All Chapters of やり直せますか?冷戦3年越しの愛に謝罪: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

音は、目の前を歩く宗也の逞しい背中を見つめた。そして不意に、彼についていくことが、あまりにも困難だと悟った。耳が聞こえていた頃でさえ、彼の歩幅に合わせるのは大変だった。完全に聴力を失った今となっては、なおさら不可能に思える。彼女は無意識のうちに足を緩めた。宗也は彼女が遅れているのに気づき、振り返った。「どうした?」「私……もう帰らないわ」「何だって?」音は唇を噛み締め、もう一度繰り返した。「あなたは一人で帰って。私はもう戻らない」それは、青葉には戻らないという意味だった。そして、彼の元へも戻らないという意味だった。宗也の顔色が沈み、明らかに不機嫌さを滲ませた。だが、彼は怒鳴る代わりに、辛抱強くスマホを取り出し、一文を打ち込んで彼女に見せた。【駄々をこねるのはやめろ。悠人にはママが必要だし、まるにだって飼い主が必要だ】少し躊躇してから、彼はその下に一行付け加えた。【俺にも、妻が必要だ】音はその画面の文字を凝視した。心が大きく揺れ動いたことを、音は認めざるを得なかった。彼がこんなふうに、温かい言葉をかけてくれたのは初めてだったからだ。過去、どんなに喧嘩をしても、どんなに離婚騒動になっても、彼が口にする引き止めの理由はいつも同じだった。藤堂家の体面か、当主の体調のことばかり。彼自身が彼女を必要としているなどとは、一度も言わなかった。音は彼を見つめ、涙をこらえて問いかけた。「宗也、もし私が完全に聞こえなくなっても、それでも私という妻が必要なの?悠人も、こんなママを必要としてくれるの?」宗也は素早く指を動かした。【聞こえようが聞こえまいが、お前の立場は変わらない。もちろん……】彼はそこで指を止め、さらに打ち込んだ。【もし前向きに治療を受けて、良くなってくれればそれに越したことはない。お前にとっても、俺や悠人にとっても良いことだ】音もそれは分かっていた。だが同時に、前向きに治療しても必ず治るという保証などどこにもないことも知っていた。成功率が半分にも満たない手術だ。彼女には、受ける勇気がなかった。音は静かに首を横に振った。「宗也、治療はしたくないの」「なぜだ?」「理由なんてないわ。ただ、したくないの」彼女は平静を装い、彼に向かって淡
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第252話

なぜ断ったか?宗也自身には、その理由が分かっていた。ただ、もともと他人の噂話が好きではない彼は、京に私事を説明するのが面倒だっただけだ。彼が黙っているのを見て、京は話題を変えた。「まあ、言いたくないならいいさ。それより、治療するのかしないのか、はっきりしてくれよ。俺だって暇じゃないんだ」宗也は彼を冷ややかに一瞥した。「お前の時間は一ヶ月分、金で買ったはずだ」「人聞きの悪いことを言うなよ」京は呆れて白目をむいた。「俺が金に困ってるように見えるか?俺が帰国して奥さんを診てやることにしたのは、お前のその必死さに心を打たれたからだぞ」「誰が必死だ」「俺が言ってるのは……」京はわざと言葉を伸ばし、ニヤリとした。「奥さんのほうだよ。彼女こそ忠犬だろ」宗也は彼がからかっていると分かっていた。だが、冗談に付き合う気分ではなかった。彼は淡々と言った。「あいつは失敗を恐れているだけだ。少し時間をやれば、きっと考え直す」「無理強いは禁物だぜ。見てれば分かる、奥さんは本心では治療を受けたがっていない」「分かっている」京は頷き、珍しく真面目な口調になった。「以前からお前ら夫婦の仲が悪いとは聞いていたが、ようやくその理由が分かったよ」「何が分かったと言うんだ?」宗也は眉をひそめた。「なぜ不仲なのかってことさ。お前は奥さんのことを、これっぽっちも尊重していない」彼が鼻で笑うような表情を見せるのを見て、京は続けた。