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第17話(10)

 すぐにバカらしくなった和彦は、短く息を吐いてから切り出した。「――中嶋くんを煽っただろ」「おや、なんのことですか」 白々しくとぼける秦の向こう脛を、和彦は遠慮なくテーブルの下で蹴りつけてやる。口元に笑みを湛えたまま眉をひそめるという、器用な表情を造った秦は、視線をちらりと他のテーブルへと向けた。二人からやや離れたテーブルについているのは、和彦の護衛の組員だ。 物言いたげな顔で再び秦がこちらを見たので、和彦はわざと意地の悪い笑みを浮かべた。「自分と会うのに護衛がいるのか、と言いたげだな」「先生と、せっかくシャレたカフェでお茶をしているのに、緊張すると思っただけです」「寒い中、車で待ってもらうのも悪いだろ――と、ぼくの護衛については、君に関係ない。それより、ぼくの質問に答えろ」 秦はキザな仕草で軽く肩をすくめたあと、一瞬にして真剣な顔となった。掴み所がなく得体の知れない秦だが、こういう表情になると、ヤクザ並みの修羅場をくぐってきた男に見えてくるから不思議だ。「……煽ったつもりはないですよ。ただ、クリスマスツリーの飾りつけを先生に手伝ってもらって、正月に先生と二人きりで散歩したことを、中嶋に知られただけです」「知らせた、の間違いじゃないのか」「間が悪い男なんですよ、わたしは」「自分が今どこに住んでいるのか、教えないこともか? ぼくを連れ込むことはできても、彼に住所すら教えられない理由は?」 手厳しい、と声に出さずに秦が呟く。和彦は、口が達者な秦を言い負かしたことに爽快感を覚えるでもなく、顔をしかめてカップに口をつける。 年が明けてからの気忙しさの原因の一つは、まず間違いなく、中嶋と秦のことがある。中嶋と肌を合わせてから、和彦は落ち着かないのだ。収まるべきところに、大事なものが収まっていないような、奇妙な居心地の悪さもある。 だから、クリニックの開業を目前に控えた忙しい中、こうして秦を呼び出して話していた。「深入りするな、厄介なことに巻き込みたくない――と、中嶋くんに言ったらしいな。そんなことを言われたら、かえって気になるし、冷静さを失う」
last updateLast Updated : 2026-02-22
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第17話(11)

 和彦は即答を避け、中嶋とのやり取りをゆっくりと思い返す。セクシャルな行為については、考えるだけで顔が熱くなってくるが、それでも、肌を滑った指や唇、舌の感触だけでなく、交わした会話の一つ一つをよく覚えていた。「――……君と、強く結びつきたがっていた。〈オンナ〉の悦びを知りたいとも言っていたな。胡散臭い男のために」 こう告げたとき、秦は喜びと同時に、ほろ苦さを感じたような笑みを唇に刻んだ。胡散臭い男の内面は、和彦には想像もつかないほど複雑なようだ。「先生にお願いしてよかった……。何年も先輩・後輩としてつき合っていようが、きっかけがなければ中嶋は、口が裂けても心の内を晒したりはしませんよ。きっと、眼差しで訴えてくるだけだ」「そして君は、気づかないふりをするわけだな」「目の前に、佐伯和彦という〈オンナ〉が現れなければ、そうなっていたかもしれません。それとも、わたしが中嶋の前から姿を消していたか――」 秦が言うシャレたカフェだけあって、隣のテーブルに若い女性二人がつき、さっそく華やかな笑い声を立てる。昼間から、物騒で淫靡な会話を交わしている自分たちとは大違いだと和彦は思った。「それで先生は、わたしが中嶋を煽ったから、怒っているんですか? それだけとも思えないのですが……」 耳に届く女性たちの会話に気を取られていたが、我に返って秦を見据える。和彦は、低く囁くような声で告げた。「自分の欲望のために、長嶺組長の〈オンナ〉を利用した代償は、高くつくかもしれないぞ。君だけが代償を払うんじゃなく、中嶋くんも、何かを払うことになる」「……堂に入ってますね、先生。下手なヤクザに恫喝されるより、怖い」 和彦はもう一度、秦の向こう脛を蹴りつけて、乱暴にカップに口をつける。秦はおかしそうに声を洩らして笑った。「笑いごとじゃない。長嶺組の庇護を受ける君はそれでいいかもしれないが、中嶋くんは今は、総和会の人間だ。困った立場になったりしないかと思ったんだ。……こういう心配をしてイライラしているのはぼくぐらいで、みんな
last updateLast Updated : 2026-02-22
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第17話(12)

