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第17話(20)

 クリニックの掃除はスタッフたちが行ってくれたため、カルテをまとめ終えた和彦に残された仕事は、実はさほど残っていない。 和彦はゆっくりと窓のほうに視線を向ける。夕方とはいえ、外はすでに薄暗い。座ったばかりだが、なんとなく気が急いてしまい、和彦は緩慢な動作で立ち上がる。 実は今晩、開業祝いという名目で、長嶺の本宅で夕食をとることになっていた。 帰り支度を整えた和彦は、護衛の組員にこれから降りることを伝えて、クリニックの電気を消す。 いつもの手順通り、ビルから少し離れた場所まで歩き、あとから追いついた車に乗り込む。すぐに車が走り出すと、忘れないうちに組員に頼んでおく。「夜、人気がなくなってから、クリニックの玄関横に置いてある花を持ち出してくれないか。数が多すぎて、ぼく一人じゃ運べないんだ」「わかりました。それで、花はどちらに運びましょうか」「一応、本宅に。ぼくもいくつか引き取るけど、花の世話なんて、ほとんどやったことがないんだ。枯らせると、贈ってくれた人物と花に申し訳ないが、だからといって全部人任せなのも心苦しいしな」「組に、庭いじりが得意な奴がいるんで、手入れの仕方を教えてもらうといいですよ。わたしから言っておきますから」 他愛ないともいえる会話を交わし、このまま車は長嶺の本宅に向かうはずだった。だが車は、いつもなら曲がる道をまっすぐに進む。 その理由を、和彦が問いかける前に組員が告げた。「――先生、今晩の予定が変更になりました。本宅ではなく、料亭で祝いの席を設けることになったと、さきほど連絡が入りました。これから、その料亭にお連れします」「そう、なのか……。別に、普段通りでよかったのに」 賢吾の気まぐれに振り回されるのはいつものことで、和彦は特に違和感を覚えることもなく、シートに体を預ける。 移動の間に、外はすっかり暗くなっていた。 開業初日で気が張っていたせいもあり、さほど忙しかったわけでもないのに疲労感が体に溜まっている。そのせいか、車のライトが延々と続いている光景を目で追っていると、眠気を誘われる。 やはり本宅のほうで過ごしたかったなと、
last updateLast Updated : 2026-02-24
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第17話(21)

 取り留めなくそんなことを考え、必死に眠気と戦っている間にも、車はにぎやかな街中を抜け、静かな通りへと入る。そこからさらに細い路地へと進む。 どこまで行くのだろうかと思ったが、尋ねるまでもなかった。正面を見つめていた和彦は無意識のうちに背筋を伸ばす。車のライトが照らす先に、料亭らしき門構えと、その前にスーツ姿の男たち数人が立っていたからだ。明らかに、護衛を務める者特有の物腰だった。門の向こうに護るべき人物がいて、男たちは不審者に備えているのだ。「もしかして……」 和彦が口を開くと、ハンドルを握る組員が頷く。「あの店です。別の者が座敷まで先生を案内しますから、従ってください」「わかった」 料亭の前に車が停まり、すでに待機していた男の一人が素早くドアを開けてくれる。ここで和彦は、男が長嶺組の組員でないことに気づく。見たことのない顔だ。 一体何事かと思いながらも、和彦を乗せてきた車はあっという間に走り去ってしまい、尋ねる暇もない。仕方なく、促されるまま門をくぐり、意外にこじんまりとした料亭へと入る。 賢吾とともに外食をするとき、護衛はつくものの他の客と同じ空間で、料理やアルコールを味わうだけでなく、雰囲気やざわめきすらも楽しむことが多いのだが、どうやら今晩は違うらしい。 コートとマフラーを腕にかけ、美しい日本庭園を眺めつつ廊下を歩いていた和彦だが、かつて中嶋に〈接待〉を受けたときのことを思い出し、つい苦笑を洩らす。その場には、今も月に一度のペースで顔を合わせている藤倉もいた。あのときも、今晩のように突然、料亭に連れてこられて困惑したのだ。 表からは想像もできなかったが、中に足を踏み入れると、この料亭も十分に立派だとわかる。 まるで、人目を避ける隠れ家のような造りだ――。 こう感じた瞬間、和彦は全身を駆け抜けるような緊張を覚えた。あることが脳裏を過り、瞬く間に手足が冷たくなる。 緊張の理由は、考えるまでもなかった。ある座敷に通されて襖が開けられると、目の前に存在していたからだ。 長嶺守光が寛いだ様子で座椅子に座り、柔らかな眼差しを和彦に向けていた。
last updateLast Updated : 2026-02-24
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第17話(22)

