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1841 Kapitel

第45話(17)

 寺の駐車場は、まだ早い時間帯ということもあってか停まっている車の数は少ない。和彦は反射的に背後を振り返る。男たちはあとをつけてきてはいないようだが、油断はできない。 山門を潜ると、境内には思っていたよりも人の姿がある。初詣目的の他に、近所の人たちにとっては散歩コースの一つなのかもしれない。 境内に設置された案内看板と、総子が書いた地図を見比べる。表からはわからなかったが、寺の敷地は広かった。和泉家から寺に向かう道中より、寺の敷地の中のほうがよほど迷いそうだ。 石畳に沿って移動する前に和彦は、参拝者たちに倣って手水舎で手を清めてから、本堂に目を向ける。実家で過ごしていて新年らしい行事どころではなかったため、せめてこれぐらいはと、賽銭箱に賽銭を入れ、本堂で手を合わせておく。 山門を出入りする人たちを確認してから、足早に移動する。 墓地はいくつかの区画に分かれており、古くからの檀家であろう和泉家の墓は、本堂から一番離れた区画にある。かつては旧本堂があった場所だと、案内看板には書かれていた。 石畳から砂利道に入って数分ほど歩くと、石段へと差し掛かる。両側には地蔵が何体も並んでおり、皆、可愛らしい毛糸の帽子と前掛けをしている。檀家や信者たちによって大事にされている寺なのだと、払い清められた石段や身綺麗にしている地蔵たちの様子から伝わってくる。 人影はなく、おかげで自分のペースで歩くことができる。霜で濡れた石段は意外によく滑り、これが革靴だったらと思うと、緩やかな勾配とはいえ上がるのに難儀したかもしれない。 手すりを掴もうとして、あまりに冷たくて飛び上がりそうになる。やむなくまた手袋をするしかなかった。 黙々と石段を上がり続けていた和彦だが、足元に伸びた影に気づいて顔を上げる。石台の上に据えられた観音像が、穏やかな表情を浮かべていた。長い石段の途中ということで休憩所を兼ねているのか、整備されたスペースにはベンチも置かれている。石台の高さもあってまるで観音像に見下ろされているようだが、どこに向けているとも知れない眼差しの柔らかさに、和彦は惚けたように見入ってしまう。 そのまま立ち去るのも忍びなくて、観音像の足元に置かれた小さな賽銭箱に小銭を入れた。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-31
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第45話(18)

 探すまでもなく、和泉家の墓はすぐにわかった。墓地の一番奥まった場所に一際立派な墓石があり、まだ新しい花が供えられている。紗香の墓は、その隣にあった。墓石は一回り小さいが、それでも十分立派なもので、亡くなって三十年近く経っていることを感じさせない、きれいな墓だった。 たくさんの花が供えられ、しかもその花はどれも生き生きとしている。頻繁に誰かがここを訪れては、花を供え、掃除をしているのだろう。 愛されて、大事にされていた人なのだ。和彦は、墓誌に刻まれた紗香の名をじっと見つめながら、心の中で呟く。 買ってきた小菊も供えると、総子たちが持たせてくれた袋から線香や数珠を取り出す。 墓参り自体は淡々としたものだった。語り掛けるだけの思い出があるわけでもなく、そもそも紗香という人物に対する想いは、和彦の中でいまだに輪郭の掴めないものだ。総子から話を聞かされ、ようやく思慕や憐憫めいたものが胸に湧き起こっているが、それが自分自身の感情なのか、感化されたものなのか、判然としない。「……また来ます」 ようやく、そう声をかけてから立ち上がった和彦は、最後に片方の手袋を外して墓石を撫でる。これが、今生きている自分の温もりだと伝えるために。 手桶と柄杓を返し、帰ろうとしたところで、この場所が見晴らしがいいことに気づいた。石段を上がるときはずっと足元に意識が向いていたため、周囲の景色など見る余裕がなかったのだ。 吹き付けてくる寒風に首を竦めながら、鉄柵の際まで近づく。山を切り開いたような場所にある墓地のため、鉄柵の先は収穫を終えたあとの段々畑となっていた。視線を先に向ければ、この土地の様子がよく見渡せる。田畑だけではなく流れる川。民家に、小学校らしい建物もある。可愛らしい形をした屋根の建物は、幼稚園か保育所のようだ。 改めて、自分がここで育っていたらと想像していた和彦だが、ふと、和泉家の屋敷も見えることに気づいた。広い敷地を取り囲む土塀がよく目立っている。 古く立派な先祖の墓と屋敷は、和泉家がこの土地で生きてきた歴史の長さを物語っていた。代々の当主たちは、別の生き方をしたいと願ったことはないのだろうかと考えてしまうのは、〈家〉や〈血〉に囚われ
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第45話(19)