 ムキになって言い返すと、秦は目を丸くしたあと、顔を伏せて肩を震わせる。噴き出したいところを、必死に堪えているらしい。 余裕たっぷりの秦を睨みつけながら和彦は、やはり、と心の中で呟いていた。 秦が、賢吾と何かしらの策略を共有しているのは間違いない。そのうえで、和彦に自分の弱みを差し出すという形を取りながら、賢吾と強固に繋がろうと目論んでいる。もしくは、そうするよう、賢吾が働きかけたのか。 そして中嶋も、和彦と関わることで、賢吾と繋がりつつある。それを強く実感させられたのは、賢吾が言っていた『先生の兵隊になってくれるぞ、中嶋は』という言葉だ。 見た目は普通の青年ながら、中身は切れ者のヤクザである中嶋は、出世のための計算ができる男だ。――恋に溺れながらも。 和彦は、自分が利用される状況は甘受できる。しかし、自分の知らないところで、何かとてつもない事態に巻き込まれるのではないかと思うと、やはり落ち着かないし、苛立ちもするのだ。「……腹の内を見せない人間に囲まれて、自分がどんどん疑り深い性格になっていくようだ……」 思わず和彦がぼやくと、ようやく秦が顔を上げ、柔らかな微笑を向けてくる。「そういうことを正直に口にするあたり、先生は甘いですね」「一人ぐらい甘い人間がいないと、息が詰まるだろ、物騒な男ばかりの世界じゃ」「つまり先生が、その物騒な男たちの癒しとなってくれるわけですね」 皮肉を言っている様子はなく、むしろ楽しげな秦をまじまじと見つめて、和彦は苦い口調で応じる。「誰も、そこまで言ってないだろ。ぼくはそこまで、博愛精神に溢れてないぞ」「そうですか? わたしは、先生に救われてますよ」「君を救ってほしいとぼくに泣きついてきたのは、中嶋くんだ」「そうでした……。わたしは、中嶋に救われたんでした……」 そう洩らした秦の声は、いままで聞いたこともないような響きを帯びていた。苦々しい自嘲を滲ませながらも、柔らかく穏やかだ。そんな声を聞かされて、和彦はつい、こんなことを言っていた。
last updateLast Updated : 2026-02-23
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第17話(13)

**** 久しぶりにウェイトマシンを使ったため、全身から汗が噴き出してくる。年末年始は慌しく動き回っていたが、車を使っての移動が主だったため、すっかり体が鈍っていたようだ。 足を投げ出すようにしてイスに腰掛けた和彦は、首筋を伝い落ちる汗を拭う。体を動かしている間は気持ちいいほど無心になれるのだが、こうして休憩を取ると、すぐに頭の中は、考え事でいっぱいになる。 思わずぼんやりとしてしまったが、前髪から汗のしずくが落ち、頬に当たる。タオルで乱雑に顔を拭いていると、突然、声をかけられた。「――先生、機嫌が悪そうですね」 既視感が和彦を襲い、数瞬の間を置いて、甘い眩暈にも見舞われた。 既視感の原因はわかっている。ほんの二時間ほど前、秦から同じような言葉をかけられたのだ。 手を止めた和彦が顔を上げると、目の前に中嶋が立っていた。このとき、いままでにない反応として、甘苦しい感覚が胸に広がる。そこに羞恥と困惑も加わり、和彦は笑いかけることに失敗した。「そうか……? 自覚はないんだが」「なんだかイライラしているように見えたんです」 そう応じて、当然のように中嶋が隣に腰掛ける。こちらも十分に体を動かしたところらしく、汗の匂いがする。いつもなら意識しないのだが、同じ匂いをベッドの上で嗅いだのかと思うと、体がさらに熱くなる。 自分と中嶋の関係は大きく変わったのだと、嫌でも実感していた。「……忙しくて、考えることが多すぎるんだ――と、だったらジムで遊んでいていいのか、なんて言うなよ」「言いませんよ。なんといっても、人目を気にせず、堂々と先生と親しくできる場所ですから」 事実なのだが、中嶋が言うと意味深だ。それとも、和彦があれこれと考えすぎなのかもしれない。 前はもっと気楽に話せていたのだが、感覚がすっかり狂ってしまった。 汗で濡れた髪を掻き上げて、和彦は立ち上がる。すかさず中嶋が問いかけてきた。「今日はもう終わりですか?」「ああ。年が明けて初めて来たけど、少し飛ばし
last updateLast Updated : 2026-02-23
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第17話(14)