「先日は、相手をしてくれてありがとう。――先生」 賢吾に似た太く艶のある声が発せられ、呆然と立ち尽くしていた和彦は我に返る。急に落ち着かなくなり、緊張のあまりこの場から逃げ出したくなったが、手招きされると、もう逆らえない。会釈をして座敷に足を踏み入れた。 さらに促されるまま、座卓を挟んで守光の正面に座る。和彦は唇を動かしはするものの、守光の顔を見ると、頭の中が真っ白になってしまい、何も言葉が出ない。正体を知ってしまうと、どう話しかけていいのかすら、わからないのだ。 相手は、総和会という大きな組織の会長で、賢吾の父親で、千尋の祖父だ。そして和彦は、その二人の〈オンナ〉だ。医者として、長嶺組と総和会にも協力しており、和彦の立場は複雑だ。「総和会会長と対面しているから、そう緊張しているのかね?」 笑いを含んだ声で問われ、戸惑いながらも和彦は小さく頷く。「そう、です……」「テレビや新聞を通して、さんざん総和会の悪評を聞いていたら、当然かもしれないな。事実でもあるし、あんたには物騒な患者の治療もさせている。だが、ヤクザの世界云々は、今はいい。わしは長嶺の男で、あんたは、長嶺の男の扱いに慣れている。そう考えると、少しは気が楽になるだろ?」 総和会会長という肩書きの威圧感が、考え方一つで変わるわけではない。ただ、守光の物言いの柔らかさは、和彦にとって救いだ。ぎこちなく微笑むと、守光は襖の向こうに一声かける。 すぐに料理が運ばれてきて、座卓の上に並ぶ。その間、手持ち無沙汰となった和彦は、所在なく座敷内を見回していたが、仲居が襖を開いた瞬間、影のように廊下に立つスーツ姿の男たちの姿を目にした。自分は今、総和会会長とともにいるのだと、改めて思い知らされる光景だ。「あんたが来る前に、賢吾と電話で話したが、機嫌が悪かった。先生との約束をわしに奪われたと、恨み言を言われたよ」「……組長が、ですか?」「組長、か……。いつもそう呼んでいるわけじゃないだろう。今晩はあくまで、長嶺の身内として、あんたと話しているんだ。そういう堅苦しい呼び方は抜きにしないかね」
last updateLast Updated : 2026-02-25
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第17話(23)

 ノーネクタイ姿で、座椅子にあぐらをかいて座っている守光の姿は、やはりどう見ても物騒なヤクザには見えない。ところどころ所作に鋭さが出るものの、それでも立派な企業の経営者や重役で十分通る物腰だ。 この人は本当に総和会の会長なのだろうかと、今になって基本的な疑問すら抱いてしまう。 和彦の視線に気づいたのか、ふいに顔を上げた守光がニヤリと笑いかけてくる。「夢でも見ているような顔だ」「あっ、いえ……。まだこの状況が、信じられなくて」「今の生活だと、ヤクザなんて珍しくもないだろう」「でも、あなたはただのヤクザじゃ――」「ヤクザはヤクザ。どれだけ大層な看板を背負おうが、それは変わらんよ。堅気からすれば、疫病神一匹、といったところだ。あんたは、その疫病神の中で特に性質の悪いのに気に入られたというわけだ」 返事のしようがなくて、和彦は小さく苦笑を洩らす。 料理に箸をつけながら会話を交わすが、まだ緊張している和彦を気遣ってか、守光のほうからあれこれと話しかけてくれる。それに答えるうちに、ようやくまともに会話が続くといった感じだ。 少しずつ、守光と一緒にいる空気に慣れていく。〈長嶺の男〉という一括りは本来はどうかとも思うのだが、こうして話していると、賢吾や千尋が持つ雰囲気と共通する部分があり、それが和彦には馴染むのだ。自覚がないまま、これまでの生活で慣らされてきたのかもしれない。 打ち解けてきたからこそわかったことなのだが、長嶺の男は、妙なところまで似ていた。「――賢吾と千尋は、あんたを〈オンナ〉として満足させているかね」 吸い物に口をつけていた和彦は危うく咳き込みそうになり、慌てて口元を手で覆う。息を詰めたせいもあるが、それ以上の激しい羞恥で、瞬く間に顔が熱くなってくる。「なっ、何、言って……」 うろたえる和彦を、守光は興味深そうに見つめてくる。明け透けなことを平然と言えるところが、本当に賢吾と千尋にそっくりだ。「最初にあんたのことを教えてくれたのは、千尋だ。バイト先の客に、気になる医者がいると言って。その医者を調べさせたのは、賢吾だ
last updateLast Updated : 2026-02-25
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第17話(24)

