All Chapters of やり直せますか?冷戦3年越しの愛に謝罪: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

たった半月しか経っていないのに、美咲はまるで別人のように変わり果てていた。顔色は土気色をしてひどくやつれ、かつての生気は微塵も感じられない。姉である美月の面影など、もうどこにも残っていなかった。彼女は目を真っ赤にして宗也の無情さをなじったかと思えば、今度は泣きながらここから出してくれと懇願し、美月の居場所を教えると言い出した。宗也はもちろん信じなかった。だが、穏やかだった心の湖に石を投げ込まれたかのように、ざわつきが広がったのは確かだった。彼は夜通し、美月が生きている痕跡を求めて探し回った。だが、何一つ見つかることはなかった。空が白み始めて、ようやく音がまだ病院で目覚めていないことを思い出した。「奥さんが目を覚まさなくてよかったよ。起きてお前がいなかったら、どれだけ失望したことか」京は呆れたように首を横に振った。「宗也、こういう時に病院を離れるべきじゃなかったな」宗也は沈黙した。京もそれ以上は言えず、肩をすくめた。「まあいい。しっかり彼女を見ててやれよ。何かあったら呼んでくれ」「ああ」宗也は短く答えた。京が去った後。宗也はベッドに歩み寄り、音の姿をじっと見つめた。手術のせいで、音の顔色はひどく蒼白だった。耳にはピンク色の補聴器が静かに装着されている。彼が特注で作らせた色だ。目が覚めたら、彼女は聞こえるようになるのだろうか。一時間後。ようやく音が目を覚ました。彼女がぼんやりと目を開けると、窓の前で電話をかけている宗也の後ろ姿が見えた。逆光の中に立つその姿は、すらりとして優雅だった。音はそのまま彼をじっと見つめていた。彼が電話を終えて振り返るまで。端正な顔が、一瞬驚きに染まった。彼は大股で歩み寄り、身を屈めて彼女を覗き込んだ。「目が覚めたか」音は小さく頷いた。「まだ辛いか?」音はまた頷いた。「少しだけ。藤堂さん、今何時?私、随分長く寝てた?」「ああ、丸一日眠ってたぞ」宗也は彼女を見つめ、声を落として尋ねた。「音……俺の声が聞こえるか?」音は手を上げ、耳の後ろに触れた。補聴器はある。だが、音の表情は茫然としたままだった。宗也の瞳の奥にあった期待が、少しずつ消えていく。彼女の表情を見れば分かる。聞こえていないのだ。「藤堂さん
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第272話

京は首を横に振った。「見ての通りだ。反応がない」「つまり……手術は失敗か?」「あと二日ほど様子を見よう。それでも聞こえなければ、失敗ということになる」京は宗也の肩をポンと叩いた。「すまない、全力は尽くした」宗也はその場で固まった。すぐにはこの結果を受け入れられなかった。音が指先で彼の服の裾を軽く引っ張るまで、彼は我に返ることができなかった。宗也は振り返って音を見る。音は彼を見上げて尋ねた。「どうした?春日先生、何て言ってたの?」宗也は彼女を傷つけるに忍びなく、無理に笑顔を作って答えた。「京が言うには、あと数日すれば聞こえるようになるかもしれないって。もう少しの辛抱だ」「そう」音の顔に、安堵したような浅い笑みが浮かんだ。だがそれも束の間、笑顔は薄れ、彼女は視線を落として自分の膝を見つめた。「どうした?」「もし手術が失敗してたら、あなたと悠人、がっかりするかなと思って」「しないさ」宗也は優しく首を振った。「言っただろう?手術が成功しようがしまいが、お前の立場は変わらないって」彼の意味は明白だ。離婚はしない、ということだ。音は苦い笑みを浮かべた。「また何か食べるか?」宗也は顎でベッドサイドのテーブルを指した。そこには様々な料理の小箱が並んでいた。「京が言うには、酒とタバコと刺激物以外は特に制限ないそうだ」「ありがとう、でも食欲ないの」音は本当に何も食べる気がしなかった。