再婚したら、元夫と息子が泣いてるんですが? のすべてのチャプター: チャプター 201 - チャプター 210

212 チャプター

第201話

その夜、瑠璃子は光一との行為を終えると、彼のワイングラスに密かに睡眠薬を混ぜた。男が深い眠りの淵へと沈んでいくのを見計らい、彼女は音もなく部屋を抜け出した。蒼真は、約束を絶対に守る男だった。彩葉がオークションへの同行を承諾してから二十四時間後、樹は無事に保釈された。「先輩!」警察署の通用門から樹の姿が現れるや否や、彩葉と瑠璃子は駆け寄った。「彩葉!」樹の端整な顔立ちには薄く無精髭が浮いていたが、翳りのあった瞳には、いつもの理知的な輝きが戻っている。瑠璃子の姿に気づくと、樹はわずかに足を止め、穏やかな笑みを向けた。「小山さんも、来てくれたんですね」「さあさあ、先輩……まずはお清めです!頭を垂れて!」瑠璃子は神社の神主さながらの仕草で、手にした雑誌を大幣よろしく振った。そして「かしこみ、かしこみ……」などと口ずさみながら、樹の左右にバサリ、バサリと雑誌を振った。「ムショ帰りには厄がついてるって言うじゃない?こうして穢れを祓えば、はい、禊完了!またもや潔白な先輩の爆誕ってわけ!」彩葉は呆れたように苦笑した。「るりちゃんも先輩と呼ぶなんて……彼はたった一日拘留されただけで、刑務所に入ってたわけじゃないのよ。大袈裟なんだから」樹もつられて頬を緩めた。「小山さんの気遣いは嬉しいけど、清廉潔白とまで言われると少しくすぐったいな」ふと、彩葉が薄着で夜風に吹かれている姿が目に入り、樹の胸が締めつけられた。彼は慌ててジャケットを脱ぐと、彼女の華奢な肩にかけようとする。「大丈夫よ、先輩。そのままでいて。寒くないから」彩葉は優しく、けれどきっぱりと拒んだ。樹の表情に、気まずさと羞恥の色が浮かぶ。彼は手を引っ込めた。「そうだよね。二日も着替えてないし、留置場で一晩過ごしたから……臭うよね」「ええ、確かに」瑠璃子が身を乗り出し、小さな鼻をくんくんと樹の肩に近づける。そして、思ったことをそのまま口にした。「なんだか、生乾きの雑巾みたいな匂いがする」樹は力の抜けた笑いを漏らすしかない。瑠璃子は悪びれもせず、笑いながらフォローを入れた。「まあ、運動部の男子が一週間履きっぱなしの靴下よりはマシよね」彩葉と樹は、顔を見合わせて沈黙した。「……」……瑠璃子がハンドルを握り、彩葉と樹は後部座席に並んで座った。車は樹の自宅マン
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第202話

彩葉は美しい瞳をわずかに見開き、戸惑いを隠せないまま樹と視線を交わした。正直なところ、たとえ本当に何かが起きていたとしても、彼が釈明する必要などないのだ。樹は恋人でもなければ、特別な相手というわけでもない。自分には、彼を束縛する権利はない。むしろ、瑠璃子のほうが興味津々といった様子で身を乗り出す。「先輩、あんなに記憶が飛ぶまで泥酔してたのに、どうして『自分で使ってない』って断言できるの?寝てる間に、つい……なんて可能性は?」「それは……」樹は長い睫毛を伏せ、膝の上に置いた骨ばった指をぎゅっと握りしめた。「僕は、重度の……その、アレルギー体質なんだ。以前、歯科治療の麻酔でさえ、ショック状態で死にかけたことがある。あんなものを万が一にも摂取しようものなら、僕は今こうして生きてはいられないだろう」彩葉と瑠璃子は、言葉を失った。車内を、唐突な静寂が支配した。命に関わるデリケートな事情まで明かしてくれるなんて……先輩って、なんて誠実な人なの!彩葉は奥歯を噛み締めた。「蒼真……っ、あの男はどこまで腐っているの!あなたへの報復のために、下手をすれば命を落としかねない代物を使って、こんな卑劣な罠を仕掛けるなんて!」樹は、怒りに頬を染める彼女を深く見つめ返した。「彩葉、君は僕を嵌めた黒幕がクズ蒼真だと思っているのか?」「彼以外に、誰がいると言うの?」樹の瞳に鋭い理性の色が宿る。「事件の後、晃に頼んで例のクライアントの身元を洗ってもらったんだ。その結果――あの人物と蒼真の間には、何の接点も見つからなかった」彩葉は息を呑んだ。「接点がない……?」「つまり、僕を嵌めたのは、蒼真じゃないということだ」樹は冷ややかな笑みを浮かべた。「僕はあの男を心底憎んでいるけれど、奴の性格上、もし僕を陥れるつもりなら正面から叩き潰しに来るはずだ。裏でこそこそ嗅ぎ回るような真似はしない。過去のやり口を見ても、これは奴の流儀じゃない」瑠璃子がバックミラー越しにちらりと視線を投げた。「あれ、先輩、もしかしてクズ蒼真を擁護してる?高潔だわ〜」樹は彼女のからかいに含まれた意味を察し、カッと頬を熱くした。声がわずかに上擦る。「そういうわけじゃない。職業病だよ。法律家として、どうしても事実だけで判断してしまうんだ」彩葉の瞳に、複雑な色が揺らめ
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第203話

