Accueil / BL / 血と束縛と / Chapitre 1671 - Chapitre 1680

Tous les chapitres de : Chapitre 1671 - Chapitre 1680

1836

第46話(39)

**** 雪解け水を含んだ土はじっとりと湿り、分厚いアウトドアブーツの底がわずかに沈む。小さな沢までの道を歩きながら和彦は、慎重に周囲に目を向ける。まだところどころ雪は残っているが、自然の生命力は強い。積もった雪を押し退けるようにして野草が芽吹きつつある。 ジョギングだけでなく、雪が解け始めてからは散歩も日課に加わったのだが、鷹津が勧めてきた理由がわかる気がした。ゆっくりと歩いていなければ見過ごすこともあるというわけだ。相変わらず毎日寒くはあるが、それでも確実に春は訪れつつある。降り注ぐ陽射しが暖かくなってきたとか、鳥の鳴き声がにぎやかになってきたとか、雪解け水が流れ込み沢の水量も増えてきた。 和彦個人の変化としては、ジムにまじめに通っていた頃ほどではないが、体に筋肉がついてきたし、護身術が多少様になってきた。そして、鷹津の監視なしで、いくつかの料理をまともな味と形で提供できるようになった。あとは――。 黒々とした土の上にあるものを見つけて、和彦は小さく声を洩らす。さっそく、ダウンコートのポケットから本を取り出す。最近山を歩くのが楽しいという和彦の話を聞いて、翔太がくれた山菜や野草が載った図鑑だ。てのひらサイズなので散歩のたびに持ち歩いており、重宝していた。 山菜のページを開くと、土からちょこんと顔を覗かせている植物と見比べる。「フキノトウ……」 翔太から図鑑を渡されるときのやり取りを見ていた鷹津に、山菜は下処理が面倒だから採ってくるなと釘を刺されているため、眺めるだけだ。この歳まで山歩きとはほぼ無縁で過ごしてきた和彦にとっては、この地で生活しながら見聞きしたものはなんでも目新しいが、いまいち鷹津にこの感覚は伝わらないらしい。「ワラビやゼンマイも見てみたいけど、それはもう少し暖かくなってからかなー」 散歩を続けていればそのうち見かけるだろうと思いながら、沢に到着した和彦は耳を澄ませる。鳥の鳴き声や羽ばたく音だけでなく、ときには小さな獣の気配も感じることがあるのだ。首からかけた双眼鏡を覗き、しばらく鳥の姿を追いかけてから、帰ることにする。 もうすぐ渓谷目当ての観光客
last updateDernière mise à jour : 2026-09-12
Read More

第46話(40)

 夕食の時間にはまだ早いが、歩いているうちに小腹が空いた。買い置きしてあるクッキーを出して、鷹津が『適当に買った』という紅茶を淹れようかと、のんびりと考えていた和彦の視線の先に、ログハウスがある。さらに、建物前の敷地に立つ鷹津の姿が。 どこかに出かけるのだろうかと、和彦は小走りで駆け寄る。この時間から鷹津が出かけるのは珍しいのだ。「夕飯の材料、何か足りないのか?」「……いや」 短く応じた鷹津が片手を出してきたので、意味がわからず和彦は首を傾げる。ようやく双眼鏡のことだと察して手渡す。このとき、鷹津の表情が最近では見たことがないぐらい硬いことに気づいた。「何かあったのか?」 鷹津は痛みを感じたように唇を歪めたあと、ふいっと視線を動かす。つられて和彦も同じ方向に視線を向け、こちらに向かってくる車列に気づいた。時期的に、ほとんど車も人も通らない道で、ログハウスから先に進んだところで、あるのは狭い歩道だ。山を車で通り抜けるためには違う道に進まなければならない。 何かが起きようとしていると本能で感じ取った和彦は、ただ立ち尽くす。その間にもどんどん車は近づいてくる。車は五台が連なっており、尋常ではない事態を想像させる。 そして車は、四台はログハウス前の道に停まったが、一台の高級車は躊躇なく敷地へと入ってきた。すかさず助手席からスーツ姿の男が降り、スモークフィルムの貼られた後部座席のドアを開けた。一瞬の既視感が和彦を襲い、息が止まりそうになる。〈あのとき〉とは違い、後部座席に座った男は自ら外へと降り立つ。羽織った黒のコートの裾がふわりと揺れ、視線が上げられない和彦はその裾の動きを目で追う。車から降りた男は珍しくブーツを履いていた。「――髪がずいぶん伸びたな」 忌々しいほど魅力的なバリトンが、鼓膜に溶け込む。いつの間にか和彦の前に立った男は、髪の一房をさらりと撫でてきた。 和彦は短く息を吐き出すと、覚悟を決めて正面を――賢吾を見る。身の内に大蛇を棲まわせている男からの、冴え冴えとした眼差しに、心臓が縮み上がる。数か月前まで、自分はこんな恐ろしい存在の傍らに平然としていたのだと、信じられない思いだった。
last updateDernière mise à jour : 2026-09-12
Read More

