伯家を継がせる。そうやって佐伯の名と血は続いていく、はずだった。『あるとき、わたしの前に一人の男が現れた。嬉々としてその呪いを受け入れている、愚かだが、力と生気を漲らせた男だった。つまらない問題の処理に、その男の手が必要だったんだが、危惧した通り、男はわたしにつきまとってきた。だからわたしも、便利に使ってやった』 ああ、と和彦は小さく息を洩らす。俊哉が誰のことを語っているか、すぐに見当がついた。『……ずいぶん昔の話だ。お前は生まれていないし、英俊はまだ幼かった。――綾香は、二人目の子は望めない体だった。わたしも、跡取りの英俊がいるのだから、もう一人欲しいという感情はなかった。ただ、何も知らない親戚たちのお節介な忠告が、心底疎ましかった記憶がある……』 家庭は子供中心となり、綾香は慣れない子育てに奔走し、淡々とした俊哉の日々の生活は大きな変化に呑み込まれたのだという。その変化には、男との――長嶺守光との出会いも含まれていた。
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第45話(31)

「……友人、だった?」 バカなことを言うなという意味か、俊哉は短く息を吐いた。鼻で笑ったのかもしれない。『一時的な用心棒代わりにあの男を使っている間に、わたしたちは互いに毒を注ぎ込んだ。――組をただ次の代に繋いでいくためだけの、能無しの装置なのかと罵ったら、顔色を変えていたな。わたしに対しては、心の中で毒づきながらも、結局家の名から逃げれる気のない#怠惰者__なまけもの__#だと、あの男は言った』 理解したくないが、理解できてしまう者同士、言葉で互いの弱い部分を抉ったということだろう。『それで、二度と会うつもりはなかった。わたしは、わたしの人生を歩むことにしたからな。長嶺にしても、同じだったかもしれない。だが忌々しいことに、和泉家が抱えたトラブルの処理のために、わたしはまた、助けを借りることになった』「もしかして、母さ……紗香さんの婚約破棄の件で、和泉家と婚約者の家が揉めていたこと……」『佐伯と和泉と長嶺、血の呪いを受け継ぐ家同士の、共同作業だ。さすがに、和泉の家と長嶺を接触させることはしなかったし、言われたこと以外はするなと釘を刺しておいた。和泉の家に厭われると、土地に厭われる、という忠告も』 このとき再会した守光は、もう夢見がちな、父親に従うだけのヤクザではなくなっていたという。『奴の父親は死んでいた。突然死したと新聞の記事には出ていたが、長嶺本人は、追い落としたとわたしに話した。詳しくは聞かなかった。……違うな。聞けなかった』 熱を帯びることも、抑揚が変わることもない俊哉の話しぶりに、和彦は怖気立つ。脳裏に浮かんだのは、紗香の命が消える瞬間を見ていた自分たち父子の姿だ。『――紗香も、わたしと同じような人間だった。和泉の血を呪いながら、どう足掻けばいいかもわからない。初めて会ったときに受けた印象は、綾香によく似てはいるが、おとなしい、従順さだけが取り柄の女というものだった。そんな彼女が変わったのは、賀谷という医学生と恋仲になってからだ』「……賀谷先生に会って、知っていることを全部教えてもら
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第45話(32)

『自分が妊娠したと知ったとき、紗香は動揺していた。子供は産みたい。しかし、そうなれば確実に自分から引き離される。田舎の名家だ。婚約者以外の男の子を産んだなどと知られるわけにはいかないからな。見も知らない遠戚に養子にやられるぐらいならまだいい。縁も所縁もない人間のもとにいってしまったら――と、それをずっと心配していた』「……同情したからぼくを引き取った、というわけじゃないんだろう……?」 俊哉の語りを聞いていれば、嫌でもわかる。紗香との間に甘さや優しさを含んだ感情など介在していなかったのだと。 電話の向こうから微かに何か軋む音が聞こえてきた。書斎のイスに座り直した音だと見当をつけた和彦は、自らも、膝を抱えるようにして座り直す。『同情なんてものは、薄っぺらな感情だ。……紗香から妊娠の話を聞かされたとき、これは天啓だと思った。お前は、望まれて生まれた子だ。間違いなく』「ぼくに、その言葉を信じろと?」 皮肉っぽく洩らした和彦は、その口調が俊哉に似ていることに気づき、ハッとする。体を形成するものだけが、〈親〉から受け継ぐすべてではないのだと、この状況だからこそ実感していた。 俊哉の口ぶりで、もうとっくに悟ってはいるのだ。自分は、俊哉の血を引いていないと。それでも、父子として生活してきた時間は、確かにこの体に宿っている。「わからない……。父さんみたいな人が、どうして必死になってまで、ぼくを手元に置きたがったのか」『長嶺と出会って、わたしは気づいたんだ。佐伯の血をどうしたいのか。――お前は、わたしが歩めなかった、わたしのもう一つの人生だ』 わからない、と和彦は絞り出すようにもう一度呟く。それが聞こえなかったのか、あえて無視したのか、俊哉は話を続ける。『紗香とは約束を交わした。子はわたしが引き取り、佐伯家の人間として育て、和泉の家には渡さないと。わたしの、というより、綾香の手元に置けるということで、紗香はひどく安堵していた。常にわが子の居場所がわかるということが、何より大事だったのだろう。ただしわたしは、お前が幼いうちは接触するのを禁じ
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第45話(33)