彼女は宗也を見つめた。「少し眠りたいわ」「ああ、ゆっくり眠れ」音は目を閉じたが、すぐにまた目を開けて彼に言った。「藤堂さん、先に帰って休んで。私一人で大丈夫だから」「構わない、ここにいる」「でも、お仕事忙しいでしょ」「仕事なら持ってきた」彼はテーブルの上のノートパソコンを指差した。音はそれ以上何も言わなかった。心の中では、哀れに思っていた。過去、彼からのほんの少しの優しさを求めることは、天に昇るよりも難しかった。それなのに、去ることを決めた今になって、もう必要なくなった今になって、彼は出会ってからの全ての優しさを一度に注ぎ込んでくる。もういらないのに。彼女が望むのはただ一つ、彼が約束を守り、自分を自由にしてくれることだけだった。午後、
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第273話

「ママ、心でも聞こえるの?」「もちろんよ」「じゃあ、悠人がママに歌うね!」「ええ、歌って」悠人は本当に真剣に歌い始めた。この何日か、家庭教師の先生から教わった新しい歌だ。幼くて甘い声は、格別に愛らしかった。音は笑顔で拍手を送った。宗也も「上手だな」と褒めた。悠人は褒められて有頂天になり、二人のためにもう一曲披露した。家族三人は、和やかで、幸せそのものだった。昨晩、宗也が病院を離れたことを知らなければ、京は自分の決断を後悔していたかもしれない。彼はドアの外で自嘲気味に笑った。そして踵を返し、オフィスへと向かった。……音が入院して三日目。依然として、聴力は戻らなかった。宗也は次第に焦りを募らせていった。京の手術が失敗したという事実を受け入れたくなかった。音が一生聞こえないままになることも、受け入れ難かった。何より重要なのは、手術が失敗したら音を自由にすると、約束してしまったことだ。彼はまだ、離婚したくなかった。音が廊下へ散歩に出た隙に、宗也は京の胸倉を掴み、壁に押しつけた。歯を食いしばって睨みつける。「一体どういうことだ?なぜ手術が失敗する?」京は慌てる様子もなく、胸元の彼の手を見下ろした。「宗也、手術前にはっきり言ったはずだ。成功率は四割しかないと。それでもやると言ったのはお前だぞ」「お前……」宗也はギリリと歯を噛んだ。「四割もあっただろう?なぜ失敗するんだ?」「俺の力が及ばなかっただけだ」京は自分を掴む彼の手を軽く叩いた。「宗也、そんなに興奮してどうする?奥さんと約束したんだろう?失敗したらお前を自由にしてやると。これからは美咲だろうが美月だろうが、好きに追いかければいい。彼女を傷つける心配もなくなるぞ」「てめえ、俺の話を聞いてんのか?」宗也は怒りのあまり殴りたくなった。「俺はもう美月や美咲のことなんてどうでもいい。ただ音に良くなってほしいだけだ。離婚したくないんだよ」「何がそこまでお前を駆り立てるんだ」京は理解できないという顔をした。「お前と奥さんが一緒にいても、互いに傷つけ合うだけだ。彼女も辛い、お前も辛い。いっそこの機会に、互いを解放してやったらどうだ」「余計なお世話だ」宗也は苛立ちを露わにした。「お前はあいつ
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第274話

宗也の瞳の色が沈んだ。複雑な眼差しで音を見つめた。「手術が失敗して、案外、嬉しかったりするんだろ?」音は茫然と彼を見つめ返した。こういう時は決まって、相手が何を言っているのか分かっていないのだ。普通なら、相手がスマホで文字を打って見せてくれる。宗也は二秒ほど沈黙し、スマホに一文を打ち込んだ。【春日先生が、聞こえるようになると言ってる】音はそれを見て、安堵の笑みを浮かべた。「本当?」「ああ、本当だ」宗也は手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。「春日先生の腕を信じろ。お前だって知ってるほどの有名人なんだからな」「うん」音は素直に頷いた。