第47話(1)

 車中の空気はピンと張り詰めていた。和彦は、頭では状況が理解できているものの、感情が追い付かず、ただ前を見据えたまま体を硬くしていた。 隣に座っている賢吾は、車が走り出してから間を置かずに、スマートフォンを取り出して連絡を取り始める。最初の電話は、賢吾の口調から相手が千尋だとわかった。手短に和彦を〈保護〉したと告げ、すぐに電話を切ったかと思うと、今度は本宅にかけているようだった。そうやって電話かけていき、指示を与えていく。 聞き耳を立てなくても、嫌でも話す内容は耳に入ってくる。それでわかったのだが、今日、ログハウスまで賢吾がやってきたのは、慌ただしく予定を変更したうえでの行動のようだ。賢吾だけでなく、助手席に座る組員はしきりにメールを打っては、電話の合間に賢吾に報告をして、指示を仰いでいる。「――俺を電話一本で右往左往させられて、さぞかし痛快だっただろうな。あの男は」 ふいに賢吾がそんなことを呟く。自分に向けられたものだと和彦が察するのに、十秒以上かかってしまった。目を丸くした和彦が隣を見ると、賢吾は無表情ではあるのだが、指先でスマートフォンの縁を落ち着きなく叩いている。賢吾の感情がわずかに漏れ出ているのを、そんな些細な仕草から感じ取ったが、何より和彦が気になったのは、いつから賢吾がスマートフォンを使うようになったのかということだった。 鋭い男の察しはよく、スマートフォンを軽く振って見せてくる。「いい加減切り替えろと、周りがうるせーからな。ついでに、お前の携帯もスマホにして、番号も変更したぞ」 何かあるたびに簡単に携帯電話を替えていたので、スマートフォンにしたと告げられても不服はなかった。強いて言うなら機種は自分で選びたかったが。「佐伯家から、お前の着替えなんかと一緒に携帯も戻ってきたから、データを移しておいた。登録してあった連絡先の中から、何件かはこちらで先に新しい番号を知らせてある。あとは、落ち着いてからお前自身が連絡すればいい」 もともと長嶺組が手配した携帯電話のため、プライバシーも何もあったものではないのだが、この賢吾の言葉を聞いた和彦の中で、元の世界に戻ってきたのだと妙な実感が伴ってくる。見られて困るような電話やメールのやり取りはしていないが、
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
Read More

第47話(2)

