Tous les chapitres de : Chapitre 71 - Chapitre 80

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第71話

宗也は茹でた海老を一つ、悠人の器に入れた。そして顔を上げ、美咲の手にあるスマホへ視線を向ける。画面に映る見出しと写真を見た瞬間、彼の表情が、はっきりと強張った。「……これは、どこから出てきた?」「さあ。私も、さっき見かけたばかりなの」美咲はスマホを引き寄せ、もう一度画面を確認するふりをした。「官製メディアみたいよ。それなりに信憑性があるんじゃないかしら。それに……」わざとらしく微笑む。「音さんに、あんなに色っぽい一面があったなんて。私は、あんな格好の彼女、見たことなかったわ」宗也は、複雑な表情のまま、しばし沈黙した。やがて、美咲に短く言う。「スマホを片づけろ。悠人に見せるな」そう言うと、自分のスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。声は、氷のように冷たい。「広報部は何をしている。ネットの騒ぎが目に入らないのか」電話の向こうで、亮が思わず息を呑む気配がした。「も、申し訳ありません、社長。私たちも、つい先ほど把握したところでして……すでに対応は始めていますが、拡散が早すぎて……」「それが言い訳になると思っているのか?」「……っ」亮は、言葉を失った。「……彼女は今どこにいる。探し出せ。伝えておけ。人の忍耐にも、限度があるとな」「……承知しました、社長」音のスマホは、電源が入ったままだった。亮が彼女に連絡を取るのは、難しいことではない。そして、宗也の言葉を、そのまま伝えた。伝言を終えたあと、亮は力なくため息をついた。「……奥様。これ以上、社長を刺激しないでください。このままだと、奥様より先に、私のほうが死にます」「ごめんなさい。私も、どうしてこんな記事が出たのか分からないの」「社長が、どんな立場の人か……プライベートを狙っている連中が多いのは、当然です」「じゃあ」音は、冷ややかに言った。「彼が美咲を婚家に連れ込み、一緒に暮らしているという話は?どうして、誰も書かないの?」亮は、言葉に詰まる。「それは……」慌てて取り繕う。「夏川さんは、坊ちゃんの家庭教師です。坊ちゃんが青葉の邸宅に慣れるまで、付き添いで数日滞在しているだけで……」家庭教師を名目にして、実際に何をしているのか。音は、それ以上、指摘する気にもならなかった。亮はしばらく待っても返事がない
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第72話

音は宗也の隣に立ち、人目を避けるように拳を強く握りしめた。必死に声を探し当て、ようやく口を開く。「……全部、嘘です。不倫なんてしていません。ネットに出ているあの女性は、私によく似ているだけで、私本人ではありません」「……」場の空気が、一瞬で凍りついた。ここまで堂々と、しかも一切の動揺もなく言い切る人物を、誰も見たことがなかったのだ。記者たちは言葉を失い、互いの顔を見合わせるばかりだった。宗也は、わずかに口角を上げ、集まった人々をゆっくりと見渡した。「聞こえませんでしたか。ネットの女性は、私の妻に似ているだけです。本人ではありません」「え……」誰もが判断に迷い、次の質問を投げるべきかどうか、逡巡する。彼らが次の手を考える間もなかった。宗也は手を伸ばして音のうなじをつかみ、そのまま自分の胸元へ引き寄せると、顔を伏せ、深く彼女に口づけた。音は、言葉を失った。こんな場所で何をするつもり?本能的に身を引こうとするが、宗也の大きな手が後頭部を押さえ、逃げ場を与えない。柔らかな唇は、そのまま耳元へと移り、低い声が、彼女の耳に落とされた。「……音。立花グループの次男は、どんな死に方が一番綺麗だと思う?」音の胸が、きゅっと締めつけられる。次の瞬間、彼女は驚くほど素直になっていた。一瞬の迷いのあと、両腕を、ゆっくりと彼の腰に回す。演技のはずの口づけは、フラッシュの嵐の中で次第に熱を帯び、本物かどうか、誰にも見分けがつかなくなっていった。公衆の面前で男に抱き寄せられ、音は恥ずかしさと気まずさで、息の仕方さえ忘れてしまう。幸いにも、宗也は寸前で彼女を解放した。失神する前に、唇を離し、長い腕で彼女の腰をしっかりと抱き寄せる。そして、集まった記者たちに向き直った。「見ましたか。私と妻は、何の問題もありません。これ以上、私や妻を中傷する記事を書くつもりなら――覚悟をしておくことです」それは、忠告であり、紛れもない脅しだった。記者たちは再び顔を見合わせ、やがて一斉に笑顔を作る。「藤堂社長と奥様は、本当に仲睦まじいですね。こちらの誤解でした」「ええ、事実に基づいて報道いたします。どうぞご安心ください」その媚びた態度を眺めながら、音は初めて、ある言葉の重みを実感した。――金が
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第73話