実は、京はすでに結論を出していた。手術は成功しなかった。何日待とうが結果は同じだ。退院の日。京はあのピンク色の補聴器をつまみ上げ、宗也に向かって溜息をついた。「せっかくの好意だったのに、残念だな。このピンクの補聴器も無駄になった」宗也の顔色は優れなかった。彼はベッドの上でぼんやりと座っている音を見つめ、試すように呼びかけた。「音」音は反応しなかった。もう一度呼んでみたが、結果は同じだった。彼が手を伸ばして音の目の前で振ってみて、ようやく彼女は反応し、彼を見て尋ねた。「藤堂さん、私に話しかけてた?」「ああ」「ごめん、見てなくて。何て言ったの?」「何でもない。帰る準備はできたかと聞いたんだ」「うん、もう行ける」音の静かな瞳の奥には、淡い哀しみが滲んでおり、見ているだけで胸が痛くなるほどだった。京は傍らに立ち、申し訳なさそうに二人に言った。「すまない。俺の腕が未熟だった。あと数年留学して勉強し直してから、また試させてくれ」宗也は彼を一瞥した。戯言だ。彼自身が言っていたではないか。この種の手術は一度きりだと。たとえ将来、彼が神の手を持つ名医になったとしても、もう音を治すことはできないのだ。音は無理に礼儀正しい笑みを浮かべた。「春日先生のせいじゃありません。先生は全力を尽くしてくださいました」「そう言ってもらえると助かるよ」京が言い終わるか終わらないかのうちに、病室のドアが突然開いた。雅代が入ってきたのだ。病室にいた三人の視線が同時に彼女に向いた。目の前の雅代は、オーダーメイド
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第275話

宗也は冷ややかな声で言った。「音は俺の妻であり、悠人の母親だ」彼がこれほど音を庇うのは稀なことだった。ここ最近を除けば、過去三年間、一度として彼女を擁護したことなどなかった。だからこそ、雅代にはその言葉が白々しく、耳障りにしか聞こえなかった。彼女は冷笑した。「宗也、そんなことを言って良心が咎めないの?昨夜どこへ行っていたか、自分でも分かっているでしょう?」音はシーツを握る手に力を込めた。「母さん!」宗也は雅代の言葉を遮った。「音の前で不躾なことを言うな」「何を怖がっているの?どうせ聞こえやしないわ。あなたが他の女のところへ行こうが、一晩共に過ごそうが、この子には分かりっこないもの」雅代は音を睨みつけ、冷たい笑みを浮かべた。「だってこの子は耳の聞こえない子だもの。自分の世界に閉じこもって生きるしかないのよ、これからの人生ずっとね」「母さん」宗也は歯を食いしばり、一語一語噛み締めるように言った。「今の自分の姿を見てみろ。善意も品位も欠片もない。音と比べて、何が優れていると言うんだ?」雅代の顔色が変わった。「何ですって?」「鏡に映る自分の、その醜悪な形相を見てみろと言ったんだ」宗也は顎でドア脇の姿見を指し示した。雅代の位置からは、顔を向けるだけで鏡の中の自分が見えた。鏡に映った自分の顔を見て、雅代の表情はさらに険しくなった。宗也はそれ以上彼女と言い争うのをやめた。音の手を引き、彼女を見下ろした。「音、帰ろう」だが、音は動かなかった。顔を上げて宗也の視線を受け止めた。そこには深い情があり、確固たる意志も見えた。だが音は知っていた。その愛情は偽りであり、決意も一時的なものに過ぎないことを。彼の心の奥底には、夏川美月という女性が住んでいるのだ。彼女が生きていようが死んでいようが、その事実は変わらない。「藤堂さん、お義母さまのおっしゃる通りだと思う。私みたいな人間が藤堂家に戻っても、縁起が悪いと思われるだけ」宗也は眉をひそめ、疑わしげな目を向けた。「聞こえないんじゃなかったのか?」「でも、見えるから。お義母さまの表情、目つき、口の動き。そのすべてが私への嫌悪を物語ってる」音は苦笑した。「数年も一緒に暮らしていれば、お義母さまが口を開か