 急に心臓の鼓動が痛いほど速くなったのは、昨晩の総子の話を思い出したからだ。己の意思では止めようがないほど、記憶を刺激される。もっとよく見える場所を探して和彦はふらふらと歩き出していた。 ようやく、木々の合間から赤い屋根の一部が見えると、大きく息を吐き出した。自分は、あの赤い屋根を間近で見たことがあると、確信が持てた。それは、いままで靄にかかったようにおぼろだった記憶が、鮮明になった瞬間だ。「あぁっ……」 和彦を声を洩らすと、その場に屈み込んでいた。 赤い屋根の建物は、二階建ての山小屋だった。一階には木や枝の伐採で使う道具などが並べて置いてあり、刃が危ないから近づかないようにと言い聞かされた。ずいぶん昔のことなのに、明瞭に耳元で女性の声が蘇る。 幼稚園から戻って一人、自宅の庭に出て花を眺めていた和彦に、初めて見かけた女性は柵の向こう側から親しげに話しかけてきた。お母さんの妹だと名乗られてすぐに信じたのは、母親とよく似た顔立ちをしていたからだ。そして、母親より声音も表情も優しかった。 それが和彦の記憶にある、紗香との初対面だった。 なんと言われて外に誘い出されたのかまではさすがに覚えていないが、強引に連れ出されたわけではなく、和彦は自らの意思で紗香についていった。二人で電車に乗り、途中からタクシーに乗り換え、長い移動の途中にはたくさんのお菓子やジュースを買い与えられたが、すぐに眠くなり、ほとんど口にすることはなかった。 起こされてタクシーを降りたとき、見たこともない景色が広がる場所に立っていた。 ずっと手を繋いで、二人で山を登ったのだ。幼い和彦の足ではひどく険しい道でときおり泣きそうになったが、紗香もまた足取りが覚束なくて、弱音を吐けなかった。何度か座り込んで休憩をするたびに汗を拭ってくれ、髪を梳いてくれて、優しい手つきと眼差しに、和彦は嬉しくなった。 ただ、それもほんの一時だった。山小屋の二階に身を落ち着けると、途端に紗香の様子は不安定になった。和彦に、自分は本当の母親だと言い、ずっと引き離されてつらかったと涙を流したかと思えば、突然、誰に対してなのか呪詛めいた恨み言を叫び、全身で怒りを表した。この頃にはすっかり和
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-01
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第45話(20)

〈本当のお母さん〉に会いたいと、あのときはただひたすら願っていたのだ。あまり笑いかけてくれなかったが、毎朝早く仕事に出かける前には、まだベッドにいる和彦のもとに来て、何度も頬を撫でてくれたし、仕事が休みの日には和彦の好物を作り、美味しいと言うと嬉しそうに笑った。子供の目から見てもわかるほど忙しい人だったが、できる限り寄り添ってくれていた。 母親を恋しがって泣く和彦に、紗香は嬉しそうに微笑んでいた。当時は自分を虐げて喜んでいるのかと思ったが、今なら意味がわかる。自分を求めて泣いていると思い込んでいたのだ。 精神的にも肉体的にも衰弱した和彦を助けてくれたのは、俊哉だった。血相を変えて部屋に飛び込んできたかと思うと、畳の上で毛布に包まってぐったりとした和彦を見るなり、紗香を怒鳴りつけた。約束を守れ、と言っていた気がする。 二人の揉み合いに巻き込まれ、体を揺さぶられた和彦は嘔吐してしまう。怯んだ紗香が身を引いた瞬間に、俊哉は和彦を抱き上げた。立ち去ろうとした俊哉に、紗香は必死にすがりついていた。 和彦は荒い息を吐き出す。今は真夏ではなく、ここは息苦しいほどの熱気が立ち込めた山小屋でもない。それなのに容易に、意識はあの頃へと引き戻される。 紗香を振り払った俊哉が一階に下り、外に出ようとした瞬間、あとを追いかけてきた紗香が鋭い声を上げた。俊哉にしがみついた和彦が見たのは、置いてあった鎌を手にした紗香だった。 あのとき、俊哉と紗香の間に駆け引きはなかった。紗香は強張った顔で鎌を首筋に当てたが、俊哉は止めなかった。その代わり、和彦の両目を手で覆ったのだ。次に紗香を見たとき、血を流して床に倒れ込み、弱々しい声で和彦を呼んでいた。 手を伸ばされて、握ってと言われているのだと気づいたが、俊哉が身を引いて拒み、和彦も首を横に振った。「……違う。ぼくは、もっとひどいことを――……」 紗香が亡くなる瞬間を、ただ俊哉と一緒に見ていたのだ。怪我をして痛そうだとか、せめて側にいてあげようとか、そんなことは頭にも浮かばなかった。ただ、もうつらい思いをしなくていいのだという安堵感に支配されていた。 間近に見た俊哉の横顔は、非
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-01
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第45話(21)