「――……約束を守れ、って、そういう意味だったんだ」 呻くような和彦の呟きが何を指しているか、すぐに俊哉は解した。『お前の存在を目立たせるわけにはいかなかった。しかも、紗香と一緒にいるなど、あってはならないことだ。――ただ、わたしなりに、あの結末は後悔している。紗香は、あんな亡くなり方をしていい人間ではなかった。世間知らずだが、普通の優しい女だったんだ。お前が、当時のことを忘れてしまったのは不幸中の幸いだと、ずっと思っていたが……』 深く息を吐き出して、和彦は抱えた膝に顔を埋める。秘密を封じ込めていた箱の紐は、一度緩んでしまえば、あとは簡単に解けてしまう。開いた箱から溢れ出たものが和彦の中を満たしていき、苦しくて堪らない。「……ぼくの人生は、生まれる前から決められていた、ということか……」『それでも、自由にはさせたつもりだ。進学のために一人暮らしをさせて、医者になったあとも、佐伯の家に戻ってこいとは言わなかった。いつか英俊が佐伯の姓を捨てたあと、お前が戻ってくれば、それでよかった。何かを強いるつもりはない。お前は佐伯の人間として生きてさえいればいいんだ』「兄さんは、佐伯の家を大事にしている。父さんの思い通りにならない可能性があるのに」『〈あれ〉は、あまりにわたしに似すぎている。わたしの人生をたどろうとして、わたし以上に血に殉じようとして――苦々しかった。英俊は、若い頃のわたしだ』 佐伯の血が流れている英俊から、あえて姓を奪うという行為は、血の呪いから解放してやりたいという親心なのか、佐伯の家の系譜を歪めてやろうという、俊哉なりの復讐なのか。 わからない、と和彦は何度も声に出して呟く。俊哉の抱えている闇の深さが、本当にわからなかった。どれほど、佐伯の血を疎んでいるのかも。「父さんは、ぼくに意思があることを忘れている。もしぼくが、全部知ったうえで、和泉の家に入ると決めたら、どうするつもりなんだ。今みたいな話を聞いて、どんな顔をして家に戻ればいい……」『和泉の家に入ったところで、お前は紗香と同じ苦し
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第45話(34)

「そんな……」 和泉の家に住む人たちと接してみて、そんな企みがあるとは到底思えなかった。少なくとも総子はもう、家の将来について諦観のような感情を抱いていると感じた。「血の呪いだと言いながら、父さん自身が、ぼくに呪いをかけようとするんだね……」『お前がこちらに戻ってきたら、膝を突き合わせて、いくらでも時間をかけて語ろう。――お前が佐伯家を継ぐべき人間だと、何度でも言ってやろう』 ふいに猫が鳴き声を上げ、体を丸めたままこちらを見る。大きな丸い目を見つめ返しながら和彦は、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。「母さんは、全部知ってる?」『……どうだろうな。英俊を婿養子に出す話に前のめりなのは、綾香なりに、わが子を守りたいと思ってのことかもしれない。佐伯や和泉の家から引き離そうと』 初めて抱く感情だが、和彦は、自分自身を強烈に哀れんでいた。同時に、叫び出したいほど猛烈な怒りに襲われた。そして次の瞬間に襲われたのは、虚無感だった。「血の繋がらないぼくに託すぐらいなら、父さん自身が、抗うべきだった。父さんの対応次第で、紗香さんはあんな亡くなり方をしなくて済んだかもしれない」『そのことに気がついたときには、手遅れだった。そもそもわたしも、長嶺と出会っていなければ、考えなかった。……いろんなことを』 俊哉の声は、暗い澱みのようなものを感じさせた。胸の内にずっと隠し持っていたものを晒しながら、この人はどんな感情に支配されているのだろうと、想像せずにはいられない。一方の和彦自身は、疲れからか声が掠れ気味となっていた。 まだ聞かなければならないことがあるのではないかと、忙しく頭を働かせるが、思考は緩慢になりつつある。 昨日までとは、まさに世界が一変したのだ。佐伯という姓に対しても、家族に対しても、自分は異物だという認識はあったが、完全に血が繋がっていないという現実は、あまりに非情だ。「だったらぼくも、父さんと同じだ。長嶺の男たちと出会って、いろんなことを考えるようになった。その中の一つに、佐伯の姓を失っても、生きてい
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第45話(35)