「……それは、ぼくの実家のことを指しているのですか?」「わしは、難しい話に興味はないよ」 機嫌よさそうに話す守光の表情から、狡猾さは感じられない。しかし、本当に狡猾で、頭が切れる人間は、完璧に自分の本性を隠せるものだ。和彦の父親が、まさにそうだ。 急に警戒心を露にした和彦に向けて、守光はさらに言葉を続ける。「あるのは、長嶺の〈悪ガキ〉二人を骨抜きにしている先生への興味だ」「悪ガキ……」「わしにしてみれば、でかくなったつもりの賢吾はまだ悪ガキのままで、千尋はさらにやんちゃな悪ガキだ」 大蛇を背負った怖い男も、実の父親の口から語られると、なんだか可愛らしく感じられる。寸前まで警戒していたことも忘れて、和彦は声を洩らして笑ってしまう。守光も楽しそうに目を細めた。「どうやら、二人の話が気に入ったみたいだな」「若い千尋はともかく、組長――賢吾さんにその表現が、不思議なぐらいしっくりくると思って」 守光に言われたこともあり、賢吾の名を口にしてみたが、逃げ出したいほど恥ずかしい。そもそも賢吾を名で呼ぶのは、体を重ねている間の儀式のようなものだ。 賢吾との行為の光景が脳裏に蘇り、和彦は密かにうろたえる。伏せていた視線を何げなく上げると、守光がじっとこちらを見つめていた。「……あの、何か……?」「いや、千尋と賢吾を名前で呼んでいるなら、わしのことも呼んでもらえるかと思ってな」「とんでもないっ」 和彦が首を横に振ると、楽しそうに声を上げて守光は笑ったが、すぐに、ドキリとするほど鋭い眼差しを向けてきた。「――あんたを〈オンナ〉にしないと、無理かね?」 咄嗟に反応できない和彦を見て、守光はまた声を上げて笑う。「冗談だ。そう、心底困ったような顔をしないでくれ。あんたをイジメたと言って、あとで賢吾と千尋に叱られる」 自分に対する守光の態度があまりに大らかなので、和彦はずっと気になっていたことを尋ねる踏ん切りがついた。「千尋から、ぼくのことを聞
last updateLast Updated : 2026-02-25
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第17話(25)

「社会の常識や道徳は、この世界ではあまり重んじられん。賢吾や千尋だけじゃなく、長嶺組が総意としてあんたを受け入れたのなら、それがすべてだ。……総和会会長の立場では、長嶺組の〈身内〉の処遇についてあれこれ命令はできんよ。長嶺の男としても、する気はないがね」 ふいに守光が、握手を求めるように右手を伸ばしてきた。何事かと思った和彦は、守光の顔と手を交互に見てから、おそるおそる自分も右手を差し出す。守光とてのひらを合わせると、思いがけず強い力でぐっと握り締められた。すでに酒が入っているせいか、今晩の守光の手は温かい。 どういう意図から手を握られたのかわからないが、振り払えないことだけははっきりしている。手を握られた瞬間、自分の命運すら握られたような感覚が、和彦に襲いかかっていた。守光が持つ見えない力を体感しているようだ。「――あんたは、力に敏感だな。自分が抗えない力をすぐに嗅ぎ取って、決して逆らわない。卑屈になるわけでもなく、巧く身を委ねる」「ぼくは……痛い思いをするのが、何より嫌いなんです。ヤクザを相手に逆らうなんて、身を刻んでくれと言っているような、ものです……」「誰があんたを、そういう食えない人間にしたのか、気になるね」 話しながら守光の指が、てのひらに這わされる。くすぐったさに首をすくめた和彦は、反射的に手を引こうとしたが、守光に手首を掴まれていた。力強さは、賢吾と変わらない。「あっ……」 再びてのひらに指が這わされ、和彦は自分が今感じているのはくすぐったさなどではなく、ゾクゾクするような疼きなのだと知る。 瞬きもせず見つめた先で、守光は穏やかな紳士の顔の下から、総和会会長という物騒な肩書きに似つかわしい表情を見せた。賢吾に似た口元が薄い笑みを湛え、千尋に似た目が、強い光ではなく、深い闇を湛える。長嶺の男は、千尋も賢吾もそれぞれの怖さを持っているが、守光の持つ怖さは――老獪さだ。 手を刺激されただけで身じろぎもできなくなった和彦に、守光はひどく優しい声で囁いてきた。「長嶺組は、居心地がいいかね?」「&hell
last updateLast Updated : 2026-02-25
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第17話(26)