「俺はお前らと少しの間一緒にいただけだが、細部にこそ人柄が現れるもんだ。反論しても無駄だぞ」「さっきは俺が必死だと言ったくせに」「もう手遅れだな」「……」宗也は口元を引きつらせ、本気でこいつを殴り飛ばしたい衝動に駆られた。だが京の言葉は、彼を少し考え込ませた。確かに過去の自分は、音に対して無関心で、敬意など払っていなかった。たった一度会っただけの京にさえ見抜かれるのだから、他人や彼女自身がどう感じていたかは想像に難くない。……音は一人で田中おばあさんの家に戻った。心配そうな眼差しを向ける田中おばあさんに、彼女はどう説明すればいいのか分からなかった。田中おばあさんは手話で尋ねた。「音ちゃん、藤堂さんが病院へ連れて行ってくれたんだろう?どうだ
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第253話

優奈は音を値踏みするように眺めると、笑顔で親しげに腕を組んできた。「ねえ、今日見せてくれたこのデザイン、男の人は好きだと思う?例えば……藤堂宗也さんとか」音は少し戸惑った。優奈の口の動きを真剣に読んでいた。それでも、音には理解できなかった。どうして優奈は宗也がこのデザインを好きかどうかを聞いているの?優奈は気まずがる様子もなく、スマホに打ち直して見せてきた。音は画面にある「藤堂宗也」を見て、胸の奥に苦いものが広がった。目の前の優奈が夫を公然と狙っているから、というだけではない。この令嬢が自分にドレスを依頼するのは、腕を認めてのことではない。すべては、夫に近づくための手段に過ぎないのだと気づいてしまったのだ。自分の技術を利用して、宗也の視線を引こうとしているだけなのだ。やはり、周りにはまともな動機で近づいてくる人間など一人もいない。音はふいに疲れを感じた。だが、表には出さなかった。「江島さん、もし私が宗也に一目惚れされるような服を作れるなら、自分の夫をあちこちの女性に狙われて悩んだりしません。申し訳ありませんが、宗也の好みは存じませんし、ご依頼もお受けできません。失礼いたします」優奈は彼女が立ち上がって帰ろうとするのを見て、少し焦った。「誤解よ。そんなつもりじゃ……」音には彼女の声が聞こえない。たとえ聞こえていたとしても、足を止めるつもりはなかった。優奈は腹を立て、背後で地団駄を踏みながら叫んだ。「注文しないなんて言ってないでしょ!戻ってきなさいよ、この耳の聞こえない子!逃げる気?聞こえてるんでしょ!」音は、背後から追いかけてくる気配を感じた。無意識に歩調を早め、階段を下りる。踊り場を曲がった瞬間、誰かとぶつかりそうになった。反射的に頭を下げて謝ろうとした。その時、脳裏に宗也の言葉が蘇った。――すぐに謝るな。それは自分を弱者の立場に置くことになる。喉まで出かかった謝罪の言葉を飲み込む。顔を上げると、目の前の人物を見て動きが止まった。京だった。こんな場所で会うなんて。京は彼女がぶつかりそうになった時、とっさに手を伸ばして支えていた。彼女をじっと見て尋ねる。「奥さん、そんなに急いでどこへ行く?」音は彼が何を聞くか察しがついた。少しばつが悪そう
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第254話

礼儀上、仕方なく、音は京について二階のカフェへと戻った。彼女はソファに腰を下ろすと、少しうつむいて言った。「すみません、春日先生。私、耳が聞こえないので、会話がスムーズにいかないかもしれません」「気にするな。忘れたのか、俺はこの道の専門家だ。こういう患者との会話なら誰よりも慣れてるさ」音は彼に微笑みを返した。実のところ、アプリで彼の言葉を文字に変換すればいいだけの話だ。大した手間ではない。京は彼女にホットミルクを注文し、医師として、タバコや酒、コーヒーは控えるよう忠告した。礼を言った後、音は単刀直入に切り出した。