彩葉の心は、答えの出ない深い葛藤へと沈んでいった。……翌日、樹の保釈のニュースが瞬く間に世間へと広まった。評判は傷つき、世間の風当たりも強くなったが、少なくとも保釈によって息をつく余地はできた。完全に社会的に抹殺される最悪の事態だけは免れたと言える。その夜、栞菜は旧交を温めるという名目で、雫を人目につかない隠れ家的なバーに呼び出した。雫は約束通り現れはしたものの、大幅に遅刻してきた。「煙たいし、品がない店ね。こんな場所での待ち合わせは二度と御免だわ」雫は店内で最も奥まった席に腰を下ろすと、サングラスをかけたまま顔をしかめた。まるで、パパラッチを警戒する大女優のような振る舞いだ。栞菜は満面の笑みで酒を注いだ。「はいはい……雫様は今や林家の令嬢であるだけでなく、氷室社長の目に入れても痛くないほど大切にされているのね。身分は別格で、私ごときとお会いくださるなんて、一生分の運を使い果たしたと言ってもいいくらいの幸運だわ!」彼女は流暢にお世辞を並べ立てた。雫が将来、氷室家の夫人の座に収まった時、自分を引き立ててもらわなければならないからだ。そうでなければ、こんな傲慢で心の狭い女と友人関係など続けるものか。頭がおかしくなってしまう。「ニュース見たわよ。あなたの憧れの人、トラブルに巻き込まれたみたいね。事務所の経営は大丈夫なの?」雫は出された酒を一口だけ含むと、あからさまな嫌悪の表情で眉をひそめた。蒼真に五年間も甘やかされてきた彼女の生活水準は、常軌を逸していた。パリコレのランウェイモデルとしての華やかな舞台、海外での受診には蒼真のプライベートジェット、食事は国賓級シェフの料理、水代わりに飲むのはロマネ・コンティやラフィット。彼女はとっくに、自分は特権階級の人間だと思い込んでいたのだ。栞菜が出すような安酒など、彼女にとっては泥水と変わらない。「ああ、もうその話はやめてよ!本当にムカつくんだから!」栞菜はグラスの酒を一気に煽った。「今、うちの先生は世間からバッシング受けまくりよ。ネガティブな噂ばかりで、せっかく見込みのあった大口のクライアントが急に掌を返したように、よその事務所に乗り換えちゃったの。最低でも数百万の損失よ!」雫は軽蔑しきったように唇を歪めた。「たかが数百万程度で、そこまで大騒ぎするなんて
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第204話