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第276話

宗也は沈黙した。音は彼に軽く会釈した。「お先に失礼するわね」「どういうつもりだ?」宗也は彼女の腕を掴み、歯を食いしばった。「このまま行く気か?」音は冷ややかな視線を送る雅代を一瞥してから、口を開いた。「藤堂さん、まだ何か用?」「お前……」「いい加減になさい!」雅代が彼の言葉を遮り、入口に集まった野次馬たちを一瞥して低い声で叱責した。「宗也、自分の立場をわきまえなさい。たかが女一人のために人前で揉み合うなんて、みっともない!」宗也は外を一瞥した。気にするどころか、逆に音を腕の中に引き寄せ、見せつけるように抱きしめた。「自分の妻とじゃれ合うのが、そんなに恥ずかしいことか?」この言葉は雅代に向けてであり、外の野次馬たちに向けてでもあった。彼の冷酷な視線に射抜かれ、野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように去っていった。音は彼の手を振りほどこうとした。だが、叶わなかった。宗也は彼女の肩を抱いて外へと歩き出した。音は彼が何をしようとしているのか分からず、足早についていきながら抗議した。「何をするの?約束を破る気?」宗也は足を止め、音の顎を持ち上げた。彼女を見つめる眼差しが、少しずつ和らいでいく。「音、離婚するにしても、今日中に急いで済ませる必要はないだろう?」音の心が動いた。「同意してくれるの?」「こうでも言わないと、また俺のことを自己中だの、約束を守らないだのと責めるんだろう?」音は彼が承諾するとは思わなかった。本当に承諾したのかも、まだ信じられなかった。彼女は彼の服の裾を掴んだ。「嘘つかないで」「つかないさ」宗也は頷き、背を向けて歩き出そうとした。音は再び彼の裾を引っ張った。「いつ手続きに行くか、日にちを決めて」宗也は複雑な表情で彼女を見つめた。「いつがいい?」「明日」「そんなに待ちきれないのか?」宗也の顔色が目に見えて陰った。音は彼が怒って前言撤回するのを恐れ、慌てて言い直した。「明後日でもいいわ」宗也は沈黙した。やがて頷き、エレベーターの方へと歩いていった。宗也の足取りは速かった。音が追いかけようとした瞬間、突然誰かに腕を掴まれた。振り返ると、雅代のボディーガードだった。叫ぼうとした瞬間、ボディ
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第277話

宗也が今、音を重視していることは周知の事実だ。ボディーガードたちも当然、それを知っていた。宗也の機嫌を損ねれば、後でどんな目に遭わされるか分かったものではない。雅代は、雇い主である自分がボディーガードごときに面子を潰されたことに、さらに怒りを募らせた。「何を怖がっているの?何かあっても私が責任を持つわ」「お義母さま」音はゆっくりと床から立ち上がった。「彼らを困らせるのはやめてください。私に宗也から離れてほしいのでしょう?分かりました、離れます。宗也も承諾してくれましたから」「あなたの言うことなど、一言も信じないわ」雅代は嫌悪感を隠そうともせず、彼女を一瞥した。「では、彼らに私を殴らせれば信じてくださるのですか?」音は静かに微笑んだ。「はっきり申し上げますが、私を殴ったところで、お義母さまが得られるのは宗也の恨みだけです。何の得もありませんし、私の決意が変わることもありません。私が去ることを選んだのは、お義母さまの圧力のせいではありません。私自身が決めたことです」雅代は彼女の穏やかな表情を見つめた。まるで暖簾に腕押しのような、手応えのなさを感じた。彼女は冷笑した。「確かに、自分の身の振り方を考える潮時ね。宗也があなたに対してどれだけ本気か、その目でよく見極めることだわ。あなたはまだ知らないでしょうけど、手術が終わった当日、宗也はすぐに彼の『夏川さん』に会いに行ったのよ。私が言っているのは、本当の『夏川さん』、夏川美月のことよ。