Tous les chapitres de : Chapitre 81 - Chapitre 90

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第81話

彩羽は鼻で笑った。「この前、美咲がわざと転んで私を陥れなければ、私もここまで悪く考えなかったけどね。でも今は、あの女の言うことは一言も信じてない。特に、あなたと宗也の仲をわざと引き裂くような言い方」「……」音は黙り込んだ。美咲が計算高くて性格が悪いことは、彼女自身も分かっている。それなのに、宗也に関する話だけは、なぜか疑おうとしなかったのか。写真、花、クローゼットの奥に押し込まれていた黒いレースの下着。あれが、すべて美咲が作り出した演出だなんて、考えもしなかった。けれど。宗也が彼女を藤堂家に留め続けているのは事実だし、悠人が美咲を「ママ」と呼ぶのを許しているのも事実だ。……もういい。こんな男に、これ以上期待するほうが間違っている。「音、まさか本気で、あの女をずっと青葉に住まわせるつもり?」「悠人が、今は彼女から離れられない」音は、仕方なさそうに言った。「子どもなんて、数日泣かせておけば終わりだよ」「ほんと、子どもって面倒。それに比べて、まるは可愛いよね」音は腰をかがめ、足元にすり寄ってきていたまるを抱き上げ、頬をそっと毛並みに擦りつけた。「……まるが、私の息子だったらよかったのに」彩羽は、吹き出した。「犬を産んだら、それこそ藤堂家に消されるでしょ」「想像くらい、してもいいじゃない」「はいはい、ご自由にどうぞ」彩羽はスマホをスクロールしながら、感心したように舌を鳴らす。メディアというものは、ここまで平気で白黒をひっくり返せるらしい。宗也というクズ男が、いつの間にか愛妻家に仕立て上げられ、ネットは称賛一色だ。「……もう見るのやめなよ」音は、彩羽の手からスマホをそっと伏せた。「もっと、意味のあるものを見なきゃ」彩羽は、またスマホを手に取った。「私だって、意味のあるものを見たいよ。でも、資格がないんだもん」「何を見る資格がないの?」「これ」彩羽は画面を音の前に差し出す。「全国でいちばん有名な服飾デザイナー、ヴィヴィアン。最近、世界中で講演してるんだけど、オンライン配信が一切ないんだって」その名前は、音も知っていた。一度は、直接話を聞いてみたい。けれど、彼女には彼女のやり方がある。「……やめとこ」音は小さく笑った。
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第82話

音の胸が、針で刺されたように痛んだ。それでも、彼女は何も言わず、まるを抱いて裏庭へ向かった。まるのために簡単な寝床を作り、餌を置き、小さな頭を優しく撫でる。「ここが、あなたの新しい家だよ。いい子にして、いたずらしちゃだめだからね」背後から、冷ややかな嘲笑が落ちてくる。「犬一匹連れてきたくらいで、悠人くんの機嫌が取れると思ってる?」音の手が、ぴたりと止まった。だが、振り返らない。美咲は、さらに言葉を重ねる。「宗也が、どうして私を選んで、あなたを選ばないか、分かる?外では、あなたは彼の顔に泥を塗る耳の聞こえない女。家の中では、無愛想で、デクのぼう」音は、ようやく振り返った。そして、口元に薄い笑みを浮かべる。「次は、それを全部、宗也がベッドの上で言ってたって話?それで、証拠だって言って、写真でも見せるつもり?」「……」美咲の表情が、さっと変わった。だが、すぐに顎を上げる。「宗也とは、長い付き合いなの。あなたに証明する必要なんてない」「だから、彼と勝手に仲良くやってればいい。私に絡まないで」音は、一拍置いて続けた。「そういえば、私のクローゼットに入ってたレースの下着、とても綺麗だったよ。今夜は、それを着て宗也のところへ行けば?主寝室は、もう譲ってるから」美咲の顔色が、さらに悪くなる。いつも弱腰だった音が、ここまで言い返すとは思っていなかったのだろう。しばらく考え込み、ようやく声を絞り出した。「もう、着たわ。見たくないなら、捨てればいいでしょ」「分かった。あとで宗也に、自分で捨てさせる」「勝手にすれば!」美咲は、口角を上げ、背を向けて去っていった。音は、本当にそんなことはしなかった。駆け引きでは、自分が美咲の相手になるとは思っていない。こんなことで波風を立て、今ある平穏を壊したくもなかった。宗也と美咲の関係についても――もう、どうでもいい。変えられないものに、心をすり減らす気はなかった。まるの世話を終え、音は簡単に何かを口にしてから、二階へ戻った。子ども部屋の前を通りかかると、中から水遊びではしゃぐ悠人の声が聞こえてくる。とても、楽しそうだった。音は、朝に宗也が言っていた言葉を思い出した。――子どもは、構ってやらないと懐かない
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第83話