雅代は、音の言葉に一瞬言葉を詰まらせた。すると脇にいた美咲が、慌てて雅代の腕を支え、柔らかな声でなだめに入る。「音さん、おばさまは年長者です。そんな言い方は、いくら何でも失礼ではありませんか?」音は美咲を一瞥した。その甘ったるい物言いに応じる気はなく、ただ静かに、雅代の目を見据える。亀の甲より年の劫。雅代は、すぐに立て直した。顎を誇らしげに持ち上げ、言い放つ。「ええ、そうよ。あなたの下賤な母親が、一か月以内にあなたを嫁がせると約束して、私に頭を下げてきたの。それと、あなたが立花家の庶子と関係を持ち、その挙句にスキャンダルを世に晒したことと、何か関係があると思って?藤堂家は、一度たりとも、あなたに借りを作った覚えはない。それなのに、あなたは何度も藤堂家の顔に泥を塗り、宗也を社交界で立つ瀬のない立場に追い込んだ」音は、雅人との関係を説明する気にもならなかった。ただ淡々と、こう告げる。「お義母さま。確かに、藤堂家は私に借りはありません。けれど――お義母さまが、これまで私にどう接してきたかは、ご自身が一番よく分かっているはずです」そして、はっきりと続けた。「私はあなたよりも、宗也と美咲が結ばれることを望んでいます」その瞬間。背後で、ドアの開く音がした。音は振り返る。そこに立っていたのは、宗也だった。深い眼差しは、氷を宿したかのように冷え切っている。美咲が、すぐに歩み寄り、気遣うように声をかけた。「宗也……音さんを責めないでください。彼女、私のことをずっと誤解しているだけなんです」だが、宗也の視線は、終始、音から離れなかった。「……全員、下がれ」それは、雅代と美咲に向けられた言葉だった。音の反応は、二人より早かった。床に落ちていたバッグを掴み、そのまま立ち去ろうとする。だが――宗也の手が上がり、長い指が彼女の腕を掴んだ。「お前は残れ」雅代が、数歩前に出る。宗也に向かって、怒りを滲ませて言った。「宗也、この女はね、とっくに立花家の庶子と関係を持っていたのよ。きちんと躾けるべきだわ。いっそ先祖の位牌の前に押し戻して、三日三晩、跪かせなさい」「……母さん。これは、俺の私事だ」「どこが私事なの?」雅代は、憤りを隠さず言い返す。「藤堂家
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第74話