彼は……」「知っています」音は淡々と彼女の言葉を遮った。「お義母さま、私と宗也は愛し合って結ばれたわけではありませんし、そこに愛情があったことなど一度もありません。その点については、私が一番よく分かっています」「分かっているならいいわ。去ると決めたのなら、私が送ってあげる。あなたが望む場所へね」なるほど、これが雅代の真の目的だったのだ。彼女は音を直接この街から追い出し、藤堂家から完全に排除するつもりなのだ。「分かりました。では、京ヶ丘市へ送ってください」音がそう言い終えた直後。彼女のポケットの中でスマホが鳴った。宗也からの着信だった。数回コールした後、切れたかと思うと、すぐにメッセージが届いた。【なぜまだ降りてこない?】音は
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第278話

音は本来、宗也と悠人にきちんと別れを告げるつもりだった。だが、雅代があそこまで追い詰めてきた以上、このまま去るのも悪くないと思った。ボディーガードに空港まで送られた時。彩羽からメッセージが届いた。退院手続きはどうなったのかと聞いてきたのだ。音は返信を打ち、すでに京ヶ丘へ向かっている最中だと伝えた。彩羽からすぐに返信が来た。【音、京ヶ丘に何しに行くの?それに急すぎない?】【勉強しに行くのよ。この前話したじゃない?】彩羽はそこでようやく思い出した。確かに二日前、音が退院したら京ヶ丘へ行って、秦野瑞生(はだのし みずき)という先輩のもとでファッションデザインの研修を受けると言っていた。ただ、こんなに早く行くとは思っていなかっただけだ。【二週間後から講義が始まるんじゃなかったっけ?】【早めに行くことにしたの】音は少し考え、メッセージを付け加えた。【もし宗也が私を探しに来たら、実家へ静養しに帰ったと伝えて。京ヶ丘に行ったことは言わないで】【分かった、任せて】彩羽はさらに尋ねた。【一人なの?退院したばかりなのに大丈夫?】【安心して、平気よ】【じゃあ、道中気をつけてね】【うん】音はスマホを置いた。京ヶ丘への研修は手術前から決めていたことだ。たとえ今日、雅代に追い出されなかったとしても、数日後には行くつもりだった。飛行機は定刻通りに離陸した。彼女はシートに身を預け、窓の外に広がる幾重にも重なる雲を眺めた。心は、異常なほど穏やかだった。……宗也は自宅で一日中仕事をしていた。日が暮れても、音が帰宅する気配はなかった。彼はテーブルの上のスマホを手に取り、彼女に電話をかけた。「……電源が入っていないため……」というアナウンスが流れた。彼はスマホを置き、仕事を続けた。三十分後にまたかけたが、やはり繋がらない。音がメッセージで「彩羽のところへ行く」と言っていたのを思い出した。彼は立ち上がり、コート掛けからトレンチコートを手に取って階下へと向かった。清美がちょうど夕食の支度をしているところだった。足音を聞いてすぐに出迎える。「旦那さま、お出かけですか?」「ああ、音を迎えに行く」「奥さまをお迎えに行かれるのですね。お夕食はこちらで?」「ああ」宗
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第279話

ネットショップを運営している彼女が、ずっと繋がらないはずがない。宗也は発信を止め、羽音工房の公式サイトにアクセスした。そこから彩羽の番号を見つけ、電話をかけた。彩羽はすぐに電話に出た。宗也はサンルーフから、まだ明かりのついている部屋を見上げた。「すまないが、音に代わってくれ」彩羽は宗也の声だと気づいた。彼女は一瞬固まったが、すぐに意地悪く言い返した。「誰よあんた?親友の音を追っかけてる男なんて山ほどいるんだけど、誰でも取り次ぐわけじゃないのよ」宗也は顔色を曇らせた。努めて冷静に説明する。「藤堂宗也だ。音を迎えに来た」「あら、藤堂家の御曹司だったの」彩羽は白々しく驚いてみせた。