「春日先生、手術を受けるよう説得しに来てくださったのは分かっています。でも、受けないと決めたんです。わざわざ足を運ばせてしまってすみません」京は彼女がここまで率直に来るとは思わなかったようで、苦笑しながら頷いた。「実は薄々分かってるだろ?俺が説得したいわけじゃない。宗也のやつだよ。あいつは素直じゃないからな」「なら、なおさら結構です」「どうしてそこまで手術を嫌がる?」音は窓の外を行き交う人々を眺めながら、苦い思いで嘘をついた。「手術の痛みに耐えられそうにないんです」「ただ痛みが怖いだけか?」京は笑って見抜いた。「君は、そんなにか弱い女には見えないけどな」音は黙り込んだ。京は少し考えてから、続けた。「君は何を考えてるか、みんな分かってる。宗也だって分かってるさ。ただ、あいつの性格じゃ、どう切り出せばいいか分からないだけだ。手術の失敗が怖いんだろう?それは自分を騙しているだけじゃない。周りの人間まで欺いていることになる」音は図星を突かれ、頬が熱くなった。反論したかったが、言葉が出ない。彼の言う通りだったからだ。「本当は他人の目なんて気にしなくていいんだ。そんなことばかり気にしていると、自分の輝きが曇ってしまう。気づいてないのか?劣等感のせいで、自分の価値が見えなくなってるぞ」「そんなことない!」音はついに我慢できずに口を開いた。京を真っ直ぐ見つめ、きっぱりと言った。「春日先生、認めます。確かに私は劣等感を抱いていますし、自分を追い詰めてしまうこともあります。でもそれは全部、藤堂家という環境からのプレッシャーのせいなんです。私が宗也と離婚した
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第255話

音は、京に対する宗也の態度を思い返した。確かに、京が口添えしたところで、宗也が聞く耳を持つとは思えない。音は仕方なく諦めて、彼に別れを告げた。「春日先生、ホットミルクをご馳走様でした。失礼しますね」「奥さん、本気で宗也と離婚するつもりか?」去り際に、京がもう一度尋ねた。音はスマホの文字を見て、迷いなく頷いた。「ええ、本気です」そう言い残し、振り返りもせずに立ち去った。京はソファに座ったまま、カップのコーヒーを飲み干してから、宗也に電話をかけた。「どうだ、全部聞こえたか?」電話の向こうで、宗也は沈黙していた。何を考えているのか分からない。しばらくして、ようやく短い一言が返ってきた。「ああ、聞こえた」京は舌打ちし、また憎まれ口を叩き始めた。「いやあ、まさかな。堂々たる藤堂家の御曹司が、妻に三行半を突きつけられる羽目になるとは」宗也は答えない。「なあ、奥さんは冗談で言ってるわけじゃなさそうだぞ。本気で自由を求めてる。いっそのこと、離婚してやったらどうだ?」「黙れ」宗也の声が冷たく響いた。「俺は本気で言ってるんだ。無理やり縛り付けたところで、幸せにはなれないだろ」「独り身のお前に何が分かる」宗也は鼻で笑い、一方的に電話を切った。京は口をへの字に曲げ、切れた電話に向かって吐き捨てた。「自業自得だ。ざまあみろ」……音は午後いっぱい、彩羽のスタジオで過ごした。彼女は自分を哀れむこともなく、悲しみを顔に出すこともなかった。むしろ以前にも増して仕事に没頭し、ほとんど口を開かなかった。彩羽はその様子を見て、内心焦っていた。彼女を元気づけようと、わざわざミルクティーを二つ注文した。一つを手渡そうとしたが、断られた。「いらない」彩羽は彼女の腕を軽く叩き、スマホの画面を見せた。【音、自分を追い詰めすぎて鬱になったら、本当に誰にも助けられなくなるわよ】音はハッとした。そんなこと、考えたこともなかった。だがよく考えてみれば、最近の自分の状態は、すでに鬱の一歩手前まで来ているのかもしれない。自分で自分を救わなければ、本当に壊れてしまう。甘いものを食べれば気分が良くなると聞いたことがある。彼女はミルクティーを受け取り、一口飲んだ。だが、いつもなら