 悪びれた様子もなく答える中嶋をまじまじと見つめて、ようやく和彦は笑うことができる。いいか悪いかはともかく、中嶋はいつも通りだ。中身は切れ者のヤクザでありながら、それをうかがわせない普通の青年の顔をしている。親しげでありながら、馴れ馴れしくはない、これまで通りの距離感を保ってくれている。 中嶋とともに更衣室に向かいながら和彦は、いまさら隠しておくことでもないと考え、ジムの前に秦と会っていたことを告げる。少し身構えてはいたのだが、中嶋はあっさりと頷いた。「知ってます。秦さんからメールが来ましたよ。今さっきまで先生に会っていて、怒られていた、と」 怒ってないだろ、と心の中で反論してから、和彦はため息交じりに言った。「……いつの間に、そういう些細なことまで連絡し合う仲になったんだ」「先生は大事な存在ですから。先生が絡んでいながら、『些細なこと』なんてありませんよ。俺たちにとっては大事なことです」「だとしたら、秦に、ぼくとのことを――……」 さきほど秦と会って多少きわどい話はしたものの、実は和彦は、中嶋との間にあった出来事について、詳しくは言っていない。口にするのが恥ずかしいというより、最低限の〈慎み〉の問題だ。 幸運にも中嶋は、和彦と多少なりと似通った感覚を持ち合わせているらしい。向けられた横顔に、淡い照れのようなものがうかがえた。「具体的なことは何も……。でも、察しているんじゃないですか。なんといっても、秦さんですから」「ああ、あの男ならな」「我ながら、現金だと思うんですよ。先生相手に何もかもぶちまけて、弱みも晒してしまったら、秦さんへの女々しい感情から解放されて楽になれたというか。――いままでとは、まったく別の生き物に生まれ変わった気持ちです」 それはきっと物騒な生き物だろうなと、中嶋から寄越された流し目の妖しさに、胸のざわつきを覚えながら和彦は思う。 ぎこちなく視線を逸らして考えることは、この先、中嶋とはどうやってつき合えばいいのだろうかということだ。とにかく中嶋との関係は複雑で、接し方が難しい。自分の中でどう位置づけていい
last updateLast Updated : 2026-02-23
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第17話(15)

「そうですか? 俺と秦さんが、先生を巻き込んだと思っているんですが」「そんな君らの事情に深入りしたのは、ぼくだ。それに――」 秦と中嶋の関係に興味と興奮を覚え、その衝動に抗えなかった。 心の中で呟いて、中嶋には曖昧な笑みで返す。 更衣室に入ると、それぞれのロッカーに向かおうと別れようとしたが、和彦は大事なことを思い出し、思わず中嶋を呼び止めた。「中嶋くんっ」 振り返った中嶋が、驚いたような表情を一瞬見せたあと、顔を綻ばせる。「こういう場で、先生にそう呼ばれるのがくすぐったくなってきましたね。できれば、#圭輔__けいすけ__#、と呼び捨てにしてください。そのほうが、親しくなった気がしませんか?」「……今のところ、ぼくが名前を呼んでいる男は、二人だけだ」 中嶋には、それが誰を指しているのかすぐにわかったのだろう。とんでもないことを言ってしまったとばかりに、大仰に首をすくめた。「出すぎたことを言ってしまいました」「やめてくれ。それより――」 ちょうど更衣室に人がやってきて、出入り口近くで話すのもはばかられたため、和彦は中嶋に手招きし、壁際へと移動する。「長嶺組長から、ぼくのことで脅されたりしなかったか?」 声を潜めて尋ねると、どういう意味なのか中嶋は、いかにもヤクザらしい食えない笑みを浮かべた。「――内緒です」 否定しないということは、和彦の知らないところで、中嶋と賢吾の間に何かしらのやり取りはあったのかもしれない。ただし、あくまで推測だ。 ヤクザ相手に力ずくで口を割らせるなど不可能で、子供のように地団駄を踏むわけにもいかない和彦は、引き下がるしかなかった。 恨みがましく中嶋を睨みつけながら。** 夜、いつもより少し早めにベッドに入った和彦は、枕を抱え込むようにしてうつ伏せとなり、分厚いハードカバーの本を読んでいた。ジムの帰りに書店に立ち寄り、数冊ほど買い込んできたのだ。 小さくあくびを洩らした和彦は、ページを繰る手をふと止める。思わず口元を緩めていた。 
last updateLast Updated : 2026-02-23
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第17話(16)

