**** 雪解け水を含んだ土はじっとりと湿り、分厚いアウトドアブーツの底がわずかに沈む。小さな沢までの道を歩きながら和彦は、慎重に周囲に目を向ける。まだところどころ雪は残っているが、自然の生命力は強い。積もった雪を押し退けるようにして野草が芽吹きつつある。 ジョギングだけでなく、雪が解け始めてからは散歩も日課に加わったのだが、鷹津が勧めてきた理由がわかる気がした。ゆっくりと歩いていなければ見過ごすこともあるというわけだ。相変わらず毎日寒くはあるが、それでも確実に春は訪れつつある。降り注ぐ陽射しが暖かくなってきたとか、鳥の鳴き声がにぎやかになってきたとか、雪解け水が流れ込み沢の水量も増えてきた。 和彦個人の変化としては、ジムにまじめに通っていた頃ほどではないが、体に筋肉がついてきたし、護身術が多少様になってきた。そして、鷹津の監視なしで、いくつかの料理をまともな味と形で提供できるようになった。あとは――。 黒々とした土の上にあるものを見つけて、和彦は小さく声を洩らす。さっそく、ダウンコートのポケットから本を取り出す。最近山を歩くのが楽しいという和彦の話を聞いて、翔太がくれた山菜や野草が載った図鑑だ。てのひらサイズなので散歩のたびに持ち歩いており、重宝していた。 山菜のページを開くと、土からちょこんと顔を覗かせている植物と見比べる。「フキノトウ……」 翔太から図鑑を渡されるときのやり取りを見ていた鷹津に、山菜は下処理が面倒だから採ってくるなと釘を刺されているため、眺めるだけだ。この歳まで山歩きとはほぼ無縁で過ごしてきた和彦にとっては、この地で生活しながら見聞きしたものはなんでも目新しいが、いまいち鷹津にこの感覚は伝わらないらしい。「ワラビやゼンマイも見てみたいけど、それはもう少し暖かくなってからかなー」 散歩を続けていればそのうち見かけるだろうと思いながら、沢に到着した和彦は耳を澄ませる。鳥の鳴き声や羽ばたく音だけでなく、ときには小さな獣の気配も感じることがあるのだ。首からかけた双眼鏡を覗き、しばらく鳥の姿を追いかけてから、帰ることにする。 もうすぐ渓谷目当ての観光客
Dernière mise à jour : 2026-09-12 Read More