宗也は、グラスの縁を長い指で二度、軽く叩いた。考え込んでいるように見えたが、やがて淡々と言った。「……だが、俺は雅人だと思っている。あれは、俺に対する挑発だ」「雅人は、そんな人じゃない」音は思わず言葉に力を込めた。「宗也。あなたが美咲を信じて守りたいと思うのは分かる。でも、私を助けてくれた人、命まで救ってくれた人を、わざわざ貶める必要はないでしょう」宗也はグラスをカウンターに置き、音のほうへ歩み寄る。大きな手が、いつものように彼女のうなじを掴み、強引に引き寄せた。冷たい息が、至近距離で彼女の頬を撫でる。「お前だって、雅人だけを信じて、無意識に庇っているじゃないか。音。物事は、感情じゃなく頭で考えろ」うなじを掴まれたまま、音は痛みに顔を歪めた。視界がにじみ、意志とは無関係に目元が熱くなる。「……どうして、雅人だと決めつけるの?」「ネットに出回っている写真を見れば分かる」宗也は低く続ける。「どの写真にも、雅人の正面の顔が写っていない。横顔ですら、はっきりとは分からない。もし美咲が手配したなら、相手の男の顔を、もっと鮮明に撮らせるはずだ」「……」音は言葉を失った。その点について、一度も考えたことがなかった。確かに、ネットに出た写真はすべて、自分の姿だけがはっきり写っていて、雅人の顔は曖昧なままだ。それでも。音は鼻をすすり、小さく息を整えてから言った。「……あなたが思いつけるから美咲も思いつけるって、どうして言い切れるの?わざとそう見せて、あなたを惑わせるための細工だとは、思わないの?」宗也は答えなかった。ただ、じっと彼女を見つめる。やがて、薄く笑った。「音。俺が美咲を庇っていると言うなら――お前だって、同じように雅人を庇っている。……まあいい」彼は、うなじを掴んでいた手を離した。「意見が合わないなら、それぞれの答えを持てばいい」そう言い捨て、背を向ける。「……帰るぞ」「待って」音は慌てて彼の前に回り込み、真正面から立ちはだかった。そして、必死に言葉を選ぶ。「雅人に、手を出さないで。彼は、私を助けてくれた。確かに、一緒に食事もしたし、同じホテルにも泊まった。でも――同じ部屋ではない。私たちは、何もなかった。…
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第75話

「……好きよ。綺麗だと思う」そう言い残し、音は下駄箱を開けて靴を履き替えた。白い綿のスリッパは、下駄箱の隅に押し込められている。本来あった場所には、淡いピンク色のスリッパが、当然のように置かれていた。ほんの数日で、美咲の痕跡は、この家の隅々にまで染み込んでいた。だが、音はもう覚悟していた。表向きだけの夫婦として、この家に戻ることも。それ以上を、期待しないことも。履き替えを終えると、彼女はそのまま階段を上がった。宗也は、彼女が振り返ることもなく寝室の方向へ向かうのを見て、眉をひそめ、声をかける。「……待て」音は足を止め、振り返って彼を見る。「藤堂さん、何か?」「悠人の顔は、見なくていいのか」かつて彼女は、悠人を青葉に引き取るため何度も泣いて頼み込んだ。そのたびに自分が折れ、彼に媚びる形で終わってきた。それほどまでに、息子を求めていたはずだった。それなのに。今夜、悠人がこの家にいると分かっていながら、彼女は会おうともしない。宗也は知らない。人の心は、冷えていくものだということを。どれほど愛していても、幾度となく傷つけられればやがて、愛せなくなる。「……もう遅いから。明日にするわ」音はそれだけ言い、寝室へ向かった。ドアを開ける。暗闇の床に、不気味なほど白い光が反射している。違和感を覚え、彼女は照明を点けた。そこには。かつて自分の手で叩き割った、結婚写真が、あの日のまま床に転がっていた。割れたガラスの破片も、一つ残らず、片づけられていない。音はあの日、宗也が吐き捨てた言葉を思い出す。「貼り直せ」彼女は、初めて彼に本気で逆らった。貼らなかった。その夜のうちに、スーツケースを引き、家を出た。「俺は、始めたことは最後までやらせる主義だ」背後から、宗也の冷えた声が落ちてくる。「お前が壊したものは、お前の手で直せ」音は、はっと我に返った。そして黙って腰を下ろし、床いっぱいに散らばったガラス片を拾い始める。宗也は、そのままバスルームへ向かった。ガラス越しに、激しいシャワーの音が響く。音は自分がまた、過去へ引き戻されたような錯覚に囚われる。この屋敷に閉じ込められ、感情を持たない人形のように生きていた日々。ただ、彼の言葉
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第76話