運転手が慌てて手を伸ばした。「……気をつけてください」「触るな。もう行っていい」「……大丈夫ですか?奥様を呼んだほうが――」宗也は人に触れられるのを嫌う。運転手も、それ以上は踏み込めなかった。「いらない」宗也は手を振り払うようにして言い、すでに白い大理石の階段を上がっていた。一階は、壁掛け照明がいくつか点いているだけで薄暗い。酒も入っていて、視界が少し滲んでいる。それでも、彼はきちんとスリッパを見つけ、揃えて履いた。リビングを横切ろうとした、そのとき。ソファの裏から、真っ白な塊が飛び出してきた。宗也は思わず息を呑み、足を滑らせそうになる。犬だと分かった瞬間。顔色が、一気に沈んだ。眉をひそめ、低く怒鳴る。「……誰が、犬なんか連れてきた」物音を聞いた音は、すぐにまるだと察し、スマホを放り出して階段を駆け下りた。遠くから、宗也が悠人の小さなカートを掴み、まるに向かって振り上げるのが見える。音は、反射的に叫んだ。「やめて!」そのまま駆け寄り、怯えて震えるまるを抱き上げ、身を翻して宗也を見据える。「……ごめん。ちゃんと閉めてたはずなのに、勝手に出てきちゃって」宗也は、細い肩紐のナイトドレスを着た彼女が、犬を胸に抱きしめている姿を見て、さらに眉を寄せた。こんなに汚いものに、直接触れるなんて。理解できない。「……オスか、メスか」「オス」「捨てろ」嫌悪を隠さず、短く言い放つ。音の胸が、どくんと跳ねた。彼女は、まるをさらに強く抱きしめた。「藤堂さん、私はちゃんと聞いたよ。連れて帰っていいって、あなたが言ったでしょ」「オスだとは聞いてない」宗也は冷たく言い放つ。「とにかく、そんなふうに抱くな」音は言葉を失った。これで、あの酔っ払い連中が宗也の手配じゃないと、完全に信じた。オスの犬にまで嫉妬する男だ。人間相手だったら、もっとありえない。彼女は慌ててまるを下ろし、裏庭へ追い返した。おかしい。さっき、ちゃんと裏庭のドアは鍵をかけたはずなのに。誰が開けた?悠人じゃない。あの高い鍵には、手が届かない。となると、美咲しかいない。理由を考える暇もなく、音はドアをしっかり施錠し、急いで宗也のもとへ戻った。「藤堂さん、もう抱かない。そ
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第84話