 思わず謝罪したことで、守光の指摘の正しさを認める。そんな和彦を咎めるでもなく、むしろ反応を愛でるように守光は目を細めた。一方で、相変わらず和彦の手に触れ、指を一本ずつ撫でてくる。「あんたを大事にしたいと考えているのは、何も長嶺組だけじゃない」 返事の代わりに和彦は目を見開く。ズバリと切り込むように、守光が低い声で告げた。「総和会で、あんたの身を預からせてもらえないだろうか――と考えている」 恫喝されたわけではない。だがこの瞬間、和彦は得体の知れない不安と恐怖を感じていた。巧妙に仕掛けられた罠にかかってしまった小動物の心境とは、こういうものなのかもしれない。足りないのは、絶望的な痛みだけだ。 どういう意図からの提案なのか、無意識に唇を舐めてようやく問いかけようとしたとき、襖の向こうから聞き覚えのある声がした。「――オヤジさん」 誰の声かわかった途端、和彦は体を強張らせる。そんな和彦の手をぐっと握り締めて、守光が応じた。「南郷か」「はい。ちょっとよろしいですか」 守光が応じると、スッと襖が開き、正座した南郷が姿を見せる。大柄な体を、見るからに高級そうなスーツで包んでいるが、内から滲み出る粗暴さは隠しきれないようだ。そんな男が、守光に対して恭しく頭を下げた。「例の件について至急相談したいと、電話が入っています。……お楽しみのところでしたら、あとでかけ直すよう伝えますが」 わずかに頭を上げた南郷は、獣のように鋭い視線をこちらに向けてくる。襖を開けた瞬間に、守光が和彦の手を握っている光景を捉えていたのだろう。誤解されたのではないかと思った和彦は、慌てて手を引く。 そんな和彦を見て、ちらりと笑みをこぼした守光が立ち上がる。「かまわん。隣の座敷で電話を取る。それと、わしはかまわんから、先生の分のデザートを運ぶよう、伝えてくれ」「あの……、デザートはけっこうです。今日は疲れたので、ぼくはこれで失礼します。ちょうど、お仕事の電話も入られたようですし」 和彦としては、頭で考えるより先に、勝手に口が動いたような感覚だった。とにかく、独特
last updateLast Updated : 2026-02-25
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第17話(27)

 思案するように声を洩らした守光が、和彦の傍らに歩み寄ってきたかと思うと、なんの前触れもなくあごを掬い上げた。「……確かに、少し顔色が悪い。やはり、賢吾や千尋と一緒に過ごすほうがよかったようだ」「いえっ、そんなことはありません。お忙しい立場なのに、気にかけていただいて感謝しています」「次に会うときは、もっと打ち解けてくれ」 守光の指がさりげなくあごの下をくすぐる。極度の緊張を強いられた和彦が動けないでいる間に、守光は座敷を出て、廊下にいる南郷に話しかけた。二人の会話が和彦の耳に届く。「――南郷、先生をマンションまで送ってくれ。賢吾には、先生の安全については責任を持つと言い切ったからな。総和会の第二遊撃隊の隊長が送り届けたなら、あいつも文句は言わんだろ」「俺の運転でいいんですか?」「お前の車を襲おうなんてバカ者は、まずおらん。……体を張って先生を守れ」 了解、と低い声が答える。和彦がおそるおそる開いた襖のほうを見ると、ちょうど南郷が座敷を覗き込んだところで、しっかり目が合う。 挨拶のつもりなのか、獣が牙を向くような怖い笑みを向けられ、和彦は咄嗟に視線を伏せる。 できることなら、この場から逃げ出したかった。**「オヤジさんの機嫌がよかった」 道路が空いているとみるや、車のスピードを上げた南郷が、ふと思い出したように口を開く。後部座席に座り、じっと体を硬くしていた和彦は、それが自分にかけられた言葉だと察して、仕方なく応じた。「……まだ会って二度目なので、よくわかりません」「はっ、俺相手に敬語なんて使わなくていい。あんただって、こんな学も品もない男と、本当は口も聞きたくないだろ」 こんなことを言われて、頷けるはずもない。和彦は聞こえなかったふりをして、物憂げにウィンドーの向こうに視線を向ける。こちらから話題を振ってみた。「オヤジさん、と呼ぶんですね。会長のことを」「あの人には、十代のガキの頃から可愛がってもらっている。組を紹介してくれて、何かと口添え
last updateLast Updated : 2026-02-26
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第17話(28)