**** 意識が戻ったとき、和彦は暖かい部屋に寝かされていた。何があったのかと軽く混乱したが、すぐにここは和泉家の屋敷で、自分が使っている部屋だとわかる。ただ、どうして今のような状況になっているのかは不明だった。 墓地にいたのだ。実母の墓参りをして、そして――。 前触れもなく、ひっと息を詰まらせた和彦は、次の瞬間には咳き込む。舌もうまく動かせないほど口中が乾ききっており、喉も痛い。身を捩った拍子に布団の傍らに目を向けると、水差しとグラスが盆に載せられ置いてあった。とりあえず水を飲もうと体を起こしたが、途端に頭がふらつき、すぐに突っ伏してしまう。このとき、布団の中の湯たんぽに気づいた。 漠然と、意識をなくしている間、周囲が騒々しかったことを思い出していた。夢だったのかもしれないが、甲斐甲斐しさがうかがえる部屋の様子を知るにつれ、少しずつ状況が把握できてきた。服も、楽なスウェットの上下に着替えさせられている。 そのうえで、まっさきに浮かんだ疑問は、誰がここまで運んでくれたのかということだ。 見知らぬ誰かが、墓地でうずくまった和彦を発見したのであれば、救急車を呼ぶ可能性が高いはずだ。昨日の午後にやってきたばかりの和彦が、和泉家の身内だと近所に周知されるはずもなく、そうなると可能性はごく限られてくる。 あとで総子に尋ねてみるしかないが、墓地で取り戻した記憶に比べれば些末なことにも思え、うつ伏せの姿勢のまま和彦はじっと考え込む。あの山小屋で何が起こったのか、正時や総子は知っているのだろうかと、それが気になった。実の娘のあんな凄惨な死に様を目の当たりにして、当時の二人が味わったであろう悲嘆ぶりを想像すると、胸が締め付けられる。 実母の死の重みが、ズシリと和彦にのしかかってくる。同時に、罪悪感も。すべて思い出した以上、逃げ出すことはできないのだ。 今すぐ俊哉に電話すべきではないかと思い至り、再び体を起こそうとしたとき、板戸の向こうで猫の鳴き声がした。まだ幼い感じのする声で、開けてくれと訴えかけてくるような鳴き声に意識を奪われ、数秒、思考が無になる。そのおかげで、かろうじて落ち着きを取り戻せた。 猫の鳴き声
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-01
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第45話(22)

「もっとも、ぼくの体に染みついた消毒薬の匂いが嫌で、逃げているだけなんだろうけど」 診察鞄を置いて、男性が布団の傍らに腰を下ろす。このとき確かに、ふわりと消毒薬の匂いがした。 和彦が水を飲みたがっているとすぐに察したのか、水差しの水をコップに注いでくれる。和彦はなんとか頭を起こし、水を飲むことができた。「――和泉家の墓の近くで、うずくまって気を失っていたと聞いたよ」 体を横向きにして和彦が枕に頭を預けたところで、男性が切り出す。「とにかく早く来て欲しいと言われて飛んできたんだ」「……すみ、ません……」「体調を悪くした人が謝る必要はない。――まず血圧を測ろうか」 男性は診察鞄から血圧計を取り出して準備をすると、和彦の手を取った。ここぞとばかりに和彦は、じっと男性の顔を観察していた。 自分の、実の父親かもしれない人。ぼんやりとそんなことを考える。 血圧と熱を測り終えた男性に聞かれるまま、今の体調について答える。ふと、大事なことをまだ聞いていないことに気づいた。「先生の、お名前を伺ってもいいですか……?」「伺う、なんて言ってもらえるような大層なものじゃないけど、そういえばまだ名乗ってなかった。――賀谷、だよ」「賀谷先生……」「賀谷晴秋。賀正の賀に、渓谷の谷。そして、晴れた秋と書く。どんな日に生まれたのかわかりやすいだろう?」 そうですねと応じて、和彦は大きく深呼吸をする。聞きたいことはいくらでもあるのに、胸が詰まって上手く言葉が出ない。そんな和彦を気遣わしげに見つめていた賀谷は、いきなり正座を崩す。胡坐をかき、やや前のめりの姿勢となった。診察を終えてもすぐに帰るつもりはないと、示すように。 なんとなくだが、いくら急に呼び出されたとはいえ、今日は看護師を伴っていないことに、賀谷なりの理由があるように感じた。それに、白衣を羽織っていないことにも。「君も医者なら、自分がどうして失神したのか、薄々察しはついているんじゃないか?」
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-01
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第45話(23)