雫の顔からはみるみる血の気が引き、唇から血が滲むほど強く噛み締めた。栞菜はそれを見て、彼女が心臓発作でも起こしたのかと肝を冷やした。まるで別人かのような豹変ぶりだったからだ。雫はスマホを握りしめたまま廊下へ飛び出し、声を震わせて通話を続けた。「蒼真さんが私を誘わないなら、一体誰を連れていくつもりなの?」「彩葉よ。あの泥棒猫!」多恵子は奥歯が砕けんばかりにギリギリと噛みしめた。「しかも、野村秘書が『奥様』『奥様』と呼ぶものだから、二人に離婚の気配なんてさらさらないわ。むしろ以前よりも親密になっているみたいじゃないの!?」雫の胸を、言いようのない嫌な予感が締め上げる。「お母さん、本当に……蒼真さんは彩葉を連れて行く気なの?」「野村秘書は蒼真さんの忠実な犬よ。彼の言葉に間違いがあるはずないでしょう!?」多恵子の声は焦りで裏返った。「雫、いい?毎年ああいう大規模な公の場では、彼は必ずあなたを連れてきたじゃない。それがどうして今回に限って彩葉なの!?二人は離婚協議中だったはずでしょう?この間、氷室の本家で、和枝さんの前で彩葉と雪美さん母娘が決裂したのを、あなたも見ていたじゃない。なのになぜ蒼真さんは、何事もなかったかのように、五年間も冷遇してきた妻を表舞台に押し出すの?一体何を考えているの!?」「……この前、氷室グループに蒼真さんを訪ねた時、私の目の前で言われたわ。彩葉とは離婚しない、それどころか夫婦関係を公表するって」雫の清楚で可憐な顔立ちに、毒蛇のような陰険な光が宿る。その聖女の仮面の下に覗く悪女の本性は、見る者の背筋を凍らせるほどだ。「ふふ……なるほどね。この方法で彼女をオークションに連れ出して、世間にお披露目するつもりなのね」「駄目よ、雫!絶対に蒼真さんにあの女をオークションへ連れて行かせちゃ駄目!あのオークションは国内でも非常に影響力が強くて、政財界の大物がこぞって出席するのよ。彩葉が姿を現して、氷室夫人としての立場を公にしたら、あなたはたちまち袋叩きに遭って、世間から後ろ指をさされることになるわ!」多恵子は泣き叫ぶような声を上げていた。「たとえ将来二人が離婚したとしても、あなたには一生消えない汚点が残る。そうなったら和枝さんがそれを口実にして、あなたを氷室家に迎え入れてくれないかもしれないわ!」多恵子
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第205話

そう言って、雫はグラスの中身を一気に飲み干し、派手に咳き込んで見せた。栞菜はもともと酔いが回っていたが、雫の「友情」に感動し、舞い上がってしまった。慌てて彼女の背中をさする。「雫ちゃん、そう言ってもらえて嬉しいわ。私も本当にあなたを親友だと思ってるもの。じゃなきゃ、これまで何度もあんなに内部情報を提供したりしないわよ」雫は胸を押さえ、瞳を潤ませて可憐な弱者を演じた。「ねえ、かんちゃん。もう一つ小さなお願いがあるの。手伝ってもらえないかしら?」「もちろん!私にできることなら全力で!」雫の瞳の奥が、すっと暗く沈む。「あなた、彩葉が柳亜里沙を告発した時の証拠を、手に入れられない?」栞菜は驚いて目を瞬かせた。「え?でもあの案件は、西園寺さんが直接担当しているのよ。氷室彩葉に関する書類は全部、先生が自分のオフィスの引き出しに厳重に保管していて、他の人には一切触らせないって……」「実はね、これ蒼真さんが私に頼んできたことなの。柳はもう逮捕されたけど、彼女の不祥事が夫にも飛び火して、氷室グループの利益を損ねてしまったのよ。重大な問題だし、彩葉が関わっている案件だから、蒼真さんは証拠を手元に置いて、いざという時の備えにしたいんですって」栞菜は「蒼真が欲しがっている」と聞いて、即座に目を輝かせた。リスクへの懸念など一瞬で吹き飛ぶ。「わかったわ、任せて!」雫は親しげに彼女の腕に抱きついた。「かんちゃん〜!本当にいい人ね!」栞菜は媚びた表情を浮かべる。「これからも、未来の氷室夫人として、氷室社長の前で私のこと良く言ってくださいね。もし氷室グループで働けるようになったら、必ずお二人のご恩に報いますから!」雫は心の中で「この大馬鹿が」と罵りながら、声は蜜のように甘く囁いた。「もちろんよ、安心して」……深夜、檀湖荘。ここには四階建ての一軒家があり、人目につかない静謐な場所に佇んでいる。名義こそ光一だが、実質的な所有者は瑠璃子だった。今、瑠璃子は透けるほど薄いシルクのナイトドレスを纏い、引き締まった白い腕と、陶器のようにしなやかな筋肉のラインが浮き立つ。美しくも禍々しい背中を大きく露出していた。彩葉の完璧で繊細な肌とは違い、瑠璃子の背中には幾筋もの古い切り傷と、細長い鞭の痕が刻まれている。傷つき、苦難を乗り越
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第206話