「俺たちのオヤジは、立場上、膝をつき合わせて話すのは容易じゃない。何より、お前のオヤジが嫌がった。おかげで、比較的身軽な俺が。四十半ばにもなって使い走りさせられた。総和会本部に顔を出してオヤジと話し、細かい注文を受けて人目につかない場所を設定してはお前のオヤジと会い、折衝。俺を含めて、面子に泥を塗られるのも、意見を曲げるのも嫌がる男たちだ。これだけの時間がかかっちまった。……少しばかり言い訳させてくれ」 賢吾の声音は苦々しげで、横顔にはわずかな疲労の色も浮かんでいる。和彦も体験しているからこそわかるが、ここまでの車の移動には長時間かかる。しかも賢吾の場合は、組の仕事をこなしてからの移動であろうから、負担がないはずがなかった。「詰めの段階になって、総和会は花見会の準備に入っててんやわんやだ。その合間を縫って、ようやく話をまとめて、お前のオヤジに報告した。そして昨夜遅く、鷹津から電話がかかってきた。迎えにくるなら、和彦を返してやってもいい、ってな」 賢吾は何やら毒づいたが、あまりに小声だったためはっきりとは聞こえなかった。 自分の知らないところで、賢吾と鷹津がこんなやり取りを交わしていたと知り、和彦はログハウスでの自分の生活を思い返す。大部分の問題を見て見ないふりをして、のんびりと過ごしていたのだ。その間、自分のために奔走していた男たちがいた。一人は、今隣に座っており――。 和彦は、膝にかけたダウンコートを握り締める。「お前は、自分が悪いなんて思うなよ。あえて言うなら、巡り合わせが悪かった。軽く聞かされた程度だが、俺たちのオヤジには古い因縁があって、今になって家同士の思惑も重なった。お前の周囲にいるのは、性質の悪いヤクザだらけだ。状況を見きわめるために、安全な場所に身を隠すのは仕方ない。……一番悪いのは、俺の不甲斐なさだろうな。古狐どもに振り回されてばかりだ」 最後の呟きはため息交じりだった。賢吾の様子に、和彦はなんと声をかければいいかわからず、ただうろたえる。すると、伏せがちだった視線をスッと上げた賢吾が、まっすぐこちらを見据えてくる。心の奥底まで浚おうとするかのような、無遠慮で傲慢な眼差しだ。「だから最後に、俺
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
Read More

第47話(3)

 賢吾の指示を受けてコンビニの駐車場に車が入る。一旦ここで休憩ということなのか、組員たちが交代で店内に入り、和彦も買い物を済ませておく。とはいっても一円も持っていないため、ペットボトルの水の他に、小袋に入ったクッキーとチョコレートを買ってもらって車に戻ると、後部座席についたままの賢吾はカップに口をつけていた。組員が買ってきたらしく、車内にはコーヒーの香りが漂っている。 「もういいのか?」 「ぼくは大丈夫」  外からドアが閉められ、車に二人きりとなる。落ち着いているのは和彦と賢吾だけで、周囲では組員たちが慌ただしく動いている。馴染みのない土地で賢吾が同行しているとなると、普段とは違う緊張感があるのだろう。どの組員もピリピリしている。  それもこれも自分が原因だと、和彦は一層の申し訳なさを噛み締めていたが、ふとある異変に気づき、周囲に停まっている車の数を確認する。 「……一台、少なくなってないか?」 「うちの車だ。高速で先行させて、今日泊まるホテルやその周りを確認することになっている。何もかも急に決まったからな。いつもみたいに段取りよくとはいかねーんだ」 「泊まる、のか……」 「強行軍で行きは休憩なしで車を走らせたが、帰りは日が落ちて事故が怖い。さすがにそれはやめてくれと、うちの連中に言われた。それに、俺は乗ってるだけだが、それでも腰にくる」  賢吾が決めたのなら、和彦は従うだけだ。  小さく腹が鳴ったので、遠慮なくクッキーの小袋を開ける。何事もなければ今頃、ログハウスでのんびりとクッキーを齧っていたのかと思うと、感傷じみたものが胸の奥で込み上げる。鷹津と夕食の準備について相談し合っていたのだろうかとも考えたところで、和彦はハッとして賢吾を見る。 「どうした?」 「ぼくのことで、秀をひどい目に遭わせ――」  言いかけた言葉は口中で消える。賢吾が心底不快げに顔を歪めたからだ。 「鷹津、だろう」  短く賢吾に指摘された瞬間、和彦の背筋に冷たいものが走る。向けられる氷のような眼差しに呼吸すら止まりそうになった。  取り出していたクッキーを袋に戻そうとして、賢吾に言われる。 「いいから食えよ」
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
Read More