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第256話

音は聞こえなかったけれど、悠人があんなに素直に「ママ」と呼んでくれたのを見たのは、これが初めてだった。たとえ宗也に教え込まれたのだとしても、それだけで胸がいっぱいになった。立ち去ろうとしていた足が、その場から動かなくなる。悠人は車から滑り降りると、短い足でトコトコと彼女のもとへ駆け寄ってきた。「ママ、キラキラ見るの……」音には、彼が何を言っているのか分からなかった。助けを求めるように顔を上げる。宗也はすでに車を降り、悠人の後ろからこちらへ歩いてきていた。スマホに一文を打って見せる。【悠人が川沿いで花火を見たいって】音は少し驚き、無意識に腕時計で日付を確認した。川沿いで花火が上がるのは、祭りやイベントの時だけのはず。今日は祝日でも特別な日でもない。花火なんてどこにあるというのか。「今夜、花火なんてあるの?」「お前が見たいなら、いつでもある」音には彼が何を言っているのか分からなかった。いや、分かったとしても、彼がそんな台詞を口にするはずがないと思い、自分の見間違いだと決めつけた。悠人を花火に連れて行くというなら、きっと何かアテがあるのだろう。だが、彼女はこれ以上宗也と近づきたくなかった。ずるずると曖昧な関係を引きずるのは、お互いのためにならない。彼女は努めて平静を装って言った。「悠人が見たいなら連れて行ってあげて。私は少し疲れてるから、早めに帰って休むわ」宗也の目がわずかに翳った。大金をはたいて花火を手配したというのに、彼女は行かないと言うのか?そこまで自分と一緒にいたくないのか。だが今回、悠人はなかなか察しが良かった。音が行かないと聞くや否や、すぐさま彼女の両足にしがみつき、可愛らしい顔を上げて言った。「ママも行くの。悠人、ママ大好き……」今度は音にも分かった。胸がきゅっと締めつけられ、屈んで小さな体を抱き上げた。もう断れなかった。愛しい息子を抱いたまま、宗也に言った。「行きましょう。遅くなるし」宗也はそっと安堵の息をついた。ドアを開けて二人を乗せ、自分は反対側から乗り込んだ。車はゆっくりと川沿いへ向かった。外は少し冷えていたので、車を降りる時、音は悠人の帽子をきちんと被せ直した。だが自分は薄着のまま、寒さにぶるっと身を震わせた。
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第257話

その瞳は、どこか焦点が定まっていないようだった。どうやら音は、今夜の花火を気に入っていないらしい。花火は長い時間にわたって打ち上げられ、多くの通行人が足を止めて見入っていた。けれど彼女の心だけは、惹きつけられなかったようだ。宗也は彼女の肩を軽く叩き、スマホの画面を見せた。【好きじゃない?】音は首を横に振った。「綺麗だとは思う。でも、好きとは言えない」音のない花火。その良さが、彼女には分からなかった。三十分にも及ぶ花火が、彼女にはひどく長く、耐え難い時間に感じられた。ようやく花火が終わった時、ふと肩の荷が下りたような感覚を覚えた。「終わったわね。帰りましょう」彼女は宗也に言った。宗也の唇がわずかに動いた。何か言いかけたようだったが、結局何も口にせず、悠人を抱いて車へと歩き出した。車が川沿いを離れる時、音は窓の外に視線を向けた。花火は散り、川面は再び静けさを取り戻している。やはり、美しいものは長くは続かない。時間が遅かったせいだろう。悠人は車に乗ってすぐに眠ってしまった。音はうつむいて彼の寝顔を見つめた。こうして抱いているだけで、胸が満たされていく。この子は最近、少し背が伸びたようだ。ぷくぷくだった頬も少しすっきりしてきたが、相変わらず整った顔立ちで可愛らしい。愛おしさを抑えきれず、そっと額にキスを落とした。悠人に見惚れすぎていたのだろう。車がいつの間にか青葉の別荘の前に停まっていたことに、気づかなかった。