瑠璃子の腰まで露出した背中が小さく震え、緊張が走る。頬は熱気のせいか、それとも骨まで蝕むような情欲に当てられたせいか、赤く染まり、熱を帯びて火照っていた。潤んだ瞳の底に宿る冷淡さとは裏腹に、体は正直だ。光一はかなり深酒をしているようだった。酩酊に任せ、やや乱暴に彼女の肩を押し下げる。瑠璃子は低く呻き、下腹部がひやりとした大理石のカウンターの縁に押し付けられた。氷のように冷たい石の感触と、背後の男の灼熱とが強烈なコントラストを描き、神経をさらに鋭敏にさせる。彼のキスは焼印のように熱く、彼女の震える肩から始まり、背中の傷跡一つ一つを愛でるように這っていく。特に唇が鞭痕の上を滑る時、彼は格別に優しく丁寧に、何度も何度も慈しんだ。まるで、彼女の知る冷酷な光一ではないかのように。光一の目は充血して真っ赤になり、口づけを重ねるほどに呼吸が重く、荒くなっていく。次の瞬間、瑠璃子の肌が外気に晒され、ひやりとした。白い肩にかかっていたストラップが、瞬く間に足元まで滑り落ちて……「ここで、リビングか……それとも二階がいい?ん?」光一は彼女の真っ赤に染まった耳たぶを甘噛みし、豊満な体を揉みしだきながら、嗄れた声で囁いた。瑠璃子の背骨を駆け上がって痺れるような感覚が走り、全身に広がった。息を弾ませ、わずかに顔を上げて抗う。「酔ってるでしょう、コーヒーがまだ……」「こうした方が、早く覚める」光一は力を失いかけた彼女の体を強引に反転させ、露わになった肢体を抱き寄せた。小さな顔を両手で包み込み、激しく、粘つくように、互いを貪るようなキスをする。まるで、彼女に狂おしいほど焦がれ、狂おしいほど愛しているかのように。瑠璃子は激しく震えながらも、両手を彼の広い肩に回し、彼の求めるままに身を委ねた。機械的に応じているつもりでも、その姿は限りなく妖艶で、極限まで魅惑的だった。光一は野性的に彼女に口づけ、触れながら、邪魔なものを次々と排除していく。ネクタイ、ジャケット、シャツ、ベルト……その痕跡はキッチンからリビングへと続いていく。寝室に戻るのも待ちきれず、彼はリビングの厚手のペルシャ絨毯の上で、彼女を組み敷き、激しく愛した。頭上のシャンデリアが揺れ、光が乱反射して視界が回る。瑠璃子は自分が荒波の中で漂う小舟のようだと感じた。大波が次
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第207話

光一は瑠璃子の殺気立った気配を感じ取り、目を険しく細めた。身を屈め、指先で彼女の小さな顎を掴むと、乱暴に持ち上げて上を向かせる。「小山、何をわけのわからない不機嫌な顔してる?あ?」視線が激しく火花を散らす。瑠璃子は彼の鋭い光を宿した瞳を見つめ返し、胃の腑に鉛を流し込まれたように重く、さらに深く沈んでいった。「いろはっちの大切な友人、西園寺先生を嵌めたのは、あんたが裏で指示したんでしょう?」彼女は冷徹に問いただした。光一の瞳孔が微かに収縮し、顔を近づけて威圧する。「誰から聞いた?」「ただ答えればいい。そう……それとも違うの?」「もう答えは出てるんだろう?じゃなきゃ何で俺に聞く」光一は鼻で笑い、指先に力を込めて骨がきしむほど強く顎を掴んだ。「小山、頭がおかしくなったんじゃないか?たかが西園寺ごときのために、俺に詰め寄る度胸があるのか?一体何を頼りにそんな口をきく?そうさ、俺がやった。それがどうした?西園寺の野郎が、身の程知らずにも蒼真の妻を口説いて、あれだけの人前で蒼真の顔に泥を塗りやがったんだ。メンツを潰すような真似しやがって。あいつはそんな最低限の仁義を欠く。ルールを知らないなら、俺が誰かに頼んで教育してやるしかねえだろ。誰に手を出していいか、誰に触れたら死ぬか、ってな」確かに、瑠璃子は知っていた。この数年、光一の側には入れ替わり立ち替わり女がいたが、唯一変わらない存在は親友の蒼真だけだった。女なら、遊び飽きたら他人に譲ることだって平気でする男だ。だが誰かが彼の親友に手を出せば、彼は命を賭けてでも報復する。その任侠肌で後先を考えない性格ゆえに、光一は北都で数え切れないほどの敵を作ってきたのだ。だからこそ、瑠璃子は彼と遠出するたびに、神経をすり減らし、影に怯える日々を送ってきた。「言っておくが、これでも手加減した方だ」光一は邪悪に唇を歪め、傲慢で狂気じみた笑みを浮かべた。「俺の性格なら、あの西園寺を塀の中で朽ち果てさせて、中にいる仲間に『たっぷり可愛がってやれ』と命じるところだ」「西園寺先生はいろはっちが最も大切にしている恩人よ。いろはっちは先生を実の兄のように慕っているの!」瑠璃子は渾身の力で顔を背け、怒りで全身を震わせた。「あんただってわかるでしょう。あたしといろはっちは、あんたと氷室蒼真
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第208話