第47話(4)

 長嶺組はいろいろと気を回してくれたようだが、それでも先行きが見えない不安から、二人のスタッフが退職したと聞かされ、和彦は視線を外の景色に向ける。 「……申し訳ないことをしたな、スタッフに。こちらの事情で振り回した」 「復帰したら、しっかり病み上がりのふりをしておけよ」 「あんたにも――」  迷惑をかけた、と言おうとして、やめる。今はこの言葉を口にするのは抵抗があった。口を噤んだ和彦に、賢吾もしばらく話しかけてこなかった。** 早めの夕食をうどん屋でとってから、夕焼けが空を染める頃に今日の宿泊先に到着した。  先行していた長嶺組の組員が駐車場で待機しており、一行を出迎える。賢吾に促されて車を降りた和彦は辺りを観察する。繁華街というには小規模で、地方のいわゆる飲み屋街のようだった。近くにはパチンコ屋や商店街があり、どこか雑多な雰囲気のある場所だ。しばらくブナの木に囲まれた静かな場所で暮らしていた身としては、遠いところに来てしまったと、郷愁にも似た感覚に陥る。  何もかも突然だったため、心の一部を、鷹津と過ごした場所に置いてきてしまったようだ。  ぼうっと立ち尽くしている和彦に、賢吾が声をかけてくる。 「悪いな。泊まるところを吟味する時間がなかったんだ。一泊だけ我慢してくれ」  賢吾がこう言うのは、見るからに古いビジネスホテルだからだろう。部屋が空いているならどこでもいいという一行ではないため、限られた時間の中、条件に合うのがこのホテルだったのかもしれない。 「あっ、いや、ベッドさえあったら、別にどこでも……」  まず和彦と賢吾が先にフロントでチェックインを済ませる。内心、賢吾は無事に宿泊できるのだろうかと緊張していたが、特にフロントで不審がられることなく、鍵を受け取ることができた。  二人は三階でエレベーターを降りるが、部屋は隣同士ではなく、和彦はエレベーターに一番近く、賢吾は奥まった場所だ。ただし、非常階段には近い。賢吾の部屋の前には、すでに一人の組員が立っていた。 「……ずっと、ああやって立たせておくのか?」 「悪目立ちするだけだからな。少し様子を見てから、自分の部屋に戻ら
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
Read More

第47話(5)

 賢吾の視線を感じつつ、和彦は部屋に入る。よくあるビジネスホテルのシングルルームで、簡単に設備を確認した和彦はさっそくスリッパーに履き替え、小脇に抱えていたダウンコートをハンガーにかける。このときポケットの辺りで硬い感触に触れ、図鑑を入れていたことを思い出した。なんとなく、取り出して眺めるのは気が咎め、そのままにしておく。  一旦はベッドに腰掛けたものの、外の様子が気になった。カーテンを開くと、建物裏の路地を見下ろせるようになっていた。窓は開かないため、広く見渡すことはできないが、こちらもまた小さな飲み屋などが建ち並んでいる。斜め向かいの二階には雀荘の看板が出ているものの、窓はカーテンで覆われて中の様子をうかがい知ることはできない。  見知らぬ風景を眺めていて、少し離れた場所に鳥居らしきものが建っていることに気づく。もっとよく見ようと立ち位置を変えたり首を傾けてみたが、これが限界だ。  ふらりと窓から離れ、とりあえずテレビをつける。夕方のニュース番組の画面に妙な新鮮さを感じたが、そもそもテレビを観るのが久しぶりだった。ラジオで最低限の世間の動向は把握していたが、映像で観ると情報量が違う。頭が痛くなりそうで、すぐにテレビを消した和彦はもそもそとベッドに横になる。 「疲れた……」  咄嗟にそんな言葉が口を突いて出た。楽な浴衣に着替えたいが、その前にシャワーを浴びなければならない。面倒だなと考えているうちに眠気が押し寄せ、和彦は抗うことをしなかった。  手足を投げ出して目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのは三か月近く過ごしたログハウスで目にした光景だった。寝室の小さな窓から見えたブナ林と、ときおり窓の外にとまっていた小鳥の姿。毎日歩いていた周辺の道に、鷹津と歩いて向かった滝の流れ――。  心が持っていかれるのに任せているうちに、意識を手放していた。  次に和彦が目を開けたときには、薄明りが点滅する天井が視界に入ってきた。ぼんやりと見上げたまま、何事だろうかと考えていたが、どうやらカーテンを通して、外のネオンの明かりが入ってきているようだ。起き上がった和彦は辺りを見回してから、ベッドの枕元の時計に目をやる。軽いうたた寝程度のつもりだったが、しっかり三時間ほど経っていた。  中途半端な時
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
Read More