 和彦は身じろぐと、慎重に体を起こす。賀谷が手を貸してくれ、なんとか座ることができた。賀谷は和彦の指先を軽く握ってから問いかけてきた。「痺れは?」「いえ……」「寒気とかは……」 大丈夫ですと、顔を強張らせたまま応じると、賀谷に指摘された。「緊張している、かな。――実はぼくも、緊張している。昨日はたまたま君と顔を合わせたけど、今日は違うから」 そう言って賀谷は顔を伏せる。「もう聞いているかもしれないけど、ぼくの父親も医者だったんだ。和泉家には長く世話になっていてね。だから、わかるようになったんだそうだ。総子さんの話しぶりで、これは内密にしたい診察だな、というのが。今日総子さんから、うちにかかってきた電話を聞いて、これかと思った。だから目立つ白衣を置いて、一人で来たんだ」 再び顔を上げた賀谷は微苦笑を浮かべていた。「総子さんは肝が据わっている。ぼくと君をこうやって対面させるんだから。……いつかは、会いたいと思っていたんだ。紗香さんの子に」「ぼくの子に、とは言わないんですね」 自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。賀谷はハッとしたように目を見開いたあと、なぜか慈しむような眼差しを和彦に向けてきた。本能的に感じた。これは、親が子に向ける眼差しではないか、と。 和彦の発言で、ある程度の事情を把握していると察したのか、あらかじめ総子から何か教えられていたのか、賀谷はすぐさま、医者としてではなく、賀谷個人として和彦と向き合うことを決めたようだった。「……弱っている君に話していいものか、ためらう気持ちはあるんだ」「かまいません。全部、聞きたいです」 和彦の中でわけのわからない感情がこみ上げてきて、目頭が熱くなってくる。ぐっと奥歯を噛み締めて、涙を堪えた。「――多くの人は理解してくれないだろう。紗香さんとぼくと、佐伯さんの関係を」 話しながら賀谷が指を組む。「父を……、佐伯俊哉を知っているんですか?」「最初は、紗香さん
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-01
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第45話(24)

「そのときからだ。ぼくが知る、おとなしくて控えめなお嬢さんの紗香さんは変わった。もしかすると、ずっと本当の自分を抑え込んでいただけで、本当の姿は〈こちら〉だったのかもしれない」「本当の姿……?」「気性が激しくなった、というのは、少し違う。そう……、怒りや苛立ちを表に出すようになった。大嫌いだと言っていたよ。自分の実家を。大事だけど、大嫌い。偽らざる、彼女の本心だったと思う」 視線を上げた賀谷は、苦しげに眉をひそめる。「ぼくは、総子さんや正時さんには話せない、彼女との思い出がたくさんある。話せないのは、二人がつらい思いをするとわかっているからだ。こういう感傷を持つのは、ぼくのエゴなのかもしれないけど。――君はどう思う? 自分の祖父母に会ってみて」 こう問われ、和彦の脳裏にまず浮かんだのは、なぜか父方の祖父母の存在だった。すでに二人とも他界しているが、和彦が実家で暮らしていた頃は行き来があり、顔も覚えている。特に可愛がられたわけではなく、それは英俊に対しても同様だった。いくつかの名誉職を掛け持ちしていた祖父母はとにかく多忙で、孫に目をかけている暇などなかったのだろう。 佐伯家を継ぐ男子が生まれて、それだけで満足だったのかもしれない。しかも長男の英俊は優秀だ。ある意味、無関心は、安心感の表れだったともいえる。 自分たちの祖父母とはそういうものなのだと、ずっと和彦は思っていた。「……優しい人たちだと思います。何年も疎遠にしていたぼくと会っても、喜んでくれて……。事情があったにせよ、もっと早くに会って、話したかったです」「ぼくも同じ気持ちだ。家族同様に扱ってくれて、紗香さんのことをいろいろ聞きたいだろうに、こちらの気持ちをずっと慮ってくれる。――父を亡くして、後ろ盾をなくしたぼくをここに呼び寄せてくれたのも、あの人たちなんだ。紗香さんが繋いでくれた縁だ」 賀谷の話に引き込まれながらも、和彦はあることが気になった。「……〈母〉を、憎んでいないんですか?」 和彦の問いかけがよほど意外
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-02
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第45話(25)