ハッとした時には、運転手がすでにドアを開けていた。彼女は怒りを込めて宗也を睨んだ。「藤堂さん、どうしておばあちゃんの家に送ってくれなかったの?」宗也も彼女を見つめ返した。そしてすぐにスマホを取り出し、文字を打った。【今のままでいいじゃないか。なぜわざわざ他人の家に送る?】「青葉にはもう戻らないって言ったはずよ」【なら、別の場所にしよう】宗也の指が素早く動く。【どこがいい?好きな場所を選べ、今すぐ引っ越そう】音はその文字を見て、怒りで頭がくらくらした。宗也はすかさず次の一文を打って見せた。【怒るな。腕の中で悠人が寝てるぞ】音は腕の中で熟睡している悠人に目を落とした。確かに、彼の寝顔を見ると少し冷静になれた。宗也は悠人を指差し
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第258話

宗也は低い唸り声を上げたが、音を振り払おうとはしなかった。彼は手を離さない。彼女も口を離さない。二人はそのまま膠着状態に陥った。口の中に血の味が広がり、音はようやく彼の手首を放した。彼の手首にはくっきりと二列の歯型が刻まれ、そこから血が滲み出していた。音は一瞬、後ろめたさを感じた。だが、口をついて出た言葉は冷ややかだった。「放して」宗也は痛みなど感じていないかのように、自分の手首を一瞥すらしなかった。「放してどうする?どこへ行く気だ?」「ここじゃなければ、どこだっていいわ」「悠人が寂しがる」「冗談はやめて。この三年間、悠人には母親なんていなかったけど、私がいる時よりずっと楽しそうに過ごしていたじゃない?」彼女はようやく悟ったのだ。悠人が彼女から離れられないのではなく、彼女が悠人から離れられないだけだと。彼女がいなくても、悠人は何不自由なく幸せに暮らしていける。「それは、あいつがお前と一緒に暮らしたことがなかったからだ。一度母親との生活を知ってしまった今となっては、同じようにはいかない」音はもう彼の口元を見ていなかったため、彼が何を言ったのか分からなかった。彼女は手首を捻って立ち去ろうとした。宗也は強く引き寄せ、彼女を懐の中に抱き込んだ。次の瞬間、彼女の体を軽々と抱き上げる。またこの手か。音は必死に抵抗したが、彼の強固な腕からは逃れられなかった。「また何をするつもりなの?いつもこうやって強引なことばかりして、疲れないの?」「正直に言うと、かなり疲れる」宗也は彼女を抱いたまま主寝室へと入り、ドアに押しつけるようにして彼女を下ろすと、困り果てたような顔で見下ろした。そしてスマホを取り出し、一文を打って見せた。【手術が終わってから、この家を出るかどうか決めればいい。それでいいだろう?】音は首を横に振った。「手術はしないと言ったはずよ」【しない理由を教えてくれ】「理由なんてないわ。ただしたくないだけ」音は苛立ちを抑えきれず、彼の胸を押した。「私の耳よ。私の決定を尊重して」宗也は素早く入力した。【だが聴力を失えば、お前は俺からもっと遠ざかってしまう】「……」音は呆然とした。彼が突然そんなことを言うとは思いもしなかった。彼が手術を
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第259話

どうやら、手術の成功率は本当に低いようだ。彼が自信を持てないほどに。「どうしたの?嫌なの?」音は声を詰まらせながら聞いた。宗也はやるせない表情で彼女を見つめた。「なぜそんな約束が必要なんだ?」「ちゃんとした自分でいたいの」一人になって初めて、彼女はまともに生きられる気がした。宗也には、その意味が痛いほど分かった。最終的に、彼は頷いた。「分かった。約束する」……こうして、音は青葉の別荘に残ることになった。彼女は以前の生活に戻った。毎日早起きして父子のために朝食を作り、悠人の好きなジャーキーを焼く。違うのは、もう悠人に勉強を教えられないこと。一緒に遊ぶことさえ怖くなっていること。耳が聞こえないからだ。