音は、彼が自分を支えさせるつもりだと思い、近づいて腕を取ろうとした。その瞬間、手首を掴まれ、強く引き寄せられる。「……っ」小さく声を漏らし、そのまま彼の胸に倒れ込んだ。淡いボディソープの香りが、宗也の鼻先に流れ込む。清潔で、甘く、妙に煽る匂いだ。「……藤堂さん、酔ってる。先にお風呂に――」起き上がろうとしたが、今度は腰を掴まれ、そのまま膝の上に座らされた。宗也は、じっと彼女の目を見つめる。「……あの、ブサイクなオス犬は抱けるのに、俺は抱かないのか」「……」なぜ、犬と張り合うのか。音には理解できなかった。「黙ってるってことは、俺はあの犬より可愛くないってことか?」「……」「まだ黙るなら、今すぐあいつを煮込む」音は言葉を失った。……完全に酔ってる。「……何て言えばいいの」「旦那様、だ」腰を強く引き寄せられ、耳元で低く囁かれる。酒の匂いが、彼女の耳元にまとわりつき、ぞくりと背筋が粟立った。無意識に身を引こうとする。だが、抱き寄せる力が強すぎて、どれだけ動いても抜け出せない。太腿の下で、何かが、はっきりと主張してくる。違和感が、次第に無視できないほど強くなった。宗也が、耳元で小さく息を吸った、その瞬間。音は、自分がどこに座っているのか、何に当たっているのかを悟った。顔が、一気に熱くなる。「……やめて、離して」必死に押し返す。「なんで離す必要がある」宗也は低く言い、彼女の肩に噛みついた。「っ……!」鋭い痛み。だが、その噛み跡はすぐに、舌でなぞるような、甘い動きに変わっていく。肩から、首筋、頬、そして唇へ――宗也は、完全に臨戦態勢だった。だが、音の頭は冷えていた。浮かぶのは、宗也と美咲が一緒にいる光景。彼が、何度も美咲を庇った場面。もう、これ以上、彼と絡み合いたくない。「……あの、今日、生理なの」苦し紛れに吐いた言葉。宗也の動きが、一瞬止まる。だが、すぐにまた唇が重なり、耳元で囁かれた。「そうか。……じゃあ、確かめる」ありえない。音は慌てて、スカートの中へ伸びてくる手を押さえた。「宗也、やめて……おかしいよ……!」「嘘つき」宗也は両手で彼女の腰を持ち上げ、そのまま大きなベッドへ向かった。
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第85話

音は、彼が美咲と電話している声を聞きたくなくて、振り返りもせずに部屋を出た。客用の寝室へ戻り、ドアに鍵をかける。ようやく静かになった。けれど胸の奥は、ハエを飲み込んだみたいに、気持ち悪さが残っていた。翌朝。音は早く起きて、一人で朝食を作っていた。美咲は、まだ来ていない。昨夜、宗也とどれくらい話していたのかは分からない。その隙に、音は子ども部屋へ向かった。悠人は、まだ眠っている。起こさないよう、そっとベッドの脇に腰を下ろす。窓から差し込む朝の光が、彼の小さな体を包んでいた。十月十日、命を落としかけながら産んだ子。こうして、静かにそばにいられる日が、やっと来た。音は、無意識に指を伸ばし、眉や目元を、そっとなぞる。その感触に、悠人が目を覚ました。まつげが震え、ゆっくりと目を開く。目が合った瞬間、音の胸がきゅっと縮んだ。「……悠人、おはよう」小さく微笑み、できるだけ優しい声で言う。「ママだよ」悠人は彼女を見つめ、ぼんやりした瞳が、次第にはっきりしていく。そして突然、布団を引き寄せて、自分を隠すように叫んだ。「ママいらない……美咲ママがいい!」胸を、鋭く刺された気がした。音は、布団をそっと引いた。「……悠人、ママ、ずっと会いたかった」「いらない……きこえないママ、いや!」悠人は、声を上げて泣き出した。胸の中に、何度も刃を突き立てられる。音は、小さく息を吸い、必死に説明しようとした。「悠人、ママ、ちゃんと聞こえるよ……」そのとき。ドアが、勢いよく開いた。美咲が駆け込んできて、泣いている悠人を、布団から抱き上げる。「大丈夫、悠人くん。怖くないよ、美咲ママがいるから」悠人は、彼女にしがみつき、さらに激しく泣いた。「美咲ママ……だっこ……」「うん、美咲ママが抱っこするから」音は、抱き合う二人を見つめ、そして、その後ろから入ってきた宗也を見る。ちょうど、彼の戸惑った視線と、ぶつかった。音は、何も言わなかった。立ち上がり、子ども部屋のドアへ向かう。宗也が彼女の手首を掴み、何か言おうとした。音は、それを遮った。「藤堂さん、もう一人作り直したほうが早いと思う」宗也「……」悠人を抱いていた美咲も、はっとして彼女を見た。
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第86話