淡いグレーのバスローブをまとった宗也は、広い肩と引き締まった胸元をあらわにしていた。いつもの冷淡さが薄れ、どこか生々しい色気が滲んでいる。音は、思わずあの黒いレースの下着を思い出してしまい、顔から血の気が引いた。「……こんな時間に、まだ何か用?」「不機嫌そうだな」宗也は眉を上げ、彼女をじっと見た。「どうしてそんなこと言うの」「これが、お前の望んだ生活じゃないのか」男は手を伸ばし、整った指先で彼女の乱れたネグリジェの肩紐をなぞる。それだけで、空気がいやに湿っぽくなる。「悠人を青葉に連れてきてお前に育てさせた。毎日、あいつに会えるようにしてやった。それで、まだ足りないのか」音は一歩下がり、その手を避けた。「悠人を育てたい気持ちはある。でも、二人の女で一人の男を共有するみたいな暮らしは、望んでない。宗也、悠人は元の家に戻して」「……またその話か」宗也は眉を寄せる。「美咲は、悠人が環境に慣れるまで付き添ってるだけだ。お前が考えてるような、汚い話じゃない」「……自分で、それ信じられる?」クローゼットの奥にあった黒いレースが脳裏に浮かび、音は悔しさに目を赤くした。「いっそ、認めたらいいじゃない。彼女と一緒にいたい、悠人の母親にしたい。それなら、それでいい。離婚は藤堂グループの評判に響く、おじいちゃんを怒らせる。そう言うなら、離婚してないふりもできるし、青葉に戻って、仲のいい夫婦を演じることもできる。取引だと思えばいいのよ。まだ話し合う余地があるわ」宗也の目が、はっきりと冷たくなった。「音……結婚を商売みたいに扱うのか。だから平気で、他の男の結納を受け取れたわけだ」「他人の名前を出さないで」音は苛立ちを隠さず言い返す。「最初から、私たちの結婚は取引だったでしょ。これまで私が勝手に、気持ちを注げば返ってくるなんて思い込んでいただけ。でも、目が覚めた。だから、今からでもちゃんと修正しようとしてるだけ」つまり、彼女は何を言いたいのか。宗也は、赤くなった彼女の目に浮かぶ非難と失望を見つめ、言葉を失った。宗也は、珍しくこれまでの自分の態度を省みた。彼女には、感情というものがないのだと思い込んでいた。実の母や弟に、あれほど酷く扱われても、それでも彼女は彼らを
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第77話

「忘れるな。お前は、俺が二十億円で娶った女だ。少し自由にさせて、離婚だなんだと騒がせてやっているだけだ。それは、離れていいとか、妻の義務を果たさなくていいという意味じゃない」「……私は」音は、悔しさと怒りで声を震わせ、ついに泣き出した。「返す……必ず返す。お金は、全部返すから……!」「シー……」宗也は彼女の口元を手で覆い、声を落とす。「そんなに騒ぐな。悠人を起こす気か」その手が離れると、今度は唇を塞がれた。口づけは荒く、熱を帯び、同時に長い指が彼女のナイトドレスを引き下ろしていく。白い肌に触れた感触は、記憶の中と何ひとつ変わらなかった。結婚して三年。これほど長く、彼女に触れなかったのは初めてだった。もう、慣れたつもりでいた。彼女のいない生活にも、触れられない日々にも。だが、違った。彼は今もなお、彼女の体に対して、強い欲と支配欲を失っていなかった。泣かせること。追い詰め、涙ながらに許しを乞わせること。それがこの三年間、彼にとって唯一の興味であり、歪んだ愉しみだった。そんな相手を、どうして手放せるだろう。大きな手が、彼女の頬を撫でる。掠れた声で、宥めるように囁いた。「音……少し、いい子にしてくれ。そうしたら、明日には美咲を帰らせる。それでいいだろ?」音は、ただ彼の拘束から逃れたかった。だが、彼は逃がさない。音は目を閉じた。涙が、目尻からこぼれ落ち、宗也の掌の中へと流れ込む。その温もりに、宗也は一瞬、動きを止めた。体も、僅かに強張る。まだ、何もしていない。それなのに、もう泣くのか。どれほど、彼と関わりたくないんだ。これまでの彼女は、気持ちがどうであれ、ベッドの上では常に従順だった。どうやら今回の家出で、心まで自由になったつもりらしい。それも、立花の男のところで。雅人のことが脳裏をよぎった瞬間、宗也の興は一気に冷めた。彼は身を翻し、ベッドのヘッドボードにもたれかかる。乱れたままの格好にも構わず、テーブルに手を伸ばして煙草の箱を掴み、煙草に火を点けた。煙が立ち上り、顔に残っていた欲を覆い隠し、やがて冷たい色へと置き換えていく。しばらくして、低く吐き捨てる。「……出ていけ」音は、解放されるとは思っていなかった。反射的に反
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第78話