「やけに偉そうな口調だと思ったわ。でも残念ね、あんたが来るのが遅すぎたのよ。音はここにいないわ」「いない?」宗也の心臓がドクリと跳ねた。「なら、どこにいる?」「聞いてないの?実家へ静養しに帰ったわよ」宗也の顔色がさらに険しくなった。音からは何も聞いていないし、電話も繋がらない。彼の知る限り、桐谷家は二十年前に京ヶ丘からこの街へ引っ越してきたはずだ。つまり、彼女は京ヶ丘へ帰ったのか?「いつ発ったんだ?いつこっちに戻る予定だ?」「さあね、どうかしら」彩羽は彼の焦った声を聞いて、内心ざまあみろと思っていた。今まで散々音を傷つけてきた男が、ついに音に捨てられたのだ。これほどスカッとする話はない。彼女は続けて、冷ややかに告げた。「音から聞いた話だと、あんたが離婚に同意したそうじゃない。彼女も離婚協議書にサインしたから、一人でのんびり休暇に出かけたのよ。まさかあんた、今さら知らぬ存ぜぬで通すつもり?権力を振りかざして、まだ彼女を苦しめる気?」宗也は聞いていられなくなり、淡々と遮った。「葉山さん、今の音の電話番号を教えてくれ」「何をそんなに焦ってるの?離婚手続きさえ終われば、音だって自然と電源入れるわよ。それに、ひょっこり戻ってきて、息子に会いに来るかもしれないし」それは事実だ。音は幼い頃からこの街で育ち、ここが彼女の故郷も同然だ。父親も病院に入院しているし、息子もここで暮らしている。一生戻らないわけがない。彼女が今離れたのは、研修以外にも、宗也から距離を置き、離
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第280話

悠人は賢い子どもだ。宗也の焦った口調から、音が上にはいないことを察していた。彼は顔を曇らせて聞いた。「パパ、ママは僕たちのこと、いらなくなったの?」宗也はハッとした。悠人でさえ、音に捨てられたと感じているのか。彼は手を伸ばして小さな頭を撫で、優しくあやした。「そんなことないさ。ママは誰よりも優しくて、悠人のことが大好きなんだ」「でも、ママいないよ」「ママはちょっとお休みに出かけただけだ。休みが終われば帰ってくる」「ほんと?」「ああ、本当だ」悠人はようやく笑顔を見せ、可愛らしい歯を覗かせた。宗也は彼がこれほど音に懐いているのを珍しく思い、ふと尋ねた。「悠人はママが好きか?」「すき」「どうして?」「ママ、ジャーキーつくってくれる」悠人はそう言いながら、ジャーキーを食べる仕草をした。「おいしい、おいしい」宗也は思わず笑ってしまった。人を好きになる理由は、こんなにも単純なものだったのか。本気ではないのかと言えば、そうとも言い切れない。宗也は自問した。音の何に惹かれているのか?料理の腕か?彼はそこまで食に執着はない。あの強情な性格か?彼はそこまで物好きではない。たぶん、好きというわけではないのだろう。ただ、傍にいることに慣れすぎて、失いたくないだけなのだ。宗也は悠人を連れて青葉に戻った。清美は首を伸ばして二人の後ろを覗き込んだが、音の姿がないのを見て、宗也が連れて帰れなかったのだと悟った。最近、彼は何度もこうして手ぶらで帰ってきている。そのたびに機嫌が悪くなる。当たり散らす。おかげで青葉の使用人たちは皆、戦々恐々としていた。清美は何も聞けず、黙って夕食をテーブルに並べた。宗也の指示で音の好物を数品多めに作ったが、それを出す勇気さえなかった。宗也は悠人を連れて手を洗わせた。父子二人での食事。どこか寂しい。宗也は数口食べただけで、悠人の世話を清美に任せ、自分は二階へと上がっていった。翌日。宗也は窓の外から聞こえる悠人の声で目を覚ました。悠人はまると遊んでいるらしく、楽しそうな笑い声を上げている。その笑い声に突然、雅代の不機嫌な叱責が混じった。「悠人、犬は汚いのよ。音の真似をして抱っこなんかしちゃ駄目」悠
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