音も、二人に気づいていた。彼女は慌てることなく、まるをそっと地面に下ろし、二人に向かって言った。「何しに来たの?夏川先生のところに行かなくていいの?」宗也は眉をひそめた。「朝飯を全部犬にやっただろ。俺と悠人は何を食えばいい」「夏川先生がいるでしょ。彼女に作ってもらえばいいじゃない」音は首を伸ばして家の中をちらっと見た。「夏川先生って尽くすタイプだし、もう作り始めてるんじゃない?」悠人は口を尖らせ、犬のボウルに入ったサンドイッチを指差した。「サンドイッチ……悠人、食べたい」「一回、ママって呼んでみて。そしたらあげる」音は軽く誘った。悠人は腕を組み、首を傾げると、ぷいっと顔を横に向け、鼻を鳴らした。その生意気な仕草は、そっくりそのまま宗也譲りだ。そこへ美咲が歩み寄り、悠人の前にしゃがんでにこやかに言った。「悠人、サンドイッチが食べたいの?じゃあ美咲ママが作ってあげようか」「うん!美咲ママ大好き!」悠人は嬉しそうに彼女の胸に飛び込み、可愛らしい顔を花のように綻ばせた。「いい子ね。さあ、作りに行こう」美咲は音を一瞥し、唇の端をわずかに上げてから、悠人の手を引いて去っていった。音は彼女を相手にせず、そのまま犬を撫で続けた。宗也はポケットに手を入れ、不機嫌そうな顔でドアのそばに立ち、彼女を見ていた。「少しは、あいつをあやさないのか」「一応あやしたけど、あやせなかっただけ」「男もあやさない、子どももあやさない。何がしたいんだ?」音は呆れたように彼を見上げた。「藤堂さん、昨夜は夏川先生とずいぶん遅くまで話してたみたいだね。クマ、できてるよ」言外の意味は明らかだった。もう、あやしてくれる人はいるでしょ。宗也は彼女がここまで口が達者になったとは思っておらず、唇をわずかに吊り上げた。「どうして、昨夜お前が俺をその気にさせておいて、途中で消えたせいで眠れなかった、とは考えない?」「……最低」音は即座に吐き捨て、悠人が去った方向をちらりと確認した。子どもに聞かれたらどうするつもり?しかも、昨夜はどう考えても、先に手を出してきたのは彼のほうだった。それなのに、どうして逆に責められなきゃいけないの?宗也は彼女が顔を赤くしているのを見て、思わず笑った。「今日は
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第87話

小さな体で不器用に一口すすり、にこっと笑って言った。「おいしい!」「でしょ。ママの麺は、世界一おいしいんだから」宗也も、自分の箸で一口すする。香りがよく、くどくない。それは音の味であり、この三年間彼が好んできた味だった。宗也と悠人が楽しそうに食べているのを見て、音はほっとする一方で、なぜか胸が落ち着かなかった。悠人は、自分が作ったと知ったら嫌がると思っていたから。同じように落ち着かなかったのは、キッチンにいた美咲だった。悠人がすでに麺を食べているなら、自分のサンドイッチは、もう必要ないのでは?まあいい。どうせ、うまく作れない。彼女は手を拭き、悠人のそばへ歩み寄って柔らかく声をかけた。「悠人くん、麺が好きなんだね。じゃあ、明日の朝は美咲ママが作ってあげようか?」悠人は頷いた。「うん!美咲ママが大好き!」美咲はそのまま宗也を見た。「宗也はどんな味の麺が好き?明日の朝、早めに来て二人の分を作るよ」「必要ない」宗也は箸を止めた。「お前は悠人がここに慣れるのを手伝えばいい。朝食は音が作る。そのほうが慣れてる」美咲の表情が、わずかに固まった。まさか、音の前で断られるなんて。いつもなら、宗也は必ず自分を庇ってくれた。なのに、今日は違う。彼女は黙々と麺を食べる悠人を見た。そんなにおいしいの?二人とも、あんなに夢中になるなんて。心の中でいくつもの思いが渦巻いたあと、彼女はもう一度笑顔を作った。「分かった。じゃあ音さん、よろしくね」音は悠人の器に麺を足しながら、低く、静かに言った。「夏川さん、悠人の母親は私だよ」美咲のやっと作り出した笑顔が、再び固まる。そのとき、彼女はようやく気づいた。今日は、どうやら自分のほうが分が悪いらしい。そこで、彼女は話題を切り替えた。「悠人くん、今日は何をやりたい?お絵かき?それともピアノ?」「え……おえかき!」「いいよ。じゃあ、まずはお絵かきね」美咲は優しく悠人の頭を撫でた。悠人は汚れた小さな顔のまま、にこっと笑った。「まあ、こんなにお顔を汚して。かわいいわね。さあ、美咲ママと一緒に顔を洗おう」彼女は悠人を椅子から抱き上げ、洗面台のほうへ連れて行った。音は、彼女がまるで女主人のように振る舞う姿を見つめ、さらに、
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第88話