「宗也、先に朝食を食べて。仕事に遅れるよ」「音を待つ」宗也は悠人を床に下ろし、頬を軽くつまんで聞いた。「宿題、終わったか」「終わった……!」悠人は胸を張って、誇らしげに頷く。「悠人……百点取ったよ!」美咲は笑いながら、彼の小さな頭を撫でた。「悠人くんは本当にいい子ね。どの授業でも、いつも満点だもの」「美咲ママ、だっこ!」悠人は嬉しそうに、彼女に向かって飛び込んだ。だが今回は、美咲は彼を抱き留めなかった。代わりに、柔らかな声で言う。「悠人くん、ママはずっと悠人くんに会いたかったの。ママに抱っこさせてあげてくれる?」この光景は、もう何度も見てきた。それでも、胸の奥が締めつけられるように痛む。彼女の夫であり、彼女の実の息子だったはずの二人が、今はまるで、他人のもののようだ。それでも。音は、もう覚悟している。気持ちを整え、階段を下りていった。最初に彼女に気づいたのは、美咲だった。微笑みながら、悠人に声をかける。「ほら、ママが起きてきたよ。ママに抱っこしてもらおうか」また、このやり方だ。だが今回は、悠人は前のように首を振って拒まなかった。大きな瞳で音を見つめ、彼女が近づいてくるのを待ってから、小さな声で言った。「……ママ。だっこ、しなくても……いい?」音は、宗也を見る。宗也は、こっそりと悠人の小さなお尻をつねった。悠人はすぐに口を尖らせ、今にも泣きそうな顔で、音に向かって腕を伸ばす。だが、音は手を差し出さなかった。代わりに、かすかに微笑んで言う。「大丈夫。抱っこして欲しくないなら、しなくていいよ」やっぱり。これは、宗也が事前に教え込んだのだ。こんなふうに無理に引き出した抱擁なら、いらない。「ゆっくり話してて。私は先に出るね」そう言って、彼女はもう振り返らなかった。そのまま、大きな玄関へ向かって歩き出した。宗也は、彼女の態度に業を煮やし、背を向けた音に低く言い放った。「……待て」音は足を止め、振り返って彼を見る。「何?」「音さん、怒らないで」美咲が慌てて口を挟み、申し訳なさそうに言った。「宗也とは話してあるの。悠人くんがここに慣れたら、私は辞める。もう、あなたの気に障ることはしないから」よく言う。音は心の中で冷笑し、同じ調子
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第79話