「うわあっ――!」煌びやかな装飾が施された「オーシティ・カジノ」。その一角にある、最低賭け金一千万円のVIPルームの扉が勢いよく開け放たれた。かつては、氷室グループ市場部の統括マネージャーとして、栄華を極めていた小林が、今や顔をボコボコに腫れ上がらせ、サンドバッグのように無造作に放り出されたのだ。彼は床の上を無様に転げ回り、苦痛に呻き声を上げる。「ボスからの伝言だ!今月中に四千万のツケ、耳を揃えて返さねえと、両手両足をへし折る。来月になっても返せなければ、海外に売り飛ばして、マグロ漁船に乗せるからな!行くぞ!」二人の屈強なボディガードは去り際、さらに小林の脇腹を思い切り蹴りつけた。行き交う客たちは皆、眉をひそめてこの落ちぶれた男を眺め、嘲笑うような視線を投げて通り過ぎていく。小林は腰の激痛に顔をしかめながら、薄汚れたカーペットの上に横たわっていた。あまりの絶望に涙すら出てこない。四千万どころか、今の彼は懐もプライドもすっからかんで、小銭の一枚すら持ち合わせていないのだ!しかも、もう丸一日何も食べておらず、胃袋が裏返りそうだ。このままでは来月を待つまでもなく、餓死して野垂れ死ぬのがオチだろう!「氷室蒼真……っ、畜生!この何年もの間、俺はお前と氷室グループのために、馬車馬のように尽くしてきたんだぞ……!どうしてこんな酷い仕打ちができるんだ!冷酷にも程がある!」小林は涙ながらに蒼真を罵った。まさに血も涙もない悪魔だ!だが、彼にできるのは陰で負け犬の遠吠えを吐くことくらいだった。復讐?そんなものは夢のまた夢だ。自殺行為に他ならない!突然、白く清潔な、長い指が彼の目の前に差し出された。頭上から、穏やかな笑い声が降ってくる。「小林さん、お困りのようですね?」小林は呆然と顔を上げ、目の前に立つマスクをした男を見つめた。「あ、あなたは……俺のこと、知ってるのか?」「ええ。それに、わざわざあなたを探しに来たんですよ」マスクの男は目尻を下げて気さくに微笑んだ。不思議と警戒心を抱かせず、すぐに懐に入ってくるようなタイプだ。「まだ何も召し上がっていないでしょう。よろしければ、軽い食事でもいかがですか?」……カジノの階下にある高級レストランで、白いマスクの男は上海蟹、オーストラリア産ロブスター、そして
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第209話