宗也は、彼女からこんな話を聞くのは、これが初めてだった。胸の奥に、何とも言えない感情が渦巻いた。――変わった、ということか。もう自分の帰りを待ってくれない。何が、彼女をここまで変えた?亮が言っていた、「もう愛していないから」という言葉か。宗也は、愛されることに困ったことはない。そもそも、周囲の人間が自分を愛しているかどうかなど、気にしたこともなかった。高い立場にいる彼は、愛があろうがなかろうが、人は勝手に頭を下げ、機嫌を取ってくる。音も同じだ。今は強がっているだけ。――どうせ、後悔してまた自分のもとへ戻ってくる。宗也は、そう信じていた。「……どんな仕事がしたいんだ?俺が手配する。ポジションでも、プロジェクトでもいい。これからは、俺に直接言え。他所の結納なんて、受け取るな」「……」その言葉に、音の胸がふっと明るくなった。――つまり、外で働くことを、認めてくれるということ?……でも。どうしてまた、結納の話になるのか。音は、もう一度きちんと説明する必要があると思った。「結納のこと、私は知らなかった。受け取ったのは母親。私は、再婚するつもりなんてなかったし、この先誰かと結婚する気もない」最後の一言は囁き声だった。けれど、宗也ははっきりと聞き取った。一歩踏み出し、長い腕で彼女を抱き寄せた。伏せた眼差しに、冷たい色が差した。「……どういう意味だ。俺と結婚して、そんなに不満か?」「……」不満に決まっている。けれど、当時は自分が彼を巻き込んだ形だった。そう思うと、素直に言えなかった。「藤堂さん……私たち、どっちも被害者だよ」彼女は、そっと彼の硬い胸を押した。びくともしなかった。「被害者だとしても、最低限の責任は取るべきだろ。途中で逃げるって、どういうつもりだ」「でも、結局あなたに捕まって、連れ戻されたじゃない」「俺が捕まえなかったら、戻ってきたか?」……戻らない。彼女は、嫌われる破約者になってでも、自由を選んだはずだ。音は視線を逸らし、周囲をちらりと見回してから小さな声で言った。「……藤堂さん、そろそろ出勤の時間に遅れるよ」宗也は壁の時計を見た。確かに、時間が迫っていた。彼はそのままウォークインクローゼットへ
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第89話