悠人に嫌われるのが怖かった。悠人はまだ二歳過ぎの子供だ。難聴が何を意味するのか分かっていない。何度「ママ」と呼んでも反応がないので、次第に呼びたがらなくなってしまった。音がジャーキーを持って彼のところへ行った時。悠人がまるの短い足を両手で掴んで、ぶつぶつ呟いているのが見えた。「耳のないママ……嫌い」音の心臓が、ドクンと重く跳ねた。彼女は悲しげにうつむいた。そしてジャーキーを持ったまま、踵を返して立ち去った。彼女は一人でスタジオに籠もり、デザイン画を描き続けた。描き始めたら、一日中そのままだった。夜、宗也が帰宅すると、清美から音が一日中スタジオから出てきていないと報告を受けた。彼は端正な眉をひそめた。「食事はとったのか?」清美は頷いた。「お食事はとられましたが、誰ともお会いになりたがらないようで。特に悠人さまには……旦那さま、奥さまはまるで別人のようです。少しもお幸せそうに見えません」宗也は黙り込んだ。しばらくして、ようやく口を開いた。「あいつは、もともと幸せじゃなかった」それは事実だ。家に迎えてからというもの、彼女が心から笑っているのを見たことがない。ずっと家政婦のように、感情のないロボットのように生きてきた。自分ではそれに慣れているつもりだった。だが今日、清美にそう言われると、胸の奥がひどくざわついた。彼はスタジオの前まで行き、ドアをノックしようと手を上げた。だが音には聞こえないことを思い出し、そのままドアを押して入った。
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第260話

音はペンを持つ右手を止め、うつむいて黙り込んだ。宗也が大きな掌を伸ばし、彼女の手の甲をそっと覆った。温かな感触が、彼女の手をすっぽりと包み込む。力強い手だ。けれど、この手から安心感を得たことは一度もない。音は顔を上げて彼を見た。宗也は文字を打ち込んだスマホを彼女に見せた。【耳が聞こえないのは、恥ずかしいことじゃない。そうやって人を避ける必要はない】【悠人はまだ小さい。何も分かっていないだけだ】彼に見抜かれていた。音は再びうつむいた。胸の奥底にある劣等感が、抑えようもなく込み上げてくる。やはり、彼の前ではうまく立ち回れない。「藤堂さん、変わったわね」「言っただろう。悠人と一緒に変わってみせると」宗也の表情は大真面目だった。音は複雑な心境で、苦笑を浮かべた。「もういいわ。悠人はまだ小さいもの、あまり厳しくしないであげて」「あいつがまたお前を傷つけたんだろう?説教して立たせてくる」宗也が立ち上がろうとした。音は慌てて彼の手首を掴んだ。「行かないで、あの子が怖がるわ」「お前の言う通りだ。悠人はまだ幼いんだ、俺がムキになるべきじゃないし、これからはそうしない」彼女が掴んだのは、まさに宗也の負傷した手首だった。宗也は痛みに息を呑んだが、音には聞こえない。彼の額に脂汗が滲んでいるのを見て、彼女はようやく事態に気づいた。音は慌てて手を離した。手首に残る二列の血の滲んだ歯型を見て、彼女は謝った。「ごめん。手首の怪我のこと、忘れてた」しかも、自分自身が噛んでつけた傷だ。宗也は袖口を整えながら、スマホを操作した。【お前は犬の生まれ変わりか?すぐに噛みつく。前回は肩、今回は手首だ。そのうち俺の全身、お前の歯型だらけになりそうだな】その文面から滲み出るどこか哀れな響きを感じ取り、音は思わず吹き出した。それは実に貴重な笑顔だった。自らの肉体の痛みと引き換えに得たものだ。宗也は、それだけの価値はあると思った。【噛んで気が晴れるなら、もう一口どうだ?】彼はもう片方の手首を差し出した。「今度にするわ」音はその手を押し返した。「次に無理強いしたら、また噛むから」「善処する」彼女は灯りの下に座っていた。光を浴びた顔は白く瑞々しく、笑うとまるで咲き
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