** 結局、俊哉との電話のあと、和彦は部屋に閉じこもったまま、誰とも顔を合わせることができなかった。総子が様子をうかがいに来てくれたが、板戸越しに最低限の会話を交わすのが精一杯で、それで総子は察してくれたようだ。 夕食はわざわざ部屋まで運んでもらったが、ほとんど口をつけることができなかった。 届けられた抗不安薬を服用したあと、和彦はただ横になって天井を見上げていた。ゆらゆらと視界が揺れていたのは、薬のせいなのか、浮かべた涙のせいなのかも、気に留めなかったぐらいだ。ただひたすら、考え続けていた。 いつ自分が眠ったのかもわからず、ひどい喉の渇きを覚えて目を覚ましたとき、今が何時なのかわからず混乱する。 部屋の電気はつけたままではあるが、ヒーターは消して休んでいたことに安堵する。しばらく和彦の傍らにいてくれた黒猫も、そろそろ仲間の元に戻るようにと、抱えて廊下に出したのだ。 頭上に手を伸ばし、リモコンをたぐり寄せる。テレビをつけると、見覚えのあるニュースキャスターがニュースを読んでいる。画面の隅に表示された時刻を見て、小さく声を洩らす。「朝、だ……」 テレビに目を向けたまま和彦はぼんやりしていたが、いつまでもこうしているわけにはいかず、気力を振り絞って起き上がる。両瞼が腫れぼったく、きっとひどい顔になっているだろうなとため息をつく。 顔を洗いに行こうと半纏を着込んで外に出ると、何か抱えた総子がこちらにやってくる。 昨夜、礼を失した態度を取ったことを謝罪しようとしたが、そんな和彦を柔らかく制し、総子は微笑んだ。「お風呂が沸いているから、入ってきてください。温まってから、朝食にしましょう」 差し出されたのは、きれいにアイロンがかけられたワイシャツだった。 受け取ったワイシャツを眺めて、今日の予定を思い出す。「……今の状態だと、弁護士さんの話をまともに聞けそうにありません」 ぽろりとこぼした弱音に、表情を変えないまま総子が応じる。「何も心配はいりません。面倒なことは、この家と弁護士の先生で引き受けますから。あな
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第45話(36)

「闇……なんでしょうか。父さん自身は、光を見出しているのかもしれないと、なんとなく思って……」「あなたは、引きずられてはいけませんよ。闇だろうが、光だろうが、それは俊哉さんのものでしかないんです。――わたしの娘たちは、それがわからなかったのかもしれません」 そう言った総子が、突然何かを思い出したように、小さく声を洩らした。一瞬、逡巡する素振りを見せたものの、毅然とした眼差しで和彦を見上げてきた。「お風呂に向かう前に、あなたに見てもらいたいものがあります。……いろいろ思い出したあとですから、もしかするとつらいかもしれませんが」 かまわないと答えた和彦は、総子について歩く。向かったのは、屋敷の奥にある部屋だった。奥とはいっても、晴れた日であれば日当たりのいい一角なのだろう。残念ながら今は薄曇りのうえに霧も出ているが、窓から見える景色は計算されたかのように素晴らしい。けぶる山々と、近景の生垣と花壇の花と。「入ってください」 総子に言われるまま部屋に足を踏み入れて、和彦は目を見開く。なんのための部屋であるか、すぐにわかった。「ここは……」 紗香のための仏間だった。仏壇には、墓に供えてあったのと同じ種類の花が飾られており、室内の雰囲気を明るいものにしていた。 仏壇の前に正座すると、総子は小さいテーブルの上に並んだ写真立ての一つを差し出してきた。収められている写真には、まだ少女らしい面影を残した綾香と、もう一人、わずかに年若でよく似た顔立ちの女性が写っている。片方だけが、穏やかに微笑んでいた。 この人が、と和彦は心の中で呟く。写真を見ても、不思議なほど気持ちは凪いでいた。記憶にあるのは成長した姿の紗香で、写真の少女とは面影が似ているだけとも思えるせいだ。「女の子なのに、二人ともあまり写真が好きではなかったから、あまり撮ってあげられなくて……。あとになって後悔しました」 他の写真も見せてもらったが、高校の入学式らしい制服姿の紗香に、胸が詰まった。生まじめな硬い表情を浮かべており、それが、自分自身
last updateLast Updated : 2026-09-04
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