「それを受け入れたんですね。賀谷先生は」「不思議と、嫌悪感も嫉妬もなかった。自分は潔癖なタイプの人間だと思っていたけど、そうじゃなかったんだろう。……なんだか、危うくてね。裏切られたとか、そういうことはまったく思わなかった。当時」「……危うくてとは、母が、ですか?」 いや、と賀谷は緩く首を振る。「紗香さんと佐伯さんの二人が」 このタイミングで、板戸を軽く叩く音がした。和彦と顔を見合わせてから、賀谷が立ち上がる。板戸を開けたとき、ちらりと見えたのは総子の姿だった。短く会話を交わしたあと、賀谷は一旦部屋を出る。 和彦の様子について手短に説明したのか、一分もしないうちに賀谷は、湯呑みと急須をのせた盆を持って部屋に戻ってきた。「君が目を覚ましていたら、勧めてくれないかと言われた」 差し出された湯呑みから漂う甘酒の香りに、ほっと吐息を洩らす。少しだけ口に含むと、優しい甘さが体に溶け込んでいく。 甘酒で思い出すのは、ちょうど一年前、初詣に出かけたときのことだ。あのときは、甘酒を勧められたものの、結局一口も飲まないうちに賢吾に取り上げられてしまった。 賀谷はお茶を啜ってから、再び話し始めた。「佐伯さんと自分は似ていると、紗香さんが言ったことがある。最初、ぼくはピンとこなかったけど、一緒にいる二人を見ているうちに、こういうことじゃないかなと思うようになったんだ――」 同志、という単語を賀谷は口にし、和彦は口中で反芻する。「二人の関係は、不倫の一言で片づけることもできるけど、ぼくはそうしたくない。……紗香さんは、とにかく自分が置かれた状況から抜け出したがっていた。何かを変えたくて必死にもがいているようでもあり、佐伯さんはたぶん、そんな紗香さんに共感した。もしくは、紗香さんが佐伯さんに、かも。――目的のためなら、なんでもやってしまいそうな危うさ。当時ぼくが二人に感じたのは、それだ」 俊哉は、優秀な官僚として精力的に働いていたであろう時期だ。当時の俊哉の姿を知らない和彦だが、そんな俊哉に『危うさ』を感じたという賀谷の言葉は、にわかには
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-02
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第45話(26)

 この瞬間、和彦の脳裏に過るものがあったが、一瞬すぎて、それがなんであるかはっきりと捉えることができなかった。「ぼくは、誰にも、何も主張できなかった。紗香さんの意思を尊重したと言えば格好いいが、そうじゃない。敗北感と劣等感で身動きできなかった。結果、産まれた君に一度も会うことは叶わなかったし、会いに行くこともしなかった」 申し訳ないが、と前置きしてから、賀谷はこう続けた。「長い時間が経つ間に、紗香さんのことは鮮やかな思い出になり、彼女が産んだ子供の存在は、どんどん現実味が薄れていった。夢の中での出来事だったのかもしれないとすら、思い始めていた。紗香さんの墓前で、数年に一度、佐伯さんと顔を合わせるたびに、子供のことを聞こうとして、できなかった。教えたくないと言われることも、そんな子供はいないと言われることも、恐れていた。ぼくは勇気のない男なんだ。……ずっと」 この人は、外見はともかく、内面は青年の頃のままなのかもしれないと和彦が思ったとき、棘が刺さったような痛みが胸の奥に生まれた。紗香と過ごしていた時間に心が囚われ続けているのだとしたら、賀谷を愚かとも哀れだとも思わないが、一方で、紗香と俊哉に対しては怒りを覚えるのだ。「賀谷さん……、ご家族は?」「ずっと独身のままだ」 寂しげな笑みとともに、賀谷が答える。「紗香さんを引きずっているわけじゃない。ただ向いてなかったというだけだ。家庭を作るということに」「それは――」 わかる気がする、と言いかけて、寸前で口を閉じる。賀谷は情が薄そうに見えるという同意ではなく、自分もそうだと共感したのだ。 長嶺父子と出会う前まで和彦は、自分は佐伯という姓に縛られたまま、一人で生きて一人で死ぬ人間なのだと、漠然と思っていた。今はどうかと自問してみると――。「でも、ときどき考えていたんだ。この世界には、紗香さんの子がいるんだなと。どんな人生を歩んでいるんだろうかと。聞けば、総子さんは教えてくれたんだろうけど、そのとき自分は、どんな顔をすればいいのかと想像して、怖気づいた。佐伯さんの下で育っているなら、ぼくなんかが心配するのは、失礼だろう」
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