宗也が不愉快に感じたのは、彼女が最初から、一緒に行くという発想すら持っていなさそうだったことだ。目の前の女は、すでに彼の腕の中から離れ、手にしたチケットをめくりながら、にこにこと言った。「今夜は少し遅くなると思う。悠人のこと、お願いね。」宗也は何も言わず、ただ彼女を見つめていた。一方の音は、珍しく饒舌だった。「ヴィヴィアンは、ずっと私の憧れなの。一度でいいから、彼女の講演を生で聞くのが夢だったの。できれば、一緒に写真も撮れたら最高だな。でもね、ちゃんと努力するよ。彼女みたいに、本当に優れた人になるために。いつか、同じ場所に立てるように」「……しっかり頑張るんだな」宗也はそれだけ言うと、彼女の横をすり抜け、寝室の外へ向かった。音は彼の複雑な表情に気づかなかった。背中に向かって、チケットを軽く振る。「入場券、ありがとう!」宗也は心の中で舌打ちし、足早に立ち去った。アトリエの前。彩羽は遠くからでも分かるほど、機嫌のいい音の様子に気づき、思わず足を止めた。首を傾げ、不思議そうに彼女を見る。「どうしたの?あの女、ついに追い払った?すごく嬉しそうだけど」音は首を振り、バッグから二枚のチケットを取り出して、ひらりと揺らした。「これ、何だと思う?」「なに?」「ヴィヴィアンの講演チケット」その瞬間、彩羽は案の定叫んだ。「えっ!?誰の講演って言った!?」彼女は勢いよくチケットを奪い取り、確認した後、興奮して音を抱きしめた。「うそでしょ!本物じゃん!どこで手に入れたの!?」音は、軽く咳払いをした。そのときになって、ようやく気づいた。さっき、自分もまったく同じように、宗也に抱きついて跳ねていたことに。離婚だなんだと騒いでいたくせに、たった二枚の入場券で人に抱きついて喜んでたなんて。……これ、どう考えてもおかしくない?宗也がいつも、「離婚なんて本気じゃない。ただの感情的な駆け引きだ」と自信満々で思っているのも、無理はない気がしてきた。「……どうしたの?」突然黙り込んだ音を見て、彩羽もつられて笑顔を引っ込めた。「そのチケット、まさか偽物じゃないよね?」「そんなわけないでしょ」音は我に返り、軽く笑った。「ただね……宗也って、私が外で働くの、ずっと反対してたで
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第90話

あの写真が、本当に彼の仕業だったのかどうか。音はいまだに、確かな答えを持っていない。そして、彼本人に問いただしたことも一度もなかった。それでも、心のどこかに小さな棘が、いつの間にか刺さってしまった。だから、彼女は何も言わなかった。沈黙を破ったのは、結局彩羽だった。「立花さん、ずいぶん早いですね。さっきまで下で、ちょっと話してたんです」雅人は微笑み、腕時計に目を落とした。「かなり待ったよ」「……あはは」彩羽は笑って、ガラス扉を指した。「中で話しましょ」そう言って、先に鍵を開けた。彩羽は二人の間に何かあると察したらしく、アトリエに入るなり、さっと身を引いた。「二人で話してて。私、管理費払ってくるから」彩羽が去ったあと。雅人は音に数歩近づき、穏やかな視線を向けた。「音……まだ、俺に怒ってる?」音は、不思議そうに彼を見返した。「どうしてそう思うの?」「俺に会わなければ、あんな写真も撮られなかった。藤堂家に、責められることもなかったはずだ」「……それだけ?」「他に何がある?」雅人は本気で分からないという顔をしていた。音は、小さく息を吐いた。――もういい。仮に、彼が裏で手を回していたとしても、今ここで聞いたところで正直に答えるはずがない。ましてや、こうして菓子まで持って、謝りに来ているのだから。「何でもない」音は、柔らかく笑った。「ただ……少し丁寧すぎるなって思って。助けてくれたのも、救ってくれたのもあなたなのに、どうして謝りに来るのかなって」「謝るのは、俺のほうだよ」雅人は静かに言った。「俺が関わったせいで、君に迷惑をかけた」「……じゃあさ」音は、少し間を置いて言った。「お互い、相手を責めてないってことで。これからも、友達でいよう。それでいい?」「うん。俺たちは、ずっと友達だ」音は、曖昧に頷いた。「じゃあ、これ……音と葉山さんに」雅人は、手にしていたスイーツの袋を差し出した。「ありがとう」音は受け取って中を確認し、少し間を置いてから、真面目な顔で言った。「でも、立花さん。次からは、私たちのためにわざわざスイーツを買ってこなくていいよ」「どうして?」「それは……」音は少し考えてから、正直に答えた。「私、もう青
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