第47話(6)

 ちょうどよくというべきか、まだシャワーを浴びておらず、着替える必要もない。ダウンコートを羽織った和彦は、賢吾からもらった千円札と小銭を念のためポケットに突っ込むと、部屋の鍵を持ってロビーへと降りる。賢吾の姿はなかったが、すでに二人の組員がいて、しきりに周囲を警戒している。 一人で気ままに山を歩く生活に慣れきっていたが、もう、そういうわけにはいかないのだと、改めて思い知らされる。和彦は、組員に促されるまま壁際に置かれたソファに腰掛けると、小声で話しかけた。「夜なのに、バタバタさせてすまない」「気にしないでください。――むしろ、組長が出歩く気になられて、我々はほっとしたと言いますか……」 どういう意味だと首を傾げて表情で問いかけたが、組員は視線を逸らして誤魔化された――わけではなかった。エレベーターの扉が開き、組員を伴った賢吾が姿を見せる。ふと気づいたが、足元は革靴に変わっていた。「……寝てたのか?」 目の前に立った賢吾に問われる。「起きてたけど……」「寝癖がついてるぞ」 和彦が慌てて自分の頭を撫でると、賢吾はニヤリとした。 外に出る前にフロントで、一番近いコンビニの場所を聞いておく。玄関前で待っていた賢吾に追いつくと、何をしていたのかと聞かれた。「コンビニの場所を聞いたんだ」「だったら俺たちも、朝メシ用に何か買っておくか」 そんなことを話しながら建物を出ると、コンビニの場所を和彦に問うことなく賢吾が歩き出す。賢吾にも目的地があるらしいと察して、黙ってついていく。数メートル離れて、組員たちも。 照明が灯ってはいるがなんとなく薄暗い商店街を通ってみると、ほとんどの店が閉まっている。閉店時間だというのもあるだろうが、空き店舗も目につく。今の時間なら、ホテル裏の路地のほうがまだ人気があるようだ。いわくありげな一団が歩いていても注目されないのは、ある意味ありがたいが。「――今の時間までずっと、飲んでたのか?」 賢吾と並んで歩いていて、なんとなく間がもたないと感じて会話を振る。「そのつもり
last updateDernière mise à jour : 2026-09-14
Read More

第47話(7)