「いやいや……悪い冗談はやめてくださいよ!あの彩葉なんて、ただの地味な女に過ぎないでしょう。彼女が俺を陥れたって?ありえない!」「彼女は侮れない相手ですよ」マスクの男の笑みが深くなる。「彼女こそ、氷室蒼真が五年間結婚していながら、一度も公の場に連れ出したことのない『正妻』なのですから」「な……何だって?彩葉が……氷室夫人!?」小林の顔色は一瞬で土気色になり、まるで脳天を殴られたような衝撃を受けた!マスクの男は懐からスマホを取り出し、婚姻届の画像を彼の目の前に突きつけた。「紛れもない事実です。そもそも、苗字が一緒だと分かった時点で、おかしいと思わなかったですか?なぜ彩葉ほどの人物が、氷室の研究開発部で目立たない平社員に甘んじていたのについて……それは恐らく、夫婦間の悪趣味な遊びでしょうね。あなたの奥様である柳さんが、研究開発部の総監督をしていた時、彩葉をさんざん苛めていたことは、あなたもよくご存知のはず。彩葉はそこで復讐の機会をずっと狙い、あなたの妻の弱みを握って刑務所送りにした。邪魔な目の上の瘤を排除したわけです」「お、俺の妻のことも……彩葉が関わっているっていうのか!?」小林は食べ過ぎたせいか、頭が混乱して回らなくなっていた。マスクの男はブリーフケースから落ち着いた手つきで書類を取り出し、テーブルの上を滑らせて彼の前に差し出した。「この書類は、彩葉が敏腕弁護士の西園寺樹に依頼して、あなたの奥様を告発した際の証拠資料です。そうでなければ、たかが下っ端の小娘に、そんな大層な度胸があると思いますか?背後には必ず、強力な後ろ盾がいるものです」小林は書類を食い入るように凝視し、怒りで全身をわなわなと震わせた!彩葉のあの貧相で地味な格好は、雫の足元にも及ばないと思っていたのに、まさか氷室夫人だったとは!自分の節穴だったわけじゃない。誰が見たって、こればかりは見抜けなかっただろう!マスクの男は言葉を続けた。「彩葉があなたの奥様を刑務所に送ったことで、氷室蒼真が密かにお二人を調査することになった。その後のあなたの転落劇については、言うまでもありませんね。彼があなたにこれほど非情な仕打ちをしたのも、彩葉がベッドの中で、あることないことを吹き込んだせいかもしれません。『あなた、あの男を許さないで』とね。氷室蒼真が
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第210話

マスクの男は再び懐から銀行のカードを取り出し、彼に手渡した。「この口座に一千万入っています。必要経費にお使いください……成功を祈っていますよ」小林は震える手でカードを受け取り、喜びで顔を綻ばせた。そして、好奇心と疑念の入り混じった目で男を見つめた。「あなたは……なぜ俺を助けるんです?」マスクの男の目に、底知れぬ闇が宿る。「無事に成功したら、理由をお話ししますよ」……前回のいじめ事件以来、瞳真は蒼真に厳しく叱責され、そのショックで高熱を出して寝込んでいた。回復した後も、学校への登下校以外は自室で読書や宿題をするだけの日々が続き、以前のように大好きだったフェンシングや乗馬のレッスンにも行かなくなってしまった。すっかり元気をなくし、貝のように口を閉ざしている。蒼真に対しても、以前よりさらに怯えるようになっていた。そうなると、瞳真は少しだけ――本当に少しだけ、ママがいた頃のことを懐かしく思うようになった。ママは決して叩いたり叱ったりしなかったし、ママが家にいた時は、家の中の雰囲気が明るくて、言葉にできない温かさがあった。あの頃は、ママが目の前をうろちょろしているのを、鬱陶しく思っていたのに。今は、ママの作る温かい料理が恋しい。ママが読んでくれた寝る前の物語が恋しい。ママと一緒に頭を突き合わせて宿題をした時間が、無性に恋しくなっていた……夕暮れ時、蒼真がブリリアージュ潮見に帰宅した。瞳真が元気なくリビングの床に座り込み、黙々とレゴを組み立てているのを見て、以前はふっくらとしていた頬がげっそりと痩せこけているのに気づいた。蒼真は薄い唇を軽く引き結び、息子の隣に腰を下ろして優しく声をかけた。「瞳真、今日の調子はどうだ?」「だいぶ良くなった。パパ、心配してくれてありがとう」瞳真は素直に答えたが、蒼真の目を見る勇気がなく、手元のブロックを見つめたままだ。その時、執事の山根が歩み寄ってきた。「若旦那様、坊ちゃまは今晩ほとんど何も召し上がっていません。お帰りになったのですから、どうか坊ちゃまにもう少しお食事を勧めていただけませんか」蒼真の端正な眉がわずかに寄る。「なぜちゃんと食べないんだ?」「……雫が作ってくれた料理、あまりおいしくなくて」瞳真は不満そうに顔を曇らせた。「料理の腕前、ママと比べたら全然
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