 和彦の質問に対する答えは、不自然な沈黙だった。もともと緊張感が漂っていた車内の空気が凍りついたような気がして、和彦は息を詰める。「――……昔から知っていると言えば知っているが、決して知り合いじゃない。長嶺組長は、特別だ。長嶺組を継ぐために作られたサラブレッドみたいなもので、俺のようなチンピラ上がりは、総和会の肩書きを背負ってようやく、新年のお目通りが叶ったぐらいだ」 南郷の言葉から暗い情念のようなものを感じ取り、和彦は小さく身震いする。あからさまにヤクザであることを匂わせる粗暴そうな男は、中身はさらに荒々しい嵐を秘めているようで、不気味だ。 会話を続ける気力が完全に萎えてしまい、とうとう和彦は、シートにぐったりと体を預ける。守光と夕食をともにしただけでも大きな出来事だが、なんといっても今日は、クリニック経営者としての生活が始まった日でもあるのだ。 めまぐるしい一日を思い返すだけで、眩暈がしてくる。 前髪に指を差し込み、顔を仰向かせて一度は目を閉じた和彦だが、シートに座り直したときに、何げなくバックミラーを見る。そこに映る南郷の目を見た途端、和彦は寒気を感じた。 南郷の目が、笑っているように見えたのだ。ただ笑っているだけではなく、暗く冷たいものを感じさせ、見るものを不安な気持ちにさせる。 和彦は本能的に伏せた視線を、もう上げることはできなかった。「――このマンションだったな」 しばらく続いた沈黙を、南郷が破る。ハッとして顔を上げた和彦は、車が自宅マンション前に停まっていることを知る。 ふっと肩から力を抜き、頷いた。「はい。ありがとうございました」 傍らに置いたマフラーを取り上げて和彦がドアを開けようとすると、勢いよく南郷が車を降り、和彦より先に後部座席のドアを開けた。獣のように荒々しく素早い行動に、和彦はただ圧倒され、南郷を見上げる。 訝しむように和彦を見下ろした南郷は、何を思ったのか、まるで淑女を気遣うように大きな片手を差し出してきた。南郷にとって、長嶺組長の〈オンナ〉とは性別に関係なく、こういう扱いをするものだという思い込みがあるらしい。「いえ、大丈夫ですっ&he
last updateLast Updated : 2026-02-26
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第17話(29)

 突然のことに声も出せない和彦は、大きく目を見開く。南郷は、手荒な行動とは裏腹に、静かな表情で和彦を見つめていた。 こんなときに限って、マンション前には人はおろか、車すら通りかからない。 南郷の大きく分厚い手が眼前に迫ってくる。絞め殺されるかもしれないと、本気で危機を感じた和彦だが、仮にも総和会に身を置く男がそんなことをするはずもない。 南郷の手は、和彦の首ではなく、両頬にかかった。「これが、長嶺組長のオンナ……」 和彦の顔を覗き込みながら、ぽつりと南郷が呟く。淡々とした声の響きにゾッとして、和彦は手を押し退けようとしたが、がっちりと頬を挟み込んで動かない。それどころか南郷は、体を寄せてきた。「一人の女とは一度しか寝ないと言われている男が、はめ込んでまで手に入れたのが、堅気の色男だと聞いたときは、何事かと思ったんだが。……そうか。これが、長嶺の怖い男たちと相性のいいオンナ、なんだな」 南郷は逞しく硬い体だけでなく、顔まで間近に寄せてくる。しかし和彦が気になるのは、頬から首へと移動する手の感触だった。両目に凶暴さを潜ませている男の行動が、和彦には読めない。 声が出せず、体は強張る。自分の足で立っているという感覚すら危うくなっていると、ようやく走ってくる車のエンジン音が聞こえてきた。だが南郷は動じない。 和彦は絶望感に襲われそうになったが、ヘッドライトのまばゆい明かりに照らされ、一瞬目が眩む。その間に車が二人の側で停まり、声をかけられた。「――警察だ。こんなところで何をやってる」 緊迫感に欠けた皮肉っぽい口調にこんなにも安堵感を覚えるのは、もちろん初めてだった。ようやく自分を取り戻せた和彦は、必死に南郷を睨みつける。余裕たっぷりの笑みを唇に浮かべて、南郷はやっと体を離した。「部屋まで送っていこうか、先生?」「けっこう……です。ここで」「残念だ。長嶺組長は、自分のオンナをどんな部屋に囲っているのか、興味があったんだが」 そう言って南郷は車に乗り込もうとしたが、ふと動きを止める。そして、いつの間にか和彦の傍ら
last updateLast Updated : 2026-02-26
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