「――今年は忙しくて、梅の花が咲いてたかどうかも気にしてる余裕はなかったが、ようやく見られた」 枝の先に残った梅の花に顔を寄せ、賢吾がそんなことを言う。何気なく寄越された眼差しに、和彦は身を震わせた。小さな梅の花程度では、この男が持つ華には到底敵わない。闇に覆われつつある状況ではなおさらだ。 凄まれたわけでもないのに臆した和彦は、無意識に後退りかけたが、それを許さないように賢吾に手招きされる。逆らえるはずもなく、側に寄る。「〈向こう〉に戻ったら、一度ぐらいのんびりと花見をやりたいな。満開の桜の下で」「……のんびりじゃない花見はあるんだろ、あんたは」「今年の花見会は、例年より少し遅くに開かれる。主に総和会内での事情のせいだが、なぜか、俺のせいになっている。俺とオヤジが揉めたせいだってな。いい迷惑だぜ。この際だからと思ったんだろうが、俺を目くらましに使いやがって」 さすがに今年は、和彦への花見会の参加要請はなかったと告げられ、苦笑で返す。父子の揉め事の原因が何であるかも知られているだろうから、好奇の目に晒される事態は避けられるというわけだ。「ヤクザの組長なんてやっているくせに、苦労性だよな」「今のご時世、どこの組の組長もこんなもんだぞ」「でも、あんたが今抱えている苦労は、本来ならしなくていいものだ」 和彦が言おうとしていることを汲み取ってくれたのか、賢吾は短く笑い声を洩らした。「おまえを迎えに行くことぐらい、苦労なんて思っちゃいねーがな」 そういう意味で言ったのではないが、賢吾もわかったうえで、あえて軽い言い方をしたのだろう。組員が離れた場所で待機していてよかったと、心底、和彦は思った。賢吾のこんなセリフを他人に聞かれたら――。 知らず知らずのうちに熱くなった頬を強く擦ってから、ぼそりと呟く。「……大蛇の執着は怖い」「とっくに骨身に染みてたはずだろ。それとも、離れている間に忘れたか?」 ふわりと風が吹き、梅の花が一瞬強く香る。和彦は乱れた髪を掻き上げようとして、その手を賢吾に掴まれた。「今日ずっと思っていたが
last updateDernière mise à jour : 2026-09-14
Read More

第47話(8)

**** ヤクザの朝は早い――。 そんな言葉を心の中で呟きたくなるほど、和彦の寝起きは不本意なものだった。 いきなり部屋のドアを乱暴に叩かれ、浅い眠りの只中にあった和彦は飛び起き、わけがわからないままベッドから転がり出た。ドアを開けると賢吾が立っており、当然のように言い放ったのだ。「出発するぞ。早く準備をしろ」 子供を急かすように賢吾が手を打ち鳴らし、和彦は頭が完全に覚醒しないまま身支度を整えると、部屋をあとにした。 早朝のためか朝もやが立ち込めていたのが印象的で、乗り込んだ車の中からぼんやりと景色を眺めていた。寝てていいぞと賢吾に言われたが、もう二度と訪れることのない場所かもしれないと思うと、素直に従う気にはなれなかった。 昨夜買っておいたパンを缶コーヒーで流し込み終えた頃、車は高速道路に入る。車内の様子は昨日とほぼ同じで、賢吾は絶えずスマートフォンを操作し、助手席の組員と合間に打ち合わせをする。予定が立て込んでいるようだ。 すっかり手持ち無沙汰の和彦は、賢吾たちの邪魔をしないよう極力口を閉じ、なんなら存在感すら消してしまおうと、窓側に身を寄せていた。高速道路から見る景色はあまり変わり映えがせず、反対側に視線を向ける。相変わらずスマートフォンに視線を落としている賢吾に、つい声をかけてしまっていた。「……ずっと見ていて酔わないか?」 顔を上げないまま賢吾は口元をわずかに緩めた。「酔わないな。気分転換に、お前を見ているから」 さらりとこういうことを言えるから、この男は性質が悪い。一人うろたえる和彦を、やっと顔を上げた賢吾がニヤニヤしながら眺めている。ひとまず機嫌は悪くなさそうだ。 和彦は逡巡してから、切り出した。「――なあ、相談したいことがあるんだ。スマホを見ながらでいいから、聞いてくれないか」「かまわねーぜ」 そう言って賢吾はすっとスマートフォンを置いた。「昨日のあんたの苦労話を聞いて、こういうことを言うのは心苦しいんだが……」「苦労話?」
last updateDernière mise à jour : 2026-09-14
Read More
Dernier
1
...
166167168169170
...
184
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status