「分かりました。今から向かいます」音は、もちろんこれ以上耳を悪化させるつもりはなかった。足早に横断歩道へ向かおうとした、そのとき。見慣れた黒塗りの高級車が、ゆっくりと彼女の前に停まり、行く手を塞いだ。後部座席の窓は下ろされていない。それでも、ガラス越しに、男の硬質な横顔がうっすらと見える。音は回り道をしようとしたが、すでに運転手が降りてきて、ドアを開けた。「……奥様。社長が、乗るようにと」「何か用?」問いかけた相手は運転手だった。だが、返事をしたのは車内の男だった。「音。右前を見てから、用があるかどうか聞け」音は言われたとおり、右前方へ視線を向ける。そこには、全身を隠すように身なりを整えた若い男が、カメラを構えてこちらを狙っていた。視線が合った瞬間、男は慌てて背を向ける。――もう、騒ぎは終わったと思っていた。どうやら、まだ諦めていない連中がいるらしい。仕方なく、音は車に乗り込んだ。車内では、ビジネススーツ姿の宗也が、背もたれにゆったりともたれている。彼女のほうは見ず、車が動き出してから、淡々と言った。「さっき、じいちゃんから電話があった」音は、膝の上で組んでいた指を、きゅっと縮める。「……おじいちゃんは、大丈夫?」藤堂家の当主は、藤堂家の中で、唯一、彼女を人として見てくれた存在だった。昨日の騒ぎを考えれば、何も知らないはずがない。「よくはない。思い切り叱られた」「……」音は心の中で、小さく舌打ちする。自業自得でしょ。そのとき。膝の上に置いていた彼女の手を、誰かが握った。音は驚いて、反射的に引き抜こうとする。だが、その手は、さらに強く絡め取ってきた。音は、そっと彼のほうへ顔を向けた。温もりの残る指先が、ゆっくりと彼女の左手の薬指へ移り、もう一方の手がサイドボックスから小さなケースを取り出す。そして、指輪を一つ、静かに彼女の指に通した。――この指輪。それは、かつて彼女自身が売り払った、あの結婚指輪だった。どうして、ここにあるの。宗也は、どうやって見つけ出したのだろう。先月、彼に激しく叱責されたあと、音は指輪を買い取った相手に連絡を取ろうとした。だが、すでに別の手に渡っており、連絡はつかなかった。彩羽にも頼
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第80話

「……別に、息子がいなきゃ生きていけないわけじゃない」音は鼻で笑った。宗也は黙り込む。今、彼の頭にある感覚は一つだけだった。女は、甘やかすと付け上がる。譲れば、際限なく踏み込んでくる。車は走り続ける。だが、車内の空気は、次第に重く、張りつめていった。やがて、運転手が遠慮がちに声をかける。「……どちらまで?」音は、耳の再診だとは言いたくなかった。「父に会う。前の病院で降ろして」車は、病院の正面で停まった。音はドアを開け、降りようとする。その背後から、宗也の淡々とした声が落ちた。「……夜は、早めに帰って子どもの面倒を見ろ」「……」音の体が、わずかに強張る。家に帰って、子どもの面倒を見る。聞き慣れない言葉。それなのに、妙に現実味があって、胸の奥がざわついた。音はまず六階へ向かい、父の病室を訪ねた。そのあと、三階で耳の診察を受ける。エレベーターの中で、モニターに映った自分の姿に、思わず息を呑んだ。慌てて、マスクを引き上げる。宗也が公衆の面前で彼女に口づけてから、ネット上の空気は一変していた。否定や中傷は消え、代わりに溢れ出したのは、彼と彼女の「愛」の物語だった。さきほど、無理やり宗也の車に乗せられた場面ですら、美しく、感動的に切り取られて拡散されている。「二か月前までは、藤堂家の御曹司と夏川美咲が怪しかったよね。なのに、急に良き夫キャラ?」「さあ。金持ちなんて、もともと遊び方が派手なんでしょ」「やっぱり、男は金を持つとダメになるんだね。正妻、気持ち悪くならないのかな」「ネットで見たけどさ、藤堂夫人って、障がいがあるんでしょ。それでも娶ってもらっただけ、ありがたいと思わなきゃ」「だよね。格上と結婚するって、代償が必要なんだよ」「だからさ、全然、羨ましくない」エレベーターが止まり、若い女性たちは笑いながら降りていった。残された音の顔は、血が滴り落ちそうなほど赤くなっていた。――彼女たちだけじゃない。自分自身だって、こんな人生は望んでいない。けれど。選択肢は、最初から与えられていなかった。病院を出たあと、音は田中おばあさんの麺屋へ向かった。そこには、思いがけず彩羽の姿もあった。彩羽はこの数日、田中おばあさんの世話を手伝って
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