 普通なら、侵入者だと警戒するところだが、生憎、和彦の生活は普通とは言いがたい。部屋の主である和彦の意思に関係なく、自由に出入りできる人間が何人もいる。そしてその人間たちは、和彦に害を及ぼすことは絶対しない。「この落ち着きのなさは――」 和彦は、一人の男の名を呟く。寝室を出て迎えてやろうかとも思ったが、ようやく温まったベッドの中に、夜の訪問者を招き入れるほうが効率的かもしれないと、多少情緒に欠けたことを考えて、じっとしておくことにする。 つまり和彦は、ベッドを出て寒さに震えるのが嫌だったのだ。 それから十分ほどして、ようやく寝室のドアが控えめにノックされる。和彦が本にしおりを挟んでヘッドボードに置くのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。 スウェットパンツに上半身裸という格好の千尋が姿を見せ、風呂上がりなのか、肩にタオルをかけている。「そんな格好でウロウロしてると、風邪引くぞ」「引いても、ここには常備薬はたっぷりあるし、なんといっても、先生がいるじゃん」「内科は専門外だ」 言葉では素っ気なく応じた和彦だが、布団の端を捲ってやる。千尋はパッと目を輝かせ、猛然とベッドに乗り上がってきた。布団の中に入り込んできた冷気は、千尋の体温であっという間に温められる。「……湯たんぽだ」 思わず呟くと、間近に顔を寄せて千尋がにんまりと笑う。「風呂上がりだから、ホカホカだろ」「家賃を払っているのはお前の父親だが、一応ぼくの部屋だぞ。それなのに、自分の家のように寛いでるな」「先生がいるから寛げるんだ。……もうさ、この部屋引き払って、本宅で一緒に暮らそうよ」 自分の居心地のいい場所を探すように、千尋がごそごそと身じろぎ、和彦に抱きついてくる。そんな千尋を見つめながら思うのは、長嶺組の後継者という看板を背負い、総和会会長の傍らで仕事をするには、とてつもないタフさが必要なのだろうなということだ。 長嶺の家に生まれたというだけで長嶺組を継げる千尋の立場に、誰もが納得するわけではないだろう。そういう人間たちを否応なく従わせるだけのものを、千尋は身につけ
last updateLast Updated : 2026-02-23
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第17話(17)

「先生、俺に飽きそう?」「そうじゃなくて……、この場合、お前がぼくに飽きる確率のほうが高いだろ」「それは、絶対にない」 あまりにきっぱりと言い切られ、和彦は何も言えない。そもそも、言い合うようなことではないのだ。 千尋の頭を撫でながら話題を変える。「ここで風呂に入ったということは、仕事先から直行してきたのか」「じいちゃんに泊まっていけって言われたけど、先生のところでゆっくりしたかったから、逃げ出してきた」 千尋に頭を引き寄せられ、額同士を押し付る。その流れで唇を重ね、戯れるように啄み合っていたが、千尋の体にてのひらを這わせた和彦は、あることに気づいた。次の瞬間には起き上がり、勢いよく布団を捲る。「お前、これ――」 部屋に入ってきたときは、肩にかけたタオルに隠れて見えなかったが、千尋は左腕の上のほうに包帯を巻いていた。そのため、印象的なタトゥーが見えない。 怪我をしたのだろうかと動揺した和彦だが、すぐに、あることに思い当たった。「千尋、まさか、タトゥーを……」 照れたようにちらりと笑みを見せて千尋も起き上がり、包帯に指先を這わせる。「……前から決めてたんだ。年が明けたら、治療を始めようって。それで、別荘から戻ってすぐに、病院に行ったんだ」 千尋がそんなことを考えていたなど、もちろん和彦は知らなかった。おそらく、和彦に何も悟らせなかったことが、千尋なりの覚悟の表れだったのだろう。「このタトゥーを入れたのは、オヤジに対する当てつけの意味もあった。立派な刺青なんて入れなくても、俺は、大勢のヤクザに頭を下げて迎え入れられる存在だって、驕りもあったのかな。自分の生まれた環境に胡坐をかいてたんだ。どんなバカ息子でも、オヤジは俺を見捨てられないと踏んでもいたし。まあ、ダメダメな甘ったれ男だった」「今は違うのか?」「今は……努力してるよ。長嶺を継ぐのに相応しい男になるために」 それは喜んでいいのだろうかと思いながら、片手を伸ばした和彦は、まだ湿っている千尋
last updateLast Updated : 2026-02-24
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第17話(18)

**** 池田クリニックは、静かに地味に開業日を迎えた。 初日ぐらい、エレベーターホールから玄関まで、花輪で飾り立てたらどうかと言われ、実際、花輪を贈りたがる人間が何人かいたのだが、すべてありがたく断らせてもらった。 クリニック開業の事情が事情なので、あまり派手なことはしたくない。そう、もっともらしく説明した和彦だが、本当の理由は別にある。千尋から、ヤクザの特性というものを教えられ、怖くなったからだ。 千尋いわく、見栄を張り、面子を保つのも仕事だというヤクザは、とにかくめでたい行事で張り切る性分があり、祝いの品も祝い金も、とにかく他人より目立とうとする。そこに、長嶺組長のオンナの歓心を得ようという目的が加われば、どれだけ派手なことになるか――。 それを聞いた和彦は本気で震え上がり、目立つことは困ると、賢吾に頼み込んだのだ。ニヤニヤと笑って和彦の言い分を聞いていた賢吾だが、しっかり他の組に根回しをしてくれ、おかげで花輪を贈られることはなかった。 ただそれでも、なんらかの形で祝いの気持ちを示したいという申し出があって、賢吾の面子を立てる意味もあり、そこは和彦は折れた。 その〈結果〉が、待合室に溢れている。「……ちょっとした花屋だ……」 羽織った白衣のポケットに手を突っ込み、和彦がぽつりと洩らすと、受付カウンターに入っている女性スタッフが苦笑を洩らす。「すごいですね、この花。花の香りで酔いそうです」 そう言われるのも無理はない。朝から次々と配達されてきた胡蝶蘭や洋蘭といった鉢物が、待合室を華やかに彩っているのだ。ユリやバラのアレンジメントは、テーブルや受付カウンターに飾らせてもらったが、自己主張の強い花々は、申し訳ないが、壁際に並べて置いてある。 花輪を贈れない代わりに、豪華な花で埋め合わせを、ということなのだろう。ありがたいが、この花たちをあとでどうしようかと考えると、今から頭が痛い。いくつかはスタッフに持ち帰ってもらうとして、残りすべてを和彦が世話するわけにもいかない。 開業初日だというのに、こんなこと
last updateLast Updated : 2026-02-24
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第17話(19)

 待合室でうろうろしていても仕方ないため、診察室に戻ろうとしたとき、軽やかな音楽が響き渡った。出入り口のドアが開閉されるたびに鳴るよう設定したのだ。 待合室にひょっこりと姿を見せたのは、由香だった。今日はいつもと雰囲気が違い、落ち着いた印象のワンピース姿で、一見すると、品行方正な女子大生に見える。和彦と目が合うと、小さなバッグを持つ手をぶんぶんと振った。「先生、開業おめでとうっ」 笑みをこぼした和彦は、由香に歩み寄る。「ありがとう。まさか本当に、君がこのクリニックの患者第一号になってくれるとは思っていなかったよ」「だって、ずっと待ってたんだよ。先生に診てもらおうと思って」 そう言って由香が、自分の目を指さす。二重瞼にすることをまだ諦めていない由香から、和彦はこれまで何度も相談を受けている。由香の身元引受人ともいえる難波も、簡単な手術ということで、渋々、〈愛人〉のわがままを許したようだ。「あっ、それと、これは差し入れ。スタッフの人たちと食べてね」 差し出された紙袋を反射的に受け取った和彦は、中を覗き込む。どうやらお菓子の詰め合わせが入っているようだ。「悪いね、患者さんとして来てくれたのに、気をつかってもらって」「大したことじゃないよ。先生にはこれから、わたしの美容分野での主治医として、お世話になるんだから」「……それは責任重大だ」 ひとまず由香を受付に案内して、問診表を書き込んでもらう。その間に和彦は診察室に向かい、患者を迎え入れる心の準備をする。 ようやく、〈自分の〉クリニックでの仕事が始まるのだ。** 脱いだ白衣を傍らに置いた和彦は、ソファの背もたれに思いきり体を預ける。 すでにスタッフたちは帰ったあとで、クリニックには和彦以外の人の姿はない。だからこそ遠慮なく、待合室で気が抜ける。 開業初日は、数人の患者のカウンセリングに終始した。美容外科の仕事の進め方としては、こんなものだ。じっくりと患者の悩みや要望を聞き、どういう施術が最適なのかを考える。実際に手術や処置に踏み切る人もいれば、思い留まる人もいるため、
last updateLast Updated : 2026-02-24
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